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五帝
Ma Lin - Emperor Yao.jpg
王朝 五帝
姓・諱 伊祁放勲
陳鋒氏の娘

、ぎょう)は中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。、次いでに封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。

帝としての事績[編集]

史記』「五帝本紀」によれば、の次子として生まれ、嚳の後を継いだ兄の死後となった[1]。「その仁は天のごとく、その知は神のごとく」などと最大級の賛辞で描かれる。黄色い冠で純衣をまとい、白馬にひかせた赤い車に乗った[2]

羲和羲仲羲叔和仲に命じ、天文を観察してを作らせた。一年を366日とし、3年に1度閏月をおいた。[3]

堯は大洪水を憂え、臣下の四岳に誰に治めさせるかを問うた。みながを推薦した。堯は「鯀は(帝の)命に背き、一族を損なっている」と反対したが、岳は試しに使い、だめなら止めればよいと言った。そこで鯀を用いたが、9年たっても成果がなかった。[4]

十八史略』によれば平陽に都したとし、質素な生活を送っていたとしている。

別の書物での堯の伝説として、羿(羿の字は羽の下に廾、姓は后)を挙げる。その頃の太陽は全部で十個あり、交代で地上を照らしていたのだが、ある時に十個が一度に地上を照らすようになったために地上は灼熱地獄となった。堯は弓の名人である羿に何とかして来いと命令すると、羿は九個の太陽を打ち落として帰ってきて、救われた民衆は堯を褒め称え帝に迎えたという。

舜への禅譲[編集]

堯には丹朱と言う息子がいたが、臣下から推薦者を挙げさせた。放斉は丹朱を挙げ、驩兜共工を挙げたが、堯は二人とも退けた。みなが虞舜()を挙げ、性質がよくない父と母、弟に囲まれながら、彼らが悪に陥らないよう導いていると言った。堯は興味を示し、二人の娘を嫁した。[5]

それから民と官吏を3年間治めさせたところ、功績が著しかったため、舜に譲位することにした。舜は固辞したが、強いて天子の政を行なわせた。舜の願いにより、驩兜、共工、鯀、三苗を四方に流した。20年後に完全に政治を引退し、8年たって死んだ。天下の百姓は父母を失ったように悲しみ、3年間音楽を奏でなかった。3年の喪があけてから、舜は丹朱を天子に擁立しようとしたが、諸侯も民も舜のもとに来て政治を求めたので、やむなく舜が即位した。[6]

堯舜の伝説の形成[編集]

舜と共に聖天子として崇められ、堯舜と並び称される。堯舜伝説は春秋時代末には既に形作られていたようで、起源となったような人物がいるのかは解らないが、中国人民日報2000年山西省で堯舜時代の遺跡が見つかったと発表している。

また1993年郭店一号楚墓から発見された竹簡には堯や舜の事跡が記録されており、注目される。

堯舜伝説の異説[編集]

代の歴史家・劉知幾は、その著書・『史通』で、堯舜伝説を否定する以下の内容のことを書き残している。

山海経』等の歴史・地理書には、「囚堯城」や「帝丹朱」という記述があり、このことから想定するに、堯は実力者の舜に強制的に退位させられ、「囚堯城」に幽閉された。それから間もなく、舜は丹朱(帝丹朱)を即位させたが、しばらくして、人々の支持はことごとく自分に集まっているとして、丹朱を廃して自身が即位したのではないか。第一、そんなに徳の高い大人物が次から次と出て来るものだろうか。

鼓腹撃壌[編集]

堯の御世も数十年、平和に治まっていた。堯はあまりの平和さに、天下が本当に治まっているか、自分が天子で民は満足しているか、かえって不安になった。そこで、目立たぬように変装して家を出て自分の耳目で確かめようとした。ふと気がつくと子供たちが、堯を賛美する歌を歌っていた。これを聴いた堯は、子供たちは大人に歌わされているのではないかと疑って真に受けず、立ち去った。ふと傍らに目をやると、老百姓が腹を叩き、地を踏み鳴らしながら(=鼓腹撃壌)楽しげに歌っている。

原文 書き下し文 現代語訳

日出而作
日入而息
鑿井而飲
耕田而食
帝力何有於我哉

日出でて作し、
日入りて息ふ。
井を鑿ちて飲み、
田を耕して食らふ。
帝力何ぞ我に有らんや。

日の出と共に働きに出て、
日の入と共に休みに帰る。
水を飲みたければ井戸を掘って飲み、
飯を食いたければ田畑を耕して食う。
帝の力がどうして私に関わりがあるというのだろうか。

この歌を聴いて堯は世の中が平和に治まっていることを悟った、とされる(『十八史略』)。

参考文献[編集]

  • 吉田賢抗史記』一(本紀)(新釈漢文大系)、明治書院、1973年。
    • ^ 史記』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の36頁。
    • ^ 史記』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の37頁。
    • ^ 史記』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の38-39頁。
    • ^ 史記』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の41-42頁。
    • ^ 史記』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の41-44頁。
    • ^ 史記』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の44-50頁。