太宗 (唐)
| 太宗 李世民 | |
|---|---|
| 唐 | |
| 第2代皇帝(天可汗) | |
|
唐太宗李世民(台北国立故宮博物院所蔵) | |
| 王朝 | 唐 |
| 在位期間 |
武徳9年8月9日 - 貞観23年5月26日[1] (626年9月4日 - 649年7月10日) |
| 都城 | 長安 |
| 姓・諱 | 世民 |
| 諡号 |
文皇帝 文武聖皇帝 文武大聖皇帝 文武大聖大広孝皇帝 |
| 廟号 | 太宗 |
| 生年 |
開皇17年12月16日 (598年1月28日) |
| 没年 |
貞観23年5月26日 (649年7月10日) |
| 父 | 高祖李淵 |
| 母 | 太穆皇后竇氏 |
| 后妃 | 長孫皇后 |
| 陵墓 | 昭陵 |
| 年号 | 貞観 : 627年 - 649年 |
| 子 | 長男李承乾、四男李泰、八男李貞、九男高宗 |
太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝。諱は世民(せいみん)。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。
優れた政治力を見せ、広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた[2]。騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上最上位最強の聖王の一人と称えられる[3]。
後世の識者は彼(太宗)を絶賛することが多い。『旧唐書』編者は「千古以来第一人」と称え、歐陽修は「自古より撥乱反正の主が身をもって太平を致す者、光武・太宗の如きは他にない」と断言し、司馬光は「太宗の文武両道の才は、前世を遙かに凌駕する」と評し、蘇轍は「太宗の賢明は、西漢以後随一である」と認め、成吉思汗は「国家を安邦定国すべく、必ず太宗の兵法を究めねばならない」と諭し、王志堅は「中国の夏商周以後、太宗の如き人物こそ、真に千古一帝たる者だ」と感慨深く述べた。
生涯
[編集]幼年期
[編集]598年に武功県で当時隋朝の唐国公で煬帝の母方の従兄にあたる李淵と宇文泰(北周の始祖)の孫娘にあたる竇氏(太穆竇皇后)の子として生まれた。李淵の母は独孤信の四女である。4歳の頃、李淵を訪れたある書生がこの子を見て「龍鳳之姿、天日之表、其年几冠必能済世安民」(「龍や鳳凰の姿を有し、成人後は世の中を治めて民衆を安心させるだろう」と言った。そのため世民という諱がついたという[4]。
即位前
[編集]16歳のとき、隋の煬帝が雁門において突厥に包囲されると、李世民は雲定興の下で従軍し、煬帝救出に尽力した。また李淵が魏刀児(歴山飛)の包囲下に置かれたときは、軽騎を率いて救援した。
617年(大業13年)、李淵が太原で起兵すると、李世民は右領軍大都督・敦煌郡公となって長安に向けて進軍した。宋老生を撃破し、長安を平定すると、秦国公に封ぜられた。618年(義寧2年)1月、右元帥となり、3月には趙国公に改封された。
同618年(武徳元年)5月、唐が建てられ長兄の李建成が立太子されるとともに、李世民は6月に秦王に封ぜられ、尚書令に任じられている。唐朝では即位前の李世民が尚書令に任じられたため、皇帝の前職に臣下を就任させることを忌避し、滅亡まで尚書令は欠員となった。
李世民は武将として優れた才能を発揮し、虎牢の戦いで破った竇建徳を始め、薛仁杲・劉武周・王世充・劉黒闥といった隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たした。
621年(武徳4年)、李淵は李世民の功績の高さから前代よりの官位では足りないとし、「天策上将」の称号を王公の上に特置して李世民に与えた[5]。同年、門下省に修文館(太宗の即位後に弘文館に改名)が置かれた。
李建成と李世民はしだいに対立し、李建成は李淵に訴えて李世民の謀士である房玄齢と杜如晦を遠ざけるなどの対抗策を採り、李世民の追い落としを図った。それを事前に察知して身の危険を感じた李世民は、2人と密かに連絡し、626年(武徳9年)6月、長安宮廷の玄武門で、李建成と弟の李元吉を殺害した(玄武門の変)。この政変により、李淵は8月に李世民に譲位し、事態の収拾を図った。
貞観の治
[編集]即位して長孫氏を皇后に立てた太宗は、その直後に和議を結んでいた突厥の侵攻を受けた。『旧唐書』などの史書によれば、怒りにまかせた太宗はわずか6騎を伴い、渭水に布陣した突厥軍の前に立ち、突厥の協定違反を責めた。その態度に恐れをなした突厥は唐から引き上げた、と記録されているが、これは太宗の勇猛さを誇張した内容であり、太宗を追った唐軍との対決を避けて撤退したとも、または突厥に対し貢物を贈り撤退を依頼したとも言われている。この事件は渭水の盟もしくは渭水の辱と呼ばれる。
627年、元号を貞観と改元した。房玄齢・杜如晦の2人を任用し政治に取り組み、建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように努めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与えたため、唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなった。
629年(貞観3年)、充実した国力を背景に突厥討伐を実施する。李勣・李靖を登用して出兵し、630年(貞観4年)には突厥の頡利可汗を捕虜とした。これにより突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは長安に集結し、太宗に天可汗の称号を奉上する。天可汗は北方遊牧民族の君主である可汗よりさらに上位の君主を意味する称号であり、唐の皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。さらに640年(貞観14年)、西域の高昌国を滅亡させ、西域交易の重要拠点のこの地を直轄領とした。
文化的にも、それまでまとめられていた『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』の正史を編纂させ、特に『晋書』の王羲之伝では自ら注釈を行った。また645年(貞観19年)には玄奘がインドより仏経典を持ち帰っており、太宗は玄奘を支援して漢訳を行わせている。
これらの充実した政策により、太宗の治世を貞観の治と称し、後世で理想の政治が行われた時代と評価された。『旧唐書』では「家々は(泥棒がいなくなったため)戸締りをしなくなり、旅人は(旅行先で支給してもらえるため)旅に食料を持たなくなった」と書かれている。ただ、これについては「戦乱の後でいきなり太平の世が訪れるとは思えない。後世の誇張ではないか」と現代の歴史学者布目潮渢は疑問視している。[6]後世、太宗と臣下たちの問答が『貞観政要』として編纂されている。
晩年
[編集]太宗の晩年には立太子問題が発生した。当初立太子されたのは長男の李承乾(皇后長男)であったが、太宗は四男の魏王李泰(皇后二男)を偏愛していた。このことが皇太子の奇行につながり、最後は謀反を企てたとして廃された。魏王も朋党を組んでいて不適格だとして、皇后の兄である長孫無忌の意向により、大人しく孝行であることがとりえだった九男の李治(皇后三男。後の高宗)を皇太子としたが、この立太子問題が後の武則天台頭の要因となることとなった。
皇太子の継承問題で太宗は「我が三人の子(祐、承乾、泰)と一人の弟(元昌)は、こんな事をしてしまった。本当に、何に頼れば良いのか判らない。」と言って長椅子へ身を投げ出して、佩刀で自殺しようとするほど苦悩していた。
644年(貞観18年)、高句麗へ遠征(唐の高句麗出兵)が行われるが失敗に終わり、それから5年後の649年(貞観23年)に崩御した。
崩御後に諡号として文皇帝(ぶんこうてい)が贈られたが、674年(上元元年)、高宗により文武聖皇帝(ぶんぶせいこうてい)に改められ、さらに749年(天宝8年)、玄宗により再度文武大聖皇帝(ぶんぶだいせいこうてい)に変更、そして754年(天宝13年)に玄宗により文武大聖大広孝皇帝(ぶんぶだいせいだいこうこうこうてい)と再度改められている。
後世の評価
[編集]唐代
[編集]- 太宗自評: 1. 「朕……十八歳で義兵を挙げ、二十四歳で天下を平定し、三十歳に満たずに帝位に就いた。自ら三王以来、撥乱反正の君主で朕に及ぶ者はないと謂い、故に自負して矜恃し、天下の士人を軽んじた……秦始皇は六国を滅ぼし、隋煬帝は四海の富を有したが、終に驕慢で敗れた。朕は何ぞ戒めざるべきか?」(『新唐書』より) 2. 「朕がここまで達し得たのは、唯五つの事柄によるものだ。自古帝王は己に勝る者を嫉むことが多いが、朕は人の善を見れば、まるで己が持つものの如し。人の行いと才能は両全せず、朕は常に其の短所を捨て、長所を取る。人主は往往に賢者を進めば懐に置きたがり、不肖者を退ければ溝に推したがるが、朕は賢者を見れば敬い、不肖者を見れば憐れむ。賢不肖は各々其の所を得る。人主は多く正直な者を悪み、陰で誅殺し顕に戮すこと、代を経てない。朕が帝位に就いて以来、正直な士人は朝廷に比肩し、一度も罷黜し責めた者はない。自古皆中華を貴しとし、夷狄を賤しむが、朕は独りこれを同等に愛す。故に其の種族は皆朕に父母の如く依る。この五つが、朕が今日の功績を成した所以である」(『資治通鑑』より) 3. 「隋末は分裂し、群凶が競って争う。朕は三尺の剣を提げ、数年の間に四海を正一した。これは朕の武功によって定めたものである。突厥は強暴で、世世代代紛争を引き起こしたが、今では朕の衣冠を襲い、朕の臣吏となる。異国異族が鴻臚寺に輻輳する。これは朕の文教によって招来したものである。突厥が滅亡し、君臣は捕虜となったが、安らかに養う情は赤子と同じ。これは朕の仁愛の道である。林邑が能言鳥を貢ぎ、新羅が女楽を献上したが、其の本郷を離れたことを憫れんで、皆本国に帰すよう命じた。これは朕が根本を重んじるためである。功労を酬え実績を録すには、必ず賞格に依る。悪を懲らし罪を罰すには、必ず刑書に據る。親愛を割り、嫌隙を捨てて、至公の道を弘める。これは朕が信義を尊ぶためである。朕が独り自らを誇るのではなく、聖人の教えが徒らにならないことを明らかにしたいためである」(『唐会要』より)
- 劉文静:「これは並大抵の人ではない。度量が広く漢高(劉邦)に類し、神武は魏祖(曹操)に同じ。年は若いが、時代を左右する才能を持つ者である」(『資治通鑑』より) - 房玄齡:「陛下は諸々の美点を兼ね備え、欠けるところはない。微臣は深く陛下を惜しみ重んじ、愛し宝ものとする」(『貞観政要・巻九・論征討』より)
- 魏徵:「皇帝は弱冠の頃より四方を経営し、而立の年に至れば億兆の民を撫し臨む。初めは武功によって海内を一つにし、終には文教によって遠方の人々を懐柔する」(『九成宮醴泉銘』より)
- 戒日王:「秦王天子がある。少しして霊敏な識見を持ち、長じて神武の才を備える。昔先代の喪乱により、国土は分裂し崩れ、兵戈が競って起り、衆生は苦しみに喘ぐ。秦王天子は早くから遠大な略を抱き、大慈悲を興して衆生を救済し、海内を平定した。風教は遠くに及び、德沢は広く洽まる。異国異域は慕化して臣下となり、民衆は其の撫育を受け、皆『秦王破陣楽』を歌う。其の雅頌を聞くこと、ここに久しい」(『大唐西域記・巻五』より)
- 李治:「先朝(太宗)は身を鎧冑にまとい、身を兵鋒に臨んだ。戎衣は馬の汗に濡れ、兜鍪にシラミが生えた。区宇を削平し、生霊を康済した。数年の間に四海は安らかになった。その後始めて功を上帝に帰し、民を治め臨御した」(『唐会要』より)
- 吴兢: 1. 「私は太宗文武皇帝の政化が、曠古以来これほど盛んなものはないと思う。唐堯・虞舜・夏禹・殷湯・周の文武王、漢の文景皇帝でさえ、これに及ばない。賢者を用い諫めを納める美しさ、世代に伝え教えを立てる規範は、大猷を弘め至道を増崇するもので、皆国史に輝き、後世の鑑となる」(『上貞観政要表』より) 2. 「唐太宗の時の政化は、実に見るべきものがある。亘古以来、これに類するものはない」(『貞観政要』より) 3. 「太宗の為君としては、賢しいと言える。貞観の治としては、盛んであると言える。今その行事を観れば、内に群雄を除き、外に四夷を定め、身経百戦して一度も敗北したことがない。後世人君の功績でこれに高いものはない。其の人君としての大徳は三つある:一は謙虚に諫めを納めること、二は人を知り善く任じること、三は恭倹で民を愛すること。後世人君の徳でこれを超えるものはない。租庸調を定めて民からの徴収制度とし、府兵十六衛を定めて兵を養う制度とし、任官には職爵勲階の制度があり、用刑には笞杖徒流の制度がある。後世制度の美しさでこれを加えるものはない。房玄齡・杜如晦を相とし、李勣・尉遲敬徳を将とし、王珪・魏徵の諫争、尉遲敬徳・秦叔宝の驍勇、虞世南・褚遂良の詞翰、下は孫思邈の医薬、李淳風の暦数、袁天綱の相法に至るまで、皆至精至妙で千古を度越し、後世人才の盛んさでこれに及ぶものはない」(『貞観政要』より)
- 杜甫:「輝かしき太宗の業、樹立は誠に宏遠だ」(『北征』より)
- 白居易:「太宗十八で義兵を挙げ、白旄黄钺で両京を定める。充(王世充)を擒え竇(竇建德)を戮し四海清め、二十四で功業成す。二十九で帝位に就き、三十五で太平を致す。功成り理定まるのは何ぞ神速か?速さは心を推して人の腹に置くに在る。死亡した兵士の遺骸を布帛で収め、飢えた人の売られた子を金で贖う。魏徵は子夜に泣く夢を見、張谨は辰日に哀しみを聞く。怨女三千を宮中から放出し、死刑囚四百が獄に帰る。髭を切って薬を焼き功臣に賜い、李勣は嗚咽し身を殺すことを思う。血を含み創を吮い戦士を撫し、思摩(阿史那思摩)は奮って呼び死ぬことを乞う。則ち戦うことに長け時を得ることのみならず、心で人を感じ人心が帰るのを知る。これより百九十載、天下は今に至るまで歌舞している。七徳を歌い、七徳を舞う。聖人が作り垂し無極なり。豈に徒らに神武を耀くのか?豈に徒らに聖文を誇るのか?太宗の意は王業を陳べるに在り、王業の艱難を子孫に示すなり」(『七徳舞』より)
五代两宋
[編集]- 趙瑩・劉昫:「臣は文皇帝(太宗)の発跡が多く奇蹟に富み、聡明で神武なることを観る。人物を抜擢すれば党派に私せず、志業を負う者は皆その才を尽くす。故に屈突通・尉遲敬徳は、仇敵より心を尽くすことを願い;馬周・劉洎は、遠隔の者より終に国政の重責を委ねられる。最終的に天下を平定し泰平を実現したのは、確かにこの道に由るものである。試みて論ずる:礎が潤う则雲が興り、虫は鳴き螽斯は躍る。たとえ堯・舜の聖明であっても、檮杌・窮奇の如き凶暴者を用いて治平を図ることはできず;伊尹・呂尚の賢明であっても、夏桀・殷紂の如き暴君のために栄昌をもたらすことはできない。君臣の間には、このような遇合が難しい。至って目を抉り心を剖かれ、虫が流れ筋が引き抜かれる惨状となるのは、皆遇合の違いによるものである。房玄齡・魏徵の知恵は、孔子・孟子を超えるものではないが、遂に君主を尊び民を庇護し得たのは、時を得たためである。況や周武(発)・周成の世襲に比べれば、我が太宗には後世に伝える美徳があり;漢文・漢武の宏偉さに較べれば、彼らには多くの慚愧すべき德行がある。その聴断が迷惑せず、善を聞けば流れの如く従う姿は、千年の間で称えられる者、唯此一人なり!」(『旧唐書』より)
- 趙炅(宋太宗):「凡そ帝王の行動は、自然なることが貴し。朕は唐史を閲覧し、唐太宗の行いを見ると、蓋し虚名を好む者である。一事を為すごとに、必ず事前に声勢を張り、然る後行う。簡册に記されることを貴ぶのは、これ豈に自然なるものか!」(『続資治通鑑長編』より) - 何郯:「唐太宗は君臣の間に心の隔たりを無くし、それによって貞観の治を致し;唐徳宗は宰輔に多く疑念と二心を抱き、それによって奉天の乱を招いた。」(『宋史』より) - 歐陽修・宋祁 等:「唐は天下を有し、二十代を伝えた。その中で称えられる君主は三人あり、玄宗・憲宗は皆善始善終し得なかった。盛んなり、太宗の功烈!その隋の乱を除去した功績は、湯・武に比肩し;治世の美しさは、周成・周康に近い。自古功徳が両方とも隆盛した者は、漢以来これがない。但し、多くの愛執に囚われ仏教を復興し、功名を好み遠征に励むことは、中材庸主が常に為すことである。然るに『春秋』の笔法は、常に賢者に厳しい責めを加える。故に後世の君子で人の美を成そうとする者は、皆ここに於いて嘆息せざるを得ない。」(『新唐書』より) - 歐陽修:「自古撥乱の君主が身をもって太平を致した者の中に、光武帝・唐太宗の如き者はない。……太宗は晋陽で義兵を挙げ、宋老生を斬り、薛仁杲を撃破し、劉武周を打ち破り、宋金剛を追い払い、竇建德を捕え、王世充を降伏させた。皆身を大将として叛逆者を削平し、四方は遂に平定された。帝位に就いた後、守成の難しさを知り、房玄齡・杜如晦を委任して大政委員し、魏鄭公(徵)・王珪・馬周の輩は、諫めれば必ず行い、言えば必ず聴く。仁義を以って天下を治めた。数年の後、天下は大治となり、蛮夷の君主や長老は中華の衣冠を身に着け、刀を帯びて宿衛に従事し;東は海辺に至り、南は嶺南に跨り、戸は閉ざさず、旅人は糧を携えず道中で補給を得、刑罰はほとんど用いられなくなった。在位は二十余年に及んだ。光武帝が王莽の後を受け、唐太宗が隋煬帝の後を継ぎ、身をもって禍乱を平定し大業を再建し、数年の間に太平を致し長く帝位を保ったのは、彼らが誠に君主の道を知り、雄才大略と厚い徳行が帝王の栄光をもたらすに足りるためである。故に患难に踏まえても恐れる志がなく、安楽に处しても驕逸な心がない。太平の治世が響き応じるように実現するのは、然らざるのか?」(『光武太宗身致太平論』より)
- 司馬光: 1. 「嫡子を立てて長子を尊ぶことは、礼の正しいことである。然るに唐高祖が天下を得たのは、皆太宗の功によるもの;隠太子建成は凡庸拙劣でありながら長兄の位にあり、地位の近さと勢力の脅威により、必ず相容れない。もし昔高祖が周文王の明察を持ち、隠太子が泰伯の賢明を備え、太宗が子蔵の節操を持っていれば、乱は何から生じただろうか?そうすることができなかったため、太宗は初めは彼らが先に動くのを待ち、然る後応じるつもりであった。このようであれば、事はやむを得ないもので、尚更ましいことである。その後群臣に迫られ、遂に禁門で血を流し、骨肉相残る事態となり、千古の嘲笑を浴びた。惜しむべきかな!創業して統緒を伝える君主は、子孫の手本となる。中宗・明皇・肅宗・代宗の継承における問題は、これを先例として口実にしたのではないだろうか!」(『資治通鑑・唐紀』より) 2. 「唐太宗の文武の才は、前世を遙かに凌駕する。英雄を指揮し、俊才を網羅し、善策を好み、直諫を喜んで聞く。民を湯火の苦しみから救い出し、安らかな生活に置き;盗贼を君子に変え、呻吟を謌詠に転え;衣食に余裕があり、刑罰は用いられなくなる;突厥の首領は首を縛って宮廷に出仕し、北海の畔まで皆郡県となる。蓋し三代以降、中国の栄盛は、これに類するものがない。惜しむことに功名を好み礼楽に及ばず、父子兄弟の間には、多くの慚愧すべき点がある!」(『稽古録・唐論』より)
- 曾鞏:「法度の実行、礼楽の盛んさ、田疇の制度、学校の教育は、先王に比べれば完備していない;陣中に身を投じ、戦えば必ず勝ち攻めれば必ず取ることで、天下は皆その武勇を認めるが、これは先王が重視したものではない;四夷の中で万古も政を及ぼさなかった者が、皆服従することで、天下は皆その栄盛を讃えるが、これは先王が務めたものではない。」(『唐論』より)
- 王安石:「汝が生まれた時は貞観の世に及ばず、一斗の粟が数銭で売られ兵戈の災いがない時代にはあらず!」(『河北民』より)
- 蘇軾:「予は漢高祖、光武帝、唐太宗、及び我が太祖皇帝を観る。天下を一つにし得たこの四君は、皆人を殺すことを好まないことによってこれを達成した。その他の君主は殺す人が愈々多くなればなるほど、天下は愈々乱れる。唐太宗の諫めを聴く姿は、聖人に近い。」(『宋史』より)
- 蘇轍:「唐太宗の賢明は、西漢以来、唯此一人なり。賢者を任じ能者を使い、将軍・宰相は皆適任の者であり、恭倹節約をして、天下はほぼ刑罰を用いない状態に至った。三代以下、これに比肩する者は見当たらない。」(『歴代論・唐論』より)
- 范祖禹: 1. 「唐太宗は取舍選択を明確にできると謂える。魏徵の言葉は仁義に基づくもので、天下の道理に順じて治めようとするものである。封徳彝の言葉は刑罰に基づくもので、天下の本性に背いて治めようとするものである。民は皆危険を悪く安らぎを欲し、労苦を悪く休息を欲する。仁義で治めれば順じ、刑罰で治めれば背く。故に天下を治めるのは順じることにあるだけで、強制して治められるものは、聞いたことがない。唐太宗は魏徵に従い封徳彝に従わず、四年間行うことで遂に太平を致した。仁義の効果は、これほど速やかなのである。故に治世の道は人主が力づくで行うものであり、誰が唐太宗のようになれないだろうか?その成功した後、栄誉を臣下に還すことは、前世の帝王が及ばないところである。」(『唐鑑』より) 2. 「唐太宗は武力で撥乱し、仁愛で残虐を打ち破った。その才略は漢高祖に優れるが、その規模は及ばず;恭倹は漢文帝に及ばないが、功烈はそれを超える。その本性は元来強悍で、勇気があって親族を顧みないが、義を畏れ賢者を好み、自らを屈して諫めを聴き、厳しく自分を矯正し善を尽くす努力をした。これが貞観の治を致した原因である。賢君は世に稀で、周武・成・康以来八百余年を経て漢が興り、漢以来八百余年を経て唐太宗が現れた。その成就がこのようであることは、豈に得がたいことか!」(『資治通鑑綱目』より) - 何去非:「昔唐の唐太宗は、神武の策略で起り禍乱を平定し、天下を王有し、威光を四海に加えた。然るに天下の形勢を固めて子孫に遺すという点では、未だ確立されていなかった。そこで府兵制を借り、衛に将を置き、関隘を占拠して支配する。将を衛に置けば、兵は外部で専断する患いがない。然れども尚これで足りないと思い、四夷の侵侮する者を大きく誅伐した:突厥を破り、吐谷渾を滅ぼし、高昌を平定し、焉耆を滅ぼし、皆その王を捕虜にし、親らかに遼東に親征してその国を滅ぼした。これらは、武を乱すためではなく、権威を樹立し天下の形勢を固めるためである。」(『何博士備論』より)
- 程祁:「唐太宗は兵を挙げて五年で海内を平定し、天下を仁政と豊かな域に導いたのは、亦天下の才を以って天下の事務を行うためである。仇敵を任じ、遠隔の者を起用し、政権を委ね功績を求め、諫めは無くて従わず、計画は無くて実現しない。且つ唐太宗の才能は、確かに天下が及ぶものではないが、それによって天下の士人を驕ることなく、惴惴として常に自分に不及ぶ点があるかのように謙虚であった。これが千百年の基盤を築けた原因である。」(『新安文献志』より)
- 秦檜:①「漢文帝は文才が質実に及ばず、唐太宗は質実が文才に及ばない。」②「唐太宗の知謀は、誠に漢文帝の本性の仁愛に及ばない。」「文帝は誠実であるが学識が少なく、太宗は学問を問うが成就していない。」③「文帝は申屠嘉を容れることができたが、太宗は終生魏徵を恨んだ。その真偽は明らかである。」(『建炎以来繫年要録』より)
- 胡寅:「両漢の盛時は、太宗が及ぶことができる。禹・湯・文・武の業は、豈に希求し慕うべきものではないか!」(『読史管見』より)
- 趙構(宋高宗):①「唐太宗は乱を除くこと湯・武に比べ、治世を致すこと周成・周康に近づき、謂える賢君である。然れど誇大で虚名を好み、諫めを聴き入れるものの、漢文帝の真摯な誠実さには及ばない。人君は唯真摯な誠実さで民に臨むべきで、治世の道が成就しないことを何を恐れるか?」②「朕は唯真摯な誠実さを最上と謂う。唐太宗は英邁さに余りあるが、誠実さには至っていない。」③「唐太宗は漢文帝に比肩することができず、その諫めを聴く姿は多く矯飾と虚偽によるものである。」(『建炎以来繫年要録』より)
- 朱熹:①「漢高祖は私心の割合が少ない。唐太宗は一切仁義を借りて自分の私欲を遂げた。」②「漢唐の興隆は、皆利益のためである。必ず湯武の心を持たなければ成し得ない。唐太宗もまた利益のためであり、湯武のようにはなれなかった。」③「唐太宗が建成を誅殺したことは、周公が管叔・蔡叔を誅殺したことに比べれば、公私で判断すれば足りる。周公は全く周家の天下を心に置いたが、唐太宗は公義を借りて私欲を遂げた者である。」④「史臣はその功徳の美しさを正当に称え、非難する意味はない。その意図は隋の乱を除去したのが功で、治世の美しさが徳であると謂うものである。道学が明らかでなかったため、功徳とはこのように区分される。聖門の言い方によれば、この両者は功に過ぎず、徳と謂うことはできない。」(『朱子語類』より)
- 呂祖謙:「当時の治世は、単に貞観の治に限らず、堯・舜の時代と並んで盛んであると謂える。」(『東萊博議』より) - 陸九淵:「太宗は天下を富む、天子として尊ばれ、功業は皆自分で達成したにもかかわらず、頭を下げて自分の意志を抑え、昔は嫌悪していた臣下から逆耳の言葉を聴くことができる。嗚呼!これが貞観の治を致し、三代の王者に近づけた原因ではないか?」(『陸九淵集』より)
- 真徳秀:「後世の人主の中で学問を好む者は唐太宗に如くはない。貞観の治の規模は、再現すべきである。」(『読書記』より)
- 郭思貞:「二帝三王の治世は、後世に及ぶ者がない。民の道に順じ、仁義を尽くしたためである。唐太宗は英武な資質を持ち、敵を打ち破るのは朽ち木を引き裂くように容易で、進むところ敵なし……二帝三王の治世は、この精神から推し進めたものに過ぎない。」(『〈貞観政要〉序』より)
元明清
[編集]- 成吉思汗:「国家を安定させ治める者は、必ず唐宗(唐太宗)の兵法を熟知せねばならない」(『元史・太祖本紀』より)
- 呉澄:「三代以後、長く帝位を継承したのは、唯漢と唐である。唐の中で称えられる君主は、三人だけである。太宗文皇帝は創業と守成の両方の事業を身に負い、諫めを納め治世を求めることに励精して倦まず。その効果は米が一升三文になり、戸を閉ざす必要がないほどである。故に貞観の栄盛は、開元・元和の時代には及ばないものがあり、唐太宗は卓然として唐三宗の頂点に立つ」(『春秋纂言』より)
- 戈直:「後世の君主は、皆彼の言行を講読し、議論の題材とし、敬慕して效法する。二帝三王の事蹟は久遠にして過ぎ去り、両漢の賢君は六七人出たが、なぜ貞観の政治だけが鮮やかに耳目に残るのだろうか?」「唐太宗の正心修身の道、家を整え人倫を明らかにする方法は、誠に二帝三王の事蹟に比べれば慚愧がある。然れど彼が自らを屈して諫めを納め、賢者を任じ能者を使い、恭倹で節約をし、寛厚で民を愛することは、三代以後、絶無で僅かに有るものである。後の人君は、その善き者を選んで従い、不善き者を改めれば、豈に裨益がないだろうか!」「禹は根本を固め邦国を安らかにすることを難しいとし、湯は時勢に応じて終始一貫することを難しいとした。唐太宗は創業と守成の事業を身に負いながら、自分のできることに自満せず、できないことを恐れた。これが貞観の治をもたらしたのだろう!」(『貞観政要集論』より)
- 朱元璋:「唯だ唐太宗皇帝は、英姿が世を蓋し、武力で四方を平定し、貞観の治をもたらして文徳を輝かせた……天下を治める徳を持ち、万世を安らかにする功績を立てた者である」(『明太祖実録』より)「唐太宗の構想は漢高祖に及ばないが、群臣を指揮することができ、大業が既定した後、卒して皆を保全した。この点では唐太宗の方が優れている」(『大明太祖高皇帝実録』より)「凡人は善いことがあっても自慢してはならない。自慢すれば善は日に日に減少する。不善なことがあっても自らを許してはならない。自らを許せば悪は日に日に滋長する。唐太宗は常に自慢し自らを許す心があった。この点では漢高祖に及ばない」(『大明太祖高皇帝実録』より)
- 朱棣:「唐文皇帝の如く、義兵を挙げて難を平定し、天下を一つにした。身を鎧冑にまとい、弘堂に至って帝位に登った。彼の災害を予防する思いは、周到と謂えないわけがなく、後世を慮る思いは、遠大と謂えないわけがない。『帝范』十二篇を作って其子を訓え、身を修め政を明らかにする道がその中に含まれている」「昔唐太宗は撥乱反正し、貞観の盛治をもたらし、近古に類するものがない。その原因を求めれば、国に尽忠する者は、仇敵であっても必ず賞し、異心を抱く者は、親戚であっても必ず誅すからである」(『明成祖実録』より)
- 趙弼:「唐の国祚は三百年を伝えた哉!唐太宗の在位中、朝廷には賢良な宰輔がおり、内廷には長孫皇后のような賢后がいた。治世の美しさは、周成・周康や秦漢以来の時代にも及ばないものがある。実に天の時であった。四夷の入仕者や朝貢者数百人が、皆泣き叫び髪を切り、顔に傷を付け耳を切って血を地に洒いた。中華と夷狄の心を得ていなければ、このようなことができただろうか?史臣曰:「秦漢以来、功徳が両方とも隆盛した者は、一人而已」(『雪航膚見』より)
- 朱瞻基:「唐太宗は才能に優れ、漢高祖は大義に優れている。漢高祖は詩書を学ばなかったが、大義ははっきりとしている;唐太宗は文雅に堪え称えられるが、大義は明確ではなかった」(『大明宣宗章皇帝実録』より)
- 朱見深:「三代以後、治功の盛んなものは唐に莫く、唐の三百年間、貞観の盛んさには及ばない」「太宗は唐において一代の英明な君主であり、世を救い民を康やかにする偉大な功績を立て、卓然として企及しがたい。惜しむべきは、正心修身が二帝三王の道に慚愧があり、治世が純粋ではなかったことである」(『明憲宗実録』より)
- 王誌堅:「三代以後、文皇(唐太宗)の如き人物こそ、真に千古一帝である!」(『読史商語・巻三』より)
- 朱由検:「唐太宗の才能は、朕が及ばない。もし閨門の徳行について言えば、朕も彼を学ばない」(『敬日堂外集・巻六』より)
- 王夫之:「唐太宗の才能は、当時の臣下に比肩する者がなかった」
- 張大齡:「三代以後の英雄の君主は、唯漢高祖・光武帝・唐太宗を称える。然れど高祖は起義の時六十八歳、光武は興復の時三十九歳で、皆民間で育ち世間の経験を積んでいた。放蕩な生活から出て、幼少の時から四海を凌駕する気概を持ち、八荒を震撼させる才能を抱えた、唐太宗の如き者はない。唐太宗は秦王の時代以前は、湯・武に比肩し;帝位に登った後は、周成・周康に近づいた。腐儒たちはまだ寸分の瑕疵を責めるが、これはエビが神竜の大きさを測るのと何異なるか?」(『玄羽外編・史論』より)
- 愛新覚羅・玄燁(康熙帝):「朕は古来の帝王を観ると、唐虞の時代の君臣の議論の和やかさ、唐太宗の諫めを聴き入れる姿は、君臣上下が家人父子のように情誼が深く融和しているため、善を述べ邪を閉め、それぞれ心からの思いを尽くすことができ、至治の世を達成した」(『清聖祖実録』より)
- 愛新覚羅・弘曆(乾隆帝):「隋煬帝の時、天下は瓦解し、群雄が睨み合い、帝位を窺伺した。その時、唐太宗は英雄の資質を持ち、仁義の徳を備え、さらに高祖のような賢明な父を得た。『易経』曰く:「包荒吉、納婦吉、子克家」。蓋し高祖は柔らかい中の徳を持ち、唐太宗の陽剛な体を借りて発揮し、天下を安らかにした。故に唐室の興隆は急速であるのが当然である。然れど太原で兵を挙げ、長安で皇帝を擁立するにあたって、詐欺的な行いをして利益を誘う必要はなかった;江都の隋煬帝を尊ぶことなく代王を擁立する必要もなかった。隋煬帝の罪名を正し、大義を宣言して討つべきであった。帝位に登った後、励精圖治し、自らを犠牲にして民の利益を図り、民を愛し諫めを聴き入れ、身をもって仁義を行い、房玄齡・魏徵の輩を任用した。君臣は意気投合し、懈怠することを敢えなかった。これによって貞観の盛治をもたらし、その善政と徳行は枚挙に暇がない。三代以下、傑出した賢君と謂える。遼東遠征の役は志満たんになったが、失敗した後はすぐ魏徵の碑を復元し、その妻子を慰労し、深く自らを責めた。過ちを改める速さも敏速であった。賢君は世に稀で、周成・周康以降数百年して漢文帝が出て、漢文帝以降また数百年して唐太宗が現れた。要するに虚心で物事に接し、上位者の利益を損じて下位者の利益を図ることで、天下の盛治をもたらした。唐太宗と漢文帝は皆この道を用いた。漢文帝は質実で徳行が純粋で、唐太宗を上回るが、治世の盛んさは、豈に貞観に及ぶことができるだろうか?或る人は唐太宗は魏徵がいたために身を修め国を治め、魏徵が没した後は驕慢な心が生まれたと論じるが、これは一概に言えない。唐太宗のような君主があってこそ、魏徵のような臣下が現れたのである。もし唐太宗が中才の君主であったなら、たとえ魏徵がいたとしても、どうすることができただろうか?ただ道の実を心に持たず、名声を好む念があり、自らを屈して諫めを聴き入れるものの、やはり術で人を支配していたため、天下を和やかな世にすることができなかった。然れど後世には諫めを逆らって賢者を悪み、驕奢で自満する者がいる。これを唐太宗に比べれば、百倍も千倍も劣る」
- 曾国藩:「自古英知傑出たる非常な君主は、往往にして人才が輩出して盛んになる。例えば漢の武帝、唐の文皇(唐太宗)、宋の仁宗、元の世祖、明の孝宗の時代は、皆異才が相次いで起り、俊彦が集まり、歴史に輝いた」(『〈国朝先正事略〉序』より)
近現代
[編集]毛沢東:「所謂以弱当強とは、少数の兵力で敵の諸路大軍を偽攻撃することである。所謂以強当弱とは、絶対的な優勢兵力を集中し、敵一路の兵力の五六倍の兵力で四方から包囲し、集めて殲滅することである。自古能軍なる者、李世民に出る者はなく、その次は朱元璋である」(『毛沢東読文史古籍批語集』より) 「戦うことは唐太宗の如くせねばならない。先ず守り攻めず、敵に攻撃させ、兵士に攻撃について談論することを禁じ、談論する者は誅す。敵が屢々攻撃して克たず、兵士の士気が激昂しきった時に、はじめて反攻を下令する。一攻めで即ち勝利を得る。このようにすれば、一は兵を鍛え、二は民を鍛えることができる」(『毛沢東と青年』より) 「唐太宗・李密は共に当時の草莽の英雄である。世間に李世民について二つの言葉がある。その詞は曰く:「太原の公子、褐裘をまとって来たり」。世民は常に父(李淵)に対し、太原に固守するべからず、家をもって国を化すべきだと勧めた。李淵は大いに悦び、遂に兵を挙げて直ちに陝西に向かい、更に種々の方法で一般大衆を喜ばせた。例えば銭糧を引き換え、二千の宮女を解放するなどである」(1926年広州農民運動講習所における講演)
人物・逸話
[編集]太宗は能筆家としても知られ、作品としては「温泉銘」がある。臣下にも初唐の楷書を完成させた書の大家を登用するなど、書に対する関心が強かった。また、書聖と謳われる王羲之の真筆に対して、異常なまでの執心ぶりを見せていたことも有名である。王羲之の子孫にあたり、会稽にいた智永という僧が持っており、智永の没後は弁才禅師に所有が移っていた蘭亭序の真筆を手に入れたいがあまりに三度に渡って譲渡を懇願したが聞き入れてもらえなかったので使者を遣わし、蘭亭序にけちをつけてだまし取ったほどである。こうして手に入れた蘭亭序を自身の死後に昭陵に納めさせたと伝えられている[7]。
- 李勣がかつて病気になった時、「髭の灰が良く効く。」と聞いた太宗は、自らの髭を切って煎じて薬を調合した。李勣は、出血するほど頓首して泣いて感謝したが、太宗は言った。
「社稷の為にしたのだ。卿の為にしたのではない。何でそこまで感謝するのか!」
- 李勣が宴会に参加していた時、太宗はくつろいだ様子で言った。
「朕は、群臣の中に我が子を託せる者を探したが、公以上の者はいない。公はかつて李密に背かなかった。どうして朕へ背こうか!」 李勣は泣きじゃくって辞謝し、指を囓って出した血を酒へ入れての飲み、酔いつぶれた。太宗は御服を脱いで、李勣に掛けてあげた。
- 高句麗征伐において右衛大将軍の李思摩が矢に当たって負傷した時、太宗は自らその血を吸いだして治療した。将士はこれを聞き、感動しない者はなかった。
隋の開皇18年12月戊午の日、武功の別邸にてご誕生。時に二頭の龍が館の門の外で戯れ、三日後に去った[8]。
太宗は蜷れ鬚(くりひげ)をお持ちで、かつて戯れに軽々と弓を張り矢を掛けた。
唐文皇(太宗)は蜷れ鬚(くりひげ)をたくわえ、たくましい容貌で、人々から「髭圣」と呼ばれた。
太宗には六匹の名馬があった。その馬たちの名前は「白蹄烏」・「拳毛騧」・「颯露紫」・「特勤驃」・「青騅」・「什伐赤」という。
貞観政要によれば蝗害の時太宗自らバッタを飲みこんで蝗害を抑えたという伝説が書かれている。
十八学士
[編集]李世民が秦王となったとき、文学館を建て、賢才を招聘した。杜如晦・房玄齢・于志寧・蘇世長・姚思廉・薛収・褚亮・陸徳明・孔穎達・李玄道・李守素・虞世南・蔡允恭・顔相時・許敬宗・薛元敬・蓋文達・蘇勗の18人を学士とした。俗に秦王府十八学士とも言われている。
二十四功臣
[編集]643年(貞観17年)、太宗は自らと共に中国統一に功績のあった功臣24名を偲んで、凌煙閣という建物に功臣たちの絵を画家である閻立本に描かせた。名を挙げた順については、当時の功臣の序列を反映したものとなっている。俗に凌煙閣二十四功臣とも言われている。
二十四功臣
宗室
[編集]- 正室:長孫皇后(文徳皇后)- 鮮卑拓跋部に出自に持つ、長孫無忌の妹[9]
- 側室:貴妃 韋珪
- 側室:楊妃 - 隋の煬帝の皇女
- 側室:燕徳妃 - 楊雄の娘と燕宝寿のあいだの娘
- 側室:鄭賢妃[10]
- 側室:楊妃 - 楊素の子の楊玄奨の娘
- 十三男:趙王 李福
- 側室:陰妃 - 陰世師の娘
- 五男:斉王 李祐
- 側室:韋昭容 - 韋貴妃の叔父の韋匡伯の娘
- 側室:充容 徐恵(贈賢妃)
- 側室:楊婕妤 - 楊雄の子の楊恭道の娘
- 側室:蕭美人
- 側室:蕭才人
- 側室:崔才人
- 側室:才人 武媚
- 側室:才人 王帝釋[11]
- 七男:蒋王 李惲
- 側女:高恵通[12]
- 愛人:巣剌王妃楊氏 - 楊雄の従孫娘で李元吉の元妻
- 十四男:曹王 李明
- 生母不詳の子女
- 次男:楚王 李寛 - 早世
- 十二男:代王 李簡 - 早世
- 長女:襄城公主 - 蕭鋭(蕭瑀の子)夫人
- 次女:汝南公主 - 早世
- 三女:南平公主 - 王敬直夫人、のち劉玄意(劉政会の子)夫人
- 四女:遂安公主 - 竇逵(竇抗の子の竇静の子)夫人、のち王大礼夫人
- 六女:豫章公主 - 唐善識(唐倹の子)夫人
- 七女:比景公主 - 柴令武(柴紹の子)夫人
- 八女:普安公主 - 史仁表(史大奈の子)夫人
- 九女:東陽公主 - 高履行(高士廉の子)夫人
- 十一女:清河公主 李敬(徳賢)- 程処亮(程知節の子)夫人
- 十二女:蘭陵公主 李淑(麗貞)- 竇懐悊(竇毅の子の竇照の曾孫)夫人
- 十三女:晋安公主 - 韋思安夫人、のち楊仁輅夫人
- 十四女:安康公主 - 独孤諶(独孤信の子の独孤蔵の曾孫)夫人
- 十五女:新興公主 - 長孫敬道(長孫順徳の弟)夫人
- 十七女:合浦公主(高陽公主) - 房遺愛 (房玄齢の子)夫人
- 十八女:金山公主 - 早世
- 二十女:常山公主
登場作品
[編集]小説
[編集]- 『隋唐演義』、主要人物の一人として活躍する。前半主人公の秦叔宝とは生まれる直前に救われた恩がある。
- 『西遊記』、一時地獄に落ちるが現世へと帰還し「三蔵」の取経を乞うたところ、玄奘がそれに応える。なお、地獄に落ちるエピソードは隋唐演義と共通。
- 小前亮『李世民』(講談社、2005年/講談社文庫、2008年) ISBN 406-2761491
- 塚本靑史『李世民』(上・下)、日本経済新聞出版社、2012年 ISBN 978-4532171179・ISBN 978-4532171186/日経文芸文庫、2014年
漫画
[編集]- 夏達著『長歌行』(新世紀出版。日本では集英社。いずれも2011年から。玄武門の変で殺害された李建成の娘を主人公としている。叔父である李世民への復讐を描いた作品)
- 園沙那絵著『レッドムーダン』(集英社。『グランドジャンプむちゃ』にて、2021年11月号~2022年5月号まで連載。その後『グランドジャンプ』に移籍し、2022年16号から連載。李世民の側室であり、後に中国の女帝となった武則天の生涯を描いた作品)
映画
[編集]- 『少林寺』(1982年、中国・香港、演:ワン・クァンチュアン)
- 『安市城 グレート・バトル』(2018年、韓国、演:パク・ソンウン)
テレビドラマ
[編集]- 『西遊記』、『西遊記II』(1978年 - 1980年、日本テレビ、演:中村敦夫)
- 『西遊記』(1993年、日本テレビ、演:夏木陽介)
- 『西遊記』(1994年、日本テレビ、演:宝田明)
- 『則天武后』(1995年、中国、演:鮑国安)
- 『新・少林寺』(1999年、中国、演:樊少皇)
- 「大唐雙龍傳」(2004年、香港、日本未公開、演:阮徳鏘)
- 『創世の龍 〜李世民 大唐建国記〜』(2006年、中国、演:シェン・シャオハイ)
- 『皇帝 李世民〜貞観の治〜』(2006年、中国、演:マー・ユエ)
- 『大祚栄(テジョヨン)』(2006年、韓国、演:ソン・ヨンテ)
- 「貞観長歌」(2007年、中国、日本未公開、演:唐国強)
- 『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』(2007年、韓国、演:ソ・インソク)
- 『大唐双龍伝』(2011年、中国、演:呉慶哲)
- 『大王の夢』(2012 - 2013年、韓国、演:ユン・スンウォン)
- 『隋唐演義 〜集いし46人の英雄と滅びゆく帝国〜』(2013年、中国、演:ドゥ・チュン)
- 『武則天 -The Empress-』(2015年、中国、演:チャン・フォンイー)
- 『大唐見聞録 皇国への使者』(2018年、中国、演:張智堯)
- 『大唐女法医〜love&truth〜』(2020年、中国、演:チョン・フォン)
- 『風起花抄〜宮廷に咲く琉璃色の恋〜』(2021年、中国、演:タン・カイ)
脚注
[編集]- ^ 『旧唐書』巻3, 太宗紀下 貞観二十三年五月己巳条による。
- ^ 『詳説世界史研究(改訂版)』山川出版社。
- ^ 宮崎市定『大唐帝国』中公文庫
- ^ 『新唐書』本紀第二
- ^ 『資治通鑑』巻189
- ^ 布目『つくられた暴君と明君・隋の煬帝と唐の太宗』清水書院 (清水新書 44) 1984
- ^ 布目潮渢『つくられた暴君と明君・隋の煬帝と唐の太宗』、清水新書、1984年、145頁
- ^ “Page Verification”. www.guoxue.com. 2025年11月9日閲覧。
- ^ 松浦友久『李白伝記論』研文出版、1994年9月、75頁。ISBN 978-4876361205。
- ^ 『唐会要』巻21
- ^ 2024年出土の『大唐故才人王氏墓志』より
- ^ 『刀人高恵通墓誌』によると、秦王時代の刀人(側女。品位は無かった)