嚳

嚳(こく)は、上古中国神話上の帝王。名は夋・[夒-巳]。辛に封じられ、高辛氏と称したと言われている。五帝の一人で、顓頊(せんぎょく)の後を継いで、帝位に就いた。摯・堯・后稷・契の父。
『史記』「五帝本紀』によれば、嚳の父は蟜極である。蟜極の父は、黄帝の子である玄囂(少昊)なので、嚳は黄帝の曾孫となる。また、嚳が生まれながらにして自分の名を言うことができ、聡明であったと記す。また嚳の徳の高さと世がよく治まった様子を様々な言葉で称える。娵訾氏の娘の常宜をめとって子に摯をもうけ、陳鋒氏の娘の慶都をめとって放勲(堯)をもうけた。彼らは嚳の死後に順に立って帝になった[1]。
『三国史記』高句麗本紀第六や『三国史記』百済本紀[2]第六によると、高句麗王たちは、中国黄帝の孫である高陽氏、中国黄帝の曾孫である高辛氏の子孫を称していた[3][4][5][6][7]。
脚注[編集]
- ^ 『史記』「五帝本紀第一」、新釈漢文大系『史記』一の35-37頁。
- ^ 百済本記とは異なる。
- ^ 金光林 (2014年). “A Comparison of the Korean and Japanese Approaches to Foreign Family Names” (英語) (PDF). Journal of cultural interaction in East Asia (東アジア文化交渉学会): p. 30. オリジナルの2016年3月27日時点におけるアーカイブ。
- ^ “三國史記 卷第二十八 百濟本紀 第六”. 国史編纂委員会. オリジナルの2017年9月6日時点におけるアーカイブ。
- ^ “三國史記 卷第十八 髙句麗本紀 第六”. 国史編纂委員会. オリジナルの2017年9月6日時点におけるアーカイブ。
- ^ “의자왕 義慈王”. 韓国人文古典研究所. オリジナルの2021年8月29日時点におけるアーカイブ。
- ^ “광개토왕 廣開土王”. 韓国人文古典研究所. オリジナルの2021年8月29日時点におけるアーカイブ。
参考文献[編集]
- 吉田賢抗『史記』一(本紀)(新釈漢文大系)、明治書院、1973年。
関連項目[編集]
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