ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ
| ファハド فهد | |
|---|---|
| サウジアラビア国王 | |
|
ファハド国王(1998年) | |
| 在位 | 1982年6月13日 - 2005年8月1日 |
| 全名 |
فهد بن عبد العزيز آل سعود ファハド・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード |
| 出生 |
1921 |
| 死去 |
2005年8月1日 |
| 埋葬 |
2005年8月1日 |
| 子女 | |
| 王家 | サウード家 |
| 父親 | イブン・サウード |
| 母親 | ハッサ・ビント・アフマド・アッ=スデイリー |
| 宗教 | イスラム教ワッハーブ派 |
ファハド・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード(アラビア語: فهد بن عبد العزيز آل سعود, ラテン文字転写: Fahd bin Abdulaziz Al Saud、1923年 - 2005年8月1日)は、第5代サウジアラビア国王。ワッハーブ派イマームとしてはファハド1世。長男はファイサル・ビン・ファハド。
生涯[編集]
初代国王アブドゥルアズィーズが数多くの妻の中で最も寵愛したハッサの息子である。
1923年にリヤドで生まれたとされるが、正確な生年月日は不明である。第二次世界大戦後の1953年にサウジアラビアの文相として、1962年に内相に就任した。
その後は石油・投資諮問会議や高等教育諮問会議の議長を務め、ファイサル国王の右腕としてサウジアラビア近代化に貢献した。1975年には王太子・第一副首相となり、病弱なハーリド国王を補佐して内政・外交両面で政治手腕を発揮した。
1982年6月12日に、ハーリド国王死去に伴いサウジアラビア王国第5代国王に即位した。以降冷戦下で親米・穏健路線の主導者として西側諸国との関係を保ちサウジアラビアを率いたが、1987年には中華人民共和国から中距離弾道ミサイルDF-3を導入してアメリカの懸念を招いたこともあった[1]。1984年、キング・ファイサル国際賞イスラーム奉仕部門受賞。
1995年に脳卒中で倒れるなど健康不安が続いていたために療養を続け、2005年8月1日にリヤド市内の病院で死去した。王位は、弟のアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ王太子が継承。
家族[編集]
母ハッサが産んだファハドを含む7人の男兄弟たちは、サウード家の最有力派閥として政府の重要なポストを占め、ハッサが有力部族スデイリー家出身であることから、「スデイリー・セブン」と称された。ファハドの他に最高級ポストまで昇り詰めた人物に、元皇太子スルターン(王位即位前に病死)、元皇太子ナーイフ(王位即位前に病死)、第7代国王サルマーンがいる。
スデイリ・セブンとその子や孫たちはサウード家の中での権力を掌握してきたが、1995年ファハドが脳卒中で倒れるなど健康を害したことに始まり、スデイリ・セブンも高齢に達し、世代交代も進んできたことにより新たな派閥が形成されてきている。
称号[編集]
1986年11月24日、ファハドは陛下の称号に代えて二聖モスクの守護者(خادم الحرمين Custodian of the Two Holy Mosques)の称号を名乗ると発表し、アブドッラー王太子に対し、この新たな称号をすべての公式文書、資料において使用するよう指示した。二聖モスクとはマッカのモスクとマディーナの預言者モスクを指している。これは世俗的王権性を否定し、伝統的称号を用いることで、国是としてのワッハーブ派に配慮したためである。
脚注[編集]
- ^ Geoffrey Kemp. The East Moves West: India, China, and Asia's Growing Presence in the Middle East. Washington DC: Brookings Institution Press, 2010. Print.