澄田らい四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
本来の表記は「澄田賚四郎」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
澄田賚𧶛四郎
生誕 1890年10月21日
日本の旗 日本 愛媛県
死没 (1979-11-02) 1979年11月2日(満89歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1912 - 1949
最終階級 陸軍中将
テンプレートを表示

澄田𧶛賚四郎(すみた らいしろう、1890年10月21日 - 1979年11月2日)は、日本陸軍軍人陸士24期陸大33期。最終階級は陸軍中将。※らい四郎の「らい」は「貝」偏に「來」をつけた文字。

経歴[編集]

本籍愛媛県。澄田忠興陸軍中佐の四男として名古屋で生れる。広島陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月28日、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月砲兵少尉に任官し重砲兵第4連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、澎湖島重砲兵大隊付、陸軍重砲兵射撃学校教官などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(第33期)を首席で卒業した。

由良重砲兵連隊中隊長、陸軍省軍務局付勤務(砲兵課)、軍務局課員、フランス駐在などを経て、1925年(大正14年)から3年間、フランス陸軍大学校で学んだ。フランス滞在中には、フランスに留学していた甘粕正彦とも親交があった。

帰国後、陸大教官、参謀本部員、兼軍令部参謀、フランス大使館付武官、陸大教官、参謀本部課長、野砲兵第3連隊長、砲兵監部員、独立重砲兵第15連隊長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級した。

野戦重砲兵第6旅団長、陸軍重砲兵学校長、大本営参謀(仏印派遣団長)などを経て、1940年(昭和15年)の北部仏印進駐にあたってハノイに出発する際、陸相であった東條英機から「悪くなっている仏印側の対日感情を和らげること。フランス側には平和進駐であることを徹底せしめよ」と訓辞を受けている[1]1941年(昭和16年)7月、南部仏印進駐に際しても現地で折衝にあたる。翌8月、陸軍中将となった。同年9月、第39師団長に親補され、宜昌の警備に従事し、中国軍の攻撃を防いだ。1944年(昭和19年)11月、第1軍司令官に発令され、太原で終戦を迎え、1949年(昭和24年)2月に復員した。

なお、この終戦時、第一軍のうち2600名の将兵は大陸に残留し、中国国民党系の閻錫山の軍隊に編入して、その後、3年半以上にわたって中国内戦を戦うことになったが、この残留は澄田司令官と閻錫山との密約に基づくものであり、澄田は残留日本兵を売って帰国したのだという見方をする人は少なくない[2]支那総軍作戦主任参謀(当時)の宮崎舜市は、澄田によるその残留命令書を見たと後に証言している[3]

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 太田尚樹 『東条英機と阿片の闇』 角川ソフィア文庫 ISBN 978-4044058050、141p
  2. ^ 池谷薫 『蟻の兵隊 日本兵2600人 山西省残留の真相』 新潮文庫、2007年。ISBN 978-4101329611
  3. ^ 池谷薫監督『蟻の兵隊』(2006)の中の宮崎舜市による証言映像
  4. ^ 『官報』1930年11月6日 敍任及辭令

親族[編集]

  • 妻 澄田シズエ 松井貫一の娘
  • 長男 澄田智日本銀行総裁
  • 次男 澄田仁
  • 三男 澄田勇(早世)
  • 兄 澄田建三(陸軍中佐)

著書[編集]

  • 自伝『私のあしあと』私家版、1980年。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。