白団

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白団(ぱいだん)は、中華民国総統蒋介石の要請により台湾国軍を秘密裏に支援した旧日本軍将校を中心とする軍事顧問団

1949年から1969年までの間、団長富田直亮(陸軍少将、中国名:白鴻亮)以下83名にのぼる団員が活動した。

背景[編集]

第二次世界大戦および日中戦争後、中国では共産党軍国民党軍との対立が再燃した。内戦を避けるために様々な交渉が両者の間に行われたが、再び国共内戦がはじまる。

中国国民の反米感情と内戦忌避の感情を巧みに味方につけた共産党軍はソ連からの軍事援助も受ける一方、蒋介石率いる国民党軍は、アメリカからの支援もなくなったことで徐々に劣勢に追い込まれた。1948年9月から1949年1月にかけての「三大戦役」で、共産党軍は決定的に勝利し、北京南京上海などの主要都市を占領、1949年10月1日に共産党による中華人民共和国が成立した。

一方、人民解放軍に対してまともに対抗できないほど弱体化した中華民国政府と蒋介石は台湾への撤退を決定し、残存する中華民国軍の兵力や国家・個人の財産など国家の存亡をかけて台湾に運び出し、1949年12月に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都とした。

中華人民共和国政府は当初台湾への軍事的侵攻も検討していたが、1950年に勃発した朝鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなった為、人民解放軍による軍事行動は一時的に停止した。

1954年9月、中国人民解放軍は金門島の中華民国国軍に対し砲撃を行い、翌1955年1月には、一江山島を攻撃、占領した。2月8日から2月11日にかけてアメリカ海軍護衛のもと大陳島撤退作戦が実施され、中華民国国軍は浙江省大陳島の拠点を放棄した。

1958年8月には中国人民解放軍は台湾の金門守備隊に対し砲撃を開始した(金門砲戦を参照)。台湾側は9月11日に中国との空中戦に勝利し、廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。アメリカは台湾の支持を表明、アイゼンハワー大統領は「中国はまぎれもなく台湾侵略」を企図しているものと台湾国民政府に軍事援助を開始。台湾は金門地区の防衛に成功する。10月6日には中国が「人道的配慮」から金門・馬祖島の封鎖を解除し、一週間の一方的休戦を宣言、アメリカとの全面戦争を避けた。

なお翌1959年9月には、日本の元総理大臣である石橋湛山が私人として中華人民共和国を訪問、周恩来首相との会談を行い、冷戦構造を打ち破る日中米ソ平和同盟を主張。周はこの提案に同意し、台湾(中華民国)に武力行使をしないと約束した(石橋・周共同声明)。

1962年大躍進政策に失敗し国力を疲弊させた中華人民共和国に対し、蒋介石は大陸反攻の好機と捉え攻撃の計画(国光計画)に着手したが[1][2]、全面戦争に発展することを恐れたアメリカは国光計画に反対を表明、実際に軍事行動に発展することはなかった[3]。その後は1965年に発生した偶発的な東引海戦東山海戦海戦を除き両岸間での戦闘は発生していないが[4]、緊張は続いている。

白団は1969年まで指導を行っていた。

教育[編集]

円山軍官訓練団(1950年 - 1952年)[編集]

普通班
普通班は、白団が最初に担当した教育課程である。全10期開講され、少尉から少佐までの総勢4071名の学生が修業した。教育内容は歩兵操典をもとにした各個教練、戦術、通信、情報、戦史および反共精神等の徹底化であった。
高級班
高級班は、大佐以上の者で主に黄埔軍官学校中央軍官学校出身者を対象とした教育課程である。教育内容は軍戦術を中心に戦術原則、図上戦術、兵棋、情報通信、戦史、高等司令部演習および後勤教育等が実施された。全3期開講され総勢640名の学生が修業した。

石牌実践学社(1952年 - 1965年)[編集]

アメリカ軍の正規軍事顧問団派遣にともない円山から石牌に移転して実施された、高級幕僚教育。当時の国府軍の中には“石牌実践学社出身でなければ、師団長以上に昇進できない”という不文律まであった。

陸軍指揮参謀大学(1965年 - 1968年)[編集]

白団団員帰国に際し、台湾へ残留することとなった5名によって、指揮参謀大学における教育訓練の見直しが図られた。

関係者[編集]

募兵[編集]

主要団員[編集]

その他[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 中村祐悦『新版 白団 - 台湾軍をつくった日本軍将校たち』芙蓉選書ピクシス、芙蓉書房出版、2006年。 ISBN 978-4829503836
  • 阿尾博政『自衛隊秘密諜報機関 ―青桐の戦士と呼ばれて』講談社、2009年。 ISBN 978-4062154635

外部リンク[編集]