大艦巨砲主義

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イギリス戦艦「ロドネイ」の主砲(1940年)

大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、近代戦艦発祥以降に醸成された概念で、簡単に言えば「より大きな船体に、より大きな主砲を積んだ戦艦こそ優越する」というものである。

戦艦が海軍の主力であった時代の根幹を形成する概念であり、当時の列強各国は競うようにより大型・より大口径主砲を搭載した主力艦の建造・保有に邁進していった。

語源[編集]

実のところ、日本を除く諸外国においては「大艦巨砲主義」を明示した概念・用語は存在しないか、あるいは適用頻度が極めて限定されたものである。列強各国が大艦巨砲を求めて戦艦を建造していたことは事実であるが、これを用語として明確に定義した形跡は乏しい。 少なくとも海軍研究の分野で権威あるジェーン海軍年鑑をはじめとする各種文献、Norman FriedmanやDavid Brownといった同分野における研究者たちは「Dreadnought-Era(弩級艦の時代)」や「Big-Gun Age(巨砲の時代)」等を採用しており、「大艦巨砲主義」に相当する表現を用いていないことは事実である。「大艦巨砲主義」は英語で解説するときは、そのまま「Taikan-Kyoho Shugi」として「the strongest warships will have an advantage(最強の軍艦が優位に立つ)」等と表現される[1]。 すなわち、「大艦巨砲主義」なる用語は基本的には日本国内においてのみ専ら流布したものである。

なお、日本以外では後述する『HMS Dreadnought』が戦艦史のエポックと認識されており、先に挙げた「Dreadnought-Era」の例の他、アメリカ海軍の公式見解として

Her name became synonymous with "battleship."(彼女の名前は戦艦そのものを意味するようになった)[2]

とまで評価している。

歴史[編集]

この用語が登場するのは、日本海海戦によって戦艦こそ決戦兵器であるとの認識が確立し、折しも戦艦の進化を根本から変容する革命的戦艦「ドレッドノート」が就役してからのことである。特に超弩級戦艦に発展し、船体の大きさにも主砲口径にも歯止めがかからなくなった頃に確立したと考えられ、大正年代以降の本邦新聞上に頻出するようになった。

例:報知新聞(1913.7.13号「大益々大を加う : 各国努型艦の比較」)、時事新報(1916.4.27号「米国の海軍力」)等

明治以前の状況を見ると、幕末には「大艦」と「巨砲」を対句として連想する下地ができていたと考えられ、佐久間象山が嘉永六年六月二十九日付で記した書簡にて「彼れに大艦あらば我も亦た大艦を作るべし、彼に巨砲あらば我も亦巨砲を造るべし」と述べている[3]等、複数の洋学者が二語を対句として用いた記録が残されている。

大正時代[編集]

上述の通り、「大艦巨砲主義」が頻出し始めたのは大正年代以降である。この時代は過熱する建艦競争の中、列強各国がいずれも超弩級艦数十隻を建造せんとする巨大計画を相次いで発表・実行しており、単なる軍事の範疇に留まらず、国家財政や社会動勢にまで影響を及ぼす事態となっていた(現実に、英独の建艦競争第一次世界大戦の遠因の一つに数えられている)ため、情勢分析に外せない用語として論文や新聞紙上を賑わせていた。

世界大戦終結~海軍休日[編集]

世界大戦終戦後も、大きく国力を伸ばした日米を中心に建艦競争が続く事態は、戦後復興のための財源を求める他国はもとより、当の両国ですら増大する一方の財政負担を懸念しており、国際的な規制により歯止めをかける機運が急速に醸成された。

数度にわたって開催された軍縮会議と締結された各条約は列強各国の海軍軍備を質量ともに制限するものとなり、「海軍休日」時代が訪れる。

戦艦の性能や量が定められたこの時期においては「大艦巨砲主義」は発展しようもなく、用語としての適用は時代遅れ、代替手法の模索などといった否定的な使われ方が多くなっている。

例:時事新報(1920.12.11号「潜水艦か戦艦か」)、東京朝日新聞(1926.5.2号「大艦巨砲に代る小艦多数主義」)等

無条約時代[編集]

欧州では先の大戦で敗北したドイツがポケット戦艦「ドイチュラント」号を起工したことを皮切りに、1932年でワシントン条約の建造制限から脱した仏伊が新戦艦建造に動き出した。1937年からはワシントン条約が期限切れになったことで、残る日米英も戦艦建造が可能となり、再び建艦競争がスタートする。

このとき、第二次ロンドン条約が米英仏三国間で締結され、各国の戦艦は当初3万5千トン、主砲口径14インチの制限が課せられており、大艦巨砲は当初より発展の余地を奪われていた。また英独海軍協定も別に結ばれたため、各国が計画・起工した新戦艦第一陣は概ねこの軛に依っている(仏伊が起工した戦艦は同条約締結前のものであるため15インチ主砲を採用している)。

ただし同条約にはエスカレーター条項が設けられており、締結国以外の国が規定された性能以上の戦艦を建造すると察知された場合は、基準排水量4万5千トン、主砲口径16インチまでの拡大を認められた。アメリカは直ちに同項を適用して「ノースカロライナ」級戦艦の主砲を14インチから16インチに改め、また「アイオワ」級戦艦では排水量も4万5千トンに拡大している。イギリスは仏独伊三国の建艦競争に追随するために第一陣「キング・ジョージ5世」級戦艦は当初制限のままで建造し、同項適用は第二陣「ライオン」級戦艦まで待つこととした。

これらの動きは日本でも当然予想されていた。当時の記事として時事新報(1936.1.18-19号「建艦競争は宿命」)から引用すると、

「日米英の何れかが右の七大戦艦(引用者註:日本の長門型、アメリカのメリーランド級、イギリスのネルソン級)より小さい従って弱い戦艦を建造するならばそれは馬鹿気きったことである

 艦隊の主力をみすみす敵の主力より弱いものにする海軍政策はあり得ない

 そこで尨大な費用を要する主力艦であるから成るべく大きいものを作りたくないと云う財政上の註文があっても世界一流の海軍国たる為めには少くとも前掲の七大戦艦と同等のものを作らねばならない」とし、

「日米英の懐ろにも限りがある、恐らく二十吋六万噸になる迄に、各国一様に悲鳴をあげ、真剣に軍縮会議が要求されて来るに違いない

 だがそうした悲鳴をあげる迄は競争の結果主力艦が次第に大きくなるのは制御出来ないことである」

と、ある程度までは大艦巨砲主義の発展は止まらないだろうと考えられていた。実際に日本はほぼこの文中の数字に合致する6万4千トン、18インチ主砲の大和型戦艦を建造するのである。また米・独・ソにおいても6万トン級の巨大戦艦が構想・計画され、具体化のスケジュールも動き出していた。

第二次世界大戦~大艦巨砲主義の終焉[編集]

日本海軍における大艦巨砲主義[編集]

日本海軍では、日露戦争時の日本海海戦で大艦巨砲と艦隊決戦を至上とする考え方が確立された(海戦要務令)。なお、これは当時としては日本海軍に限ったものではない。その後も太平洋戦争後半期まで軍令・戦術上の主流となった。長駆侵攻してくる敵艦隊を全力で迎撃・撃退するのが基本方針であり、その際の主役は戦艦とされ、空母・巡洋艦駆逐艦等は脇役に過ぎなかった。

しかし日本海軍は太平洋戦争における真珠湾攻撃など緒戦の航空戦で、主役である戦艦を出す前の「露払い」としての航空機が予想以上の戦果を出し、第一航空艦隊南雲機動艦隊)は地球を半周するほど縦横無尽の活躍を見せた。それによって航空戦力の評価が高まり、戦前から訴えられていた航空主兵論が勢いを増した[4]。航空主兵論は戦艦無用論も含み当時極端とも見られたが太平洋戦争の経過がその見通しがほぼ正しかったことを証明した。航空関係者が嘆いていたのは大艦巨砲主義の下で作られる戦艦の建造費、維持費など莫大な経費が浪費される割にほぼ戦局に寄与しないことであり、それを航空に回せばより強力なものができると考えていたためである[5]

1942年(昭和17年)4月28日及び29日、大和で行われた第一段作戦研究会で第一航空艦隊航空参謀源田実中佐は大艦巨砲主義に執着する軍部を「秦の始皇帝阿房宮を造り、日本海軍は戦艦「大和」をつくり、共に笑いを後世に残した」と批判して一切を航空主兵に切り替えるように訴えた[6]。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年(昭和17年)5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝信仰を得つつある」と残した[7]

海軍はそれでも大艦巨砲主義を捨て切れなかったが、ミッドウェー海戦での第一航空艦隊の壊滅により、思想転換は不十分だが航空戦力の価値が偉大と認め、航空優先の戦備方針を決定する。しかし、方針、戦備計画のみで施策、実施などまで徹底していなかった。国力工業力共に不十分な日本では航空と戦艦の両立は無理であり、艦艇整備を抑える必要があったがそこまで行うことができなかった。第三艦隊は航空主兵に変更されたが、第一艦隊、第二艦隊は従来のままで、第三艦隊で制空権を獲得してから戦艦主兵の戦闘を行う考えのままだった[8]

1943年(昭和18年)第三段作戦計画発令で連合艦隊作戦要綱を制定発令し、航空主兵を目的とした兵術思想統一が行われた[9]1944年2月に第一艦隊が廃され、翌月に第一機動艦隊が創設されたことにより、ようやく大艦巨砲主義が終焉を迎え、機動部隊が最重要視されることとなった。

その機動部隊と(陸上)基地航空兵力は、ギルバート・マーシャル諸島の戦いマリアナ沖海戦台湾沖航空戦など戦いで全く戦果を挙げることなく大打撃を受けた。レイテ沖海戦に参加した小沢機動部隊にもはや攻撃力はなく、部隊として壊滅した。同作戦でレイテ湾に突入するはずだった戦艦部隊は目的を達しないまま反転し、その過程で大和型戦艦「武蔵」が航空攻撃によって撃沈された。翌年4月には、沖縄に向かう大和がこれも航空攻撃によって撃沈され(坊ノ岬沖海戦)、日本海軍は大艦巨砲と航空主兵双方がアメリカ海軍の航空主体の物量に敗れる形で終焉を迎えた。

戦後、航空主兵論者だった源田実(戦中は海軍大佐、戦後は航空自衛官となり幕僚監部で部長)は、海軍が大艦巨砲主義から航空へ切り替えられなかったのは組織改革での犠牲を嫌う職業意識の強さが原因だったと指摘する。「大砲がなかったら自分たちは失業するしかない。多分そういうことでしょう。兵術思想を変えるということは、単に兵器の構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるとことになるわけですから。人情に脆くて波風が立つのを嫌う日本人性格では、なかなか難しいことです」と語っている[10]

また、砲術の大家であった黛治夫大佐のように、大艦巨砲が航空主兵に敗れてなお「戦前の想定どおり、砲撃主体の艦隊決戦を挑むべきであった」と生涯主張し続けた大艦巨砲主義者もいた。

批判[編集]

森雅雄は、「大艦巨砲主義や航空優位思想の意味は多義的なもので検証に耐えるものではなく、決戦に備えて戦艦を使用しなかったという語りも、事実は、或いは使用され或いは使用されようとし或いは戦艦としては見捨てられて使用されなかったのであり、機動部隊の建制化も重要な意味を持たない上に、アメリカ海軍が高速空母部隊を創設した時期は帝国海軍も聯合機動部隊の発令をした時期であり、この批判はイデオロギーである」と批判している[11]

派生[編集]

この語は、比喩として用いられることもある。

大辞泉(小学館)では定義を「(比喩的に)大きな組織や大掛かりな設備が、強い競争力をもつとする考え方。大きすぎて柔軟性を欠き、小回りの利かないところを冷やかして言うこともある。」としており、どちらかと言えば否定的なニュアンスで用いられる用語となる。


注釈[編集]


出典[編集]

  1. ^ 『The Territory at War』(Northern Territory Goverment) p.154
  2. ^ http://www.navy.mil/navydata/ships/battleships/bbhistory.asp
  3. ^ 『象山全集』巻四 書簡 p.157
  4. ^ 戦史叢書95海軍航空概史268頁
  5. ^ 奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』朝日ソノラマ344-347頁
  6. ^ 淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』学研M文庫111-113頁
  7. ^ 戦史叢書95海軍航空概史268頁
  8. ^ 戦史叢書95海軍航空概史269-270頁
  9. ^ 戦史叢書95海軍航空概史348頁
  10. ^ 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社300頁、源田實『海軍航空隊、発進』文春文庫185頁
  11. ^ 森雅雄「イデオロギーとしての「大艦巨砲主義批判」城西国際大学紀要 21(3), 1-13, 2013-03

参考文献[編集]

  • 戦史叢書(朝雲新聞社)各巻、特に「海軍軍戦備(1)、(2)」
  • 世界の艦船(海人社)各号、特に増刊「第二次大戦の軍艦」シリーズ、「各国戦艦史」シリーズ

関連項目[編集]