藤懸静也

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藤懸 静也(ふじかけ しずや、1881年2月25日[1] - 1958年8月5日)は、日本美術史学者、東京帝国大学教授。

来歴[編集]

茨城県古河市に生まれる[1]。号は獅埼庵、獅子庵[要出典]。生家は旧古河藩国家老[要出典]鷹見泉石は母方の曾祖父である[要出典]

第一高等学校を経て[1]、1910年東京帝国大学文科大学史学科国史科を卒業[1]。1914年以降は同大学文学部副手となり[1]、1917年國學院大學教授となる[1]。1924年には史料編纂掛を嘱託された[1]。1927年帝室博物館学芸委員を兼ね[1]、同年より命じられて欧米各国の博物館調査に趣き[1]浮世絵を収集する[要出典]インドに寄って美術研究にも携わった後[要出典]、1928年に帰国して文部省国宝鑑査官となる[1]。1929年に東京帝大講師に就任し[要出典]、1934年文学博士号を授与されて教授に昇進[1]。1941年まで美術史を講じた[1]。 この間、1936年には『国体の本義』編纂委員(芸術担当)を務めている[2]。 1945年に国華社主幹[1]、1950年に文化財審議会専門委員となる[1]

美術史アカデミズムでは、浮世絵研究者が帝大教授になったのは異例のことだったが、岩佐又兵衛が浮世絵の祖であるという説を笹川臨風とともに否定し、のち辻惟雄によって覆されることになる[要出典][独自研究?]

東大門下の美術史家に、吉川逸治(東京大学教授)、吉澤忠(東京藝術大学教授)、石塚太喜治(国立北京芸術専科学校教授・洋画家)らがおり、吉川は国華の編輯委員を継承した[要出典]

美術史研究の他にも、郷土である古河の歴史研究および史蹟保存にも尽力した。1908年明治41年)には『郷土史教授資料』[注釈 1]を著している。また、古河で没した熊沢蕃山の記念祭、天狗党の乱の際に古河で処刑された水戸志士慰霊祭などの行事も開催し、幅広く郷土の文化活動に貢献した[3]

著編[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 古河市史編さん委員会(編)『古河市史資料別巻』 古河市、1973年 にも収められている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 藤懸静也 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 独立行政法人 国立文化財機構 東京文化財研究所. 2022年7月14日閲覧。
  2. ^ 「国体の本義」編纂委員決まる『大阪毎日新聞』昭和11年6月2日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p712 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  3. ^ 古河市史編さん委員会(編)『古河市史 通史編』 古河市、1988年、669-670頁(藤懸静也)

関連項目[編集]