ペリリューの戦い

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ペリリューの戦い
Wounded Marine on Peleliu.jpg
負傷した戦友に水を補給する米海兵隊員
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1944年9月15日 - 1944年11月25日
場所パラオ諸島 ペリリュー島
結果:アメリカ軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
中川州男 ウィリアム・リュパータス
ポール・ミュラー
戦力
歩兵第2連隊
歩兵第15連隊第3・第2大隊
など11,000
第1海兵師団
17,490
第81歩兵師団
10,994
損害
戦死 10,695
捕虜 202
生存34
戦死 2,336
戦傷 8,450[1]
マリアナ・パラオ諸島の戦い

ペリリューの戦い(ペリリューのたたかい、: Battle of Peleliu)は、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から11月25日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた、日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)とアメリカ軍第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)の陸上戦闘。アメリカ側の作戦名はステールメイトII作戦(Operation Stalemate II、stalemateは「膠着」の意味)。

要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いるという日本軍が見せた組織的な抵抗、戦術は、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。

背景[編集]

日本側の事情[編集]

パラオは第一次世界大戦後に国際連盟による日本の委任統治領となり、1922年南洋庁コロール島に設置されて内南洋の行政の中心となっていた。日本人はパラオに米食の習慣を定着させ、なすやきゅうりなど野菜やサトウキビ、パイナップルなどの農業を持ち込み、マグロの缶詰やカツオ節などの工場を作って雇用を創出した。道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引いた。南洋興発などの企業が進出し、水産業、リン鉱石採掘業と小規模なパイナップル農業が企業化されていて、1943年にはパラオ在住者は33,000人おり、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮台湾などから移り住んできた人達であった。

国際連盟規約に基づく委任統治領の軍備制限により、パラオへ要塞など軍事的な根拠地を構築することは禁止されて、パラオ本島(バベルダオブ島)に民生用として小規模な飛行場があるだけだったが、国際連盟脱退後はパラオは重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められた。1937年にパラオ本島飛行場の拡張とペリリュー島に飛行場の新規建設が開始され、1941年太平洋戦争開戦時のペリリュー島には1200m滑走路2本が交差して上空からは誘導路含め 4 の字に見える飛行場が完成していた。 そしてペリリュー島の300m北隣のカドブス島にも滑走路1本が造られ、両島の間には長い桟橋が伸びていて橋として渡ることができた(戦闘の破壊から免れたコンクリート製橋脚の一部が2010年現在でも遺されている)。1943年9月30日絶対国防圏の設定、10月11日付「作戦航空基地ニ関スル陸海軍中央協定」により、防衛体制の整備が進められていった。

内南洋での日本海軍根拠地に対してアメリカ機動部隊は、1944年2月17日にトラックを、同年3月30日にはパラオを空襲し、その機能を喪失させた。トラックが空襲を受ける1週間前に連合艦隊主力はパラオへ向け移動していたため無事だったが、パラオも空襲されたことで、3月31日古賀峯一連合艦隊司令長官は連合艦隊司令部ミンダナオ島ダバオへ移そうとして海軍乙事件が起きてしまう。

中部太平洋のアメリカ軍侵攻ルートを地図上にたどれば、タラワマーシャル、トラックとほぼ一直線に並んでおり、その先にはパラオがあった。大本営はその状況から、アメリカ軍はパラオ経由でフィリピンに向かうものと判断し、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部を結んだ三角地帯の防備を強化して、アメリカ軍へ反撃を加える構想を練り上げた。 それまで古賀司令長官の連合艦隊では新Z号作戦を策定しており、マリアナ諸島〜西カロリン〜西部ニューギニアに邀撃帯を設けて、ニミッツ軍とマッカーサー軍の二方面で進攻してくるアメリカ軍を迎え撃とうとしていた。しかし海軍乙事件での連合艦隊司令部壊滅により、二方向の予想アメリカ軍進攻ルートは合流してフィリピンに向かうものという一方的な想定と、帯よりも三角地帯で迎撃する方が艦隊決戦を行うには都合が良いという主観的判断で、作戦構想が見直されて軍令部が中心となって「あ号」作戦として決戦構想がつくられた[2]。その三角地帯の内側にパラオはあり、グアムサイパンの後方支援基地としても、パラオは当時の日本軍にとって戦略的価値が急浮上していた。

日本陸軍は絶対国防圏を守るため、中部太平洋方面防衛の第31軍の作戦地域にパラオを含め、関東軍最強と呼ばれてマリアナ諸島への配備を予定していた第14師団照兵団)を1944年4月に東松5号船団によってパラオへ派遣した。

第14師団麾下の水戸歩兵第2連隊が中核となってペリリュー島の守備に当たらせ、パラオ本島とマラカル島には状況に応じて機動的に運用できる予備兵力として高崎歩兵第15連隊を基幹とした兵力を配置した。彼らは大本営よりアメリカ軍の戦法についての情報伝達を受け、水際の環礁内の浅瀬に乱杭を打ち、上陸用舟艇の通路となりそうな水際には敵が上陸寸前に敷設できるよう機雷を配備して兵士を訓練し、サンゴ礁で出来ていてコンクリート並に硬い地質を利用して500以上に及ぶといわれる洞窟には坑道を縦横に掘り回して要塞化するなど、持久戦に備えた強固な陣地を築きアメリカ軍の上陸に備えた。 (アメリカ軍がマリアナへ侵攻すると、ペリリューには更に第14師団戦車隊ならび歩兵第15連隊の1個大隊(第3大隊)が増援された。)

日本海軍も、西カロリンにアメリカ機動部隊が1944年5月末から6月中旬頃に進攻してくると予想して、これに決戦を挑み撃破して戦局の転換を図るとした「あ号」作戦を5月20日に発令、新設の第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)と基地航空隊の第一航空艦隊(約650機)を軸に決戦の必勝を期し、ペリリュー島飛行場にも第61航空戦隊の、零式艦上戦闘機第263海軍航空隊第343海軍航空隊)、月光第321海軍航空隊)、彗星第121海軍航空隊第523海軍航空隊)、一式陸上攻撃機第761海軍航空隊)が分遣された[3]。 日本側の予想に沿うように5月27日、西部ニューギニア沖合のビアク島にアメリカ軍が上陸したので、日本軍は渾作戦を発動し海軍第一航空艦隊の大部分をビアク島周辺へ移動、合わせて大和武蔵戦艦部隊を送ってアメリカ上陸支援艦隊を撃退しようとした。

ところが大本営の予想は外れて、ビアク島の戦いが続いているにも拘らずアメリカ軍は、6月11日マリアナへ来襲、6月15日サイパン島に上陸してきた。ビアク島救援どころではなくなった日本海軍は、ビアク島空域の作戦をしていた第一航空艦隊をマリアナに呼び戻してアメリカ軍を迎撃させると共に、想定とは違う戦場となるマリアナへ向けて第一機動艦隊を出撃させ、ビアク島到達前に渾作戦が中止となった戦艦部隊も途中で合流させてマリアナ沖海戦に挑んだ[3]が大敗、三角地帯で米軍に反撃を加えるという作戦構想は崩壊してしまった。航空反撃を行おうにも、ラバウルから基地航空隊は既に引き揚げられ、トラックとパラオの航空戦力は壊滅していたため、この時点ではパラオ防衛の戦略的価値は、単にアメリカ軍のフィリピン侵攻の足がかりに利用されるのを防ぐという意味しかなくなってしまっていた。

アメリカ側の事情[編集]

太平洋方面のアメリカ軍首脳部は、マリアナ攻略戦の最中に今後の進撃ルートの再検討を始めた。アメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督は「マリアナの後、フィリピン、台湾を目指し、台湾を拠点として海上封鎖とアメリカ陸軍航空軍による戦略爆撃で日本を降伏に追い込む」のを目指していた。アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー大将は「ニューギニア西方に位置するモルッカ諸島モロタイ島からフィリピンのミンダナオ島レイテ島を経由して、日本本土侵攻」をも視野に入れていた。するとアーネスト・キング海軍作戦部長が「南方資源地帯と日本本土の間のシーレーンを遮断するため、フィリピンは迂回して台湾に上陸、中国大陸沿岸部の到達を目指すべきで、最終的に日本本土を攻略」と主張し出して混乱し、そこへサイパンの戦いで上陸部隊を統率しているアメリカ海兵隊ホーランド・スミス中将が米陸軍第27歩兵師団 (アメリカ軍)英語版ラルフ・スミス英語版陸軍少将を「攻撃精神と指導力の不足」を理由に解任したことで「スミスVSスミス」と呼ばれる大問題となり、陸海軍の混乱は収拾がつかなくなった。

結局フランクリン・ルーズベルト大統領の指示によりアメリカ統合参謀本部がフィリピン侵攻に至る作戦計画を作成して、混乱は収拾された[4]。計画では「1944年9月15日マッカーサーの陸軍主体の連合国南西太平洋方面軍が担当するモロタイ島攻略実施。海軍主体の連合国中部太平洋方面軍が担当して同日パラオのペリリュー島とアンガウル島、10月5日ウルシー環礁の攻略実施。11月15日ミンダナオ島へ、12月20日レイテ島へ上陸」という予定で、9月11日第2回ケベック会談でイギリスのウィンストン・チャーチル首相に対して発表された。(この際の戦略決定の経緯についてはフィリピンの戦い (1944-1945年)#アメリカを参照。

ニミッツはマッカーサーの陸軍と張り合う立場上から「ミンダナオ島から800kmしか離れていないパラオから日本軍が、アメリカ軍のフィリピン攻略部隊へ航空攻撃を仕掛けてくる懸念がある。」「フィリピン進行への航空作戦の拠点ともなる前進基地を確保する。」という理由づけで、パラオ攻略作戦を計画して実行に移すこととなった[5]

ペリリュー島の上陸部隊は、ガダルカナル島の戦いによりアメリカ軍最強とうたわれ、ニューブリテン島西部でのグロスター岬の戦い英語版も経験し、日本軍相手に敵前上陸とそれに続く激しい攻防戦での戦訓を得ていて、強大化され士気も旺盛な第1海兵師団が担当することとなった。その師団長ウィリアム・リュパータス海兵少将は、ガダルカナル戦当時は准将で同師団の副師団長としてツラギ上陸部隊を指揮し[6]、その後のニューブリテン島では師団長として戦闘を経験していた。

1944年9月6日からアメリカ軍は艦載機による侵攻前の予備爆撃を始めて日本軍の防御力を削ごうとしたが、対空砲火に阻まれ効果的とは言い難かった[7]。また特殊工作員が上陸し、日本軍陣地の配置を探ったり、機雷の無力化を行ったという[8]

戦力比較[編集]

日本軍の陣地と米軍の侵攻図

日本軍[編集]

  • 陸軍
    • 総員 約10,500名
    • 第14師団歩兵第2連隊(連隊長:中川州男 大佐)
      • 第14師団派遣参謀:村井權治郎少将
    • ペリリュー地区隊本部
      • ペリリュー地区隊直轄部隊
        • 歩兵第2連隊 第1大隊:市岡秀衡大尉
        • 歩兵第2連隊 第3大隊:原田良男大尉
        • 歩兵第15連隊 第2大隊:飯田義栄少佐(増援として9月22日から24日にかけパラオ本島からペリリュー島へ逆上陸)
        • 第14師団戦車隊:天野国臣大尉
        • 歩兵第2連隊 砲兵大隊:小林与平少佐
        • 歩兵第2連隊 工兵中隊:五十畑貞重大尉
        • 歩兵第2連隊 通信中隊:岡田和雄中尉
        • 歩兵第2連隊 補給中隊:阿部善助中尉
        • 歩兵第2連隊 衛生中隊:安島良三中尉
        • 海上機動第1旅団輸送隊 第1中隊:金子啓一中尉
        • 第14師団経理勤務部:山本孝一少尉
        • 第14師団野戦病院:大塚高麿中尉
      • 西地区隊
        • 歩兵第2連隊 第2大隊:富田保二 大尉
      • 南地区隊
        • 歩兵第15連隊 第3大隊:千明武久大尉
      • 北区地区隊
        • 独立歩兵第346大隊 引野通廣少佐
  • 海軍
    • 西カロリン航空隊司令:大谷龍蔵大佐
      • 西カロリン航空隊ペリリュー本隊
        • 第45警備隊ペリリュー派遣隊
        • 第3通信隊
        • 第214設営隊
        • 第30建設隊
        • 第30工作隊
        • 南方方面海軍航空隊
        • 特設第33、35、38機関砲隊(海軍配属陸軍部隊)
        • 朝鮮人労働者(当時は日本国籍)約3,000名含む
  • 日本側装備

アメリカ軍[編集]

  • 総員 48,740名
  • アメリカ側装備
    • 小銃、自動小銃41,346挺
    • 機関銃1,434挺
    • 拳銃3,399挺
    • 火砲729門
    • 戦車117両
    • バズーカ砲180基

日本側の朝鮮人労働者数(軍属)を兵数としてカウントするべきか否かは議論の余地があるが、実質的に日本軍の兵力はアメリカ軍の6分の1以下だったと言える。また戦力差については航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃等を考慮するとアメリカ側が数百倍の火力で日本軍を圧倒している。

上陸支援の艦砲射撃

アメリカ軍は、日本側の暗号電報や海軍乙事件で入手した機密書類、偵察機からの空撮、潜水艦で沖合からの海岸撮影などで得た情報を総合的に分析し、日本軍守備隊兵力を10,320〜10,720名、内戦闘員を陸軍5,300名、海軍800〜1,000名と、かなり正確に推定していた。 この推定された日本軍守備隊兵力と自軍の参加兵力との差に、第1海兵師団長のウィリアム・リュパータス海兵少将は上陸作戦にあたり海兵隊兵士の前で訓示した際「こんな小さい島(南北9km、東西3km)の戦闘は2、3日で片付く。諸君に頼みがある、私への土産に日本軍守備隊指揮官のサムライ・サーベルを持ち帰ってもらいたい。」と豪語していた[9]。リュパータス師団長は第1海兵連隊連隊長ルイス・ブラー大佐にも「今回は君の昇進の為のような作戦だ、海軍十字章と准将の階級章が同時にもらえるぞ」と楽観的な話をしていたが、ブラー大佐は上陸前1週間に渡って入念に地図や偵察写真を確認した結果、日本軍は一年かけて島全体を要塞化しており、師団長は楽観的すぎると危惧していた[10]。また、第一海兵師団の予備兵力として陸軍第81歩兵師団の1個連隊が待機する計画であったが、リュパータス師団長は陸軍をなるべく排除したいと考えており、第81歩兵師団の予備部隊を断り、海兵隊よりわずか1個ライフル大隊を準備する事とした。これは遠征軍司令ジュリアン・スミス少将の意思にも反したが、リュパータス師団長はアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令と個人的に懇意で、リュパータス師団長の案で決定されたが[11]予備部隊の不足は後に大きな影響を及ぼす事となった。

上陸当日もリュパータス師団長は従軍記者らに戦闘は激しいが4日で終わるという楽観論を述べたが、それを真に受けた従軍記者が多く、ペリリューに帯同した36名の内で上陸当日に軍と行動を共にしたのはわずか6名だった。その為、アメリカのマスコミはペリリューの上陸戦でどのような戦闘が行われたか殆ど目にする事ができなかった[12]

戦闘経過[編集]

水際での死闘[編集]

アメリカ軍は8月下旬からビアク島などニューギニア北西部からの陸軍爆撃機、9月6日からの海軍艦載機による予備爆撃に加え、9月12日からは戦艦5隻(ペンシルバニア、メリーランド、ミシシッピ、テネシー、アイダホ)、重巡洋艦5隻(コロンバス、インディアナポリス、ルイビル、ミネアポリス、ポートランド)、軽巡洋艦4隻(クリーブランド、デンバー、ホノルル)、駆逐艦14隻からの艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火も始めて、島内のジャングルを焼き払った。

上陸前と上陸時の支援として撃ちこまれた艦砲は合計6,894トンにおよび、支援射撃を指揮していたジェシー・B・オルデンドルフ少将は当時としてはもっとも完全でいかなる支援より優れていたと評価していた[13]。3日に及ぶ激しい砲爆撃は、構築された障害物や防御施設を見渡す限り吹き飛ばしたが、それらはアメリカ軍の上陸を遅延させる為に設置された偽装にすぎず、日本軍の主抵抗線は殆ど無傷であった[14]。日本軍はアメリカ軍の上陸が予想される日本軍が西浜と呼称していた南西部海岸に「イシマツ」「イワマツ」「クロマツ」「アヤメ」「レンゲ」と名付けた陣地を事前に構築していたが[15]、それらの陣地は珊瑚礁の固い台地を利用した歩兵2〜3人が収容できる遮蔽された歩兵壕が無数に掘ってあった。また小さな鉄筋コンクリート製のトーチカも築かれ、速射砲が配備されていた。内陸部には、野砲や迫撃砲を配置するトーチカも築かれ、最も堅牢なものは1.5m厚のコンクリート製で出入り口にも分厚い鋼鉄製の扉が付けられていた。これらの火砲は海上の艦船や航空機より直接は攻撃できないように工夫された配置になっており、高台にいる観測兵により正確な砲撃要請が行える体制となっていた[16]

上陸当日の9月15日午前5時半から西浜の海岸一帯への艦砲射撃が始まり、8時の上陸開始の少し前に艦載機50機の爆撃へ切り替わり、それから日本側の砲撃を妨害するため発煙弾が打ち込まれて、上陸支援艇からの近距離援護射撃の下、第1,第5,第7海兵連隊の3個連隊12,000名を主力とする海兵隊が、第1波4,500名を皮切りに第6波までに分かれて上陸を開始した。 アメリカ軍は上陸地点の南北3km弱の西浜を北からホワイト1,2、オレンジ1,2,3というコードネームで5つに区分していた。「海岸が流血で染まったためにオレンジ海岸と呼ばれるようになった」という説は誤りである。ホワイトには第1海兵連隊、オレンジには第5、第7海兵連隊が向かっていたが、各連隊が向かっている海岸には日本軍の構築していた各陣地が待ち構えていた。

日本軍の攻撃で炎上するアムトラック

海岸線に日本軍が設置していた障害物と機雷は、アメリカ海軍水中破壊工作部隊英語版の活動と艦砲射撃によってあらかた除去されていたため、上陸部隊は順調に海岸へ近づいていったが、珊瑚礁線に近づくと残存していた地雷と機雷により上陸用舟艇が十数隻撃沈された。その為、上陸用舟艇とアムトラック部隊は一時混乱に陥ったが、リュパータス師団長は支援の為、艦艇より発煙弾を撃ち込ませ混乱の沈静化を図った。一方で日本軍は中川大佐の命令により、敵を徹底的に海岸に引き付ける事としており、兵が逸るのを抑えて射撃を自重させていた。アメリカ軍の上陸部隊は態勢を立て直すとまた海岸線への接近を再開したが、100m〜150mの至近距離まで接近したところで、射撃開始の命令が下された。特に中川大佐直轄であった野砲大隊と九一式十糎榴弾砲は、山腹の洞窟陣地に配置されており砲爆撃にも殆ど損害はなく、眼下に群がる敵に「この時こそ天がわが砲と我々に与えし好機なり」と自信をもって砲門を開き、上陸用舟艇に一斉射撃を加えた。日本軍の激しい砲撃で、珊瑚礁は大小の穴だらけとなり、上陸用舟艇やアムトラックは次々に炎上し、海兵隊の兵士が吹き飛ばされた。その為、大損害を蒙った第1波上陸部隊が煙幕を焚いて一時退却するという場面すらあった[17]。それにもかかわらず第1波の上陸から1時間後には、アメリカ軍の第2波上陸部隊が西浜に殺到した。

日本軍は緻密に迫撃砲の照準を珊瑚礁上に設定しており、正に“砲弾のカーテン”のような弾幕となっていた。また野砲も容赦なく降り注ぎアムトラックとアムトラックに戦車砲を搭載したアムタンクが次々と撃破された。また海岸線に上陸するとトーチカに設置された一式機動四十七粍速射砲に狙い撃たれたが、装甲が薄いアムトラックやアムタンクに対しては過分な威力であった。海兵隊公式には上陸初日に26両のアムトラックが撃破されたとしているが、実際は60両以上が撃破されていた。その惨状を見た海兵隊中佐は「こんな戦闘をこれまで見たことが無い。1両40,000ドルもするアムトラックがこんなに炎上しているのを見て衝撃を受けた」と語った。連隊長のブラー大佐の搭乗していたアムトラックも5発の砲弾を受け撃破された。ブラー大佐は無事であったが、一緒の連隊幕僚や通信兵の乗っていたアムトラック5両も撃破され幕僚や通信兵が多数戦死し、第一海兵連隊は通信ができなくなり8時間に渡って戦況が把握できなくなった。また第一海兵連隊の15両の水陸両用型M4中戦車も集中砲撃を受け3両が完全撃破され、他の車両も損傷を受けた。この時の海兵第1師団の戦いぶりは、後年に「太平洋戦争で最も激しくもっとも混乱した戦闘」と評された[18]

支援射撃を指揮していたオルデンドルフ少将は、壊滅させたはずの日本軍陣地から猛烈な反撃を受けている様子を見て驚愕するとともに非常な口惜しさを覚えていた[19]。砲撃で次々とアムトラックが撃破され、兵士らは徒歩で日本軍トーチカや塹壕に迫っていったが、小火器による射撃も猛烈で容易に前進できなかった。過酷な状況の中で、皮肉にも日本軍が構築していた対戦車壕が塹壕代わりとなりアメリカ軍の退避場所となった。対戦車壕は上陸の海岸線全域に掘られていた為、兵士らは壕内で前進の体制を整える事ができた。また海岸に多数埋設されていた日本軍の地雷の多くが海水で動作不良になり不発となった。地雷が有効に機能していたらアメリカ軍はもっと悲惨な状況におかれていたと思われる。一方で大量に残っていた航空爆弾を転用した急造地雷は多大な効果を発揮し、その絶大な威力により地雷を踏んだアムトラックは引っ繰り返ったと言う[20]

オレンジ・ビーチで日本軍が構築した対戦車壕で一息つく海兵隊歩兵

前線より入ってくる報告は悲惨なものばかりで、上陸前は楽観的だったリュパータス師団長ら師団司令部は非常な不安に襲われ、直接状況を確認する為に副師団長のオリバー・P・スミス准将が海岸に上陸する事とした。スミス准将らは第5海兵連隊と第7海兵連隊の上陸地点であったオレンジ海岸に向かった。オレンジ海岸はスミス准将が到着したころには対戦車壕で態勢を整えた第5連隊と第7連隊が内地に向かって前進を開始しようとしていたが、断片的な情報しか得られなかったリュパータス師団長はオレンジ海岸になけなしの予備部隊である1個ライフル兵大隊を投入することにした。 しかし、実は通信機が破壊され連絡が取れなくなっていたブラー大佐率いる第1海兵連隊が依然としてもっとも悲惨な状況で、死傷者は既に400名以上に達しており、最優先で予備部隊の投入が必要であったが、師団司令部は知る由もなかった[21]。第1海兵隊は指揮系統が完全に寸断されており、多数の部隊が日本軍陣地の中で孤立していた。

ここで、日本軍は第一号反撃計画に基づき、中川大佐が反撃の有力戦力として温存していた95式軽戦車を伴った決死斬込隊による反撃をおこなった[22]。17両の95式軽戦車の車体にはロープがまかれ、そのロープを歩兵が掴みタンクデサントでの出撃となった。中川大佐の期待も大きく、出撃する戦車隊に対しいつまでも手を振っていたという[23]。反撃部隊は第1海兵連隊と第5海兵連隊の中間点あたりに進撃してきた。海兵隊は今まで太平洋の各戦場で日本軍の無謀なバンザイ突撃を何度となく撃破してきたが、この反撃は戦車と歩兵が見事に連携した攻撃であり、今までの日本軍とは違って非常に手ごわいと感じたという[24]しかし装甲が薄い95式軽戦車は、M4中戦車やアムタンクやアメリカ軍が多数揚陸済みであったバズーカで次々と撃破され、海岸付近まで達する事ができた戦車はわずか6両であり、その6両も集中砲撃や勇猛な海兵隊員による白兵戦で次々と撃破され、生き延びたのはわずか2両と壊滅し反撃は失敗に終わった[25]

夕刻遅くにようやく師団司令部は第1海兵連隊と連絡がつき、上陸初日の死傷者が1,111名と当初見込み500名の倍に達した事や、その内の半分が第1海兵連隊の損害であることが把握できたが、第1海兵連隊連隊長ブラー大佐は援軍の申し出を拒否し、連隊の後方支援要員まで前線に回し欠員を補充している。第1海兵師団全体でも負傷兵が予想以上に出たため、医療品の不足が生じ治療待ちの重傷者も多数に上った。また多数のアムトラックが撃破されたため、前線に食糧や水を輸送することが出来ず、特に高温の中で水の不足がアメリカ兵を苦しめた。になると、日本軍の通例である夜間のバンザイ突撃を警戒しアメリカ軍は守備を固めたが、日本軍は突撃しない代わりに心理戦のつもりか「アメリカジン、ブタ、イヌ、オマエ、シヌ」と拡声器を使って罵詈雑言を浴びせてきた。それに煽られたアメリカ兵も大声で嘲り返すなど、神経をすり減らす事となった。またその隙に、攻略された日本軍陣地を、日本兵が夜陰に紛れて奪還しアメリカ軍の後方を脅かしたり、破壊工作を行ったりした。中には遠征軍司令官ジュリアン・スミス少将の指揮所にまで達した日本兵もおり、危うく警備兵が発見し射殺した為、スミス少将は無事であった[26]

太平洋軍司令官ニミッツにも苦戦の知らせは届いていたが、軍の動揺を抑える為に公式発表は「1944年9月15日 上陸海岸には、敵の迫撃砲や、火砲による砲弾が散発的に落下したが、我が軍の攻撃初日の損害は軽微に留まった」(米太平洋軍司令官公式発表 第117号)と事実と反するものであった。

飛行場付近での戦い[編集]

ペリリューの飛行場(アメリカ軍が使用していた1945年時の写真)

2日目になってようやくアメリカ軍の前線の兵士にも飲料水が届けられたが、燃料用のドラム缶に入れられてき為、水は錆と油で濁っており、飲んだアメリカ兵の多くが体調不良となった。またアメリカ兵の多くが夜間に切れ間なく撃ちこまれていた日本軍の砲撃で十分に休息が取れていなかった。そんな中で朝にリュパータス師団長ら師団幕僚が戦況把握の為にペリリュー島に上陸したが、戦況を確認すると不機嫌になり、上陸当日に最も苦戦し大損害を被っていた海兵第1連隊連隊長ブラー大佐を「もっと早く前進できんのか?馬鹿者どもが、ブラー、貴様は全力を出して、結果を出せ!俺の言ってる事が、わかるだろ、この馬鹿ものが」と激しく罵倒し、第1海兵連隊には現状の膠着状態を打破し前面の高地を攻略、第5海兵連隊には飛行場の攻略、第7海兵連隊には島南端までの制圧を命じた[27]

攻撃目標の内、飛行場は飛行場北方にある半壊した格納庫のみが遮蔽物であり、第5海兵連隊は何もない開けた空間を何百mも突き進まねばならなかった。日本軍は飛行場を見下ろす高地(後に「ブラッディノーズ・リッジ」と呼ばれた)から砲撃してきたが、攻撃開始前に連隊司令部が置かれていた塹壕に砲弾が命中し、第5海兵連隊連隊長バッキ―・ハリス大佐が重傷、参謀も死傷し連隊司令部が大損害を被ってしまった。アメリカ軍は海兵隊の突撃の鉄則である「とにかく止まるな。止まらずにいればそれだけ敵の弾に当たる確率も減るんだ」を実践ししゃにむに飛行場を駆けたが、遮蔽物のない開けた地形で日本軍のあらゆる火器の集中射撃を受けて、その内に砲撃でできた窪みや、飛行場に散乱する撃破された日本軍航空機、撃墜されたアメリカ軍航空機の残骸に身を隠し釘付けとなった。連隊にはガダルカナルの戦いグロスター岬上陸戦を戦った古参の兵士も多かったが、日本軍の激しい攻撃に容易に進撃できず、多数の死傷者を出した。古参兵らは「このペリリュー島の飛行場を巡る戦いが、太平洋戦争中で最悪の経験だった」と後に語っている[28]。その後、飛行場攻撃には戦車隊と第1海兵連隊が加わったが、それまでに飛行場で無謀な突撃を繰り返していた第5海兵連隊の第1大隊は戦闘能力を失っていた。また第1海兵連隊は前日に500名の死傷者を出していたが、この日もさらに500名の死傷者を出し、人的損失は連隊の33%にも達することとなった。通常であれば戦力の15%を失えば最前線からは撤退させるのであるが、予備兵力を使い果たした第1海兵師団にその余裕はなかった[29]。飛行場は援軍の到着もあり、日没までにはアメリカ軍の手に落ちた。

第7海兵連隊が攻略に向かった島の南部には、地形的には平坦地で日本軍の隠れられる場所はなさそうに見えたが、巧妙に構築された日本軍の陣地やトーチカ多数が待ち構えていた。第7海兵隊は艦砲射撃や艦載機による空爆、特に新兵器となるナパーム弾による空爆の支援を受け、トーチカを着実に攻略しながら、前進を続け正午までには島の南端に達した。しかしその頃には気温は40°を越えており乾きがアメリカ兵を苦しめることとなった。前線に飲料水を運搬していた兵を日本軍の狙撃兵が次々と狙撃し、前線に飲料水がなかなか補給されなかった。第3大隊などは「飲料水の欠乏により兵士は干上がっている」と緊急電文を打ち、乾きの為に作戦行動が困難となった為、補給がくるまで陣地を構築し待機せざるを得なくなった。しかし、南部地区では日本軍は地の利を得られなかった為、第7海兵連隊は他の地区と比較すれば順調に日本軍を掃討する事ができた。4日間に渡る島南部地区の戦闘で日本軍戦死者は2,609名にも達したが、第7海兵連隊の死傷者は497名だった。上陸以来の死傷者の続出で激昂していた海兵隊員らは、降参する日本兵も射殺した為、捕虜は1名もいなかった[30]

アメリカ軍は日本軍の巧妙な防御戦術を見て、日本軍は緻密に連絡を取り合っており、その手段は伝書鳩と考えていた。その為、各大隊には狩猟用のショットガンが配られ、ペリリュー島を飛ぶ鳥は鳩でなくとも片っ端からショットガンで撃ち落とされた。しかし実際は日本軍はペリリュー島で伝書鳩は使用しておらず、ペリリュー島の鳥たちにとってはとんだとばっちりであった[31]

ブラッディノーズ・リッジ(鼻血の尾根)の戦い[編集]

日本軍が斜面を利用して構築したトーチカ

海岸地区や飛行場周辺の攻防では、アメリカ軍に多大な損害を与えたものの、日本軍陣地と部隊もほぼ壊滅した為、中川大佐はかねてよりの師団作戦命令の通り、ペリリュー島の山岳地帯に500個以上は存在すると思われる洞窟を駆使した持久戦術に移行した。「外に出て攻撃を仕掛けると、戦車と航空機と艦砲射撃が待ち構えている。その手には乗らず、敵が近づいて来たら狙撃せよ。容易く死なずに永く生きながらえて一人でも多くの敵を殺せ」と厳命した[32]

アメリカ軍は太平洋の他の島で繰り返された、日本軍の盲目的なバンザイ突撃を圧倒的な火力で撃滅するという展開を望んでいたが、その傾向は全く見えず、後にペリリュー守備隊を賞して「これまで出会った中では、最も優秀と思える兵士で、率いる将校も、敵の圧倒的な火力の前に無駄死にする無意味さを理解し、アメリカ軍の術中にはまらない決意に満ちていた。」と評価している[33]

2日目までに1,000名の死傷者を出した第1海兵連隊は「ブラッディノーズ・リッジ」の攻略を命じられた。高地を進むアメリカ軍に対し日本軍は洞窟陣地を駆使して激しく抵抗した。洞窟陣地は内部で連絡されており、相互に支援できるような位置に構築されていた為、アメリカ軍が隠れる場所が全くなかった。ある洞窟陣地から火砲や機銃で攻撃を受けたアメリカ軍が反撃しようとすると、火砲や機銃は洞窟内に引っ込み、今度は違う洞窟から攻撃を浴びるといった状況であった。連隊長のブラー大佐は各大隊を野戦電話で叱咤激励していたが、もっとも苦戦していた第3大隊のラッセル・ホンソウィッツ中佐から、200名の死傷者を出したのに戦果が捗々しくないとの報告を聞くと激昂して「なんてざまだ、これを本土の奴らが聞いたらなんて言うと思う?200名の優秀な海兵隊員を失って、殺したジャップがたった50名だ。500名の間違いじゃないのか?」と怒鳴った。第3大隊には本来戦闘には参加しない連隊の司令部要員200名を補充したが、この時点で連隊の死傷者は1,236名にも達し連隊内での人員のやりくりではとても間に合わなくなった為、第1海兵連隊は師団参謀に補充を要請した。しかし師団の予備兵力は既に使い果たしており、ブラー大佐は「上陸支援要員でもいいから増援によこせ、明日の夜までには一人前の戦闘歩兵にしてみせる」と補充を強く迫ったが、結局補充要請は却下され第1海兵連隊は現行戦力で作戦の続行を命じられた[34]

海兵隊歩兵を支援するM4中戦車

洞窟陣地攻撃に威力を発揮したのはM4戦車であった。戦車は洞窟を発見すると片っ端から砲撃を加え、1両当り1日で30か所の日本軍陣地を破壊していた。しかしM4戦車の損害も大きく第1海兵師団の30両のM4戦車の内、高地戦に至るまでに10両が破壊されていた。残りのM4戦車はその破壊されたM4戦車から砲弾を回収して戦わなければならないほど弾薬の消費も激しかった。また、日本軍はハッチから身を乗り出す戦車長に射撃を集中し、第1戦車大隊の戦車将校31名の内23名が死傷し、無事だったのはたった8名と戦車に搭乗しておきながら高い死傷率となっている[35]

第1海兵連隊は島南部の攻略を終えた第7海兵連隊の支援も受けて、引き続きブラッディノーズ・リッジを強攻した。ブラー大佐は筋金入りの海兵隊員で、緻密な作戦よりは攻撃の気運を重視する作戦指揮であったが、ペリリュー島でこの作戦指揮はあまりに代償が大きかった。既に第1海兵連隊は兵員の半数を失っていたが、ブラー大佐は進撃を緩める事を許さず、「死傷者が多すぎます。我々は昼も夜もなく戦い続けてるんです。」と指揮下の大隊長が窮状を訴えるも取り合わず逆に「うるさい、お前自ら兵隊を率いてあの丘を落とせ」と命令する烈しさだった。日米の兵士は斜面に構築された日本軍の陣地を巡って激しい白兵戦を演じており、日本軍は手榴弾投擲や銃剣で攻撃してきたのに対し、海兵隊員は日本兵を陣地から素手で引きずり出すと崖の下に投げて落とすといった風な激しい近接戦闘が至る所で繰り広げられた。第1海兵連隊は多大な損害にもめげずに攻撃を続行し、中川大佐がウムロブロゴル山中核を中心に構築した、これまで海兵隊が戦った中でもっとも手強かったと海兵隊戦史で評価された通称「ファイブ・シスターズ」陣地に到達した。既に死傷者が1,500名以上にも達し戦力が大幅にダウンしていた第1海兵連隊はこの陣地の攻略で致命的な損害を受ける事となった[36]

日本軍逆上陸[編集]

ペリリュー島にアメリカ軍が上陸して1週間経った9月22日に第14師団の師団長井上貞衛中将はペリリュー島からの戦況報告を聞き、「米軍は我がペリリュー守備隊の勇戦にて疲労困憊し、ことに砲爆弾の欠乏に悩んでいる事は確実であり、もっぱら新鋭戦力の来着を待っている。今やペリリューはあと一押しで米軍を完全に敗退に導き、これを陸岸から駆逐する事も可能である。」と判断し増援を送る事と決定した。しかしペリリューの中川大佐よりは「我が歩兵第2連隊だけで十分であり、ペリリューに兵力をつぎ込んでも無駄である。」と逆に増援を拒否する電文が送られてきた。師団司令部としてもパラオにアメリカ軍のさらなる侵攻が予想される中で、ペリリューに大兵力を注ぎこむことは避けたいとの判断もあり、最終的に歩兵第15連隊第2大隊(指揮官飯田義榮少佐)を増援として、ペリリュー島に逆上陸することを命じた[37]

同日夜10時には第一陣として第2大隊第5中隊(指揮官村堀中尉)215名が大発動艇5隻に分乗し、パラオ本島アルミズ桟橋より出発した。途中でアメリカ軍艦艇に発見されるもうまく回避し、7時間かけてペリリュー島北端のガルコロ桟橋に到達、揚陸作業中にアメリカ軍機の空襲を受け大発動艇は全て撃沈されたが、人的損害は死傷14名に止まり、残りの兵員はペリリュー守備隊に合流した。先遣隊村堀隊の上陸成功の報に師団司令部は湧き立ち、「援軍は不要」と打電していた中川大佐も非常に感激し、苦闘する守備隊の士気も大いに高まった。師団司令部は次いで第2大隊主力の出撃を命じた。命令を受けて第2大隊主力は総勢1,092名が大発動艇及び小発動艇合計29隻に分乗して23日の午後に出発した[38]

飯田少佐は大隊主力を4艇隊に分けて、場所や時間を変えてペリリューを目指したが、アメリカ軍は先日の先遣隊の上陸成功で、日本軍の増援を警戒しており、飯田少佐を含む第2艇隊は、駆逐艦などの海軍艦艇まで投入して警戒するアメリカ軍を躱しながらペリリュー島を目指していたが、全艇がペリリュー島近隣のガラカシュール島周辺の浅瀬に座礁してしまった。アメリカ軍は日本軍の意図を察し、ガラカシュール島周辺に激しい砲撃を加えアムタンクも差し向けた為、日本軍に死傷者が続出したが、飯田少佐らは浅瀬を徒歩もしくは泳いでペリリュー島にたどり着いた。第3艇隊も同様にペリリュー島近隣のゴロゴッタン島周辺で相次いで座礁、そこを警戒していたアメリカ軍艦艇に狙い撃たれ、撃沈されたり大破炎上する艇が続出した。大隊主力は合計で大発動艇8隻・小発動艇2隻が撃沈もしくは大破し、百数十名が戦死したが、残りはペリリュー島に上陸を果たした。しかし部隊間の連絡が困難だった上に、大隊の一部がアメリカ軍戦車部隊との戦闘となり多大な損害を被った為、27日時点で飯田少佐が掌握できている兵力は約400名と激減していた[39]

飯田少佐も中川大佐と同様にペリリューへの増援は無駄な戦力消耗にしか過ぎないと判断し、戦況報告と意見具申をする必要があったが、無線はなく連絡手段が無い為、誰が伝令を警戒厳重な海を泳いで渡らせてパラオまで報告書を届けさせる必要があった。ペリリューからパラオ本島までは60kmもあり、泳ぎが達者で精神力も強い奈良少尉以下17名が選出された。17名もの大勢の人数が選ばれたのは、非常に困難な任務であり、17名の内1人はたどり着けるだろうという最悪な状況を想定してからのことであった。9月28日にペリリューを出た奈良少尉は、部下を励ましながら潮流が強く波が高い海を不眠不休で懸命に泳いだが、途中で執拗なアメリカ軍機の機銃掃射を受け12名が戦死し残りは5名となった。途中の島で休息しながら10月2日にパラオ本島に到着した際は奈良少尉以下4名となっていた。この命がけの遠泳伝令により、第14師団は計画していた第二弾以降の増援計画を断念することとなった[40]。その後飯田少佐らは悪戦苦闘しながらも9月28日に中川大佐の連隊主力と合流に成功し、中川大佐と飯田少佐は互いに感涙にむせびながら手を取り合い、日本軍の戦意はさらに高まった。

第1海兵連隊壊滅・歩兵第81師団投入[編集]

「ファイブ・シスターズ」陣地を新兵器ナパーム弾で攻撃する海兵隊所属のF4U コルセア

第5海兵連隊が大きな損害を被りながら攻略した飛行場には、島で激戦が行われていた最中の9月24日は早くも海兵隊の戦闘爆撃機部隊が進出していた。海兵隊のパイロットはペリリューに到着すると即攻撃に出撃したが、飛行場から攻撃目標まではわずか15秒と第二次世界大戦中もっとも距離が短い出撃であった。あまりにも距離が近い為、航空機は離陸後に脚を格納する暇すらなかったという[41]。日本軍は飛行場の運用を妨害する為、飛行場に向けて夜間さかんに攻撃をかけたが、その主力は逆上陸に成功した飯田少佐率いる第15連隊第2大隊の残存兵であった[42]。飯田少佐は3名を一つの班とした斬り込み決死隊を組織し、夜陰に紛れ巧妙にアメリカ軍陣地に迫って斬り込みをかけた。斬り込み隊は地下足袋を履き銃剣と手榴弾だけを持ち、音もなくアメリカ軍陣地に突入するとアメリカ兵を銃剣で刺殺し、発見されると手榴弾で自爆するといった決死の攻撃であった為、アメリカ軍も対策に苦慮し、二世兵士を使って「勇敢な日本兵の皆さん、夜間の斬り込みは止めて下さい。あなた方が夜間の斬り込みを中止するなら、我々も艦砲射撃と爆撃を中止します。」という放送を戦車に取り付けたスピーカーを通じて行い、ビラもばらまいたが、かえって日本軍の士気を高めただけだった[43]。日本軍の斬りこみによりアメリカ軍の飛行場要員にも100名以上の死傷者が出たが、飛行場の稼働を止めるまでには至らなかった。

第1海兵連隊は強力な航空爆撃と艦砲射撃に支援されながら、引き続きファイブ・シスターズ陣地の攻略を目指したが、損害ばかりが拡大し進撃は捗らなかった。ファイブ・シスターズという呼び名は、ペリリュー中部に連なる山岳地帯で5つの低い尾根が連なっている場所を称して名付けたものであるが、その連なる尾根には中川大佐指導の下で地形を最大限に利用して構築された、何重にも渡る縦深複郭陣地が待ち構えていた。この陣地への攻撃でガダルカナルで海軍十字章などの表彰を受けた歴戦の海兵隊員も多く命を落とした。そのような過酷な状況で、海兵第1連隊のC中隊は激しい戦闘の上、死傷者続出で中隊が90名に激減しながらも、標高100mの尾根ウォルト・リッジの頂上に達した。しかしそこは他の尾根や日本軍陣地から丸見えで、四方八方から集中射撃を受けた上に、頂上奪還の為に反撃してきた日本軍との激しい白兵戦となった。ここでも今まで戦われてきた白兵戦と同様に、日本兵は銃剣や軍刀で斬りかかり、アメリカ兵は銃の台尻や時には素手で殴るといった激しい肉弾戦が戦場のあちこちで繰り広げられた。その後頂上を丸1日確保したC中隊であったが、最後は手りゅう弾を投げ尽くし石を投げるところまで追い詰められるほどボロボロになって頂上からの撤退を余儀なくされ、その際の残存兵力はわずか9名になっていた。第1海兵連隊は激戦の中で傘下の第1大隊が壊滅したため、第2大隊と合流させたが、それでも通常の1個大隊分の基準兵力には大きく及ばなかった。連隊内部での人員のやりくりも限界に達しており、ついには炊事兵・ジープの運転手・憲兵・会計担当までを第一線に投入したが、士気や練度が低くまともな戦力にはならなかった。

9月21日に第3海兵水陸両用部隊司令官ロイ・ガイガー少将が戦況把握の為に海兵第1連隊司令部を訪れたが、その惨状を見て言葉を失った。ブラー大佐はガダルカナルで受けた古傷により歩行できなくなっており、担架に乗りながら作戦指揮をしていたが、疲労で憔悴しきっていた。兵員も約3,000名の連隊の定員の内1,749名が死傷しており、第1海兵連隊はアメリカ軍史上最も激しい損害を受けた連隊となっていた。傘下の大隊の内、第1大隊の死傷率は71%に達しており事実上全滅していた。配下のライフル歩兵3個中隊(1個中隊は通常240名)の残存兵員は74名しかおらず、上陸時の小隊長は一人も残っていなかった。第2・第3大隊もそれぞれ56%と55%の死傷率であり事実上壊滅していた。それでもブラー大佐はファイブ・シスターズ陣地を独力で攻略可能と息巻いていたが、ガイガー少将はその足で師団司令部を訪れると「第1海兵連隊は終わった」と言い放ち、リュパータス師団長に陸軍の増援を求めるよう提案した。しかしこの期に及んでもリュパータス師団長は陸軍の支援を受ける事に抵抗を示したが、それに構わずガイガー少将はアンガウルの戦いで日本軍守備隊をほぼ撃破していた陸軍第81歩兵師団(山猫部隊 Wildcat英語版の予備部隊であった第321連隊をペリリュー島に移動させる様命令している[44]

9月23日に交替が告げられた第1海兵連隊は、25日にはパヴヴ島へ海上移動する為に第5海兵連隊が残敵掃討した海岸に撤退してきたが、第1海兵連隊の人数の少なさに第5海兵連隊将兵は衝撃を受けている。第5海兵連隊のユージーン・スレッジ一等兵は第1海兵連隊にいたはずの多くの知り合いの顔が見えないのに愕然とし、ある旧友に中隊が何人残っているのか?と尋ねたところ「たったの20人だ、全滅寸前だった。」という答えが返ってきたが、これは第1海兵連隊に代わってファイブ・シスターズ陣地に駆り出される事となった第5海兵連隊の将来の姿となった[45]

ファイブ・シスターズ包囲戦[編集]

山岳地帯を進撃する海兵隊歩兵

アメリカ軍は第1海兵連隊の壊滅後、作戦の変更を余儀なくされ、島南部からファイブ・シスターズ陣地への強行を断念し、島の西側の比較的日本軍の抵抗の少ない平坦地を掃討しながら島の北端まで制圧し、日本軍守備隊を山岳地帯に孤立させた後に、日本軍の堅陣を突破できるルートを探す作戦に切り替えた。残る第5海兵連隊と第7海兵連隊も第1海兵連隊程ではないが、かなりの損害を被っており、第1海兵師団全体での死傷者は第1海兵師団撤退時点で合計3,946名に達していた[46]

第5海兵連隊はペリリュー島北部にあるガブドス島に上陸作戦を行った。ガブドス島には、作りかけの小型機用の飛行場と日本軍の砲兵陣地があった為、砲兵陣地の制圧と飛行場を戦闘機用の飛行場として使用する為の作戦であった。また飯田大隊の逆上陸成功もアメリカ軍に更なる日本軍の援軍到来の懸念を生じさせており、その防止の意味合いもあった。ガブドス島にも日本軍はトーチカを構築していたが平坦地であった為、戦艦ミシシッピを主力とする支援艦の艦砲射撃と航空爆撃と海兵隊の果敢な攻撃により程なく無力化され、日本軍は470名もの戦死者を出したのに対し、アメリカ軍の死傷者は約50名であった[47]

アメリカ軍の新たな作戦計画通り、中央の山岳地帯以外の地域については、第5海兵連隊と第1海兵連隊に代わった陸軍第321連隊によってほぼ制圧されたが、その後ファイブ・シスターズ陣地の攻略には劇的な進展はなく、攻撃した第7海兵連隊と陸軍第321連隊は第1海兵連隊と同様に日本軍の堅い守備に阻まれ損害だけが増えていた。そのような状況下で9月27日には、飛行場北端にある鉄筋コンクリート製の元日本軍司令部に置かれたリュパータス師団長の指揮所でアメリカ軍の勝利式典が行われた。北部山岳地帯での両軍による砲声が鳴り響く中で、式典は師団長と指揮下の連隊長と幕僚数名参席という簡単なものであったが、「勝利宣言」の直後の9月30日には第1海兵師団の死傷者は5,044名にも達しており、この後もこの島の戦闘は2ヶ月も続く事になる[48]

10月3日には島北部の掃討を終えた第5海兵連隊もファイブ・シスターズ陣地攻略に加わった。アメリカ軍は攻撃に先立って山岳地帯全体に激しい砲爆撃を加え、機関銃兵が援護射撃を行う中でライフル歩兵が高地の斜面を前進していくが、砲撃をやりすごした日本軍の迫撃砲や小火器がライフル歩兵に撃ちこまれ死傷者が続出し進撃が停止し、今度はアメリカ軍が迫撃砲で援護射撃を行う中で、ライフル歩兵が前進してきた道を後退していくといった戦闘が何日も繰り返された。陣地に籠る日本軍は片時も目を離さずにアメリカ軍を監視し、限られた弾薬を有効活用するよう最大限務めており、砲撃や射撃はアメリカ軍に最大限の損害を与えられると見極めた時に効果的に行われた。特に日本軍が狙撃してきたときは、ほぼ例外なく誰かに命中していると海兵隊員が恐怖するほど、日本軍の射撃に関する規律は見事であった。また日中は陣地に籠っていた日本兵は夜になると、アメリカ軍が夜襲警戒の為に絶え間なく打ち上げている照明弾の一瞬の隙をついて、砲撃で倒れた樹木や岩陰を利用して音もなく忍び寄り、アメリカ兵に夜襲をかけてきた。その音もたてずに近づいてくる能力は、アメリカ兵にとっては恐怖の的であり、アメリカ軍は対策として暗くなったら塹壕から出る事を禁止し、2人1組となって、1名が寝ているときは別の1名が寝ずの番を行うといった対策をとったが、それでも死傷者が続出した[49]。この10月3日にはペリリューの戦いで最高位の戦死者となった師団参謀のジョセフ・F・ハンキンス大佐が、前線視察中に日本軍の狙撃兵に胸を撃ち抜かれて戦死している[50]

日本軍の洞窟陣地を攻撃する海兵隊歩兵

中川大佐は、アメリカ軍に心理戦を仕掛けるつもりであったのか、アメリカ軍に対する降伏勧告文書を英語の達者な烏丸洋一中尉に作らせらた、その内容は「勇敢なアメリカ軍兵士諸君、諸君らがこの島に上陸して以来、まことに気の毒である。悲惨な戦闘の中において、我が方はただ君たちに射撃を浴びせるだけで、水も与えられず相すまないと思っている。諸君は勇敢にその任務を果たした。今や武器を捨てて、白旗かハンカチを掲げて日本軍陣地に来たれ。喜んで諸君を迎え、できるだけの優遇をする。」といったものだった。中川大佐はこのビラを斬り込み隊に持たせアメリカ軍の陣地にばら撒いたが、アメリカ軍はその意趣返しか数日後に日本軍への降伏勧告のビラを大量に航空機からばら撒いている[51]。しかし、両軍ともビラを実践し降伏する兵士はいなかった。

10月に入ってから、それまで異常気象でずっと晴天であったペリリュー島にも雨が降り始めた。極暑と乾きの中で戦っていた両軍にとっては恵みの雨となったが、アメリカ軍にとっては、視界が不良になったり足元がぬかるむため、恵みばかりとは言えなかった。更に風雨が強まり、航空支援や補給物資の輸送にも影響が出るようになり、補給が滞るようになった。その為、第1海兵師団の補給物資の揚陸や輸送の責任者であった中佐がその重責に耐えられず拳銃自殺を遂げている。10月4日にはペリリュー島に台風が接近した為、井上中将はその嵐の中を突いてパラオ各島から飯田大隊に続く増援を送ろうと画策したが、増援を懸念していたアメリカ軍の徹底した船舶への攻撃により、部隊を海上輸送するだけの船舶を集める事ができず断念せざるを得なかった[52]

10月5日には第7海兵連隊が総力をかけた最後の攻撃を行った。その結果、第7海兵連隊は既に撤退している第1海兵連隊に匹敵する1,497名の死傷者を出していた。強襲部隊としては既に部隊としての体を成しておらず、攻撃失敗後に、第1海兵師団で最後に残った第5海兵連隊と交代しファイブ・シスターズ陣地攻略の任を解かれた。また10月1日には海兵第1師団の唯一の戦車隊であった第1戦車大隊も損害蓄積により撤退させられている。しかしこの頃になると日本軍側の攻撃に変化が見られるようになり、それまでは激しい砲撃と銃撃がアメリカ軍に浴びせられていたが、攻撃は散発的になり、より確実性を求めるようになっていた。日本軍の火砲は所定の成果を挙げると射撃を止めるようになり、戦場に奇妙な静寂が訪れた[53]。日本軍も苦しんでおり、既に戦死者行方不明者は9,000名を超え、10月13日時点で中川大佐が掌握していた兵員は1,150名に過ぎなかった。

第5海兵連隊と陸軍第321連隊は日本軍をファイブ・シスターズ陣地を中心とした東西300m、南北450mの狭い地域に包囲することに成功していた。しかし第5海兵連隊も限界に達しており、10月15日にペリリュー島を離れる事となった。損害は第1海兵師団の中でもっとも少なかったとは言え1,378名に達していた。第5海兵連隊の撤退により、第1海兵師団の全兵力はペリリュー島から去る事となった。10月23日にはペリリュー島の攻略は完全に陸軍に引き継がれる事となり、「激しくて短い戦い」と宣言したリュパータス師団長も飛行機でペリリュー島を後にしたが、宣言通り第1海兵師団単独で短期間に攻略できなかったという悔しさよりむしろ、地獄の戦場を後にできるという安堵の表情であったと言う。海兵隊からペリリューの攻略を引き継いだポール・J・ミューラー英語版陸軍少将は包囲網を時間をかけて慎重に縮めていく事で、これ以上の人員の消耗を避ける戦術を取ろうとした。またアメリカ軍は新たな戦術として、ペリリュー島にふんだんにある珊瑚質の砂を利用し、土嚢袋を前線まで運び、車両が入れない狭い道などでは土嚢に砂を詰めると、兵士は土嚢ごと前進し日本軍の攻撃から防御する戦術を行い始めた。この戦術は有効であり、日本軍の小火器や砲弾の破片による損害を減少させた[54]。また日本軍陣地をナパーム弾や火炎放射器や時にはガソリンを直接流し込んで焼き払い、爆薬で爆破し着実に攻略していった。

包囲されている日本軍は10月17日にペリリュー島唯一の水源である池をアメリカ軍に奪われていた。その為水不足が深刻化し、日本軍は決死隊を編成し夜陰に紛れて水汲みに出かけたが、アメリカ軍はそれを重機関銃で狙い撃って、日本軍は百数十名の死者を出す事となってしまった。ついにアメリカ軍は10月28日には水源を鉄条網で囲い完全に遮断し、日本軍は乾きに苦しむ事となった。そのような状況の中で10月21日には昭和天皇から6回目の嘉賞を受け、10月23日には連合艦隊司令長官から感状も授与され士気は多いに高まったが、10月末時点で中川大佐が掌握していた兵力はわずか500名にまで減っていた[55]。一方で、10月25日には包囲網を縮める戦いを行ってきた陸軍第321連隊が死傷者615名に達した為、陸軍第323連隊と交代した。アメリカ軍は次々と新戦力を投入してくるのに対し、日本軍は増援も補給もなく次第に追い詰められていった[56]

それでも日本軍は最後まで高い戦意を維持し戦い続け、攻撃する第323連隊はたびたび苦杯をなめさせられた。11月に入って8日までは再び訪れた台風で小休止となったが、その後は中川大佐の司令部洞窟のある通称「チャイナ・ウォール」を巡って最後の激しい戦いが続けられた。チャイナ・ウォールの周辺は急峻な地形であり、車両が近づけず、アメリカ軍は戦車や火炎放射器での攻撃ができなかった。この戦いの中で10月17日に日本軍の狙撃兵は、第323連隊第1大隊長レイモンド・S・ゲイツ中佐を仕留めている。ゲイツ中佐はペリリュー島での陸軍での最高位の戦死者となった。

戦いの終わり[編集]

1944年12月27日ペリリュー戦での戦死者を弔う墓地で行われた記念式典

ペリリュー島上陸と同日にマッカーサーが率いる南西太平洋方面軍の陸軍部隊がモロタイ島に上陸し、ニミッツの海軍主体の中部太平洋方面軍との間で張り合う格好だったが、モロタイ島攻略は米側死傷者44名と軽微な損害だけで簡単に終了した。海兵隊がペリリュー島から交代した頃には、アメリカ軍のフィリピン攻略の中継地点にモロタイ島が利用されており、レイテ沖海戦が行われていて、日米の主要な戦場は既にフィリピンに移っていた。アメリカ海軍のマッカーサーへの対抗上からも、また海兵隊のアメリカ軍部内での存在意義を示す(つまり「敵前強行上陸を行って前進根拠地を確保する戦力である」と証明する)意味からも、早期攻略が為し得なかったことでアメリカ軍にとってのペリリュー攻略は、もう戦略的価値はなくなっていた。

11月24日にはついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底を突き、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐(歩兵第2連隊長)は拳銃で自決。村井権治郎少将(第14師団派遣参謀)、飯田義栄中佐(歩兵第15連隊第2大隊長)が割腹自決した後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による「万歳突撃」が行われた。 こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日、ついにアメリカ軍はペリリュー島の占領を果たすこととなった。南カロリン諸島の司令官J・W・リーブス少将は「ペリリュー島で、予定を大幅に超過したものの、敵の組織的抵抗を崩壊させて、作戦を成功に導けたことに心からお祝い申し上げる。」と第81歩兵師団(ワイルド・キャット師団)に労いの言葉をかけたが、第1海兵師団リュパータス師団長の「激しいが短い、長くて4日」の作戦は結果として73日もかかったことになった[57]

戦闘終了後、ワイルド・キャット師団の兵士が、最後の最後まで激しく抵抗した日本軍の司令部壕に恐る恐る入ると、中川大佐と村井少将の遺体を発見した。二人の遺体は所持品により確認され、敬意をもって丁重に埋葬された。ワイルドキャット師団のペリリューの戦闘報告書には「日本軍守備隊は、祖国の為に、全員忠実に戦死せり」と書かれた。

ペリリューから撤退した第1海兵師団はパヴヴ島で休養と再編成中であったがその中にはリュパータス師団長はいなかった。個人的に親しいヴァンデグリフト海兵隊総司令の配慮により海兵隊学校の校長に任命されアメリカ本土に帰還していた。実際は第一線の実戦部隊指揮官からの明らかな更迭で、リュパータスの軍歴の終わりを意味していたが、ヴァンデグリフトはかつての部下のプライドを慮り、ペリリュー島での労を労う意味合いで作戦功労勲章を授与した。しかし第1海兵師団の中でリュパータスの離任を嘆くものは殆どいなかった。リュパータスはその後、ペリリューの回顧録を書く間もなく、後任の師団長に率いられた第1海兵師団が沖縄に向かっている途中の1945年3月26日に心臓発作で急死している[58]

ペリリュー守備隊の異例の奮闘に対して昭和天皇から嘉賞11度、上級司令部から感状3度が与えられ、中川は死後に2階級特進し陸軍中将となった。

司令部全滅後も他の陣地に籠っていた関口中尉以下50名がアメリカ軍の掃討作戦をかわし遊撃戦を展開した。1945年1月には関口中尉が戦死し、山口少尉を最高位として34名が生き残った。その34名はアメリカ軍の食糧貯蔵庫を襲撃し3年分の食糧を確保すると手製の蛮刀と手榴弾で武装し、アメリカ軍の遺棄物資や手作りの生活用品を用いながら2年近く洞窟内で生きながらえたが、1947年4月22日に澄川道男少将の誘導により米軍へ投降した。この生き残りの34人は後に「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成している[59]

ペリリュー戦への評価[編集]

アメリカ海兵隊の評価は「日本軍はアメリカ軍に多大な犠牲を負わせる事によって、長期に渡る遅滞・流血戦術を実行する事に成功した。ペリリューで被った多大なコストは、日本に向けて太平洋を進む連合軍に大きな警鐘を鳴らした。海空で圧倒的優勢であり、莫大な量の艦砲射撃やナパーム弾を含む爆撃と4倍にもなる兵力差であったにも拘わらず、日本兵1名の戦死ごとにアメリカ兵1名の死傷と1,589発の重火器及び小火器の弾薬を要した。この戦いは数か月後には硫黄島と沖縄での、日本軍の見事に指揮された防御戦術に繋がる事となった。」と中川大佐による、アメリカ軍になるべく多くの出血を強い、長い期間ペリリュー島に足止めする作戦が成功し、日本軍の頑強な抵抗が、後の硫黄島戦と沖縄戦の前哨戦となったと評価している[60]

アメリカ軍内では日本軍の頑強な抵抗への評価が高い一方で、ペリリュー島攻略のメリットがその莫大な損失に見合うものだったのか?と言う疑問が今日でも投げかけられている。 陸軍第323連隊が無血占領したウルシー環礁が天然の良港で、ペリリュー島より遥かに基地を構築するのに非常に適した島であり、アメリカ海軍はここに巨大な前線基地を構築し、その後の硫黄島戦や沖縄戦での重要な拠点となった。一方、当初の目的であったフィリピン戦への航空支援基地としての役割についても、ペリリュー島の飛行場が整備されフィリピンへの支援ができるようになったのはダグラス・マッカーサーレイテ島に上陸してから1ヶ月も経った後の事であり、その時点では大きな戦略的価値を失っていた。その為、アメリカ国内においても、ペリリュー戦は殆ど顧みられる事はなく、同時期に行われたフィリピン戦やヨーロッパ戦線のマーケット・ガーデン作戦などのニュースが新聞紙面を飾っていた。第1海兵師団戦史担当者も「激しく戦って、たくさんやられて、見返りが少ない。第一海兵師団ではいつもの事だよ。」と自虐気味に振り返っている[61]

アメリカ軍高官の中でも第3艦隊ウィリアム・ハルゼー提督が「(パラオの攻略は)あまりに価値に見合わない対価を払わされたと考えている。」と当初からペリリュー島を含むパラオ攻略に反対であった自分の考えは正しかったと主張し、上陸部隊を艦砲射撃で支援したオルデンドルフ少将も「パラオ攻略作戦は疑問の余地なく実施されるべきではなかった。」と辛辣な評価をしている。また、ダグラス・マッカーサー元帥は、ペリリュー攻略が自らのフィリピン攻略作戦の支援になると考え、海兵第1師団の上陸直前に「海兵隊諸君の勝利は、フィリピン上陸作戦の成功をより確固たるものにするはずであり、私は海軍ならびに海兵隊諸君らの作戦に全幅の信頼を置くものである。」と録音にて全軍に演説した程に作戦当初は入れ込んでいたが、戦後に「中部太平洋ではそれほど運がよくなく、パラオ諸島攻略に8,000名以上の死傷者を出した。」と他人事みたいに振り返っている[62]

一方でステールメイトII作戦の最高責任者であった太平洋方面軍司令チェスター・ニミッツ元帥は「(ペリリュー島の利便が)2,000名の戦死者を含む10,000名のアメリカ軍死傷者に見合うものであったかどうかについては疑問の余地があるかも知れないが、一方、パラオが日本軍の手に完全に残された場合、マッカーサーのフィリピン進撃に対して真の脅威になったであろうことには疑問の余地はない。」とその意義を強調している[63]

ペリリュー戦で実際に戦った兵士の感想として、負傷したトム・ボイル二等兵は、ペリリュー戦の意義を戦後50年近く経ってから「人生締めくくりの今に振り返ってみるとそれなりに貴重な体験だった。でも惨めな体験でもあった。でも、あまり誰にでも勧められるものではないよ。なぜなら生き残る事が難しいからね」と回想している[64]

損害[編集]

日本軍[編集]

  • 戦死者 10,695名
  • 捕虜 202名
  • 最後まで戦って生き残った者34名

アメリカ軍[編集]

  • 戦死者 2,336名
  • 戦傷者 8,450名 ※この他に精神に異常をきたした者が数千名いた。(陸軍歩兵第81師団だけで2,500名)[65]

一般人民[編集]

  • 陣地構築に徴用されていたが、日本軍が戦闘前に強制退避させたため死者・負傷者ともに0名とされる。

ペリリュー島の島民[編集]

ペリリュー島には1943年6月末の段階で民間人1,060名(日本人160名、朝鮮人1名、現地住民899名)が平地の多い南部を中心に居住していたが、ミッドウェー海戦後の空母不足を島嶼基地航空部隊で補う方針が採られ、飛行場拡充・防備の強化に伴い防諜の観点から、1943年9月から島民はパラオ本島とコロール島に疎開が始まり1944年8月までに強制移住させられた。戦後、南部が廃墟となったため北部に一部の住民が再定住した。しかし現在も戻れなかった島民と子孫1,600名が、土地所有権の絡みでペリリュー出身であると主張している。

当時の日本による教育を受けていた島民は現在でも日本語を話すことができ、また単語単位であれば若者にも日本語が通じる場合がある。

日本からの援助で購入されたコロールとの連絡船は、「YAMATO」と命名されている。また、ペリリューに桜は咲かないが、日本をイメージする「サクラ」という言葉には人気があり、スポーツチームの名前等にも使用されている[66]

伝承など[編集]

現地住民の被害が少なかったことは、美談として毎日新聞のコラムなどで掲載されたといわれる(毎日新聞社から出版された舩坂弘の著作「サクラサクラ」1966年か)。

あある老人が若い頃日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に進言したが「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と激昂され、見せ掛けの友情だったのかと失意の中、島を離れる船に乗り込んだ。が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。老人はその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。

ペ島の桜を讃える歌[編集]

名越二荒之助によれば、パラオ共和国が誕生した時、同島出身の人らによってペリリュー島における日本軍の勇戦を讃える「ペ島の桜を讃える歌」(作詞:同島出身のジョージ・シゲオとオキヤマ・トヨミ 作曲:同島小学校副校長ウィンティ)がつくられ、今に歌い継がれている[67]

名越の記述は舩坂弘著『血風ペリリュー島』(1981年、叢文社)から引用されたものとされるが、舩坂本では「作詞:沖山トヨミ・庄子シゲオ 作曲:同島小学校副校長ウィンティ 監修:舩坂恵子・蜂巣一郎 指導:舩坂弘」と記述され、日本人による「監修」「指導」まで明らかにされているが名越の本では省略されている。なお、舩坂弘の『血風ペリリュー島』は2000年に「ペリリュー島玉砕戦」と改題され出版されているが、ペリリュー島の桜を讃える歌の記述は削除されている。

「ペ島の桜を讃える歌」は後述サンケイ新聞社の住田良能記者が1978年にペリリュー島を取材した時に記録された「緑の島の墓」(作詞:小学校副校長ウィンティー・トンミ 作曲:妻のアントニア)と曲(メロディー)同じである。1981年「ペ島の桜を讃える歌」は1978年以前に作られていた「緑の島の墓」の曲を使いまわし、作詞は舩坂によってなされたともいわれる[誰?]

日本会議事業センターが2005年に製作したDVD『天翔る青春ー日本を愛した勇士たち』には、パラオの人々が「ペ島の桜を讃える歌」を歌う映像が収録されている。

ペリリュー神社[編集]

1982年に清流社が組織した青年神職南洋群島慰霊巡拝団の滑川裕二日本青年社幹部)が中心となり、地元住民には観光産業振興のため慰霊寺院 (Japanese type of temple)と宿泊施設を建設するとの約束のもと、地元住民が協力して慰霊施設ペリリュー神社が再建された。しかし、大江志乃夫は1998年時点で契約にあった宿泊施設は建設されていないと指摘している[68]

“ニミッツ提督作”の詩文[編集]

名越二荒之助による紹介[編集]

“ニミッツ提督の作”と名越二荒之助が提示した詩文

神社に建設された碑(1994年に建立)には、東郷平八郎を尊敬するチェスター・ニミッツの詩文とされる文字列が彫り込まれている。

「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本国人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」
"Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz"

名越二荒之助の著作[69]で有名になったこの詩文は、名越によれば、ペリリュー神社境内の掲示板に書き込まれていたものを名越が見つけたとしている。

右の掲示板には、戦闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれています。「この島を訪れる旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を・・・・・・

— 1987年『世界に生きる日本の心』230頁

名越はこの詩文のオリジナルである英文を探そうと他の人に頼み、ついに浦茂(元陸軍中佐。宮城事件ではクーデター計画作成に関与・戦後航空幕僚長・退職後ロッキード社の代理店の丸紅顧問)が1984年に渡米し、ニミッツの資料を求めてアナポリス海軍兵学校を訪れた時、教官からニミッツの詩として伝えられたものとして、英文を提示した。

浦氏が昭和五十九年に渡米し、ニミッツの資料を求めて、アナポリス海軍兵学校を訪れました。その時、教官から教えられた英文は、次のようなものでした。「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. 」

— 1987年『世界に生きる日本の心』231頁

舩坂弘の著書との比較[編集]

名越は『世界に生きる日本の心』本文で言及していないが、掲載された写真には詩文の後に出典として舩坂弘著『血風ペリリュー島』と記され、当該詩文は米軍公刊戦史に記された詩文としか紹介されていない。

米国公刊戦史には「この島を訪ねる、もろもろの国の旅人たちよ、あなたが日本を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を・・・・」とある 船坂 弘著「血風ペリリュー島」より”

— 1987年『世界に生きる日本の心』231頁、写真1982年当該部分

船坂弘『血風ペリリュー島』(1981年)で該当する部分は、サンケイ新聞記者の住田良能記者が1978年にサンケイ新聞の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に記載されている。

“犠牲の大きい戦いだっただけに、米軍にとって、勝利はひときわ印象深かった。戦後太平洋方面最高司令官だったニミッツ提督は「制空、制海権を手中にした米軍が、一万余の死傷者を出してペリリューを占領したことは、いまもって大きなナゾである」と述べ、また米軍公刊戦史は「旅人よ、日本の国を過ぐることあれば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国のために全員忠実に戦死せりと」と讃えた。”

— 1981年「血風ペリリュー島」P258における1978年住田記者の記事

「血風ペリリュー島」における住田良能記者の記事では出典は明記されていないが、それとほぼ同じ文章が、舩坂弘が監修し自身が経営する出版社から出した「栄光の軍旗あゝ我が水戸の二聯隊」(1972年大盛堂書店)に存在する。

“ペリリュー島攻撃は、米国の歴史に於ける他の如何なる上陸作戦にも見られない、最高の損害比率(約四〇パーセント)を出した。

既に制空、制海権を手中に納めていた米軍が死傷者併せて一万余人を数える犠牲者を出して、ペリリュー島を占領したことは、今もって大きな疑問である。━元太平洋方面最高指揮官C・Wニミッツ著『太平洋海戦史』より

○一行空白○

旅人よ、日本の国を過ぐることあらば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国日本の為に全員忠実に戦死せりと。(米軍公刊戦史より)”

— 1972年栄光の軍あゝ我が水戸の二聯隊P271-272

シャーロッド記者の目撃証言・著作[編集]

米軍公刊戦史にこのようなペリリューの日本兵を讃える詩文の記述は見当たらないが、元となったであろう文献が存在する。ペリリュー島の戦いが始まる一ヶ月前に、アメリカの従軍記者として有名なロバート・シャーロッドサイパンの戦いをレポートした「THE NATURE OF THE ENEMY」(週刊誌タイム1944年8月7日号)で、追い詰められた3人の在留邦人女性が入水自殺する前に悠然と長い黒髪を櫛ですいていた情景を目撃した海兵隊員の証言を聞き、古代ギリシアのテルモピレーの戦いを想起したとする記事を書いている。[1]

In one instance marines watched in astonishment as three women sat on the rocks leisurely, deliberately combing their long black hair. ※Finally they joined hands and walked slowly out into the sea.

  • ※The marines had obviously never heard that Leonidas and his Spartans did the same before their last stand at Thermopylae.
— タイム1944年8月7日号

この「THE NATURE OF THE ENEMY」におけるサイパン島日本人民間人の壮絶な最後の様子は、交戦相手国のメディアであるにもかかわらず逆利用され戦意高揚のため日本の新聞各紙(朝日、毎日、読売報知)において引用されたが、朝日新聞1944年8月19日のストックホルム渡辺特派員の記事では『こゝに引用されたテルモピレーの戦ひとは紀元前四八〇年三百のスパルタ兵がレオニダス王の下に数百倍するペルシャ軍を迎へて全員華と散つた戦さのことである。その戦跡にいまなほ残る碑文には「旅人よ、行きてラケダイモン(スパルタ人)に告げよ、彼等の命に従い我等のこゝに眠るを」と書いてある』と解説された。テルモピレーの事例とは、ペルシャ軍の斥候がスパルタ軍の陣地を偵察した際、スパルタ兵達が頭髪に櫛を当てていた情景か[70]

またシャーロッドは1945年に自身が従軍した戦闘のレポート「On to Westward: The WAR IN THE CENTRAL PACIFIC」を出版。この本のサイパン部分が中野五郎訳で1951年日本でも出版された。タイムに掲載された部分は以下のように記されている

Some of the Jap civilians went through considerable ceremony before snuffing out their lives. In one instance Marines watched in astonishment as three women sat on the rocks leisurely, deliberately combing their long, black hair-much after the fashion of Leonidas and his Spartans before their last stand at Thermopylae. Finally,the women joined hands and walked slowly out into the sea.

— 1945年「On to Westward」ロバートシャーロッド著p146

また日本人の在留邦人の一部には、みずからその生命を絶つまえに相当の儀礼をとりおこなうものがあつた。その一例として、三名の日本人の女性が、まるでテルモピレーの決死の陣にのぞんだレオニダス将軍と部下のスパルタ軍勢の流儀に大いに似て、岩頭にゆうゆうと坐つてその長い黒髪を落ちついて櫛けずりつつあつた光景には、さすがの海兵たちも呆然と驚異の目を見はつて見まもるばかりであつた。それから最後に、これらの女性はそれぞれ両手を合わせて祈りながら、しずしずと海のなかへ歩いていつて姿を消したのである。

— 1951年「サイパン」ロバートシャーロッド著中野五郎訳p302

「太平洋の防波堤」[編集]

シャーロッド「On to Westward」は主にサイパンと硫黄島の戦いを扱っているが、ペリリューの戦いに言及した以下のような記述が存在する[71]

During the day Marines saw most of the suicides at Marpi Point,there were loudspeakers set up on the cliff. The surrendered civilians pleaded with the others to give themselves up,assuring them that they would be well treated.But that did not stop the suicides.Among many Japanese there seemed to be apressing compulsion to die,regardless of everything. The attitude of these civilians seemed comparable to that of Jap soldiers on Peleliu who lettered a sign before they died:

“We will build a barrier across the Pacific with our bodies.”

<和訳> 海兵隊はマルピ岬で在留邦人婦女子の投身自殺の大半を見かけた当日の一日中の間にも、その断崖の上にはラジオの拡声器がいくつも据えつけられていた。そしてすでに投降した在留邦人たちは、他の同胞に向かつてよく待遇されるむねを説得しながら、投降するように大いにすすめたのであつた。しかし、それでも日本人の自決をとどめることはできなかつた。多数の日本人の間には、あらゆることにもかかわりなく、死のうとする強烈な推進力があるように思われた。これらのサイパン島の在留邦人の態度は、総員自決するまえに次のような文字を書き残して玉砕したペリリュー島(内南洋のパラオ諸島の主島)の日本軍将兵の態度とよく似ているように見えた。

「われわれは、わが屍をもつて太平洋の防砦を築かん!」

— 1951年「サイパン」ロバートシャーロッド著中野五郎訳p306

シャーロッドの著作に記されているペリリュー日本守備隊の兵士達が死ぬ前に書き残した「We will build a barrier across the Pacific with our bodies」の原文(日本文)は不明だが、サイパンの戦いで歩兵第136連隊長として指揮を取った小川雪松大佐が1944年5月9日に日本を出発する出陣式の挨拶で似たような言葉「身をもって太平洋の防波堤たらん」を訓示している。また同じくサイパンで自決したサイパン防衛の最高指揮官である中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将も7月3日玉砕直前最後の訓示で「太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす」と述べている。

この「太平洋の防波堤」という言い方は1944年2月マリアナ・パラオ方面の防衛を管轄する第31軍司令官に親補された小畑英良中将がサイパン赴任前に昭和天皇に謁見した時に誓った言葉「われ身をもって太平洋の防波堤となり、陛下と国民の期待に答えんことを期す」に由来する。小畑はサイパン赴任後の1944年5月28日〜30日にはペリリューの守備部隊を視察、6月のサイパン戦時はグアム島から指揮を取り8月のグアムの戦いで玉砕戦死しているがそのとき自身も8月10日に「己れ身を以て、太平洋の防波堤たらん」との決別の電報を打っている。


なお名越は、前掲書においてペリリューの戦いを記述する前に、ミャンマー・中国大陸や太平洋の島々の玉砕戦に比肩するものとして古代ギリシア時代のテルモピュライの戦いを例示している。このテルモピュライの戦いでも詩が賦され、石碑も建てられている。

"Go tell the Spartans, thou that passest by,That here, obedient to their laws, we lie."
「旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモン(スパルタ)の人々に。我等かのことばに従いてここに伏すと」。

パラオのジャンヌ・ダルク伝説[編集]

中川大佐配下の独立歩兵第346大隊長 A少佐の愛人芸者(慰安婦)がパラオの中心地のコロール島からペリリュー島にやってきて日本軍と一緒に戦い最期は機関銃を乱射アメリカ兵86人を死傷させ玉砕したという伝説。2007年には靖国神社で開催されたパラオ展[2](主催靖国神社・共催NPO法人日本パラオ協会{理事長 黒岩徹の方})でも紹介され、多くの人に半ば実在したと信じられている都市伝説

  • 月刊誌宝石1966年9月号児島襄著「太平洋戦争“最強部隊”の勇者達 最後の一兵は女性だったと語り伝えられるペリリュー島日本守備隊の奮戦記」以来一部伝説となって神格化されそれらしき女性の名前まで提示され、近年でも諸君2008年6月号秦郁彦著「玉砕の島ペリリュー 『女性兵士』伝説の謎を追う」で検証(秦はこの伝説の真実性に懐疑的な見方をしている)が試みられたエピソードの、現在確認される最古の資料は、海外渡航が制限されている中で南洋諸島と往来できた数少ない日本人である燐鉱石会社社員や船員の伝聞を元にした朝日新聞1952年11月29日「八つの島(4)ペリリュー島」である。1952年朝日では1952年時点で島の中央、水府山頂に白い十字架が輝いているとし、女性兵士最期の時期は1944年11月30日場所は中部の水府山(中川大佐が指揮を取っていた地点)となっているが、1966年児島では女性兵士最期の時期は9月下旬・場所は北部の水戸山となっている。朝日記事の水府山だと愛人を連れてきた将校は中川大佐の可能性が高くなる、場所と時期をずらして水戸山とすればA少佐の可能性が高くなる。

中川大佐にしろA少佐にしろ愛人女性を1人引き入れたとすると、将校専用慰安婦とはいえ、ペリリュー島の男女比は10000対1となりこれは後年好奇の目で注目されたアナタハンの女王事件をはるかに上回る比率となる。

当時の状況は3月のパラオ大空襲やマリアナ陥落直後であり非常に緊張に満ちた状態で中川大佐の指揮下連日猛訓練と陣地築城作業が進行中である。 予備役から再召集された(現役将校に比べて軍人として立場の弱い)A少佐が指揮する部隊はニューギニア方面に送られる予定が戦況の悪化でパラオ本島に滞留していた各地の部隊を寄せ集め再編成している途上であり部隊長のA少佐は多忙でありまた重責を負っていた。

児島のつじつま合わせの推理に依拠して無闇矢鱈にA少佐の名前を提示することはA少佐の名誉を傷つけるものであり、また、伝説に少しでも信憑性を与える行為(小説化・テレビドラマ化)はひいては日本軍への侮辱ともとられかねない。

  • また歩兵第二連隊所属 森島一等兵は、将校専属の慰安婦一名が最後まで島に残り、軍服を着用して釣りをする姿を目撃している。同連隊生還者の飯島上等兵も、米軍がたてた十字架墓を島北端の電信所付近(水戸山)で目撃している。投降後、飯島が米兵に聞くと、手榴弾を投擲して米軍を足止めした日本軍女性兵士の墓という回答があった[72]。(平野柾緒 『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』、学研、2010)
  • 上記、平野の著作(2010年版)では、アメリカ軍はペリリュー島内の他の場所に十字架を立てなかったから、目撃証言の十字架は日本の女性兵士を葬るためにアメリカ軍が建てたものである可能性が高いとしている。
  • しかし実際には、アメリカ軍は自軍の戦死者を葬るために島のあちこちに十字架を立てている[73][74]

戦死しいったん葬られたアメリカ兵の遺体はその後全て掘り起こされ本国に帰還している。

これら女性兵士に関する諸証言のさらに基となった可能性のある二つのエピソードが存在する。

  • ペリリューの戦いが始まる2ヶ月前のサイパンの戦いをレポートした前節上掲ロバート・シャーロッド著「サイパン」1951年邦訳出版(訳者中野五郎)p307に、サイパンの在留邦人女性がアメリカ軍部隊に向け小銃を乱射し、最後に足を撃ち抜かれ野戦病院に収容された話が掲載されている。
  • 同じくサイパンの戦いで自決を試み重傷を負うもアメリカ軍に救助された従軍看護婦の菅野静子(菅野は戦闘に参加していないが鉄帽を被っていたため女兵士と誤認された)が“サイパンのジャンヌ・ダルク”と1944年7月25日付ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンで報道されたことが週刊新潮昭和34年8月24日号に掲載されているそうである(出典1959年菅野著「サイパン島の最期」編集後記)

ペリリューの戦いを扱った作品[編集]

書籍[編集]

  • 児島襄 『天皇の島』 講談社、1967年、角川文庫。小説
  • 小田実 『玉砕』 新潮社、1998年。小説。ドナルド・キーンにより英訳された。
    • 共著 『玉砕/GYOKUSAI』(岩波書店、2006年)にも収録、ISBN 4-00-022549-9
  • 舩坂弘 『ペリリュー島玉砕戦』 光人社、2000年 ISBN 4-7698-2288-X
  • 星亮一 『アンガウル、ペリリュー戦記 玉砕を生きのびて』 河出書房新社、2008年 ISBN 4-309-01869-6
  • 平野柾緒 『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』、学研、2010、ISBN 978-4-05-404672-6
  • ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』猿渡青児・訳 光人社NF文庫 2010年 ISBN 978-4769826385
  • ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 2008年 ISBN 978-4061598850
    • テレビドラマザ・パシフィックの原作の1つ。ドラマ構成で3話で構成され重要なシーンで語られている。
  • 久山忍 『戦いいまだ終わらず』産経新聞出版 2009年 ISBN 978-4819110846
  • 西部邁 「「戦争の思い出」が道義の在り処を指し示す」『実存と保守 危機が炙り出す「人と世」の真実』 角川春樹事務所、2013年4月、116-130頁。ISBN 9784758412162 - 西部がペリリューの戦いについて論じている。
  • 西部邁 「ペリリュウで聞いた警蹕(けいひつ)」『生と死、その非凡なる平凡』 新潮社、2015年、106-110頁。ISBN 9784103675068
  • 柚木裕子『サクラ・サクラ』「10分間ミステリー」に収録 宝島社文庫 2012年 ISBN978-4-7966-8712-6 「さくら さくら」を歌える老人が中川大佐との思い出を日本人観光客に語る。

雑誌記事[編集]

  • 西部邁「流言流行への一撃【76】 ペリリュウの英霊に参拝す 番外編」、『VERDAD』2005年11月号。
  • 西部邁「平成哲学指南 =番外編=ペリリュウの英霊に忘恩を謝して」、『時局』2005年12月号。

テレビ[編集]

ドキュメンタリー[編集]

  • NHKスペシャル「ペリリュー島 終わりなき持久戦 ~茨城県・水戸歩兵第2連隊~」(NHK総合、2008年5月26日)
  • NHKスペシャル「狂気の戦場 ベリリュー〜“忘れられた島”の記録〜」(NHK総合、2014年8月13日)

ドラマ[編集]

トーク番組[編集]

タイトル ゲスト 放送日
忘れるな、あの「大いなる戦い」を【1】 ペリリューの戦い 滑川裕二、木村三浩 2012年12月8日
忘れるな、あの「大いなる戦い」を【2】 国のために命を賭けて戦った英霊 滑川裕二、木村三浩 2012年12月15日

ゲーム[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ The Stamford Historical Society: Peleliu
  2. ^ 別冊歴史読本50 日本の戦争(新人物往来社、2006年)156頁
  3. ^ a b 戦略・戦術でわかる太平洋戦争(日本文芸社、2002年)226-232頁
  4. ^ 「スミスVSスミス」に関しては、海兵隊を見下している陸軍から「(海兵隊指揮官は、陸軍将官のように大部隊を指揮する訓練を受けておらず、その能力もないのに、)海兵隊の中将に陸軍の少将を解任する資格があるのか」と大いに憤懣の声が上がり、ホーランド・スミス配下で戦死した海兵隊員の一部の遺族からの海兵隊司令官としての資質を問う非難に呼応して、これに同調する議員達によって議会に持ち込まれて政治問題化し戦後まで尾を引くこととなった。
  5. ^ アメリカ海軍ウィリアム・ハルゼー中将(当時)は「ペリリュー攻略はタラワの戦いのように多大な損害を強いられるだろうし、アメリカ機動部隊の空襲でパラオの日本軍飛行場と航空戦力はもはや脅威ではないからパラオは迂回すべきである」と正確に情勢判断しており、艦隊泊地として利用価値のあるウルシー攻略を優先するようニミッツへ意見具申していた。しかし海軍の肩を持つルーズベルトの指示で練られ、イギリスなど同盟国にもすでに説明され、準備も進められている作戦計画を覆すこの意見は却下された。
  6. ^ 瀬戸利春 「ペリリュー島攻防戦」『歴史群像』2009年8月号、学研パブリッシング。
  7. ^ 平野柾緒 『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』 学研、2010年、64頁。
  8. ^ 平野柾緒 『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』 学研、2010年、66-80頁。
  9. ^ 太平洋戦争の現場がわかる本 P.112〜123 なぜペリリューで戦われたのか?(歴史研究班/2005年 チェリーハウス、星雲社)
  10. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』62頁
  11. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』65頁
  12. ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 90頁
  13. ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』169頁
  14. ^ チェスター・W・ニミッツ 『ニミッツの太平洋戦史』 恒文社 292頁
  15. ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』付表第5
  16. ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』168頁
  17. ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 33頁
  18. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』167頁
  19. ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』169頁
  20. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』158頁
  21. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』168頁
  22. ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』169頁
  23. ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 66頁
  24. ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 113頁
  25. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』199頁
  26. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』215頁
  27. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』222頁<
  28. ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 127頁
  29. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』243頁
  30. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』272頁
  31. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』237頁
  32. ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 137頁
  33. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』250頁
  34. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』264頁
  35. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』253頁
  36. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』282頁
  37. ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』180頁
  38. ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 105頁
  39. ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』184頁
  40. ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 135頁
  41. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』282頁
  42. ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』185頁
  43. ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 118頁
  44. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』335頁
  45. ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 162頁
  46. ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 165頁
  47. ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 202頁
  48. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』371頁
  49. ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 209頁
  50. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』429頁
  51. ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 156頁
  52. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』422頁
  53. ^ ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 223頁
  54. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』501頁
  55. ^ 船坂弘『血風ペリリュー島』堯文社 172頁
  56. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』503頁
  57. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』528頁
  58. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』534頁
  59. ^ 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』208頁
  60. ^ Gayle, Gordon, BGen USMC. “BLOODY BEACHES: The Marines at Peleliu”. 2015年12月23日閲覧。
  61. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』542頁
  62. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー大戦回顧録』 津島一夫訳 2014 225頁
  63. ^ チェスター・W・ニミッツ 『ニミッツの太平洋戦史』 恒文社 293頁
  64. ^ ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』543頁
  65. ^ Robert Ross Smith. “The Approach to the Philippines”. 2015年12月23日閲覧。
  66. ^ 名越二荒之助編『秘話・大東亜戦争とアジアの歌声』(彌吉博幸「パラオの巻」)展転社、1994年2月。ISBN 978-4886561015
  67. ^ 名越二荒之助著『世界に生きる日本の心』1987年、展転社
  68. ^ 大江志乃夫『日本植民地探訪』(新潮社, 1998年)
  69. ^ 『世界に生きる日本の心』(展転社、1987年)
  70. ^ 岩波文庫ヘロドトス「歴史」下P131-132参照
  71. ^ 1945年「On to Westward」ロバートシャーロッド著p148
  72. ^ 平野柾緒『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』(学研、2010)197-204頁
  73. ^ Peleliu_Cemetery.jpg (724×598)
  74. ^ PeleliuCemetery1.jpg (744×504)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

マリアナ・パラオ諸島の戦い
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