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羿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
嫦娥、月に奔る

羿(げい、拼音: イー)は、中国神話に登場する最大の英雄の一人。后羿(こうげい、拼音: Hòuyì ホウイー)、夷羿(いげい、拼音: Yíyì イーイー)とも呼ばれる。太陽神と災厄の魔獣を撃墜した弓の名人となる、世界を救ったが、妻の嫦娥(じょうが)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙(ほうもう)によって殺される、悲劇的な英雄である。

羿の伝説は、『楚辞天問での太陽を射落とした話(射日神話)が知られるほか、その後の時代に活躍した君主である后羿を伝える話(の時代の羿の項)も存在している。名称が同じであるため、神話学者の袁珂は前者を「大神羿」、後者を「有窮后羿」と称し分けることもある。数多の漢詩民話が「后羿射日[1]」を称え、后羿(Hou Yi)という通称は中華圏で国民的な知名度を有する。

説文』の漢字「羿」は風に向かって舞い上がる羽を意味し、空中の羽飾りの矢と見なせる[2][3]。一部の原典では羿を弓の発明者と記し、名前自体が弓矢と関わる[4][5]

中国の山西省屯留県では、羿は三嵕(さんそう)の山神信仰と習合し、国家祭祀において「霊貺王」(れいきょうおう)の神名を授けられ、雨乞いを司る[6]。当地の伝承では、羿が残した一本のの白羽と紫の組紐が、山頂の白松と紫雲に化したとされる。

日本でも古くから漢籍を通じてその話は読まれており、『将門記』(石井の夜討ちの場面[7])や『太平記』(巻22)などに弓の名手であったことや9個あった太陽を射落としたことが引用されているのがみられる。

堯の時代の羿

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羿射九日

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帝夋(東方の天帝)には羲和(日御神)という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子を産んだ。この10体の太陽はそれぞれ金烏に乗せられていて(異説として日輪内の三足烏、或いは陽烏を太陽の精とする[8])普段は極めて巨大な神樹である扶桑もしくは若木の所で生息や入浴をしていた、そして交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負う[9]、この十日を一旬と呼ばれることになる。当番の太陽が天空に上ると、残る9羽の陽烏は下方の幹枝に憩う[10]。時に、天上の陽烏が地上の仙草をこっそり食べたがり、羲和が手でその目を覆い、天体が地面に近づかぬよう保った[11]

殷王朝後期・27個の蕾と9羽の鳥を付した青銅神樹(原型は世界樹の扶桑あるいは若木と推定)

ところが天子である帝堯の時代に、太陽たちが遊びたくて、一遍に現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、全ての植物は枯れ[12]、あらゆる金属が融けた[13]。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう、天界から神射手である羿を降ろした。帝夋は羿に彤弓(朱塗りの弓)と素矰(白羽の矢)を与えた[14]。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを、元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで、1つだけ残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる[15]

落日の後、太陽の残骸は東海の最果てに墜ち、縦・横・高さ四万里の山石と化し、沃焦(よくしょう)あるいは尾閭(びりょ)と呼ばれたと伝えられる[16]。この焦熱の巨岩は絶えず百川の水を吸収し蒸発させるため、海は増水しても満溢することがない。

神魔討伐

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射日の事跡以外にも、羿は人間界の各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの凶獣(鑿歯九嬰大風窫窳修蛇封豨)を退治し、人々にその偉業を称えられた[17](退治の順序は諸説あり、地上の凶獣を退治する途中で陽烏を射落とした話もある[18][19])。

そのうち、凶水という川で、羿は火と水の能力を持つ他は全く正体不明の怪物・九嬰を殺した[20]。九嬰は9つの幼子の姿とされる説と、九日[21](9人の太陽神)が凶暴化した姿とする説が存在する[22]。また、窫窳は元来は蛇身人面の善神であったが、崑崙の弱水で死して蘇った後、龍頭の食人悪獣・猰貐(あつゆ)へと変わり、これより羿に誅された[23]

羿、巴蛇を射る(湖南省岳陽市巴陵広場の塑像

悪神の中、青丘の沢で民の家屋を破壊する暴風の神・風伯(前述の怪鳥・大風と同一視される)の膝を射抜いた以外に、羿は民を溺死させる黄河の神・河伯(白龍に化身した姿)の目を射抜いた[24]。河伯は天帝に訴え出たが、天帝は「汝が神霊の本分を守らず獣に変化した以上、射られるのは当然」として羿の無罪を認めた[25]

洞庭という湖で、羿はを吞み込む大蛇・巴蛇修蛇と同一視される)を射殺し、その骸骨が積み重なって巴陵・巴丘となった[26]。後に羿が巴山で狩猟中、のような巨兎を捕獲したが、途中で籠から逃げ出した。実は巨兎は巴山の神・鵷扶君(えんふくん)であり、この恥辱に報復するため、「羿の弟子の手を借りて彼を殺す」と誓った[27]

さらに、桑林という森で、羿は神獣である魔猪・封豨伯封と同一視される)を討ち、その肉を蒸し料理として天帝に供物を捧げた。しかし、天帝である帝夋は喜ばれなかった。これは羿の所業に対する不満によるものと考えられる[28]

不老不死の薬

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羿が仙薬を求めた契機は具体的に不明である。自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり、羿と妻の嫦娥じょうがを神籍から外したため、彼らは不老不死ではなくなってしまったことが起因とみられる[17](古典の視点では、堯の時代の羿は人間として不死を求める記述が多く、神話学者の袁珂は、夏の時代の羿が天帝によって下界に降ろされた要素を統合し、神籍剥奪の推論を付した)。羿は弱水を渡り、火山を越え[29]、石林を抜け、万仭の崖を登り[30]、非業の死と永遠の命を司るの女神・崑崙西王母を訪ね、不老不死の薬をもらって帰ったが、嫦娥は仙薬を独り占めにして飲んでしまう。嫦娥は羿を置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して広寒宮)へしばらく身をひそめることにする。そして、羿を裏切ったむくいで体は蟾蜍(ヒキガエル)になってしまい、そのまま月で過ごすことになったと言う説もある[31][32]嫦娥奔月の項も参考)。この伝説は、中秋節八月十五夜)の由来の一つである。

なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩(正月十五夜)に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった」という話が付け加えられることもある[33]

逢蒙殺羿

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その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、東海出身の弟子である逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技をすべて吸収した後、「羿を殺してしまえば僕が天下一の弓の達人だ」と考え、桃棓(桃の木の棒)で羿を打ち殺したと言われる。このように身内に裏切られることは「羿を殺すものは逢蒙(逢蒙殺羿[34])」として語り継がれるようになった[35]。桃に死した羿と、剣に死した剣士慶忌、弁舌に死した論客蘇秦は、人が自らの長所を信じたがゆえに、熟知した物事によって破滅を招く例とされる[36]。羿の桃への熟知は、追儺儀式における破邪の祭具・桃弧(桃の弓)との関連が指摘されている[37]

この事件が、桃の木が邪気を払う力を持つという中国の民間信仰の起源となった。(死霊)でさえも恐れる英雄・羿でさえ桃の木に敗れたことから、すべての鬼は桃を恐れるようになったとされる[38][39]

宗布神の転化

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羿の死後、民衆は彼が生前に世界の害を除いたため、冥界の宗布神(そうふしん)として奉った[40]。宗布神は百鬼を統率し監督する役割を担い、祠堂に置かれた桃の木の像として祀られ、悪鬼を退治すると信じられた[41]。その宗布は『周礼』にを受けるの禜酺(ようふ)と同一視され、旱災水災人災を祓う神様である[42]。後世の鍾馗と類似した性格を持つとも見なされる[43]

淮南子』において、宗布神の羿は竃神炎帝社神稷神后稷と共に、天下に功績のある聖人として鬼神の列に並んでいる[44]。また、漢王朝の占卜書『易林』には、侵略を司る凶星・天狼星を羿が射貫くよう民衆が祈願する詩が記されており、武勇の神性の顕れである[45]。『楚辞九歌における武神と太陽神である東君が「長矢で天狼星を射る」とする記述と同一視される[46]

夏の時代の羿

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別に伝えられているのは、『路史』夷羿伝や『春秋左氏伝』などにあるもので王朝を一時的に滅ぼしたという伝説である。『楚辞天問にも「羿が天帝の命を受け夏の民の災禍を革める」の伝説がある。こちらの伝説ではおもに后羿(こうげい)という呼称が用いられている[47]。堯と夏それぞれの時代を背景にもつ2つの伝説にどういった関わりがあるのかは解明されていない部分がある[48]白川静は、後者の伝説は羿を奉ずる部族が、夏王朝から領土を奪ったことを示しているとしている。

異常出生譚

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后羿は鉏(現在の河南省滑県[49])の地の豪族・有窮氏(有穹氏)の出身であり、窮国の諸侯の一族であった。有偃氏であり皋陶の末裔であるという伝承や、有鬲氏の出身であるとする説などがあるが詳細は不明である[注釈 1]

生まれつき、后羿は左腕が右腕より長く、生来の射術の達人であった。子供の頃に、羿は両親に連れられ薬草採りで山に入り、の止む木の下に置き去りにされた。戻って探した両親は、森の蝉が一斉に鳴いたため羿を発見できなかった。その後、彼は山中の森羅万象に養われて成長した[50]

山中で、后羿は楚弧父もしくは楚狐父(そこほ)(『帝王世紀』では吉甫)という狩人によって保護された。楚弧父が病死するまで育てられ、その間に弓の使い方を習熟した。その後、弓の名手であった呉賀(ごが)からも技術を学び取り、その弓の腕をつかって羿は勢力を拡大していったとされる。

伝承によれば、后羿が二十歳で成人した時、天を仰ぎ嘆く「四方に放った矢は必ず我が門に届く」と。矢は地面すれすれに飛び、果たして羿の家の門に届いた。羿は矢の軌跡を辿って帰還した[51]

夏王朝の僭主

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太康(夏の第3代帝)の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。射猟に没頭する太康は、臣下に大猪の皮で作られた的を射るよう命じ、后羿はこの試合で頭角を現した。ある時、太康が洛水の南岸に赴き、十も都へ帰還しなかったため、夏王朝は混乱に陥った[52]

后羿は、武羅(ぶら)などの臣と一緒に、夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏王朝の領土を奪った。羿は王として立ち、窮石(現在の河南省洛陽の南[53])を都として諸侯を支配下に置くこととなる。

一説には、羿は夏の民のために暗君・太康を倒し[54]、「帝夷羿」と自称して中国史上最古の王位簒奪者となった[55]。別の記録では、羿は夏の王権を取代せず、権臣として朝政を掌握し続けたとされている[56][57]

羲和討伐

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仲康(夏の第4代帝)の5年、日食が発生した[58]。太陽観測を司る官である羲和は職務を放棄し、天体の運行を把握できなかったため、暦法は混乱に陥った。大司馬の胤侯(いんこう)は命令を受け、大軍を率いて羲和を討伐に向かった[59]。この『仲康日食』は予測不能であったが、世界最古の日食記録とされる。

宋王朝の文豪・蘇軾は、『春秋左氏伝』『史記』などの記事にもとづき、羲和討伐の一件を次のように解する。仲康の当時は、后羿が専権をふるっており、羲和が「湎淫」していたというのは、羿への反抗であった。羿は仲康の命令という名目を借りて、みずからに反抗する羲和を、胤侯に討たせたのである[60]

封狐と純狐

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当時、音楽を司る官である后夔)には伯封封豨封狐とも書かれる)という子がおり、猪の心を持ち横暴であったと伝えられる。羿は伯封を討ち果たし、夔の祭祀を絶った。

その後の羿は、伯封の母である玄妻純狐とも書かれる)を娶り[61][62]寒浞かんさくという奸臣を重用し、武羅などの忠臣をしりぞけ、政治を省みずに狩猟に熱中するようになり、暗君となった。玄妻は息子の復讐のため、寒浞と共に陰謀を巡らせ羿を裏切った。

寒浞殺羿

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最後は玄妻と寒浞によって相王(夏の第5代帝)の8年に后羿を殺されてしまった。寒浞は桃梧(とうご)という地で羿を処刑し、その遺体を烹に処した[63]

春秋左氏伝』『楚辞章句』によれば、后羿は自宅の農地へ逃げ帰ったが、寒浞と通じた家僕に裏切られ、烹殺か射殺された[64]。この家僕は、前述の羿の弟子・逢蒙と同一人物と見做される[65]

二者の関係性

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漢王朝の学者・高誘は、堯の時代の羿と夏の時代の羿は別人だと指摘した[66]晋王朝の文学者・郭璞は「有窮の后羿が堯の時代の羿を慕い、そのを継承した」と説明している[67]唐王朝の儒学者・孔穎達も「羿は善射者の呼称であって人名ではない」と唱えた[68]。さらに近代の神話学者・袁珂は高誘の見解を支持し、「大神の羿」と「有窮の后羿」を区別した。しかし袁珂は、「羿が封豨を殺した伝承と后羿が伯封を殺した伝承」「羿が河伯の妻・洛嬪を奪った伝承と后羿が后夔の妻・玄妻を奪った伝承」「逢蒙が羿を裏切った伝承と寒浞が后羿を裏切った伝承」が同源の分化であるという見解を留めている[69]

顧頡剛の学派が出版した論文集『古史辨』は羿の説話を3種に分類した。神話家の伝説[70]では『淮南子』が羿を堯の時代の英雄として封豨を射ることを功績とし、詩歌家の伝説[71]では『楚辞』が羿を夏の時代の暴君として伯封を射ることを罪業とし、伯封を神話の封豨が民話化したものと見なした。儒家墨家[72]の時代の羿[73]の時代の羿・夏の太康の時代の羿・周の幽王の時代の羿[74]を列挙し、「羿は弓制作を世襲する官職名」として時代を跨ぐことを説明した。

古史辨派は、羿が古代伝承では単一人物であったが、伝承の分化により後世で複数人物と見做されるに至ったと結論付けた[43]。文献の年代から見れば、漢代以前の記述は夏の時代の羿を指す傾向があり、堯の時代と嚳の時代の羿に関する記述は漢代以降に現れる。後世には、天帝(帝夋)の物語上の位置は歴史化の帝王(帝嚳帝堯)に取って代わられ、『帝王世紀』では彤弓と素矢の授与者が天帝から帝嚳へと移った[75]。射日神話の最古の原典・『楚辞』では、「羿が天帝の命を受け夏の民の災禍を革める」の記述も「河伯と封豨を射る」の記述も、いずれも夏王朝の后羿を指しており、英雄と暴君の両面を併せ持つ[76]

同一人物と考える学者の中では、茅盾が『中国神話研究ABC』で「神性の羿が歴史化されて人性の羿となった」と唱えた[77]。また、アンリ・マスペロは『書経中的神話』において、夏王朝の羲和は日神の羲和の「エウヘメリズム化」であると論じている[78]

なお、歴史神話化という観点を持つ現代の学者も存在する。尹栄方は、「羲和討伐」の本質は太陽に関連する暦法改革であり、これが「射日神話」の歴史的原型だと論じた[79]。銭宗武も、「胤」は「羿」の通仮字であり、「胤征羲和」の物語は「羿射九日」の神話の源流であると指摘している[80]

文学作品での羿

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漢詩以外にも、羿は期の文学作品に活躍している。中華民国時代の大文豪・魯迅の『故事新編』と鍾毓龍の『上古秘史』は、これらの創作物を素材の典拠としている。

西遊記

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天地開闢以来、太陽星は10個あったが、羿で9個が射落とされ、残存する金烏星が本物の太陽となった。他の陽烏は「九陽泉」へと変化し、香冷泉・伴山泉・温泉・東合泉・潢山泉・孝安泉・広汾泉・湯泉・濯垢泉と呼ばれる。このうち濯垢泉は作中で蜘蛛の精の巣窟として登場する[81]

開闢演義

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作中の羿は平羿(へいげい)と称され、の臣下である。本作における羿の偉業は、質朴に解釈されている。堯の命により羿が射落とした9つの太陽は、幻日の邪火であった[82]。「大風」は風伯の放つ嵐と解され、羿は土壁を築いてこれを防いだ。また、猰貐・封豨・修蛇は害獣の総称であり、羿は兵士らと共にでこれを捕えた。日害・風害・獣害を平定した後、羿は落陽侯(らくようこう)及び総平侯(そうへいこう)に封じられた[83]

羿が功業を成し遂げる間、西王母は羿の妻の孤独を慰めながら仙薬を調製した。ある満月の夜(堯の62年の八月十五夜)、妻が預かっていた仙薬を取り出すと、羿が服薬を提案し、西王母の信頼を背いた。結果、妻は月の仙女・嫦娥となり、羿は逆に月の蟾蜍へと変じた[84]

夏商野史

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作中の羿は夏の有窮国の后羿であり、堯の時代の羿ではないが、夏の時代に太陽を射落とした。佞臣と共に暗君・太康に仕えることを拒み、羿は四耳の神馬に乗り、東海へ冒険と修行の旅に出た。三島(蓬莱・方丈・瀛洲)において、羿は仙人から賜った仙棗を食し、不溺の能力を得て、羽毛すら沈む弱水を渡れるようになった。不死国では、西王母の助言を得て、不死の葉を採った。有窮国へ戻った後、羿は太康から絶世の美女である妃・嫦娥を献じるよう要求される。羿は反抗しようとしたが、武羅ら賢臣に諫められて従った。そこで嫦娥は不死の葉と不飢の珠を盗み、羿の馬車に乗り、応龍を駆って逃亡した。途中、嫦娥は空中飛行の能力を得たことに気づき、西王母の導きで日月の山へ飛び、月宮の神・玉兔の主となった[85]

怒った太康は羿の封地を削減し、悪政を続けた。数年後、夏の都で内乱が発生し、羿は兵を率いて王都に入り、太康の弟・仲康を天子に立てた。仲康の治世下、大司馬の胤侯は羲和東夷の反乱を平定し、その功績によって羿と拮抗するようになった[86]。その後、仲康の子・の治世に、東海の勇者・逢蒙に援けられた東夷は胤侯の死後に再び反乱を起こした。戦いの中で、羿は逢蒙を降伏させた。羿は指と歯の隙間で逢蒙の放つ全ての鏃じりを挟み止め、矢の尾羽を彼目がけて弾き返した。逢蒙は羿の技を「神人の射術」と讃え、自ら師事を願い出た。孤独を感じる羿も、弟子の相伴を望んでいた。

狼心を持つ寒浞の加勢により、羿と逢蒙は簒奪に反対する賢臣たちを追放した。羿が相王の帝位を簒奪した後、無限の妖風と怪異が、王権簒奪者の開祖に対する天罰として現れた。羿は逢蒙と師弟共に、悪風の神・獰飈(大風)、桑林の獣・翌虎(封豨)、洞庭の巨亀(河伯の使者)、崑崙の盾兵・雕題(鑿歯)を退治した。その途上、逢蒙は射術の差に嫉妬を感じ、天下一の弓人となるため、寒浞の扇動により羿の謀殺を決意した。雲中の獣・猰貐を単独で退治した後、羿が酔いつぶれた夜、逢蒙はその咽喉を射抜き、羿は逢蒙と寒浞の陰謀を言い当て、自ら矢を抜いて絶命した[87]

七十二朝人物演義

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作中の羿は堯の時代の偃羿(えんげい)であり、夏の時代の夷羿(いげい)とは区別されるが、本作の設定には混用が見られる。偃羿は弓術の天才で、7歳から独学で矢を射ち、16歳で楚弧父に師事し、わずか1ヶ月で全技を習得した。彼は楚弧父から軒轅黄帝の魔除けの兵器・桑弧弓と雕翎箭を授けられた。荊州において、羿は桑弧弓の宝光で桑林の悪獣・封豨を覆い、雕翎箭でこれを射殺した。荊州の長官であるは羿の功績を天子に報告し、天子であるは羿を徐州の水怪退治に派遣した[88]

この水怪の正体は黄河の水神・河伯であり、妻である嫦娥のために水府の宮殿を拡張し、岸辺の作物と平民を水没させていた。河伯と嫦娥は羿の弓の光に驚き、水面に上がって羿を遠望した。嫦娥は羿が少年英雄であり天仙の資質を持つと見て、逃げ出して彼に従うことを決意した。彼女は自らが河伯に攫われた宓妃(洛嬪)であると告げ、羿と夫婦となり河伯討伐を助けることを申し出た。河伯を射殺した後、羿は帝堯から少司馬に封ぜられ、青州の大風退治に派遣されるが、不本意ながらも妻と一時的に離れた[88]

青州にて、羿は西王母に助力し西方の金獅を降伏させ、風害を平定した功績により九転金丹(きゅうてんきんたん)なる仙薬を授かった。帰宅後、嫦娥が西王母のことを尋ねると、仙薬は二つなく、羿は自分が既に服薬したと嘘をつき、再会時に改めて請うと約束しながら、実際には金丹をの上に隠した。その時、突然空に10個の太陽が現れ、帝堯は羿に9つの妖日を射落とすよう命じた[88]

羿が放った9本の矢は、太陽の本体に届かなかった。しかし彼の敬虔な祈りが天意に触れ、9つの妖日は跡形もなく消えた。嫦娥は日輪を直視し過ぎた後、薄暗い室内に戻ると、金丹の光を見逃さず直ちに服用し、空中飛行の能力を得て月に至った。木を伐る呉剛(桂男)の加勢により、天仙となった嫦娥は月宮殿を築いた。こうして嫦娥は世に盗みの祖と呼ばれ、失意の羿は生涯再婚せぬと誓った。後年、黄河に大洪水が起きると、羿は禹王(鯀の子)に従い治水に加わり、猰貐修蛇白龍九嬰などの水怪を誅し、その功績により有窮国の君主に封ぜられた[88](夏の有窮国の夷羿については、逢蒙の項も参考)。

八仙全伝

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作中の羿はかつて堯の時代に太陽を射落とし、夏王朝まで生きて暴君・后羿となった。羿は西王母により下界へ追放された侍女の嫦娥を娶った。西王母から仙薬を求めた後、羿は薬を嫦娥に預けたが、彼女は暴君に永遠の命を得させまいと服薬し、月へ飛び去った。これら全ては西王母の神算であった:彼女は暴君に不老不死を授けず、羿の手を借りて仙薬を嫦娥に届け、その天界帰還を図ったのである[89]

怒った羿は月に向けて神箭を放った。嫦娥は墜ちたが、道教月神・太陰星君に救われる。その不浄の体は太陰星君によって焚かれ、高潔な魂は月宮の仙子の一人へと昇華した。後日、羿は飛行術を習得し、月宮殿に赴いて嫦娥を強引に連れ戻そうとする。月の仙人である吳剛はこれを阻み、巨大な娑羅樹を伐り倒す試練を課す。羿がその娑羅樹が無限に再生する神樹であると悟った時、既に吳剛の仙術によって身動きが封じられていた。天帝の命により、羿の体は有窮国へ戻り、夏王朝の僭主として臣下に倒される。その魂は五千年の間、呉剛に代わって木を伐り続ける罰に就いた[90]

黑暗伝

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作中の羿は、后羿または神羿(しんげい)と呼ばれ、有窮国に降誕した。母胎に19ヶ月間いたが、生まれてすぐに話し、満1歳で空を飛び、一歩で百を越え、日月星辰を追うことができた。羿は弓矢を発明し、世界樹である扶桑の木で弓幹を作り、天柱であるの枝葉で矢羽を造った。矢の速度は流星の如くであった。の治世に、羿は大獣、大猪、大蛇、風伯、毒蜂、9羽の陽烏(異説では35羽)を退治した。日光真神(にっこうしんじん)は最後の1つの太陽を守り、陽烏たちが偽りの妖日であると説明し、羿を賞賛した[91]叙事詩の異文では、蟾蜍が龍宮で石卵を産み、神鷹が仙草の巣でその卵を孵して、万里を翔ける有翼の人を生んだという。天帝は彼に「后羿」の名を授け、天将に封じて天庭の侍女・嫦娥と結婚させた。ある日、羿が天門を開けると、全世界の水が10の太陽に干上がっていた。天弓で9つを射落とすと、神鷹の翼が天空を覆い、最後の1つの太陽を守った。羿は蟾蜍に月の上に至り、腹中の清水を注ぐよう求め、大地の水源を回復させた。以来、蟾蜍は月宮殿で夜ごとのを司るという[92])。

射日神話の変体

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漢籍においては、射日神話の異文が存在する。例えば『論衡』では羿の助力なく帝堯自らが9体の太陽を射落とし[93]、『路史』では同じく英雄神である女媧が10体の太陽を射落としたとされる[94]。また、中世日本の説話集『今昔物語集』にも、春秋時代の弓の名手・養由基が10個の太陽のうち9つを射落とした逸話が収録されている[95]

樹下射猟図(山東省済寧市微山県の画像石拓本

中華圏では、漢民族が射日神話の最古の書面記録(『楚辞』)を持ち、少数民族にも類似の口頭伝承がある。これにはリー族プーラン族チワン族ホジェン族モンゴル族ミャオ族スイ族イ族アチャン族トゥチャ族ローバ族トーロン族タイヤル族ブヌン族などが含まれる。しかし、伝説において射貫かれた天体の数には差異が見られる。例えば海南リー族神話では7つの太陽と7つの月が登場し、それぞれ6つずつ射落とされたとされ[96]台湾ブヌン族神話では2つの太陽のうち射抜かれた1つが白い月輪へと変化したと伝えられる[97]

なお、日本にも一部の射日神話の残存が見られる。岡山市の民話では天邪鬼(あまんじゃく)が7つの太陽のうち6つを射落としたとされ[98]狭山市の民話では天子が派遣した弓の名人が2つの太陽のうち1つを射抜き、落下した太陽は白い三足烏へと変化したと伝えられている[99]

脚注

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注釈

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  1. 『路史』夷羿伝「夷羿有窮氏、窮國之侯也。偃以女偃出皋陶。或云姓鬲。非也。『世紀』云、不聞其姓失之。」

出典

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  1. 梅堯臣『日蝕』「吾意髣髴料此鳥、定亦閃避離日宮。安逢后羿不乖暴、直與審愨彎強弓」銭謙益『放歌行贈櫟園道人遊武夷』「共工觸頭折天柱、后羿矯矢摧陽烏」査慎行『棗東書屋大雨聯句』「補天潛女媧、射日恣后羿」
  2. 説文解字』「羿、羽之幵风」
  3. 釈名』釈兵「矢、其旁曰羽、如鳥羽也。鳥須羽而飛、矢須羽而前也」
  4. 墨子』「古者羿作弓、伃作甲、奚仲作車、巧垂作舟」
  5. 呂氏春秋』「大橈作甲子、黔如作虜首、容成作厤、羲和作占日、尚儀作占月、后益作占歲、胡曹作衣、夷羿作弓、祝融作市、儀狄作酒、高元作室、虞姁作舟、伯益作井、赤冀作臼、乘雅作駕、寒哀作御、王冰作服牛、史皇作圖、巫彭作醫、巫咸作筮、此二十官者,聖人之所以治天下也」
  6. 『山西通志』「屯留有三嵏山。宋崇寧間賜廟額、封羿神為靈貺王、歲以六月六日、有司致祭」
  7. 梶原昭路 校注 『将門記』 平凡社東洋文庫> 1975年 227-228頁
  8. 『春秋元命苞』「日有三足烏者、陽精、其僂呼也」
  9. 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社1993年 289-296頁
  10. 袁珂『中國古代神話』中華書局、1960年、173-174頁。
  11. 『洞冥記』「三足烏數下地食此草、羲和欲馭、以手掩烏目、不聽下也。食草能不老、他鳥獸食此草則美悶不能動矣」
  12. 淮南子』「逮至堯之時、十日並出、焦禾稼、殺草木、而民無所食」
  13. 楚辞』招魂「十日代出、流金鑠石」
  14. 山海経』広注 巻十八「帝夋賜羿彤弓素矰」郭璞云:「彤弓、朱弓。矰、矢名、以白羽羽之。外伝:『白羽之矰、望之如荼』也」
  15. 松村武雄 編 『中国神話伝説集』 社会思想社現代教養文庫> 1976年 15頁
  16. 袁珂『中国神話通論』巴蜀書社、1993年、224-225頁。
  17. 1 2 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 298-302頁
  18. 淮南子』「堯乃使羿誅鑿齒於疇華之野、殺九嬰於凶水之上、繳大風於青丘之澤、上射十日而下殺猰貐、斷修蛇於洞庭、禽封豨於桑林」
  19. 『路史』疏仡紀「帝於是擇兵稱旅、屠長蛇於洞庭、射十日、繳大風於青丘、殺窫窳、禽封豕於桑林、殊鑿齒於疇華之野、戮九嬰於凶水之上、而後萬民復生」
  20. 淮南子』高誘注「九嬰、水火之怪、為人害、北狄之地有凶水」
  21. 山海経』海外西経 吳任臣注「扶桑后君生十子、皆以日名、号十日。而九日為凶、号九嬰、分扶桑之國為十」
  22. 袁珂、周明 編『中国神話資料萃編』四川省社會科學出版社、1985年、211頁。
  23. 袁珂『中国古代神話』中華書局、1960年、180-181頁。
  24. 淮南子』高誘注「河伯溺殺人、羿射其左目。風伯壞人屋室、羿射中其膝」
  25. 楚辞』天問 王逸注「河伯化為白龍、遊於水旁、羿見射之、眇其左目。河伯上訴天帝、曰:為我殺羿。天帝曰:爾何故得見射?河伯曰:我時化為白龍出遊。天帝曰:使汝深守神靈、羿何從得犯?汝今為蟲獸、當為人所射、固其宜也。羿何罪歟?」
  26. 巴陵山 - 『中國古今地名大辭典』データベース:睡人亭 (2013年12月31日). 2025年10月26日閲覧。
  27. 《說郛》卷三十一「羿獵於巴山、獲一兔、大如驢、異之、置柙中。中途失去、柙掩如故。羿夜夢一人、冠服如王者、謂羿曰:我鵷扶君、為此土之神、而何辱我?我將假手於逢蒙」
  28. 楚辞』天問「馮珧利決、封豨是射、何獻蒸肉之膏而后帝不若?」王逸云:「封稀、神獸也。言羿不修道德、而挾弓射韝、獵捕神獸、以快其情也。后帝、天帝也。若、順也。言羿獵射封豨、以其肉膏祭天帝、天帝猶不順羿之所為也」
  29. 山海経』大荒西経「西海之南、流沙之濱、赤水之後、黑水之前、有大山、名曰昆侖之丘。有神、人面虎身、有文有尾、皆白、處之。其下有弱水之淵環之、其外有炎火之山、投物輒然」
  30. 山海経』海內西経「海內昆侖之墟、在西北、帝之下都。昆侖之墟、方八百里、高萬仞。上有木禾、長五尋、大五圍。面有九井、以玉為檻。面有九門、門有開明獸守之、百神之所在。非仁羿莫能上岗之岩」
  31. 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 314-320頁
  32. 松村武雄 編 『中国神話伝説集』 社会思想社<現代教養文庫> 1976年 17頁
  33. 『說郛』引『三餘帖』「嫦娥奔月之後、羿晝夜思惟成疾。正月十四夜忽有童子詣宮、曰:臣、夫人之使也。夫人知君懷思、無從得降、明日乃月圓之候、君宜用米粉作丸、團團如月、置室西北方,叫夫人之名、三夕可降耳。如期果降、復為夫婦如初」
  34. 孟子』「逢蒙殺羿、羿也有過」
  35. 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 322-325頁
  36. 淮南子』「王子慶忌死於劍、羿死於桃棓、子路菹於衛、蘇秦死於口。人莫不貴其所有、而賤其所短、然而皆溺其所貴、而極其所賤」
  37. 春秋左氏伝』「其出之也、桃弧棘矢、以除其災」
  38. 淮南子』許慎注「棓、大杖、以桃木為之、以擊殺羿、由是以來鬼畏桃」
  39. 袁珂『中国古代神話』中華書局、1960年、205-206頁。
  40. 3325汉字网. 宗布的意思 (中国語). 3325汉字网. 2025年10月2日閲覧。
  41. https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=211928&searchu=%E5%AF%99 (中国語). ctext.org. 2025年10月2日閲覧。
  42. 周礼』鄭玄注「禜謂雩禜、水旱之神、酺者為人物災害之神也」
  43. 1 2 顧頡剛 等 編『古史辨 第七册』海南出版社、2005年、622-625頁。
  44. 淮南子』「故炎帝於火、死而為竃。禹勞天下、死為社。后稷作稼穡、而死為稷。羿除天下之害、死而為宗布。此鬼神之所以立」
  45. 『易林』「羿張烏号、彀射天狼。鐘鼓不鳴、將軍振旅。趙國雄勇。鬭死滎陽」
  46. 楚辞』九歌・東君「青雲衣兮白霓裳、舉長矢兮射天狼」
  47. 市村瓚次郎 『東洋史統』1巻 冨山房 1940年 50頁
  48. 内藤虎次郎 『支那上古史』 弘文堂書籍 1944年 66-67頁
  49. 李玉潔『中国早期国家性质』(河南大學出版社、1999年10月)
  50. 『路史』夷羿伝「左臂脩而善射、五嵗得法于山中」引『括地象』「羿五嵗、父母與之入山、處之木下、以待蟬鳴。還欲取之、而羣蝉俱鳴、遂捐而去。羿為山間所飬」
  51. 『路史』夷羿伝 引『括地象』「年二十、習于弓矢、仰天嘆曰:我將射四方、矢至吾門止。因捍即射、矢靡地截草、徑至羿之門。乃隨矢去」
  52. 『路史』夷羿伝「太康之立、滔滛亡度、娛以自縱、民興胥亂。迷畋有洛之表、十旬不反」
  53. 錢穆『史記地名考』(商務印書館、2001年7月)
  54. 春秋左氏伝』「有夏之方衰也、后羿自鉏遷於窮石、因夏民以代夏政」
  55. 春秋左氏伝』「在帝夷羿、冒于原獸、忘其國恤、而思其麀牡、武不可重、用不恢於夏家」
  56. 尚書正義』五子之歌「羿猶立仲康、不自立也」
  57. 尚書正義』胤征「仲康不能殺羿、必是羿握其權、知仲康之立、是羿立之矣、故云羿廢太康、而立其弟仲康為天子」
  58. 竹書紀年』「帝仲康五年秋、九月庚戌朔、日有食之。命胤侯帥師征羲和」
  59. 尚書』「惟仲康肇位四海。胤侯命掌六師。羲和廢厥職、酒荒于厥邑。胤后承王命徂征」
  60. 新田元規 (2015). “蘇軾の「吉服即位非礼」説とその周辺 ―― 『尚書』顧命篇の解釈と即位儀礼をめぐって”. 人間社会文化研究 (徳島大学総合科学部) 23: 1-29.
  61. 春秋左氏伝昭公二十八年「昔有仍氏生女、黰黒而甚美、光可以鑑。名曰玄妻。楽正后夔取之、生伯封。実有豕心、貪惏無饜、忿纇無期、謂之封豕。有窮后羿滅之、夔是以不祀」
  62. 楚辞』天問「浞娶純狐、眩妻爰謀、何羿之射革、而交呑揆之」
  63. 帝王世紀』「寒浞殺羿於桃梧、而烹之以食其子。其子不忍食之、死於窮門。浞遂代夏、立為帝」
  64. 春秋左氏伝』「羿猶不悛、將歸自田、家眾殺而烹之、以食其子、其子不忍食諸、死于窮門」
  65. 楚辞』離騷「羿淫遊以佚田兮、又好射夫封狐。固亂流其鮮終兮、浞又貪夫厥家」 王逸注「浞行媚於內、施賂於外、樹之詐慝、而專其權勢。羿田將歸、使家臣眾逄蒙射而殺之」
  66. 淮南子』高誘注「此堯時羿、非有窮后羿」
  67. 山海経』広注 郭璞云:「有窮后羿慕羿射、故號此名也」
  68. 春秋左伝正義』孔穎達注「羿是善射之號、非複人之名字」
  69. 袁珂『中国古代神話』中華書局、1960年、186頁。
  70. 顧頡剛 等 編『古史辨 第七册』海南出版社、2005年、619頁。
  71. 顧頡剛 等 編『古史辨 第七册』海南出版社、2005年、620頁。
  72. 顧頡剛 等 編『古史辨 第七册』海南出版社、2005年、621頁。
  73. 『說文解字』「羿、帝嚳射官」
  74. 『随巢子』「幽厲之時、奚祿山壞、天賜玉玦於羿、遂以殘其身、以此為福而禍」
  75. 帝王世紀』「帝羿有窮氏、未聞其先何姓。帝嚳以上、世掌射正。至嚳、賜以彤弓素矢、封之於鉏、為帝司射、歷虞、夏」
  76. 楚辞』天問「帝降夷羿、革孽夏民。胡射夫河伯、而妻彼雒嬪?」
  77. 玄珠『中国神話研究ABC下』世界書局、1929年、88頁。
  78. アンリ・マスペロ『書経中的神話』商務印書館、1939年、20頁。
  79. 尹榮方『中国神話求原』江蘇鳳凰文藝出版社、2025年、71-90頁。
  80. 袁行霈 銭宗武 編『尚書』国家図書館出版社、2017年、124-125頁。
  81. 西遊記』第七十二回「盤絲洞七情迷本 濯垢泉八戒忘形」
  82. 『開闢演義』第三十八回「堯帝命羿射九日」
  83. 『開闢演義』第三十九回「羿繳大風除獸害」
  84. 『開闢演義』第四十回「平羿夫妻入月宮」
  85. 『夏商野史』第六回「五子興歌怨太康 嫦娥竊藥奔月宮」
  86. 『夏商野史』第七回「仲康振策御奸黨 胤侯率兵擒羲和」
  87. 『夏商野史』第八回「有窮羿兵擊九夷 羿同蒙促謀有夏」
  88. 1 2 3 4 『七十二朝人物演義』第十三卷「羿善射」
  89. 『八仙全伝』第四十九回「紫霞洞中仙師談因果 娑婆樹下雄王變匠人」
  90. 『八仙全伝』第五十回「懲暴君月中鋸巨木 憐故主靈府即情關」
  91. 神農架林區非物質文化遺產保護中心 編『黑暗伝』湖北人民出版社、2014年、176-177頁。
  92. 神農架林區非物質文化遺產保護中心 編『黑暗伝』湖北人民出版社、2014年、177-178頁。
  93. 論衡』「儒者傳書言:堯之時、十日並出、萬物焦枯。堯上射十日、九日去、一日常出」
  94. 『路史』注引『尹子·盤古篇』「女媧補天、射十日」
  95. 今昔物語集』巻第十 第十六話「養由天現十日時射落九日語」
  96. 萬梓豪、曾梓維 (2005). “中外射日英雄神話淺論”. 神話與文學論文選輯 2004-2005 (嶺南大學): 54-61.
  97. 李福清『神話與鬼話∶台灣原住民神話故事比較研究』社會科學文獻出版社、2001年、119-156頁。
  98. 土井卓治 (1980). “郷土研究の思い出”. 岡山民俗 (岡山民俗学会) (36): 6-7.
  99. 射留魔地名伝説”. www.city.sayama.saitama.jp. 2025年11月8日閲覧。

関連項目

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  • 嫦娥
  • 玄妻
  • 相 (夏)
  • 少康 (夏)
  • グミヤー
  • 貔貅
  • 天狗 (中国) - 月と太陽を食べて日食と月食を起こす、9つの太陽を撃ち落とした羿の飼ってた猟犬。嫦娥の残した薬を舐めて巨大化・狂暴化し嫦娥を追いかけて天に上った。日食と月食を止めさせるため地上では爆竹や銅鑼や太鼓を打ち鳴らすこととしている。