楊諒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search

楊 諒(よう りょう、575年 - 605年)は、の文帝楊堅の五男。漢王に封ぜられたが、乱を起こして庶人に落とされた。徳章。またの名は

経歴[編集]

楊堅と独孤伽羅の間の子として生まれた。581年、隋が建てられると漢王に封じられた。592年雍州となり、上柱国・右衛大将軍の位を加えられた。1年余りして左衛大将軍に転じた。597年并州総管として出鎮し、河北の52州を麾下に置いた。598年高句麗遠征において行軍元帥となり、兵を率いて遼水まで進んだが、疫病の蔓延のため撤退した。599年突厥の侵入を受けると、楊諒は行軍元帥となったが、出兵することはなかった。

楊諒は太原において精兵をたくわえ、軍備を整えた。王僧弁の子の王頍の旧将の蕭摩訶といった人物を部下に持った。皇太子楊勇が讒言により廃されると、楊諒は不満をためこみ、密かに謀反を企むようになった。蜀王楊秀が罪を受けて廃位されると、楊諒の不安はますます高まった。

604年、文帝が死去すると、煬帝が楊諒を召還しようとしたが、楊諒は赴くことなく、ついに起兵して叛いた。総管司馬の皇甫誕が諫めたが、楊諒は怒って彼を収監した。王頍は全軍をもって関中を突くか、もしくは旧北斉の地に割拠するという2策を示したが、楊諒は選ぶことができず、2策を併用することとなった。総管府兵曹の裴文安が、兵を分遣して要路を守り各地を攻略させ、裴文安を先鋒として楊諒自身は関中に向かうように進言すると、楊諒は裴文安の進言を採用した。自らの任じた大将軍の余公理には太谷を出て河陽に赴かせ、大将軍の綦良には滏口を出て黎陽に赴かせた。大将軍の劉建には井陘を出て河北の地を攻略させ、柱国の喬鍾葵には雁門に出させた。裴文安を柱国に任じて、紇単貴・王聃・茹茹天保・侯莫陳恵らには長安に向かわせた。

蒲津まで100里余りのところにきて、楊諒は考えを変え、紇単貴に命じて黄河の橋を落として蒲州を守らせ、裴文安を召還した。裴文安は諫めたが、楊諒は答えず、王聃を蒲州刺史とし、裴文安を晋州刺史とし、薛粹を絳州刺史とし、梁菩薩を潞州刺史とし、韋道正を韓州刺史とし、張伯英を沢州刺史として守らせた。

煬帝は楊素に騎兵5000をつけて派遣した。楊素は王聃・紇単貴を蒲州で撃破した。楊素は4万の兵を率いて太原に向かい、趙子開を高壁で撃破した。楊諒は楊素の進軍を蒿沢で阻止しようとしたが、大雨に遭い、王頍の諫めも聞かずに軍を返して、清源に退き守った。楊素が清源に進撃すると、楊諒の率いる軍は隋の官軍と対戦して、死者1万8千人を出した。楊諒は并州に撤退し、楊素が兵を進めて并州を包囲した。楊諒は逼塞して楊素に降伏した。隋の百官は楊諒の罪が死罪に相当すると上奏したが、煬帝は兄弟の情において忍びないとして、楊諒の官爵を剥奪して庶人に落とした。楊諒は幽閉の末に死去した。

子に楊顥があり、禁錮を受けていたが、宇文化及の乱のときに殺害された。

伝記資料[編集]