人種的差別撤廃提案

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国際連盟委員会。前列左から珍田捨巳日本駐英大使)、牧野伸顕(日本元外相)、レオン・ブルジョワフランス元首相)、ロバート・セシルイギリス元封鎖相)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランドイタリア王国首相)、 エピタシオ・ペソア英語版ブラジル上院議員、後に大統領)、エレフテリオス・ヴェニゼロスギリシャ王国首相)。後列にはエドワード・ハウス英語版(アメリカ、左から3人目)、ロマン・ドモフスキ英語版ポーランド、左から5人目)、ヤン・スマッツ南アフリカ連邦国防相、左から8人目)、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領、左から9人目)、カレル・クラマーシュチェコスロバキア首相、左から10人目)、顧維鈞中華民国駐米公使、左から12人目)、など

人種的差別撤廃提案(じんしゅてきさべつてっぱいていあん Racial Equality Proposal)とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議国際連盟委員会において、大日本帝国が主張した、人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。イギリス帝国の自治領であったオーストラリアアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定で否決された。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。

提案策定[編集]

日本政府内において誰がいつ最初に人種差別撤廃に関する提案を行ったかは現在も明らかになっていない[1]。その背景の一つが当時アメリカ合衆国カナダ等で問題となった日系移民排斥問題がある。外務次官幣原喜重郎は人種差別撤廃提案により排日問題解決のきっかけを作ろうとしていた[2]。また、外交調査会伊東巳代治に代表される、国際連盟で多数を占めるであろう「『アングロ・サクソン』人種」の国が人種的偏見により「帝国の発展」を阻害する動きに出るという危惧もあった[3]

1918年(大正7年)11月13日の外交調査会において内田康哉外相が講和会議に対する外務省意見案を発表したが、その中の国際連盟問題の項目において「人種的偏見の除去」が講和後設立される国際連盟参加の条件であると述べている[4]。この意見案は大筋で外交調査会に承認され、日本全権の正式な方針となった。全権のひとり牧野伸顕元外相は人種差別撤廃提案の実現よりも、連盟設立に際して諸外国に積極的に協力するべきと考えていたが、この意見には伊東が強く反発した[5]

提案内示と講和会議[編集]

牧野伸顕

1919年(大正8年)1月14日、パリに到着した日本全権団は人種差別撤廃提案成立のため、各国と交渉を開始した。1月26日に珍田捨巳駐英大使はアメリカのロバート・ランシング国務長官と面会し、ランシングが提案に肯定的であるという印象を得た。2月4日にはウィルソンの友人であるエドワード・ハウス英語版名誉大佐に、連盟規約に挿入するべき文章として、「甲案」と「乙案」の二つの案を内示した。ハウスはこのうち乙案に賛意を示し、ウィルソンも賛成するであろうと述べた。翌日ハウスとウィルソンが会談し、日本側に人種差別撤廃提案を連盟規約に挿入することを大統領提案として提出するつもりであると伝達した[6]。「最大の障害」であると見られていたアメリカとの調整が成功し、日本側は提案成立に大きな自信を得た。

ところが、三大国の一つであるイギリスとの交渉は難航した。イギリス帝国内の自治領であるオーストラリアカナダがこの提案に強く反対しており、日本が直接交渉を行っても妥協は成立しなかった。オーストラリアは白豪主義体制を国是としていただけでなく、労働問題が目下の課題となっていた。さらに選挙が目前に迫っていたこともあり、この提案は受け入れがたいものであった[7]。イギリス全権のロバート・セシル元封鎖相、アーサー・バルフォア外相は個人的には日本の立場に賛成するとしたものの、問題が重大であり、人種差別撤廃という問題を連盟規約で扱うのは妥当ではないと回答した[8]バルフォアは説得に訪れたハウスに対して、「ある特定の国において、人々の平等というのはありえるが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と述べている[9]

講和会議において日本代表は自国の利害が絡む山東問題・南洋諸島問題以外ではほとんど積極的な発言を行わず、「サイレント・パートナー」と揶揄された。ウィルソン大統領の悲願であった国際連盟設立に関しても、内田康哉外相が「本件具体的案ノ議定ハ成ルヘク之ヲ延期セシメルニ努メ」ると言ったように消極的態度に終始し、各国の失望を買った[10]。特に1月22日の五大国会議で牧野が連盟設立に関して意見を留保したことはウィルソンやデビッド・ロイド・ジョージイギリス首相の不興を買った[11]。提案の採択は極めて難しいと見られていたが、日本側は「正否はともかく、この際本問題に関する我主張を鮮明することは将来のため極めて緊要」という判断から、提案を行うことになった[8]

最初の提案[編集]

2月13日、国際連盟委員会において、牧野は連盟規約二十一条の「宗教に関する規定」に「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速に連盟員たる国家に於る一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を最後に追加するよう提案した[8]。牧野は人種・宗教の怨恨が戦争の原因となっており、恒久平和の実現のためにはこの提案が必要であると訴えた。また、この提案によって即座に各国における人種差別政策撤廃が行われるわけではなく、その運用は国家の為政者の手にまかされると述べた[12]。牧野の提案は、「黄色人種に対する人種的偏見のために、日本が不利に陥ることのないようにせよ」とする本国からの訓令を解釈したものであった。

ベルギー代表は日本案の条文に反対し、ブラジルルーマニアチェコスロバキアの代表が日本の主張に理解を示す発言を行い、中華民国代表は本国の訓令を待つとして意見を保留した[13]。その後「宗教に関する規定」そのものを削除するべきという意見が多数となった結果、二十一条自体が削除された。牧野は人種差別撤廃提案自体は後日の会議で提案すると述べ、次の機会を待つこととなった。

この提案は日本を含んだ海外でも報道され、様々な反響を呼ぶことになる。牧野は西洋列強の圧力に苦しんでいたリベリア人[14]やアイルランド人[15]などから人種的差別撤廃提案に感謝の言葉を受けた[16]。また米国内からも、全米黒人地位向上協会(NAACP)が感謝のコメントを発表した[17]。また代表団の中でもハウスは好意的であり、デビッド・ミラー英語版に実際に人種平等条項を起草するよう指示している。しかしミラーはこの条項が原則の提示にすぎず、法的効果を持たないため無意味な条項であると指摘している[18]

2月14日アメリカに一時帰国したウィルソンは、「人種差別撤廃提案」が国内法の改正に言及しており、内政干渉に当たるという国内の強い批判に直面することとなった。アメリカ合衆国上院では「人種差別撤廃提案」が採択された際には、アメリカは国際連盟に参加しないという決議が行われており、ウィルソンもこの反対を抑えることはできなかった[19]。 3月14日、牧野はオーストラリアのビリー・ヒューズ首相と会談したが、ヒューズ首相は国内事情から賛成できないと述べ、その後のイギリス帝国各国代表を交えた会議でも強硬に反対した[20]。イギリス・ニュージーランド・カナダは牧野の説得で賛成に傾きつつあったが、ヒューズの強硬な態度はこれらの国も反対に回帰させていった[21]

日本政府も提案の成立が困難であると見るようになり、最悪の場合は議事録に記録することで日本の立場を明らかにするように訓令を行った[22]。外交調査会の伊東や犬養毅は提案が実現しなければ最悪国際連盟不参加を決めるべきと強硬であった[23]

二回目の提案[編集]

議長を務めたウッドロウ・ウィルソンアメリカ大統領

4月11日夜の国際連盟委員会最終会合において、牧野は連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文言を盛り込むという修正案を提案した。イギリスのセシル元封鎖相は「このような文句の挿入は全く無意味であり、意味があるとするなら、重大な反対をしなければならない。(中略)この問題は国際連盟成立後の活動に待つべきである。日本は現時点において五大国のひとつである事実をみれば、待遇の優劣は国際連盟においては問題にならない。」と反対した[24]。日本は「修正案はあくまで理念をうたうものであって、その国の内政における法律的規制を求めるものではないにも関わらず、これを拒否しようというのは、イギリスが他の国を平等と見ていない証拠である」とし、修正案の採決を求めた。その後イタリア、フランス、ギリシャ中華民国ポーランド等の各代表が賛否を述べ、討議が行われた。

議長であったウィルソンは「この問題は平静に取り扱うべきであり、総会で論議することは避けられない」と述べ、提案そのものを取り下げるよう勧告したが、牧野は採決を要求した。議長ウィルソンを除く出席者16名が投票を行い、フランス代表・イタリア代表各2名、ギリシャ・中華民国・ポルトガル・チェコスロバキア・セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア王国)の各一名、計11名の委員が賛成、イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対した[25]

しかしウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言した[26][27]。牧野は「会議の問題においては多数決で決定されたことがあった」と反発したが、ウィルソンは「本件のような重大な問題についてはこれまでも全会一致、少なくとも反対者ゼロの状態で採決されてきた」と回答し、牧野もこれに同意した[28]。牧野は「日本はその主張の正常なるを信ずるが故に、機会あるが毎に本問題を提議せざるを得ない。また今晩の自分の陳述および賛否の数は議事録に記載してもらいたい」と述べ、ウィルソンも応諾した[28][29]。またフランス代表フェルディナンド・ラルノード(Ferdinand Larnaude)もこの採決方式を批判している[30]

4月28日の連盟国総会議において牧野は人種問題の「留保」について演説を行い、人種問題に関する日本政府の立場を説明した[28]。成立は困難であると見られたため、総会での提案は行われなかった[31]。これにより、日本は人種差別撤廃に関する提案を一時断念することとなった。

投票の内訳[編集]

賛否数は4月15日に接受された、全権松井慶四郎大使から内田外相への報告電報[25]による[32]

賛成[編集]

総計11票

反対または保留[編集]

総計5票

反響[編集]

提案の否決によって新聞世論や政治団体は憤激し、国際連盟加入を見合わせるべきという強硬論も強まった。外交調査会でも伊東、犬養、内田外相、田中義一が牧野を軟弱と批判したが、提案達成が元から困難と見ており、提案達成より米英との協調を図るべきと考えた原敬首相は牧野を擁護した[33]。一方で石橋湛山は日本国民自らが中国人を差別していることを思い起こすべきと主張し、吉野作造も日本が中国人移民を認めるだろうかという問いかけを行った[34]

1924年にはアメリカでいわゆる排日移民法が成立し、日系移民が全面禁止されると、日本国民の対米感情の悪化は決定的なものとなった。これに加えて、1929年世界恐慌が始まると、植民地が少ない日本は、第一次世界大戦後に植民地を喪失し、フランス政府による報復的なヴェルサイユ体制に反感を持つドイツ(明治維新以来、日本が模範とした国家でもある)への親近感を強め、植民地大国であるイギリスフランスへの反感を強めた。これら一連の流れは、その後の太平洋戦争大東亜戦争)への呼び水となり、昭和天皇も独白録のなかで大東亜戦争の遠因となったことを明らかにしている[35]

日本全権団への批判と反論[編集]

日本とアメリカはドイツが持っていた山東半島の権益継承を巡って対立していたが、4月28日ウィルソンが日本の主張を支持し、日本に利権が継承された。これを本提案を取り下げる譲歩への見返りであったとする批判がなされ、日本が提案を行ったのも取引材料であると批判された[36]

これに対し日本全権団は、「人種平等条項の運命が決まったのは4月11日の会議のことであり、山東問題が米・英・仏・伊の四巨頭会議で考慮されたのはそれよりもずっとあとのことだった。委員会が平等原則を支持しないことになったにもかかわらず、日本側は山東半島に関して最終決定がなされる2日前に国際連盟支持を公表していた。日本全権団の考えではこの2つの問題の論点の正しさはきわめて明白だったので、両者を結びつけるといった戦術を考慮する必要はなかった」と反論した[37]

各国の反応[編集]

  • 日本は欧米の白人至上主義と不平等条約に長年悩まされてきた経験から、「人種差別撤廃」という理想の実現と同時に、アメリカでのアジア系移民に対する差別問題を解決したいという考えもあった。当時のアメリカではアジア系移民排斥運動が激しさを増しており、中国系・日系移民に対する移民制限や永住権剥奪・財産没収などの不公平な法律がまかり通っていた。この時、ホームステッド法で分与する土地が無くなっていたことで、米国は定員オーバーが近づいているという意見もあった。この提案は国内のみならずアメリカの黒人層、インド、東南アジアなど植民地の被支配層からも高い注目を集めた。しかし、この提案を根拠に移民政策が拘束されるという懸念があった。賛成国がどちらかというと移民を送り出す側で、反対した国が、移民を受け入れる側の国であることには注目すべきである。
  • 本提案は当時としては画期的だったが、差別が常態化していた欧米諸国からすればかなり急進的な内容であった。そのため修正案では規約条文から拘束力のない前文に移し、国と人種で差別されないことを「国家平等の原則」と「国民の公正な処遇」との文言に置き換えて、各国の感情に配慮しつつ識見に訴えるという形を取らざるを得なかった(最初から前文に入れるつもりだったのだが本省と現地で齟齬があったという説もある(歴史評論家、別宮暖朗の説))。もっとも、当時の白人社会での差別とはあくまで白人・準白人内での民族差別のことであり、黄色人種・黒人への差別はその埒外とされ、フランスのように人種=宗教の違いという解釈の国もあった。また提案国の日本自身も統治下の朝鮮人や台湾人、アイヌなどへの差別が常態化していたため、仮に可決されたとしてもいかようにも解釈できる上記文言が実効力を持ちえたかどうかについては意見が分かれている。
  • ブラジル代表団長エピタシオ・ペソア英語版上院議員は大統領選挙出馬を控えており、ブラジル代表が人種差別提案に反対したのはペソアがアメリカに接近するためであるという攻撃が対立陣営からなされた。これに対しペソアら政府側は、ブラジル代表は2月13日の提案でも提案に賛成しており[38]、提案が流れたのは米英の反対であると説明している[13]

人種暴動[編集]

赤い夏リンチして焼き殺したアフリカ系アメリカ人ウィル・ブラウンを囲んで記念撮影する白人

脚注[編集]

  1. ^ 永田幸久 2003, pp. 194.
  2. ^ 永田幸久 2003, pp. 201.
  3. ^ 永田幸久 2003, pp. 201-202.
  4. ^ 永田幸久 2003, pp. 193-194.
  5. ^ 永田幸久 2003, pp. 197.
  6. ^ 永田幸久 2003, pp. 204.
  7. ^ 永田幸久 2003, pp. 204-205.
  8. ^ a b c 永田幸久 2003, pp. 205.
  9. ^ 篠原初枝 2010, pp. 67.
  10. ^ 永田幸久 2003, pp. 198-199.
  11. ^ 永田幸久 2003, pp. 200.
  12. ^ 永田幸久 2003, pp. 206.
  13. ^ a b 巴里講和会議ニ於ケル人種差別撤廃問題一件 1919, pp. 510-511.
  14. ^ 1919年当時のリベリアはエチオピアと共にアフリカの黒人国家として数少ない独立国の1つであった。
  15. ^ 1919年当時のアイルランドはイギリスに統治されていた。アイルランドが独立したのは3年後の1922年である。
  16. ^ 牧野伸顕「回顧録」
  17. ^ レジナルド カーニー「20世紀の日本人―アメリカ黒人の日本人観 1900‐1945」五月書房1995
  18. ^ 篠原初枝 2010, pp. 68.
  19. ^ 永田幸久 2003, pp. 207.
  20. ^ 永田幸久 2003, pp. 207-208.
  21. ^ 永田幸久 2003, pp. 208.
  22. ^ 永田幸久 2003, pp. 208-209.
  23. ^ 永田幸久 2003, pp. 210.
  24. ^ 永田幸久 2003, pp. 211.
  25. ^ a b c 巴里講和会議ニ於ケル人種差別撤廃問題一件 1919, pp. 498-499.
  26. ^ p219 憲政の政治学
  27. ^ 外務省記録「人種差別撤廃」、『日本外交文書』大正7年第三冊および大正8年第三冊上巻
  28. ^ a b c 永田幸久 2003, pp. 212.
  29. ^ p144 国家と人種偏見
  30. ^ 篠原初枝 2010, pp. 69.
  31. ^ 巴里講和会議ニ於ケル人種差別撤廃問題一件 1919, pp. 508.
  32. ^ 鹿島守之助『日本外交史12』鹿島研究所出版会(1971年)187項の記述でも同様。(八丁由比 2011, pp. 19)
  33. ^ 永田幸久 2003, pp. 213-214.
  34. ^ 篠原初枝 2010, pp. 71.
  35. ^ 昭和天皇独白録 新保博彦 2012年1月11日
  36. ^ 永田幸久 2003, pp. 220.
  37. ^ p147 国家と人種偏見
  38. ^ 日本、中華民国、ブラジルのみが賛成したとしている。
  39. ^ a b c d p151-152 国家と人種偏見

関連項目[編集]

参考文献[編集]