湾岸戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
湾岸戦争
WarGulf photobox.jpg
左上から時計回りに炎上するクウェートの油田上空を飛行するアメリカ空軍F-15F-16戦闘機、作戦行動中のイギリス軍、米軍機から見た爆撃を受けるイラク共和国防衛隊の施設、米英軍による虐殺疑惑の残る死のハイウェイ地雷除去作業を行うアメリカ陸軍M728戦闘工兵車
戦争:湾岸戦争
年月日1990年8月2日 - 1991年2月28日[1]
場所ペルシア湾湾岸、クウェート、イラク、サウジアラビアなど。
結果多国籍軍の勝利、地上戦開始100時間後にクウェートを解放し停戦[2]
交戦勢力
多国籍軍
クウェートの旗 クウェート
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
Flag of France.svg フランス
サウジアラビアの旗 サウジアラビア
 エジプト
Flag of Italy (1946–2003).svg イタリア
アラブ首長国連邦の旗 UAE
シリアの旗 シリア
バーレーンの旗 バーレーン
Flag of Oman (1970–1995).svg オマーン
カタールの旗 カタール
アルゼンチンの旗 アルゼンチン
オーストラリアの旗 オーストラリア
バングラデシュの旗 バングラデシュ
ベルギーの旗 ベルギー
カナダの旗 カナダ
チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア
 デンマーク
ドイツの旗 ドイツ
ギリシャの旗 ギリシャ
モロッコの旗 モロッコ
オランダの旗 オランダ
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
ニジェールの旗 ニジェール
 ノルウェー
パキスタンの旗 パキスタン
ポーランドの旗 ポーランド
セネガルの旗 セネガル
スペインの旗 スペイン
イラクの旗 イラク
指導者・指揮官
クウェートの旗 ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハ
アメリカ合衆国の旗 ジョージ・H・W・ブッシュ
アメリカ合衆国の旗 ノーマン・シュワルツコフ
イギリスの旗 ジョン・メージャー
フランスの旗 フランソワ・ミッテラン
サウジアラビアの旗 ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ
サウジアラビアの旗 ハリード・ビン・スルタン
エジプトの旗 ホスニー・ムバーラク
イタリアの旗 ジュリオ・アンドレオッティ
アラブ首長国連邦の旗 ザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーン
シリアの旗 ハーフィズ・アル=アサド
バーレーンの旗 イーサ・ビン・サルマーン・アール・ハリーファ
オマーンの旗 カーブース・ビン・サイード
カタールの旗 ハリーファ・ビン・ハマド・アール=サーニー
イラクの旗 サッダーム・フセイン
イラクの旗 イッザト・イブラーヒーム
イラクの旗 ターハー・ヤースィーン・ラマダーン
イラクの旗 アリー・ハサン・アル=マジード
イラクの旗 ターリク・ミハイル・アズィーズ
戦力
最大85万人
戦闘機2900機
出撃6万5000回[3]
正規軍100万人[注 1]
主力戦車5500両
装甲車7500両
作戦機689機[5]
損害
500人戦死・負傷[6] 2万5000人 - 10万人戦死・負傷[6]

湾岸戦争(わんがんせんそう、英語: Gulf Warアラビア語: حرب الخليج الثانية‎)は、1990年8月2日イラクによるクウェート侵攻をきっかけとした戦争国際連合による撤退要求と経済制裁ののち、1991年1月17日より多国籍軍空爆を開始、2月24日からは地上戦も開始された。約1か月の戦闘の後イラク軍は敗走し、4月6日和平条件を規定した国連安保理決議を受諾した。

概説[編集]

1990年8月2日、イラク共和国防衛隊は隣国クウェートへ侵攻、約6時間で同国全土を制圧・占領して傀儡政権であるクウェート共和国を擁立し、8月8日にはクウェートのイラクへの併合を発表した[7]。これに対し、諸外国は第二次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた[8]国際連合安全保障理事会は、侵攻同日のうちにイラクに対して即時撤退を求めるとともに、11月29日武力行使容認決議である決議678を米ソが一致して可決し、マルタ会談とともに冷戦の終わりを象徴する出来事になった。翌1991年1月17日アメリカジョージ・H・W・ブッシュ大統領アメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国の政府はこれに応じ、いわゆる「多国籍軍」が構成された。これは、第二次世界大戦以来の連合であった[9]

多国籍軍ではアメリカ軍が主力をなしていたが、ほかにもイギリスフランスなどといった西側ヨーロッパ諸国のみならず、イスラム世界の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国(湾岸協力会議)やアラブ連盟の盟主エジプトといった親米アラブ諸国、更に比較的中立的な立場の国であるカタールやイラクと同じバアス党政権で東側諸国の一員であるシリアなども参加した。ヨーロッパ諸国軍はノーマン・シュワルツコフ米陸軍大将が司令官を務めるアメリカ中央軍の指揮下に入ったのに対し、アラブ諸国軍はサウジアラビア軍の作戦統制下に入り、ハリド・ビン・スルタン英語版中将を司令官としてアラブ合同軍を組織した[10][11]。ただしアメリカの軍事能力は他国よりずば抜けて高かったために、面子等に留意しつつも、軍事作戦に関しては全軍を実質的に統制していた[12]とされる。

国際連合により認可された、34ヵ国の諸国連合からなるアメリカ、イギリスをはじめとする多国籍軍は、イラクへの攻撃態勢を整えていった。その後イラク政府に決議履行への意思が無い事を確認した多国籍軍は、国連憲章第42条に基づき[13]1991年1月17日にイラクへの攻撃を開始した。

イラクの大統領サッダーム・フセインは開戦に際し、この戦いを「すべての戦争の生みの親である」と言った[14]。また呼称による混乱を避けるため、軍事行動における作戦名から「砂漠の嵐作戦」とも呼ばれる[15]この戦争は、「第1次湾岸戦争」、また2003年イラク戦争開始以前は、「イラク戦争」とも称されていた[16][17][18]

このクウェートの占領と併合を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まり、これに続いて2月23日から地上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。

空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。

戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた[19]

湾岸危機の勃発[編集]

イラクの経済的苦境[編集]

1989年11月、イラクのバグダードを訪問したクウェートのジャービル首長は、イラクに対してイラン・イラク戦争時の400億ドルの借款の返済を要請した[20]。しかし当時のイラクは、アラブ世界以外の国からの負債に対する返済だけで、毎年の石油収入の約半分に達する状況であった[20]。またアラブ世界からの負債も似たような状況であったが、イラクは、同国こそがアラブ世界をイランから守る唯一の守護神であると考えていたことから、借款の返済どころか新たな援助さえも要求した[20]

8年間のイラン・イラク戦争を通じてイラク軍の規模は4倍となり、1988年夏の時点で、ペルシア湾岸の一大軍事国家となっていた[20]。イラク陸軍だけでも湾岸協力会議アラブ首長国連邦バーレーンクウェートオマーンカタールサウジアラビア)諸国全ての陸軍よりも3倍強力であった[20]。イラクのフセイン大統領は、自分には弱みがなく、湾岸地域のリーダーとして振舞えると確信していた[20]

しかしイラクの経済的苦境は歴然としていた。イラン・イラク戦争前は外貨準備高350億ドル以上を保有していたが、戦争によって800億ドル以上の負債を抱えるとともに、経済復興に2,300億ドル以上が必要な状況になってしまい、1988年のイラクの国内総生産(GDP)は380億ドルに過ぎなかった[20]。しかもクウェートなど他国の石油増産によって原油価格も下落した結果、石油収入は以前の50パーセントにまで低下していた[20]

クウェートとの摩擦[編集]

1990年7月に入ると、原油価格は従来の1バレル当たり18ドル程度から12ドル程度にまで下落したが、イラクは、この価格下落はクウェート及びアラブ首長国連邦石油輸出国機構(OPEC)の国別生産枠を超えて原油を過剰に生産したことによって引き起こされたものであるとして、両国を非難した[21]。また、このような経済的苦境下でクウェートが借款の返済を要請してきたことについて、フセイン大統領はアメリカ合衆国イスラエルの陰謀が背景にあると考えるようになっており、この陰謀論は、イラク指導部の間で広く共有されていった[20][注 2]

7月10日の湾岸5か国石油相会議において1990年前半の生産枠の遵守が確認され、この問題も一段落着いたかとみられていたが、7月16日にはアズィーズ外相アラブ連盟クリービー事務総長英語版に対してクウェートを非難する書簡を送付した[22]7月17日1968年のクーデターバアス党政権が成立した記念日であったが、この日の演説で、フセイン大統領は「クウェート等が石油の過剰生産をやめなければ武力を行使する」と述べた[7]。OPEC総会を控えて[22]、7月中旬頃からは、クウェートとの国境地帯において軍部隊の集結が開始された[23]。7月27日には、ジュネーヴで行われていたOPEC総会において、原油最低価格の引き上げや原油の減産などイラクの立場を配慮した形での妥協が成立したものの、既にこの程度の妥協ではフセイン大統領を納得させることができないほど、イラク・クウェート間の対立は厳しさを増していた[22]

これに対してエジプトとサウジアラビアが両国間の仲介を試み、7月31日にはサウジアラビアのジッダで両国間の会談が実現した[21]。このジッダでの会談は、クウェートとしては今後長期にわたる交渉を実現する上での第一段階として位置づけていたのに対し、フセイン大統領には、そのように悠長に構えるつもりは全くなかった[20]。この会談で、イラクはクウェートに対して負債の帳消しとともにブビヤン島などの割譲を要求したが、クウェートはこれらの要求を拒絶した[20]。この時、イラクは開戦を決意したとされる[20]

クウェートへの侵攻[編集]

クウェート市

1990年8月2日午前1時(現地時間)、イラクの共和国防衛隊はクウェート国境を越えて侵攻を開始した[7]アメリカ国防情報局(DIA)は、偵察衛星からの画像によって早くからイラクの侵攻準備体制を把握していたが、アメリカでの軍事常識として本格侵攻に必要と考えられていた諸装備や兆候が欠けていたことから、DIAから報告を受けた統合参謀本部(JCS)および中央軍(CENTCOM)は、直前まで「クウェートとの交渉を有利に進めようとする恫喝の可能性が高い」と評価しており、本格侵攻であることを把握したときには既に対応困難となっていた[23]

フセイン大統領はクウェート王族を確保してイラクへの併合を承諾させることを狙っており[23]、侵攻開始30分後には特殊部隊クウェート市に対してヘリボーン強襲を実施、また海からもコマンド部隊が王族を捕らえるための上陸作戦を行っていた[7]。しかし首長のジャービル3世はサウジアラビアに亡命し、クウェート首長一族のほとんどは逃亡に成功。首長の弟であるシェイク・ファハド・アル=サバーハのみが宮殿に残っていたために殺害された[7]。一方、クウェート軍の抵抗は弱体で、イラク侵攻部隊は早くも5時30分にはクウェート市へ突入、市内にいたコマンド部隊と合流した[7]。主要なクウェート政府施設は5時間以内にイラク軍に確保され、翌朝までに全土の戦略拠点が占領された[7]

クウェート王族の拘束に失敗したイラク側は、クウェートとイラクの二重国籍を持ち、バアス党員であるとともにクウェート陸軍の初級幹部でもあったアラー・フセイン・アリーを大佐に昇進させるとともに、彼を首相とする「クウェート暫定革命政府」を成立させ[7][24]、その要請により介入したと報じた[25][26][27]8月7日には、クウェート暫定政府はクウェート共和国へと名前を変えたが[28][29][30]、翌日にはイラクに併合された[31][32]

国際社会の初期対応[編集]

多国籍軍の結成[編集]

サウジアラビアのスルターン・ビン・アブドゥル=アズイーズ皇太子と会談するアメリカのディック・チェイニー国防長官

イラクの軍事侵攻に対して国際社会は激しく抗議し、国際連合では、侵攻当日の8月2日のうちに、イラク軍の即時無条件撤退を求める安全保障理事会決議660が採択された[21][7]。イラクがこの決議を無視したことから、国際連合安全保障理事会は、6日には加盟国に対イラク経済制裁を義務付ける決議661、また9日にはイラクによるクウェート併合を無効とする決議662を採択した[21][7]

アメリカ合衆国ブッシュ大統領は、8月4日国家安全保障会議において、まずはイラクがクウェートに続いてサウジアラビアにまで侵攻することを阻止することが最優先課題であることを確認し、国連を通じて他国と協調しつつ外交的・経済的な圧力を加えることでイラク軍をクウェートから撤退させることを志向した[33]。ただし最後の手段として、軍事的な圧力、更にはクウェート解放戦争を遂行する可能性をも念頭に置いていた[33]

アメリカ軍のサウジアラビア国内への展開は、宗教的問題からサウジアラビア側が躊躇すると思われていたが、実際には、8月6日にチェイニー国防長官中央軍司令官シュワルツコフ大将から説明を受けたファハド国王の決断によって即座に了承されたことで、8月7日(アメリカ東部標準時)には指定された部隊に対して湾岸地域への展開命令が発令され、砂漠の盾作戦が発動された[34]。その後も、アメリカを含む西側諸国やアラブ諸国は同国に陸軍及び空軍の部隊を派遣し、また西側諸国はペルシャ湾及びその近海に艦隊を派遣した[21]。10月までに、アメリカ陸軍海兵隊のほか、地元サウジアラビア軍イギリス陸軍フランス陸軍などが加わった多国籍軍により、地上での防御態勢が概ね確立された[11]

イラクの反応[編集]

会見を行うフセイン大統領。

イラクは国連の決議を無視、さらに態度を硬化させ、8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として併合を宣言、8月28日にはクウェートをバスラ県の一部と、新たに設置したイラク第19番目の県「クウェート県英語版」に再編すると発表した。8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとしたが、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったので、取りあえずイラクを非難するという、まとまりのないものとなった。

8月12日にイラクは「イスラエルのパレスチナ侵略を容認しながら今回のクウェート併合を非難するのは矛盾している」と主張(いわゆる「リンケージ論」)、イスラエルのパレスチナ退去などを条件に撤退すると発表したが、到底実現可能性のあるものではなかった。10月8日にエルサレムで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという、中東戦争以後最大の流血事件が起こり、フセインは激しく非難したが、これを機にパレスチナ問題が国際社会で大きく取り上げられるようになった。またこの主張によりPLOはイラク支持の立場を表明、結果クウェートやサウジアラビアからの支援を打ち切られて苦境に立ち、後のオスロ合意調印へと繋がる事になった。

「人間の盾」[編集]

さらにイラクは8月18日に、クウェートから脱出できなかった外国人を自国内に強制連行し「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本ドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。

なおこの中には、クウェートに在住している外国人のみならず、日本航空ブリティッシュ・エアウェイズの乗客や乗務員など、イラク軍による侵攻時に一時的にクウェートにいた外国人も含まれていた。この非人道的な行為は世界各国から大きな批判を浴び、のちにイラク政府は、アントニオ猪木が訪問した後に解放した日本人人質41人など、小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放された。

だが、その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(いわゆる「対イラク武力行使容認決議」)を採択した。

多国籍軍の攻勢作戦[編集]

戦略的航空作戦[編集]

イラクが態度を軟化させないまま撤退期限が過ぎたのち、現地時刻で1月17日未明より、多国籍軍による攻勢作戦が開始された[35]

午前2時39分、アメリカ陸軍AH-64攻撃ヘリコプターがイラク軍の早期警戒レーダーを破壊し、続く攻撃隊のためにイラク防空網に間隙を生じさせた[35]。またこの攻撃と前後して国境を通過した空軍F-117攻撃機がバグダッドを中心とする重要目標に向けて散開しており、2時51分より各目標への攻撃を開始した[35]。またこれとほぼ同時に、海軍艦艇が発射したトマホーク巡航ミサイルがバグダッド周辺の目標に着弾し始めた[35]。これに続いて、イラク指導者層への攻撃および防空システム制圧(SEAD)作戦が大規模に行われた結果、同日中に、イラクの防空システムは統合したシステムとしての運用能力を喪失した[35]

一方、イラク側は18日早朝よりスカッド短距離弾道ミサイルの射撃を開始し、まずイスラエルに対して、また20日からはサウジアラビアを標的とした攻撃が行われた[36]。これはイスラエルを挑発してイラクに対する軍事行動を誘発すれば、アラブ諸国がイラクに対する軍事行動を躊躇する効果が期待でき、またサウジアラビアの石油施設が損傷すれば世界的な石油危機が発生し、各国の動揺を誘う効果が期待できると考えたものであった[37]。多国籍軍は直ちにスカッド発射機に対する攻撃を強化したものの、移動式ミサイル発射機の発見は難しく[36]、この部分は特殊部隊を潜入させて対応することになった[38]。またあわせて、イスラエルおよびサウジアラビアにパトリオット地対空ミサイルを装備した防空部隊を展開して、防空も強化した[38]

絶対的航空優勢[編集]

多国籍軍の航空攻撃に対して、イラク空軍の反撃は極めて不活発であった[39]。最初の3日間の航空戦でイラクが行った空対空任務は100ソーティをわずかに超える程度であり、約750機の保有作戦機数の点から見ると極めて少なかった[39]。多国籍軍の空対空戦果は第3日より後は事実上無くなった[40]

これは、圧倒的優位にある多国籍軍に対して戦いを挑むのを避けて、航空機を強化掩体壕に収容して空軍を温存する意図があったと思われる[39]。しかし1月21日からは航空機が収容された掩体壕に対して地中貫通爆弾による攻撃が開始され、この温存戦略も維持困難となったことから、1月26日より、イラクは、イランまで飛べる飛行機を同地に脱出させる作戦を開始した[40]

1月27日、中央軍司令官は、イラク空軍は戦闘において無力化されたと宣言し、絶対的航空優勢air supremacy)が確保された[40]

陸上攻勢作戦準備[編集]

作戦第2週(1月24-30日)に入ると、戦略的航空作戦に加えて、陸上攻勢作戦の準備として、イラク軍のクウェート戦域への移動を遮断する航空作戦も本格的に開始された[40]。多国籍軍航空部隊は、陸上攻勢作戦開始前に10万ソーティに近い戦闘および支援任務を飛行し、288発のトマホーク対地ミサイルと35発の空中発射巡航ミサイルを発射した[41]

一方、アメリカ陸軍は既に砂漠の盾作戦の段階で第18空挺軍団を派遣していたほか、陸上攻勢作戦のために第7軍団も追加派遣されており[42]、戦略的航空作戦の開始後、攻撃発起位置へと進入していった[43]

フセイン大統領は、多国籍軍に地上戦を挑むことで反撃を誘発し、態勢が整う前に消耗戦に引き込むことを狙ってカフジに対する攻撃を命じ、1月29日よりカフジの戦闘が開始された[37][44]。多国籍軍が頑強な抵抗を行わずに後退したことで、イラク軍はカフジの占領に成功したものの、アメリカ軍の援護を受けたアラブ合同軍の反撃によってまもなく同地は奪還された[44]。また多国籍軍は慎重に作戦を進めており、これを契機として仮早に地上戦に突入することもなかった[37]

陸上攻勢作戦[編集]

地上部隊の進撃経路図。

多国籍軍は、サウジアラビアの国境線沿いに東西に展開しており、展開線は480キロに及んだ[45]。陸上攻勢作戦は砂漠の剣作戦と命名されており、右翼(東部)においてはクウェートに向けて直接前進する一方、左翼(中央部・西部)では一旦イラク領を北上ののち東に転針するという「左フック」行動を行うことになった[46]。このうち、最左翼(西部)において最も長距離を移動する第18空挺軍団は、配属されたフランス陸軍部隊を含めてヘリボーンを活用できる軽装備の部隊を主力として構成されていたのに対し、中央部において濃密なイラク軍展開地域を突破する第7軍団は、配属されたイギリス陸軍部隊を含めて重装備の機甲師団が中心となった[46]

計画では、2月24日朝にまず東部および西部において攻撃を開始したのち、翌25日朝に中央部での攻撃を開始する予定だった[45]。このように攻撃開始時刻に約1日間の差を設けた目的は、多国籍軍が多国籍軍右翼のクウェート正面から攻撃してくるとイラク軍に誤認させることにあった[45]。しかし右翼での攻撃が予想以上に順調に進展したことから、中央部での攻撃開始は予定よりも繰り上げられた[45]

東部においては、2月27日午前9時にはクウェート市の解放に成功したが、この際には政治的事情が配慮され、アラブ合同軍が先に市内に入る形となった[47]。また中央部・西部でも、地形・天候に悩まされつつ進撃を続け、2月26日に第7軍団の第2装甲騎兵連隊がタワカルナ機械化師団と接触したのち(73イースティングの戦い)、イラク軍の中核的戦力である共和国防衛隊への攻撃態勢が整えられつつあった[48]。しかし政治的事情により、2月28日午前8時をもって戦闘が停止されたことで、共和国防衛隊の戦力の相当部分が温存されることになった[47]

戦争による影響[編集]

人的被害[編集]

一般市民[編集]

巡航ミサイル及び航空戦力による、空爆の重要性の増加は、戦争初期段階における一般市民の犠牲者の数をめぐる論争を引き起こした。戦争開始24時間以内に、1,000個以上のソーティーが飛行しており、その多くがバグダッドを標的とした。イラク軍の統制及びフセイン大統領の権力が座すバグダッドは、爆撃の重要な標的となったにもかかわらず、イラク政府は政府主導の疎開や避難を行わなかった。これは、市民の多大な数の犠牲者を生む原因となった。

地上戦の前に行われた多くの航空爆撃は、民間人の被害を多数引き起こした。特筆すべき事件として、ステルス機によるアミリヤへの爆撃が挙げられる。この空爆により同地へ避難していた200人から400人の市民が死亡した[49]。火傷を負い、切断された遺体が転がる場面が報道され、さらに爆撃された掩体壕は市民の避難所であったと述べられた。一方では、同地はイラクの軍事作戦の中心地であり、市民は人間の盾となるために故意に動かされたとみなされ、これを巡る論争は激化した。

カーネギーメロン大学ベス・オズボーン・ダポンテ[注 3]の調査によると、3,500人が空爆で、100,000人が戦争による影響で死亡したと推定された[50][51][52]

イラク軍[編集]

正確なイラク戦闘犠牲者数は不明だが、調査によると20,000人から35,000人であると見積もられている[50]。アメリカ空軍の報道によると、空爆による戦闘死者数は約10,000から12,000人、地上戦による犠牲者数は10,000人であった。この分析は、戦争報道によるイラク人捕虜に基づいている。もっとも、捕虜となったイラク軍兵士37000人中に負傷者が800人ほどだったことや、戦後に反体制勢力を迅速に鎮圧した状況を見るに、実際の死者は10,000人以下との見解もある。また、イラク軍全体の雰囲気としてこの戦争に反対で士気が低かったため、士気維持のため兵員の交代休暇を開戦の日まで継続しており、定数の25%程度が任地に居なかったものと考えられ、こうした将兵は多国籍軍の空爆が始まると任務に戻れなくなっていた。このような事情も当初は把握されていなかったため、多国籍軍による過大な人的戦果の推定につながったと考えられている[53]

フセイン政権は、諸外国からの同情と支援を得るため市民からの死傷者数を大きく発表した。イラク政府は、2,300人の市民が空爆の間に死亡したと主張した[要出典]。 Project on Defense Alternativesの調査によると、イラク市民3,664人と20,000から26,000名の軍人が紛争により死亡し、一方で75,000名のイラク兵士が負傷した[54]

多国籍軍[編集]

パトリオットミサイルの発射

国防総省は、MIA(戦闘中行方不明)と呼ばれるリストを作成し、友軍の砲火による35名の戦死者を含む148名のアメリカ軍人が戦死したと発表した。なお、このリストには2009年8月に1名のあるパイロット英語版が追加された。更に145名のアメリカ兵は、戦闘外事故で死亡した[55]。イギリス兵は47名(友軍砲火により9名)、フランス軍人は2名が死亡した。クウェートを含まないアラブ諸国は37名(サウジ18名、エジプト10名、アラブ首長国連邦6名、シリア3名)が死亡した[55]。最低でも605人のクウェート兵は未だに行方不明である[56]

多国籍軍間における最大の損失は、1991年2月25日に起こった。イラク軍アル・フセインはサウジアラビア・ダーランのアメリカ軍宿舎に命中、ペンシルベニア州からのアメリカ陸軍予備兵英語版28名が死亡した。戦時中、合計で190名の多国籍軍兵がイラクからの砲火により死亡、うち113名がアメリカ兵であり、連合軍の死者数は合計368名だった。友軍砲火により、44名の兵士が死亡し、57名が負傷した。また、145名の兵士が軍需品の爆発事故もしくは戦闘外事故により死亡した[要出典]

多国籍軍の戦闘による負傷者数は、アメリカ軍人458名を含む776名であった[57]

しかし2000年現在、湾岸戦争に参加した軍人の約4分の1にあたる183,000人の復員軍人は、復員軍人省により恒久的に参戦不能であると診断された[58][59]。湾岸戦争時にアメリカ軍に従事した男女の30%は、原因が完全には判明していない、多数の重大な症候に悩まされ続けている[60]

砂漠の嵐作戦に参加し、地雷を除去するサウジアラビア陸軍M113装甲兵員輸送車及び軍事車両。1991年3月1日、クウェートにて。

イラク兵により190名の多国籍軍部隊員が殺され、友軍砲火または事故により379名が死亡した。 この数字は、予想されたものに比べ非常に少ないものである。またアメリカ人女性兵3名が死亡した。

これは国別の多国籍軍の死亡者数である。

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 - 294名 (114名が敵からの攻撃、145名が事故、35名が友軍相撃による。)
イギリスの旗 イギリス - 47名 (38名が敵からの攻撃、9名が友軍相撃による。)
サウジアラビアの旗 サウジアラビア - 18名[61]
エジプトの旗 エジプト - 11名[62]
アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 - 6名[63]
シリアの旗 シリア - 2名[64]
フランスの旗 フランス - 2名
クウェートの旗 クウェート - 1名 (砂漠の嵐作戦下)[65]

友軍相撃[編集]

イラク戦闘員による多国籍軍の死亡者数は非常に少なく、友軍相撃による死亡者数は相当な数に上った。148名のアメリカ兵が戦闘中に死亡し、そのうち24%にあたる35名の従軍要員は友軍相撃により死亡、さらに11名が軍備品の爆発により死亡した。 アメリカ空軍A-10攻撃機がウォーリア歩兵戦闘車部隊2個を攻撃したことにより、9名のイギリス軍従軍要員が死亡した。

物的被害[編集]

クウェートにおける石油火災[編集]

クウェートにおける石油火災(1991年)

クウェートにおける石油火災はイラク軍により起こされた。多国籍軍に追跡されていたイラク軍は、焦土作戦の一環として700の油井に放火した。火災は1991年1月及び2月に始まり、1991年11月に最後の火が消された[66]

生じた火災は制御できないほど燃え広がった。これは消火作業員の投入が困難であったためである。油井周辺には地雷が設置されており、消火活動の前段階として同地域の地雷除去作業が必要となった。約6百万バレル (950,000 m3)の石油が毎日失われていった。結果、15億USドルの経費がつぎ込まれ、消火作業は終了した[67]。作業には少なくとも2年かかると予想されていたが、爆風による吹き消し消火や、ジェットエンジンで消火剤を吹き付けるハンガリーの消防車が威力を発揮し、予想よりも早く鎮火させることができた。しかし、火災は発生より10か月が経過し、広範囲にわたる環境汚染が生じた。

ペルシャ湾への石油流出[編集]

1月23日、イラクは400億ガロンの原油をペルシア湾に流出させた。これは当時としては最大の沖合石油流出だった[68]。この天然資源への襲撃はアメリカ海兵隊部隊の沿岸上陸を阻むためのものであると報道された。このうち約30から40%は多国籍軍によるイラク沿岸目標への攻撃によるものであった[69]

金銭問題[編集]

戦後補償[編集]

国連は、イラク政府に対してイラク占領下及び戦争中におけるクウェートの被害について賠償させるために、「国連補償委員会」を設置。国連安保理決議687に基づき、総額で524億ドルの賠償を求め、石油収入の5%の支払いを義務付けられた。

フセイン政権は1994年から賠償金を支払いを開始したが、復興途上にあるイラクにとっては負担が大きく、再三減免を求めてきたがクウェートはこれを拒否。逆にクウェート側は、イラク側の補償が不十分とし、2009年に国連に対してイラクに対する経済制裁をまだ解除しないよう求め、イラク側の反発を呼んだ。 2021年12月24日、イラク当局は524億ドルの支払いを終了したことを発表した[70]

戦費[編集]

アメリカ合衆国議会の計算によると、アメリカ合衆国はこの戦争に611億ドルを費やした[71]。その内約520億ドルは他の諸国より支払われ、クウェート、サウジアラビアを含むペルシア湾岸諸国が360億ドル、日本が130億ドル(紛争周辺3か国に対する20億ドルの経済援助を含む)[72]ドイツが70億ドルを支払った。サウジアラビアの出資のうち25%は、食糧や輸送といった軍へ用務という形で物納により支払われた[71]。多国籍軍のうちアメリカ軍部隊はその74%を占め、包括的な出費はより大きくなされた。日本の戦費供出も、当時の自国防衛予算の約3割にあたる多額の支出が行われた。

国際関係[編集]

国境画定問題[編集]

現在のイラク・クウェート国境は、1993年5月27日、国際連合安全保障理事会決議833英語版に基づいて画定された[73]。1994年にサッダーム・フセイン政権はこれを承認した[73]。しかし、イラク現政府は同決議の承認を公式には表明しておらず、2010年7月14日、同国のアラブ連盟大使カーイス・アッザーウィーは、「現在の国境線は認められない」と発言したと報道された[74]。クウェート政府はこれに抗議し、イラク外相が釈明する事態となった。

テロリストへの影響[編集]

サウジアラビアはイラン・イラク戦争の折に、アメリカからF-15戦闘機などを導入し、アメリカはイラク監視を名目に第5艦隊在バーレーン軍司令部とともに戦後も駐留を継続した。同国出身のウサーマ・ビン=ラーディンは、自身のムジャヒディンでイラク軍から防衛する計画を提案したところ当時のファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ国王に断られ[75]、イスラム教の聖地メッカとマディーナを有する同国にアメリカ軍を駐留させたことに反発し、イスラム原理主義組織アルカーイダによるアメリカへの同時多発テロを実行したと発表されている[76]。このことからフセイン政権とアルカイダの関連が疑われてイラク戦争の開戦事由となったが、しかし、ビン=ラーディンはサダム・フセインをアラブ世界の汚物と酷評しており[77]、また、アメリカ上院情報特別委員会[注 4]はフセイン政権はアルカイダを脅威と見做していたと結論づけており、フセイン政権とアルカイダを繋げる証拠はなかった。

過激派は数度にわたって中東に在留するアメリカ軍を襲撃したが、1996年のアメリカ軍宿舎攻撃はタンクローリーを爆破するもので、十数名のアメリカ兵が死亡した。1998年にはケニアなどでアメリカ大使館爆破事件を起こし約200名を殺害。2000年にはイエメン沖でアメリカ海軍艦コールを攻撃した(米艦コール襲撃事件)。これらの事件でアメリカはアルカーイダを非難し、当時アフガニスタンでアルカーイダを保護していたタリバンにアルカーイダの引き渡しを求めた。さらに2度にわたる国際連合安全保障理事会決議でも引き渡しが要求された。しかしタリバンは引き渡しに応じず、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生した後にもアルカーイダを保護し続けた。このためNATOと北部同盟によるターリバーン政府攻撃が行われた。

レバノン内戦への影響[編集]

湾岸戦争前に、フセイン政権はレバノンのマロン派キリスト教勢力およびレバノン国軍に対して、(対立関係にある)シリア・バース党に対する対抗策として余剰の軍備を供与するなど同内戦に関与を深めていた。しかし、湾岸戦争の勃発により、これらの支援は途絶。マロン派キリスト教勢力は外国からの支援が途絶え、さらに民兵組織の処遇を巡って、同派の有力民兵組織レバノン軍団ミシェル・アウン率いるレバノン国軍は軍事衝突するに至った。また、イラクから支援を得ていた事から、レバノン政府及び軍に対する欧米からの支援も凍結され、レバノンのマロン派キリスト教勢力は深刻な内紛を抱え込み国際的に孤立する事となった。

一方、シリアは多国籍軍への参戦を表明。アメリカはその見返りとして、(手詰まりに陥っていた)レバノン問題の解決をシリアに事実上一任する形となった。また、この事態はイラクを支持し、レバノン国内のパレスチナ難民キャンプを事実上支配地域としていたPLOに対する牽制ともなった。

アメリカの黙認を得たシリア軍は、レバノン国軍に対して、各宗派の民兵組織と連携して大攻勢を仕掛け、これを降伏させた。レバノン内戦はシリア主導によって終結に向かう事となった。

日本への影響[編集]

湾岸諸国から大量の原油を購入していた日本に対して、アメリカ政府は同盟国として戦費の拠出と共同行動を求めた。日本政府は軍需物資の輸送を民間の海運業者に依頼した。全日本海員組合はこれに反対したが、政労協定を締結し[78]、2隻の「中東貢献船」を派遣した[79]。さらに当時の外務大臣中山太郎が、外国人の看護士介護士医師日本政府の負担で近隣諸国に運ぼうとした際にも、日本航空の労働組合が近隣諸国への飛行を拒否したため、やむなくアメリカのエバーグリーン航空機をチャーターしてこれに対応した。

さらに、急遽作成した「国連平和協力法案」は自民党内のハト派や、社会党などの反対によって廃案となった。なお、時の内閣は第二次海部内閣の改造内閣であった。

取り残された邦人への情報提供を行うため八俣送信所から有事放送を行った[80]

鈴木による「自動車込み反戦集会」立て看板(1991年)

また、鶴見俊輔自動車雑誌NAVI編集者鈴木正文[81]などの文化人は、多国籍軍によるイラクへの攻撃に対して、攻撃開始前の時点から「反戦デモ」を組織して[82]柄谷行人中上健次津島佑子田中康夫らは湾岸戦争に反対する文学者声明を発表した。これらの文化人や作家の多くはイラクによるクウェート侵攻については批判していたが、これを「イラクによる正当な領土回復行為」とみなす者もいた。[誰?]

日本政府は8月30日に多国籍軍への10億ドルの資金協力を決定、9月14日にも10億ドルの追加資金協力と紛争周辺3か国への20億ドルの経済援助を、さらに開戦後の1月24日に多国籍軍へ90億ドルの追加資金協力を決定し、多国籍軍に対しては計130億ドル、さらに為替相場の変動により目減りがあったとして5億ドルを追加する資金援助を行った。

クウェートは戦後に参戦国などに対して感謝決議をし、『ワシントンポスト』に感謝広告を掲載したが、新規増税により130億ドルに上る協力を行なった日本はその対象に入らなかった。また、凱旋パレードでのシュワルツコフ大将による演説においても、多国籍軍に参加した28カ国の駐米大使を壇上に上げたうえで「28の同盟国とその他の国(28 alliance and the other countries)」に対する感謝の意が述べられた。壇上に呼ばれなかったことに抗議した駐米日本大使の村田良平に急遽折りたたみ椅子が与えられたが、扱いの差は歴然であった[83]。日本の資金協力のうち、当初の援助額である90億ドル(当時の日本円で約1兆2,000億円)中、クウェートに直接入ったのは6億3千万円に過ぎず、大部分(1兆790億円)がアメリカに渡り[84]、またクルド人難民支援等説明のあった5億ドル(当時の日本円で約700億円)の追加援助(目減り補填分)のうち695億円がアメリカに渡っていた[84]日本政府の対応が10億ドルずつの逐次的支出で、全体として印象に残らなかったとする意見もある[誰?]

しかし人的貢献が無かったとして、アメリカを中心とした多国籍軍の参加国から「金だけ出す姿勢」を非難された。[要出典]なお、ドイツも同様に非戦協力のみであったが格別非難はされず、クウェートの感謝広告でも中央上段に国名が掲載されている。

同盟国のアメリカから非難された結果、「国際貢献」が政界や論壇で流行語になり[85][86]、自民党・外務省・保守的文化人などの間で「『人的貢献』がなければ評価されない」との意識が形成され、その後の自衛隊の派遣対象や任務の拡大の根拠に度々使われた。そして日本政府は国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にするPKO協力法を成立させた。中山太郎外務大臣は、感謝広告に日本が掲載されなかったことを引き合いに出し「人命をかけてまで平和のために貢献する」ときのみ「国際社会は敬意を払い尊敬する」旨答弁している[87]。その後、ペルシャ湾機雷除去を目的として海上自衛隊掃海艇を派遣し、自衛隊海外派遣を実現させた(自衛隊ペルシャ湾派遣)。このPKO協力法が施行されたことにより自衛隊はPKO活動への参加が可能となった。

2015年9月10日付で東京新聞は、クウェート側が広告掲載のためにアメリカ国防総省に求めた多国籍軍参加国のリストから日本が漏れていたとする記事を掲載した。アルシャリク元駐日クウェート大使はインタビューに対し、感謝広告はサバハ駐米大使(娘のナイラが「ナイラ証言」をしたことで知られる)による発案であり、サバハ大使の求めでアメリカ国防総省が示した参加国リストに日本が掲載されていなかったと話した。また同記事はクウェートの湾岸戦争記念館に日本の掃海作業や資金援助についての説明があること、2011年3月の東日本大震災の際にはクウェートからも富裕層から労働者まで多くの人々から義捐金が寄せられ、500万バレルの石油の無償提供が決議されたことを紹介し、クウェート人の間では湾岸戦争において日本が多額の資金援助をしたことは感謝の念とともに記憶されているとしている。

各国の姿勢[編集]

青色が多国籍軍およびクウェート支持国、橙色がイラク、緑色が消極的な多国籍軍支持国、赤色がイラク支持国。

多国籍軍に参加した国一覧[編集]

イラクを支持した国や政治家[編集]

多くの西側諸国シリアのような一部の東側諸国がクウェート、アメリカ側を支持する一方、イラクを支持する国も少なくなかった。代表としてはキューバブラジルモーリタニアリビアスーダンヨルダンイエメンチュニジア北朝鮮などが挙げられる。

呼称の変動[編集]

日本では英語名を訳した「湾岸戦争」が開戦直後に定着した。ペルシャ湾に面したクウェートが舞台になったことから名づけられたと見られ、ほとんどの国が訳語を使用している。イラクのクウェートへの侵攻から始まったことから、「イラク戦争」と呼ぶ人もおり、2003年のイラク戦争を受け、こちらを第一次イラク戦争、後者を第二次イラク戦争とも呼ぶ。また、2003年のイラク戦争の事を「第二次湾岸戦争」と呼び、こちらを第一次湾岸戦争と呼ぶ人もいる。

一方のイラクでは、多国籍軍が30か国ほどで結成されたことから「30の敵戦争」或いは、当時のイラクのフセイン大統領が「アラブ (イスラーム) 対イスラエルとその支持者 (アメリカやキリスト教国などの異教徒) 」と位置付けたこともあり、当時のアメリカの大統領の名前を取って「ブッシュ戦争」などと呼んでいた。

アラブ諸国では、イラン・イラク戦争を第一次湾岸戦争として、こちらを第二次湾岸戦争 (حرب الخليج الثانية)、あるいは過去4度の中東戦争との関連で第五次中東戦争と呼ぶことがある。

また、メディアによるリアルタイムの報道映像は、ミサイルによる空爆をテレビゲームのように映し出し、世界的には「ニンテンドー戦争」(Nintendo War)とも呼ばれた。日本国内では「テレビゲーム戦争」と報道された[注 5][88][89]

作戦名[編集]

ほとんどの連合軍諸国は、自らの作戦及び戦闘を様々な名称で呼んだ。これらはアメリカ軍による「砂漠の嵐」をはじめ、しばしば戦争全体を表す名称として誤って使われる。

これらに加え、各々の戦闘の各段階には、個々に作戦名が与えられた可能性がある。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ イラク軍の総兵力は100万人と公称されていたが、少年兵も含まれており、実質は半分程度だったとされ[4]山崎 2010, pp. 56–63では約56万人という値を採用している。またクウェート駐留部隊の士気は低く、休暇から戻らない兵士も続出し、万を起す兵力が最後は数十人に務ち込んだ師団さえあった[4]
  2. ^ 1990年3月15日、イラク当局がスパイ容疑で死刑判決を下していたイギリス『オブザーバー』紙のバゾフト記者に対し、判決から5日後という異例の早さで刑を執行したのをきっかけとして、欧米において対イラク批判が高まっていた[22]
  3. ^ : Beth Osborne Daponte
  4. ^ : Senate Select Committee on Intelligence
  5. ^ 当時主流のゲーム機であったNES(ファミコン)の愛称がニンテンドーであったことから。
  6. ^ : Operation Desert Calm
  7. ^ : Operation Desert Sabre
  8. ^ : the "100-hour war"
  9. ^ : Operation Desert Sword

出典[編集]

  1. ^ 湾岸戦争”. コトバンク. 2023年1月24日閲覧。
  2. ^ 湾岸戦争”. 日本放送協会. 2023年1月24日閲覧。
  3. ^ 酒井 2002, p. 114.
  4. ^ a b 松岡 2003, pp. 14–16.
  5. ^ イラク共和国”. 外務省 (2001年10月). 2002年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月24日閲覧。
  6. ^ a b 酒井 2002, p. 120.
  7. ^ a b c d e f g h i j 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 22–25.
  8. ^ 平成3年度 防衛白書”. 防衛省. 2010年11月15日閲覧。
  9. ^ "The Unfinished War: A Decade Since Desert Storm". CNN In-Depth Specials. 2001.
  10. ^ Khalid bin Sultan al Saud”. House of Saud. 2016年11月1日閲覧。
  11. ^ a b 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 63–71.
  12. ^ 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 596–604.
  13. ^ テロ対策特別措置法に関する資料”. 衆議院. 2010年11月15日閲覧。
  14. ^ “BBC ON THIS DAY |17 |1991:'Mother of all Battles' begins”. BBC News. (1991年1月16日). http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/january/17/newsid_2530000/2530375.stm 2010年3月18日閲覧。 
  15. ^ http://ehistory.osu.edu/world/WarView.Cfm?WID=41
  16. ^ Frontline Chronology (PDF)”. Public Broadcasting Service. 2007年3月20日閲覧。
  17. ^ Tenth anniversary of the Gulf War:A look back. CNN. (16 January 2001). オリジナルの16 January 2001時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/19960101-re_/http://archives.cnn.com/2001/US/01/16/gulf.anniversary/index.html 
  18. ^ Kenneth Estes. “ISN:The Second Gulf War (1990-1991) - Council on Foreign Relations”. Cfr.org. 2010年3月18日閲覧。
  19. ^ Peters, John E; Deshong, Howard (1995). Out of Area or Out of Reach? European Military Support for Operations in Southwest Asia. RAND. ISBN 0833023292. http://www.rand.org/pubs/monograph_reports/2007/MR629.pdf [要ページ番号]
  20. ^ a b c d e f g h i j k l 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 10–12.
  21. ^ a b c d e 外務省 1991.
  22. ^ a b c d 玉井 1990.
  23. ^ a b c 山崎 2010, pp. 56–63.
  24. ^ 山崎 2010.
  25. ^ 不透明な暫定自由政府『毎日新聞』1990年8月5日朝刊、5面
  26. ^ イラク軍 クウェートを武力制圧『朝日新聞』1990年8月3日朝刊、1面
  27. ^ イラク軍、クウェート制圧『読売新聞』1990年8月3日朝刊、1面
  28. ^ 新国名「クウェート共和国」と声明『毎日新聞』1990年8月8日朝刊、1面
  29. ^ クウェート「暫定政府」共和制を宣言『朝日新聞』1990年8月8日朝刊、1面
  30. ^ 共和国を宣言 暫定自由政府『読売新聞』1990年8月8日朝刊、5面
  31. ^ クウェートを統合 イラク宣言『朝日新聞』1990年8月9日朝刊、1面
  32. ^ イラク、クウェートを併合『読売新聞』1990年8月9日朝刊、1面
  33. ^ a b 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 608–614.
  34. ^ 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 59–63.
  35. ^ a b c d e 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 400–405.
  36. ^ a b 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 409–410.
  37. ^ a b c 山崎 2010, pp. 64–69.
  38. ^ a b 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 89–94.
  39. ^ a b c 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 405–409.
  40. ^ a b c d 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 410–412.
  41. ^ 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 418–419.
  42. ^ 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 76–80.
  43. ^ 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 109–117.
  44. ^ a b 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 94–109.
  45. ^ a b c d 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 156–163.
  46. ^ a b 山崎 2003.
  47. ^ a b 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 211–224.
  48. ^ 防衛研究所戦史研究センター 2021, pp. 198–207.
  49. ^ “Saddam's Iraq:Key events”. http://news.bbc.co.uk/2/shared/spl/hi/middle_east/02/iraq_events/html/collateral_damage.stm 
  50. ^ a b Robert Fisk, The Great War For Civilisation;The Conquest of the Middle East (Fourth Estate, 2005), p.853.
  51. ^ Toting the Casualties of War”. Businessweek (2003年2月6日). 2009年8月3日閲覧。
  52. ^ Ford, Peter (2003年4月9日). “Bid to stem civilian deaths tested”. Christian Science Monitor. 2009年8月3日閲覧。
  53. ^ Keaney, Thomas; Eliot A. Cohen (1993). Gulf War Air Power Survey. United States Dept. of the Air Force. ISBN 0-16-041950-6 
  54. ^ Wages of War - Appendix 2:Iraqi Combatant and Noncombatant Fatalities in the 1991 Gulf War
  55. ^ a b In-Depth Specials - Gulf War. CNN. (2001). オリジナルの2001時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070510125644/http://edition.cnn.com/SPECIALS/2001/gulf.war/facts/gulfwar/ 
  56. ^ Blanford, Nicholas (2001). Kuwait hopes for answers on its Gulf War POWs. Christian Science Monitor. http://www.csmonitor.com/2002/1223/p07s01-wome.html 
  57. ^ Persian Gulf War - MSN Encarta. 2009年10月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  58. ^ NGWRC:Serving veterans of recent and current wars (archived from the original on 23 September 2006)
  59. ^ Of Desert Storm's 700,000 U.S. Troops, 26% Now Disabled, June 19, 2000, otohns.com, citing newsrx.com
  60. ^ Is an Armament Sickening U.S. Soldiers?
  61. ^ Saudi Arabia - Persian Gulf War, 1991
  62. ^ The Associated Press. "Soldier Reported Dead Shows Up at Parents' Doorstep." 22 March 1991.
  63. ^ The Role of the United Arab Emirates in the Iran-Iraq War and the Persian Gulf War
  64. ^ Miller, Judith. "Syria Plans to Double Gulf Force." The New York Times, 27 March 1991.
  65. ^ Role of Kuwaiti Armed Forces in the Persian Gulf War
  66. ^ Wellman, Robert Campbell (1999年2月14日). “"Iraq and Kuwait:1972, 1990, 1991, 1997." Earthshots:Satellite Images of Environmental Change”. U.S. Geological Survey. http://earthshots.usgs.gov.+2010年7月27日閲覧。
  67. ^ Husain, T. (1995). Kuwaiti Oil Fires:Regional Environmental Perspectives. Oxford: BPC Wheatons Ltd. pp. 68 
  68. ^ Duke Magazine-Oil Spill-After the Deluge, by Jeffrey Pollack-Mar/Apr 2003
  69. ^ Leckie, Robert (1998). The Wars of America. Castle Books 
  70. ^ イラク、クウェートへの賠償支払い完了 侵攻から30年超”. AFP (2021年12月24日). 2021年12月24日閲覧。
  71. ^ a b How much did the Gulf War cost the US?
  72. ^ “原油無償提供、湾岸戦争の恩返し クウェートが日本に”. http://www.asahi.com/business/update/1012/TKY201110120697.html 2011年10月13日閲覧。 
  73. ^ a b Iraq:Weapons Programs,U.N. Requirements, and U.S. Policy (PDF)”. アメリカ合衆国国務省. 2010年11月15日閲覧。
  74. ^ かわら版 (PDF)”. 中東調査会 (2010年7月16日). 2010年11月15日閲覧。
  75. ^ Jehl, Douglas (December 27, 2001). "A Nation Challenged:Holy war lured Saudis as rulers looked away". The New York Times. pp. A1, B4. Retrieved September 5, 2009.
  76. ^ 平成16年版 防衛白書”. 防衛庁 (2004年). 2011年3月6日閲覧。
  77. ^ Bergen, Peter. "Vanity Fair excerpt of the book "The Osama bin Laden I Know"". (archive)
  78. ^ 全日本海員組合|主要年譜 全日本海員組合HP
  79. ^ 葬られた危機~イラク日報問題の原点~ 2018年5月28日、メ~テレ
  80. ^ 株式会社インプレス (2021年5月3日). “なにもかもが巨大な短波放送施設「KDDI八俣送信所」に潜入” (日本語). ケータイ Watch. 2021年5月5日閲覧。
  81. ^ 「日経トレンディネット」2010年01月21日
  82. ^ NAVI』1991年2月号[要ページ番号][信頼性要検証]
  83. ^ 佐々淳行 『私を通り過ぎた政治家達』文藝春秋、2014年、85頁。 
  84. ^ a b 1993年(平成5年)4月19日参議院決算委員会、外務省北米局長・佐藤行雄の答弁より。
  85. ^ nippon.com 「湾岸戦争と日本外交」2011年12月6日
  86. ^ 教材工房 世界史用語解説「湾岸戦争」
  87. ^ 第121回国会 衆議院 国際平和協力等に関する特別委員会 第6号 平成3年10月1日”. 国会会議録検索システム. 2021年1月8日閲覧。
  88. ^ 紛争時、紛争後におけるメンタル・ヘルスの役割 (PDF)”. 国際協力機構 国際協力総合研究所 (2005年12月). 2011年3月6日閲覧。[リンク切れ]
  89. ^ Leveraging the Media:The Embedded Media Program in Operation Iraqi Freedom (PDF)” (English). アメリカ空軍大学 (2004年5月). 2014年9月6日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

冷戦終結期の世界
中東の戦争
派兵と関連イベント
題材とした作品
映画
テレビ映画
漫画作品
影響を受けた作品
  • メタルギアソリッド:1998年9月発売のゲーム。湾岸戦争で派遣された兵士をモデルにしている。
  • 楽しいムーミン一家:他の東京キー局が湾岸戦争で緊急放送を流す中で、通常放送して話題を集めた。
  • 三つ目がとおる:湾岸戦争当時の『ムーミン』の次番組で、こちらも緊急放送にならず通常放送した。
  • 燃えろ!トップストライカー:ソ連崩壊当時の『ムーミン』の次番組。湾岸戦争の「多国籍軍」と似た設定で、「多国籍チーム」である「ジュピター・ウィングス」のストーリーが登場している。

外部リンク[編集]