レバノン内戦

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レバノン内戦
Beirut2 i april 1978.jpg
内戦によって破壊されたベイルート(1978年)
1975年 - 1977年
1977年 - 1982年
1982年 - 1983年
1984年 - 1990年
場所 レバノン
結果 テロ増加と国土の荒廃
発端 アイン・ルンマーネ事件英語版
衝突した勢力
交戦国
レバノンの旗 レバノン戦線
Flag of the Government of Free Lebanon.png 南レバノン軍
イスラエルの旗 イスラエル
レバノンの旗マラダ大隊
交戦国
レバノンの旗 レバノン国民運動
パレスチナの旗パレスチナ解放機構
InfoboxHez.PNG ヒズボラ
イランの旗 イラン
交戦国
レバノンの旗 レバノン
Flag of the United Nations.svg UNIFIL
アメリカ合衆国の旗 アメリカ
フランスの旗 フランス
シリアの旗 シリア
指揮官
レバノンの旗 サアド・ハッダート
イスラエルの旗メナヘム・ベギン
イスラエルの旗アリエル・シャロン
レバノンの旗ワリード・ジュンブラット
パレスチナの旗ヤーセル・アラファート
レバノンの旗アッバス・アル=ムサウィ
Flag of the United Nations.svgエマニュエル・アースキン
アメリカ合衆国の旗ティモシー・ジェラティ
シリアの旗 ハーフィズ・アル=アサド
死亡者数:120,000–150,000人が死亡したと言われている。
レバノンの歴史
Libanonzeder.jpg
Map of Lebanon.png


レバノン内戦(レバノンないせん)は、レバノン1975年に起こった内戦。その規模などから第五次中東戦争とも呼ばれる。

歴史的背景[編集]

歴史的にキリスト教徒の多いレバノンは、第一次世界大戦第二次世界大戦を経て周辺アラブ国が独立すると中東では数少ないキリスト教徒が中心の国家となった。元来のレバノンの領域は「小レバノン」と呼ばれ、これはオスマン帝国時代にこの地を支配したドゥルーズ派の領主(アミールファハル・アッディーンの支配地を根拠とする。長らくこの地域こそが真のレバノンとされたが、第一次世界大戦後、事実上の宗主国となったフランスは元来のレバノン領域(小レバノン)を大幅に越えて、「大レバノン」と呼ばれる元来シリア領域とされるベッカー高原、レバノン北部及びトリポリ市、レバノン南部をも含めて国境線を作成した。これはマロン派を含めたレバノン独立運動を阻止したいフランスの分断政策の一つであった。この事がレバノン内戦を誘引する根本的な理由となった。

こうした理由から、レバノンという国家そのものが人工的なものであり、宗派別で国民・国家の意識の濃淡が激しかった。具体的に言えば、独立運動を牽引したのはキリスト教マロン派(以下、マロン派)とイスラム教ドルーズ派(以下、ドルーズ派)であり、この両派はレバノンに対する帰属意識が高いといわれる。一方、イスラム教スンナ派(以下、スンナ派)や同シーア派(以下、シーア派)、ギリシャ正教徒はもともと小レバノンには少なく、大レバノンに多く住んでいた。彼らの生活圏は元来シリアであり、ベイルートよりもダマスカスの方に帰属意識が強かったとされる。これらに対して、比較的最近になって移住してきたアルメニア人は内戦に積極的には関わらず、中立の姿勢を貫いていた。

しかも、こうした宗派はレバノン国内では圧倒的な多数派を形成せず、いずれもがほぼ同じ配分で存在する宗派社会であった。政治的影響を懸念して、レバノンでは過去に2回しか国勢調査が行われず、フランス統治時代の第二次世界大戦中に食糧配給のために調査したものは非公開、公開がなされたのは1932年の調査のみであり、これはキリスト教6:イスラム教5という比率であった。この時の国勢を根拠として独立時に「国民協約」と呼ばれる紳士協定が結ばれた。これは大統領はキリスト教徒、首相はスンナ派、国会議長は同シーア派……というように宗派ごとの閣僚・議席のポストを配分したものであった。これは不文協定であり、暫定的であって国勢調査に基づいて変動が行われるという条件であったが、実際に国勢調査は行われず、イスラム教徒の増加を無視する形でこの「国民協約」に則った国家運営が続けられた。このことが不利な立場を強いられるイスラム教徒の反発を買った。

また、レバノンに存在する宗派社会はベイルートを除けばそれぞれすみわけを行っており、集落・学校・社会風習はもとより、軍隊の各部隊までも宗派別に区分されるという有様であった。この事は、統一された国民意識の発達を阻害し、国家よりも自分が所属する宗派に従うという事態を生んだ。

こうした国民意識の希薄さは同内戦におけるシリアイランの介入を誘き寄せる事にもなった。

推移[編集]

バランスの崩壊[編集]

1958年にはアラブ民族主義の台頭を背景にイスラム教徒による内乱 (en) が発生する。この時はアメリカ海兵隊が派遣されてすぐに鎮圧された。しかし、度重なる中東戦争、さらに1970年に発生したPFLP旅客機同時ハイジャック事件をきっかけに起きたヨルダンによるパレスチナ解放機構(PLO)追放(ヨルダン内戦、黒い九月事件)が発生すると、多数のパレスチナ難民がレバノン国内に流入。イスラム教徒数の自然増加と相まって政治バランスが崩れ始めた。国内に国軍以上の軍事力を持つパレスチナ難民の存在に、マロン派からは懸念が示され、武力闘争によって難民を追放しようという動きも出てきた。

PLOの流入の結果、流血の事態を恐れたレバノン政府は、PLOに対して自治政府なみの特権を与え、イスラエルへの攻撃も黙認する事となった(カイロ協定。1994年にイスラエル・パレスチナ間で締結された「カイロ協定」とは別物)。これは当初、極秘に取り交わされたが、マスコミに暴露された結果、レバノン社会、特にマロン派に衝撃を与えた。この協定の結果、レバノン南部に「ファタハ・ランド」と呼ばれるPLOの支配地域が確立。レバノン国軍にPLOを押さえ込む力が無かった結果の措置だったが、イスラエルには明確な敵対行動としか映らなかった。イスラエルは空軍及び特殊部隊を用いて南レバノンやベイルートを攻撃。当時のレバノンは一定の空軍力こそ保有していたが(ミラージュ3EL戦闘機、ホーカー ハンター戦闘攻撃機を装備)、政治力学的にレバノン国軍はこれに報復する事はできなかった。この姿勢はイスラム教徒の怒りを買う事となった。

アマルの旗

結果、優位保守を主張するマロン派と、政治力強化を欲するイスラム教信者・パレスチナ難民との間で対立が激化する。ファランヘ党をはじめとするマロン派は米国・ロシアから様々な重火器を調達し、既存の民兵組織を強化した。また、イスラム教徒もPLOやシリアから軍事支援を受け入れ、アマル(シーア派)やタウヒード(スンナ派)といった民兵組織を構築していった。高級なリゾートホテルが立ち並ぶベイルート港に、次々に新品の軍用車両や火砲が荷上げされるという不気味な風景が1970年代前半に数多く見られる中、1975年に内戦に発展した。

衝突とベイルート分裂[編集]

きっかけは1975年4月13日、ベイルート郊外南部のアイン・ルンマーネ地区のキリスト教会でファランヘ党[† 1]による集会が行われていた際、同じく集会を終えて帰宅しようとしていたPLO支持者達のバスが教会を通りかかり、興奮していたPLO支持者が教会に発砲。ファランヘ党側もこれに応戦して銃撃戦に発展し、27名が死亡した[† 2]。この事件は地名を取ってアイン・ルンマーネ事件英語版と呼ばれ、不毛の内戦の始まりであった。衝突は14~15日も続き、トリポリ、サイーダにも拡大し、100名以上が死亡した[2]。また、同じ時期に南部の港町サイーダにおいてもスンナ派の漁民と、マロン派系の水産会社が設定した漁業権を巡って騒乱が起こった[† 3]。レバノン国軍がこの鎮圧に乗り出したものの、武装した漁民によってヘリコプターを撃墜されるという事件が起こり、この騒乱もイスラム教左派を煽動する事になった。この間、アラブ連盟事務総長、シリア外相の調停工作で4月16日に一旦停戦した。しかし、5月19日深夜、ベイルート東部デクタワー地区で再びパレスチナ・ゲリラとファランヘ党武装グループとの戦闘が行われた。5月23日には、この衝突の責任を取って内閣が辞任を余儀なくされ、軍人政権が成立したが、5月26日3日間で総辞職を余儀なくされた。それは、軍人政権にイスラム教徒・左派政党などが激烈な反対運動を全土に渡って展開したことによるものだった。パレスチナ・ゲリラとファランヘ党武装グループとの対立・抗争は、次第にレバノン右派勢力(ファランジスト党を中心とする)とレバノン左派勢力(イスラム教徒を中心とする)との衝突という形になっていった[4]

戦闘そのものはライフル・機関銃・ロケット弾等による散発的なものであった。むしろ、マロン派とイスラム教・PLO双方の民兵組織は対立する宗派の国民を次々に誘拐・拷問・処刑するという残虐行為を繰り広げた。特に週末は「ブラック・マンデー[† 4]と呼ばれ、こうした残虐行為が頻発した。自動車爆弾も次々にベイルート市内に置かれ、要人を含め多数の市民が殺傷された。誘拐は外国人観光客や外交員もターゲットとなった。内戦には距離を置いて中立姿勢を保っていたドルーズ派も信徒が殺害された事により、マロン派と対立していく事になった。こうした事態に警察は対処できず職務放棄をしてしまった。また直接は政治と関係のない強盗団も跋扈してベイルートは戦闘と犯罪で荒廃した(ただし、PLOや各民兵組織は強奪した金品を軍資金にした、という指摘もある)。海岸沿いのホテルや観光施設は民兵組織によって占拠された。1975年10月以降、各宗派の民兵達は立てこもるホテルを要塞化し、互いの陣地と化したホテルに目掛けて銃撃や砲撃を繰り返し、この戦闘で多くのホテルが壊滅した(cf. ホテル戦争)。

こうした結果、ベイルートはイスラム教徒・パレスチナ難民の多い西ベイルートと、マロン派の居住する東ベイルートに分裂。東西の境界線には「グリーン・ライン」とよばれる分離帯が築かれた。この「グリーン・ライン」は中立地帯では無く、時には双方で戦闘が起こり、平常時でも周辺の廃墟に狙撃兵が潜んでいる危険地帯となった。内戦当初は必ずしも各宗派の棲み分けが明確化していたわけでなく、政治と距離のある住民は仕事などでこの危険地帯を跨いで東西のベイルートを行き来する事もあり、多くの一般市民が死傷したといわれる。また、セルビスといわれるタクシーの運転手達は、このグリーン・ラインを全速力で突っ切る事を強いられた。

シリア軍侵攻[編集]

寄合所帯であるレバノン政府は内戦終結に消極的であり、レバノン国軍も脱走兵が相次いで機能を喪失してしまった。特にイスラム教徒の国軍兵士は所属宗派の民兵組織に逃げ込み、一部は「レバノン・アラブ軍」という反乱軍を結成した。1976年3月以降、ファランヘ党などのマロン派民兵組織は軍事力の豊富なPLOやアマルに次第に追い詰められていき、東ベイルートやジュニエといったマロン派の町に閉じ込められてしまった。

こうしたレバノンの事態に、シリアは当初は中立的な立場から静観し、1976年2月には「ダマスカス合意」と呼ばれる政治改革案を当時のスライマーン・フランジーヤ大統領に宛てて発表した。この合意は穏健的な政治・社会改革を目指すものであった。しかし、これは基本的に内戦以前のレバノンの現状を維持するものであり、イスラム教徒左派には強い不満を残すものであった。特にドゥルーズ派やPLOからは強い反発が生まれた。

ドゥルーズ派の名家出身であり、熱心なソヴィエト連邦支持者でもあった社会主義進歩党指導者のカマール・ジュンブラートはPLOとの連携に積極的であり、レバノンにおけるアラブ民族主義政権樹立に積極的であった。彼は内戦勃発前の1968年に「レバノン国民運動」と呼ばれる左派連合体を成立させ、マロン派に偏重している政治権力を取り戻し、汎アラブ主義国家を樹立させる事を目標とした。彼にとって、この内戦はその夢が実現する好機であった。

1976年5月、シリアがレバノン政府の要請に基づいて侵攻する。シリアにとってはドゥルーズ派とPLOの推し進める革命は、イスラエルのレバノン・シリア攻撃を誘発すると考えていた。このため、軍事力によって急進派のPLOやイスラム教ドゥルーズ派を制圧したのである。PLOや左派、そしてアラブ社会からはシリアの行動に対して非難が出された。1977年3月、シリアを裏切り者として特に非難したジュンブラートは何者かによって暗殺されてしまった。

シリアの軍事介入により、内戦は一時的に沈静化する。しかし、和平に失敗した上にマロン派とシリア軍、さらにPLOとの対立で再燃化してしまう。特にシリア軍の行動はPLOに不信感を与えたが、マロン派内も反シリア・パレスチナを旗印に1976年9月にレバノン軍団(以下LF)と呼ばれる民兵組織連合体を結成する。シリア軍とLFは散発的に衝突し、PLOやドルーズ派とも戦闘を繰り広げた。劣勢であったLFはイスラエルの支援と介入が不可欠と目論み、内戦へのイスラエル参入の機会を模索した。

レッドライン協定[編集]

1976年の軍事介入の際、シリアはイスラエルとの間で(実際には米国の仲介を持って)「レッド・ライン」協定と呼ばれる取り決めを決めていた。これは、ベイルート以南に旅団規模を上回るシリア軍主力部隊を駐留させず、レバノンにおいてイスラエルを射程圏内に収める長距離砲・ミサイル・ロケット弾を配備せず、また、一切の戦闘機・爆撃機をレバノン国内に駐留させないという不文律の協定であった。また、こうした兵器を用いて必要以上にキリスト教徒に危害を加えないという条件も加えられていた。軍事介入はあくまで内戦終結を目指すものであり、イスラエルに対する敵対行動でない、という事を証明するものだった。

イスラエル侵攻[編集]

「自由レバノン」を率いたサード・ハダト(右側の人物)

LFはレッドライン協定に着目し、1978年にLF部隊をシリア軍に検問で衝突させた。これに怒ったシリアは、レッドライン協定を無視してマロン派の拠点である東ベイルートに砲撃を加えた。イスラエルは協定違反として、シリアを非難した。さらに特殊部隊と空軍機を出動させ、リタニ川以南のレバノン南部を占領した(リタニ作戦)。しかし、イスラエル軍自身による占領は国際的批判を免れず、イスラエルはレバノン国軍の元将校であるサアド・ハッダート少佐に占領地を譲り渡して支配させた。彼は占領地で「自由レバノン」軍という民兵組織を結成し、イスラエルの傀儡部隊として協力した(その後、ハッダートは病死し、「南レバノン軍(South Lebanon Army)」と改称)。

1980年にはレバノン各地でシリア軍とLFが衝突した。LFは東ベイルートとベッカー高原を結ぶ軍事道路を構築しており、シリアはLFの陣地に攻撃を仕掛けると、LFはイスラエル軍に対して救難を要請し、イスラエル空軍の戦闘機がシリア空軍のヘリコプターを撃墜した。シリアはこの報復としてレッドライン協定に反して地対空ミサイルをベッカー高原に配備した。協定は有名無実になりつつあり、一触即発の事態に陥っていたが、1981年のアメリカの仲介によって、シリアとイスラエルの衝突は避ける事ができた。

レバノン戦争と多国籍軍の進出[編集]

1982年6月6日、駐英大使に対するPLOのテロへの報復と、PLO撤退のためとして、隣国イスラエルが越境して侵攻する(ガリラヤの平和作戦、レバノン戦争)。イスラエル軍はLFやアマルと組んでレバノンに駐留するシリア軍を壊滅させ(この際、国産戦車メルカバを初めて実戦投入し、当時ソ連の最新鋭戦車であったシリア軍のT-72を多数撃破する戦果を挙げている)、6月13日に西ベイルートへ突入、国際的非難を受けながらもベイルートの包囲を続けるが、徹底抗戦していたPLOも8月21日に停戦に応じ、8月30日にアラファート率いるPLO指導部および主力部隊がチュニジアへ追放された。ここでアメリカ合衆国イギリスフランスイタリアなどはPLO部隊撤退後のパレスチナ難民に対する安全保障という名目で、レバノンに多国籍軍を派遣した。

イスラエルとしてはレバノンを親イスラエル国家として転換させ、シリアひいてはアラブの影響力をレバノンから排除したかった。(これには、イスラエルが、カーター政権の仲介で成立したエジプトとの単独和平を意識していたとする指摘もある。)がLFのカリスマ性のある若手指導者バシール・ジェマイエルはイスラエルと親しい反シリアの政治指導者であり、彼を大統領に就任させるつもりであった。事実、1982年8月の大統領選挙において、イスラム教左派のボイコットを受けながらも大統領に当選した。しかし、9月、バシール・ジェマイエルはLF本部に仕掛けられた爆弾によって暗殺される。イスラエルは親イスラエル政権の樹立に失敗し、この事件をPLO残党の犯行とみなした。当時、LFの情報担当者といわれていたエリー・ホベイカ率いる部隊は、イスラエル軍の監視の下、パレスチナ難民キャンプで大量虐殺事件を発生させる(サブラー・シャティーラ事件)。この事件によって、虐殺を黙視したイスラエルには特に国際的非難が高まり(イスラエルはキャンプ内においてパレスチナ人の捜査をLFに指示したと主張)、当時のシャロン国防相が辞任する事となるが、ホベイカは後述するように親シリアともいわれており、真相は必ずしも全てが明白ではない。

アミーン・ジェマイエル

バシール亡き後、穏健派と目された兄・アミーン・ジェマイエルが大統領に就任した。イスラエルはアミーンとエジプトに続く中東和平条約「イスラエル・レバノン平和条約」を結ぶが、アミーンにバシールほどの政治力は無く、また世論の激しい反発を招いた事から、最終的に1984年2月に破棄された。パレスチナ難民の安全保障を目的としたはずのアメリカ・イギリス・フランスなどの多国籍軍は、内戦終結を望まない各派民兵組織や政治指導者に翻弄される事になる。すでに形骸化されていた国軍はアメリカ海兵隊の訓練と支援により再生され、西ベイルートを中心に若者が召集された。しかし、アミーンはイスラム教徒やシリアに対して強硬な態度で臨む様になっていき、1987年5月21日にカイロ協定を破棄している。この態度は両者の怒りを生み出し、シリアはアマルやドルーズ派、新興勢力であったヒズボラに対してテロリズムも含めたあらゆる支援を与える事となった。

山岳戦争[編集]

再建された政府軍はLFと共に、イスラエル撤退後のレバノン中部シューフ山地(ドルーズ派の本拠地)に生じた空白地帯の奪取に乗り出した。ドルーズ派やアマルもまた奪還に乗り出し、政府軍・LFとドルーズ派・アマルは激突する事となった。この「山岳戦争」において、政府軍は多国籍軍に空爆や艦砲射撃による援護を要請。イスラム教民兵組織が内戦終結の阻害と考えていた多国籍軍は、艦載攻撃機や戦艦を繰り出してイスラム教民兵に攻撃を加えた。しかし、この多国籍軍の軍事介入は功を奏さず、海軍機に損失が出る一方、多国籍軍の意味合いを変質させる事となった。

山岳戦争は「捕虜の存在しない戦争」ともいわれ、LFとイスラム教左派(特にドルーズ派)は敵意を剥き出しにして戦った。いずれの勢力も戦闘で捕らえた兵士・非戦闘員を競うように殺害し、戦闘と関係の無いシューフ山地にある対立する宗派の村落も多くが破壊され、住民は虐殺されるか追放の憂き目に遭った。この戦争でシューフ山地に住んでいた多くのマロン派は東ベイルートやジュニエといったマロン派の都市に国内難民として逃れ、内戦以来の「棲み分け」が完成する状態にまで至った。

多国籍軍撤退[編集]

さらに、アマルから分離したヒズボラによるアメリカ海兵隊駐屯地、アメリカ大使館に対する自爆攻撃が発生する(アメリカ大使館爆破事件参照)。続いてフランス軍、イタリア軍の駐屯地、イスラエル軍の指揮所にも自爆攻撃が仕掛けられた。この実行犯は当時、急成長しつつあった「ヒズボラ」の下部組織であった。ヒズボラは、元々「イスラーミーヤ・アマル」というアマルにおけるイスラーム主義を主張する非主流派であったが、レバノン戦争時にイラン革命防衛隊から「同胞の支援」を掲げてレバノンに来訪した将兵達によって改称・組織化された民兵組織であった。シーア派は、南部レバノンに多く住み、常にイスラエルの攻撃に曝されていたが、パレスチナ問題には比較的冷淡であった。このため、傲慢さのあるPLOの支配に反感を覚え、イスラエルの「解放」に歓迎の姿勢を見せる者もいた。しかし、イスラエル軍はシーア派に対して無知であり、同派の重要な宗教行事をイスラエル軍が妨害し中止命令を出した事によって一気にイスラエルへの反発が高まった。

シューフ山地における戦闘も政府軍・LFの敗北が決定的となり、ヒズボラの大規模自爆テロの衝撃から1984年2月、アメリカ海兵隊の撤退を皮切りに多国籍軍は撤退を余儀なくされる。サブラ・シャティーラ事件の国際的な非難のなか、イスラエルもまたレバノンから撤退するが、南部国境地帯を半占領下に置いたままであった。逆にアマルやドゥルーズ派はシューフ山地の奪還に成功し、ついには西ベイルートからも国軍を放逐。再建された国軍は再び瓦解し(イスラム教徒が中心の部隊はアマル等の指揮下に入った)、東ベイルートに閉じ込められる事となった。

内戦の泥沼化[編集]

これ以降、国際社会の内戦介入失敗を経て、内戦の対立は宗派を超えて細分化していく。ヒズボラは政治的な理由に基づく外国人誘拐を繰り返し、内戦終結まで続ける事となる。この連続誘拐は、アメリカを初め各国の怒りを買い、一時は再び多国籍軍によるレバノン攻撃が計画された程であった。

イスラエル、アメリカなどが後退した状況下で、シリアは同国を軸とする内戦終結を目論む。1984年3月にはシリア主催でローザンヌにおいて民兵組織指導者を集めて「国民和解会議」が開かれ、9月にはレバノン憲法起草委員会を召集して改憲案を提出させるが、いずれもレバノン政府の存在を無視した事、現実的な利権を無視した事などから成功しなかった。

産業は内戦によって崩壊していたが、あらゆる民兵組織は群雄割拠の無政府状態を利用して、ベッカー高原を中心に麻薬産業を発達させていく。キリスト教徒とイスラム教徒はあらゆる場面で対立したが、麻薬産業のみにおいては生産はイスラム教徒、密売はキリスト教徒という奇妙な「役割分担」が成されていたという。1980年代後半に政府が実質的な支配においていたのは電話であり、唯一機能していた政府機関は中央銀行のみであったという。多国籍軍による再建が失敗したレバノン国軍は、宗派・地域ごとに分断された。キリスト教徒の将兵で占められている東ベイルート周辺の陸軍部隊や海空軍を除くと、イスラム教徒主体の部隊はアマルなど民兵組織の指揮下にある有様であった。それでもレバノン国軍は形式的には存続し、予算配分と装備供与のみは律儀に続けられた(装備の多くは民兵組織に流用された)。だが、レバノン国軍は後述の「解放戦争」が勃発するまでは、再び政治への介入に消極的となった。

さらに各派民兵組織は支配地域で「税金」と称して様々な金銭を国民から徴収していた。例えば、国内のあらゆる場所に設置された民兵組織の「検問」は、「交通税」を徴収する貴重な資金源であった。また、石油にしても政府が設定した石油税とは別に、民兵組織が独自に石油税を設定して上乗せし、実際には政府の石油税も民兵組織が資金源としていた。どのような宗派のレバノン国民であれ、その社会で出世したいのであれば民兵組織に入らなくてはならない、というのが暗黙のルールになっていた。

1980年中盤以降はこうした現実的な利権を巡って、各民兵組織が泥沼の紛争に突入していく。ときには同じ宗派内においても対立が発生した。内戦の長期化は、主義主張の争いから利権の争いに変質させた。マロン派においても、フランジェ派のような伝統的親シリア派とは別に、自分達の身分を保証するのであれば親シリアでもかまわないという現実路線が生まれてきた。反シリアであるLFでも、ホベイカの様にシリア支持に乗り出す幹部が現われてきた。パレスチナ難民虐殺事件の中心的人物ともいわれるこのホベイカを、シリアはとくにマロン派の切り崩しとして利用しようとしたが、反シリアの若手指導者であるサミール・ジャアジャアとの権力闘争に敗れ、ホベイカはシリアの庇護を求めてベッカー高原に逃亡した。

イスラエル侵攻後、半ば撤退していたシリア軍は治安維持を名目に再進出し、PLOも多くがレバノンに舞い戻ってきた。しかし、シリアにとってPLOは邪魔な存在であり、1986年には再進出したシリア軍とアマルによるパレスチナキャンプへの攻撃が行われた。なかでもPLO支持の難民キャンプを包囲し、アマルはキャンプに対する飢餓作戦と執拗な銃砲撃を加えたため、多数のパレスチナ難民が死傷する事となった(キャンプ戦争)。また、世俗主義であるアマルとイスラーム主義のヒズボラ、ドゥルーズ派とアマルなど、イスラム教徒左派において内紛が頻発し、その都度シリア軍が沈静化に乗り出した。

このような中、レバノン国軍の中からシリア排除を要求するミシェル・アウン将軍が台頭してくる。アウンの考えは、統一されたレバノン国家を誕生させる事にあり、具体的にはレバノン社会からの宗派主義の排除、民兵組織解体による中央集権政府・軍の樹立、シリア・PLO排除によって外国から主権を取り戻すというものであった(イスラエルに対する姿勢ははっきりとさせていなかったが、後述の解放戦争においてはイスラエルの軍事介入を拒否している。なお、2006年現在、アウンは有力な野党指導者としてアマル・ヒズボラと協力関係を結んでいる)。ホベイカ逃亡後、LFの指導者となったジャアジャアはアウン率いる国軍に急接近していき、再び反シリアを強めていった。アウン・LF連合軍には、シリアと対立するイラクが支援に乗り出し、イラン・イラク戦争の終結で余剰となった武器弾薬や車両を提供した。

ターイフ合意[編集]

この一方で、和平を求める動きも見られ、サウジアラビアの仲介で内戦を終結し国家再建を目指すターイフ合意(名称はサウジアラビアの都市名に因む)が国会議員団によって1989年に採択される。当初この合意への調印に各派民兵組織指導者とシリアは消極的であったが、サウジアラビアの説得によりシリアは賛成に周り、民兵組織もヒズボラ、親イスラエルの南レバノン軍、アウン派などを除いて、多くの組織が承諾。その後、ヒズボラは消極的賛成にまわり、南レバノン軍は合意そのものを黙殺。そして、アウン将軍派はこの合意への同意を頑なに拒否した。

1988年、アミン・ジェマイエル大統領の任期が終了となったが、元来イスラム教のポストである首相にマロン派であるアウンを任命していた。この直後に、アミンはレバノンから亡命同然にアメリカへ移住した。レバノンは一時的に大統領が空位となる異例の事態となった。シリアは、反シリアであるアウンの首相就任を拒絶し、伝統的に首相を輩出しているスンナ派からホスを首相に就任させた。そして、シリア支配地域であるベッカー高原のラヤクにある事実上の休眠状態に陥っていた空軍基地に国会議員を召集させ、名望家出身の伝統的政治家であるルネ・ムアワドを大統領に就任させた。

この結果、反シリアのアウン軍事政権と、ターイフ合意を旗印としたムアワド大統領の政権の二つがレバノン国内に存在する事態となった。しかし、後者は影響力が少なく、バーブダの大統領府はアウン「首相」が占有しており、ベッカー高原を出る事すらままならない弱体ぶりであり、かつ11月21日に暗殺されてしまう。後継にはエリアス・ハラウィが就任し、シリアのバックアップの下、アウン派と対峙していくことになる。

アウン派政府軍はキリスト教徒に徹底抗戦を呼びかけた。しかし、イラククウェート占領を経て湾岸戦争に突入して途絶。また、イラクから支援を受けていた事から、アメリカなどは、ムアワド及びハラウィの政権に正当性を認め、外国からのアウン派政府軍への支援は絶たれた。さらにLFを含めた民兵組織の解体と中央集権体制の樹立を目論むアウンと、LF主導のマロン派国家樹立を目指すジャアジャアとは対立し、連合軍は決裂した。この結果、元来戦闘の少なかった東ベイルートやジュニエにおいても、マロン派同士の戦闘が発生した。また、イラクがアウン派政府軍に対して、マロン派支配地域からシリアの首都ダマスカスを射程圏内に入れるロシア製短距離地対地ロケット「FROG」を供与したという噂も流れ(現実には供与されなかった)、緊張状態が加速した。

アメリカは、湾岸戦争へのシリア出兵の見返りとして、シリアに内戦終結を一任する事となった。アメリカの後ろ盾を得たシリアは、イラクの影響力排除も目論んで最も大規模な軍事作戦を行う事となった。

解放戦争[編集]

追い詰められたアウン派はシリア軍と対決した。この戦争は「解放戦争」と呼ばれ、レバノン戦争を別とすれば、戦車や長距離砲、ロケット砲を用いたもっとも規模の大きな戦闘となった。アウンは一時、占領者からレバノンを守る英雄として、マロン派ばかりでなくイスラム教徒にさえ支持者があらわれた。しかし、アウン派は支援も途絶え、シリアの猛攻の前に敗北。立てこもっているベイルート東南のバーブダにある大統領府へのシリア空軍の爆撃が始まると、アウンはフランス大使館に逃亡し、亡命を申請した。この総攻撃はレッドライン協定違反だったが、イスラエルはアメリカの懐柔により、シリアへの非難を控えた。

この結果、1990年にシリアがアウン派政府軍を制圧する。この際、多数のアウン派政府軍将兵が処刑されるか、シリアに連行されたといわれる。親シリアでアウンと対立的であった海軍将校のハラウィを中心に、キリスト教徒・イスラム教徒両派の民兵組織指導者が閣僚に就任した挙国一致内閣が樹立した。

東ベイルート、ジュニエといったマロン派の本拠地に進駐したシリアは、段階的に民兵組織を武装解除して内戦を終結させた。

パックス・シリアナ[編集]

シリア支配
内戦終結後のレバノンはシリアの実質支配下に置かれ、およそ3万人とされるシリア軍がベッカー高原を中心に駐屯した。シリアは、単に軍の駐留のみならず、情報機関の関係者を積極的にレバノンの政府機関に送り込むなど、明に暗にレバノン政府を支配できるシステムを構築しているとされている。また、国会議員選挙にも故・ハーフィズ・アル=アサド大統領の「忠言」があったとされ、「レバノンの国会議員選挙の結果を知りたければ、シリアの大統領に聞けば良い」という風刺があるほどであった。さらに、ヒズボラに対する指揮・訓練・支援のために多数のイラン革命防衛隊将兵がレバノン国内に存在したといわれる。とは言え、シリア軍による武力での強制停戦は、レバノンに一応の平和をもたらし、「パックス・シリアナ (PAX Siriana:シリアによる平和)」と呼ばれる状態となった。
シリアの軍事的支援を受けたレバノン軍によって、多くの民兵組織が解体されたものの、シリアやイランが支援するヒズボラや反PLO系のパレスチナ難民組織は未だ武装解除されなかった。これは対イスラエル戦略のカードとしてヒズボラを利用したいシリアの思惑があった。
イスラエルの撤退
イスラエル軍も南部に駐留を続け、ヒズボラに対する作戦を続けた。1996年にはイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行としたイスラエル軍はレバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦)。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃され、イスラエルは非難された。
イスラエルは2000年に南部から無条件撤退したものの、撤退後にできた空白地帯はヒズボラの実質支配地域となり、この地域に対するイスラエルの越境砲撃や空爆が続行されている。また、シリアとレバノンの一種の不確定地域となっている南東部シェバア農場には現在もイスラエル軍が存在しており、「占領しているシリア領ゴラン高原の一部」と主張するイスラエルと、「レバノン領土」と主張するヒズボラと現在も交戦状態にある。
レバノン政府軍
政府軍は徴兵制を施行し、年々増強傾向にあるが、内実は治安維持程度のものと考えられる。ヒズボラ支配地域やシリア軍駐留地域、パレスチナ難民キャンプではレバノン政府の支配力は未だ限定的なものであり、シリア、イラン、そして、敵対するイスラエルは、レバノン政府を無視してヒズボラと直接交渉する事がほとんどである。内戦終結後は、アメリカが積極的に訓練支援や装備の引渡しを行なっていたが、ヒズボラ問題などもあって近年は停滞している。「内憂対策はレバノン政府軍、外患(イスラエル)対策はヒズボラが行なう」という図式が事実上定着している。
パレスチナ難民
内戦の主役ともいえたパレスチナ難民は、シリアの思惑によって、内戦以降はむしろ追い詰められる事となった。内戦の原因の一つとなったカイロ協定は一方的に破棄され、既成化されていた市民権はレバノン政府によって剥奪された。レバノン国軍は、シリアの軍事的支援を受けてPLO系の軍事組織のほとんどを強引に武装解除し、シリアの思惑によって反PLO系組織以外のパレスチナ組織と難民は少なくともレバノン国内では武器と権利が取り上げられた。社会的な保障も無くなり、パレスチナ難民キャンプはスラム化した貧困地帯となっている。
レバノン軍団
シリアと反目したレバノン軍団(LF)は一時こそ武装解除され政党化したが、1990年代前半に発生した爆弾テロ事件の首謀者としてジャアジャアが逮捕されると、レバノン政府によって非合法化されてしまった。これによってマロン派の有力な政治指導者は親シリアの一部政治家を除いてほぼ消滅したといわれる。フランスに亡命したアウンは同国を中心にシリア軍撤退と親シリア体制の解体を目指して、欧米のマロン派移民を結集して運動を行っていたが、アウンの帰国が事実上不可能だった当時、国内に影響力はほとんど無かったという。シリアに寝返ったホベイカは、2002年に何者かによって自家用車に仕掛けられた爆弾によって殺害された。ホベイカは、サブラ・シャティーラ事件を解明しようとした国際司法裁判所における法廷に証人として出席する直前であった。このため、同事件の真相は闇に葬られる結果となったという。
国土の荒廃
戦火の傷は深く、現在も内戦中に行方不明となった多くの国民が存在する。その一部には、PLO系パレスチナ難民や解放戦争時のキリスト教政府軍兵士もおり、彼らはシリアの刑務所に幽閉されていると信じられている。
15年に及ぶ断続的な戦争は、基幹産業の観光・金融を衰退させ、国土は荒廃した。1990年代はサウジアラビアに巨大な建設企業を保有するハリーリー元首相による経済復興が最優先され、ベイルートを中心に一時は復興の光が見えたが、2001年アメリカ同時多発テロ後は、国内に駐留するシリア・イラン、ヒズボラが軒並みテロリスト・テロ国家の烙印を押され、アメリカから軍事援助を中心とする支援が凍結された。
シリアの撤退
イスラエル撤退後、シリア軍も撤退すると思われたが、ベイルートやマロン派地域等からベッカー高原への兵員移動など、名目的な撤退のみにとどまったため、一時的にマロン派やドルーズ派によって反シリア運動が展開されたが、レバノン当局によって鎮圧された。ベッカー高原はヒズボラの拠点であると同時に、シリアの対イスラエル戦略の要衝とされている。長距離レーダー基地など軍事施設がひしめく地域といわれ、シリアの駐留は永続化すると考えられていた。
2004年9月、国際連合安全保障理事会はレバノン情勢に関する決議を採択した。これは駐留を続けるシリアへの撤退勧告及びヒズボラ等、武装を続ける民兵組織の解体を促す内容のものであった。ただし、シリア及びレバノン政府はこの決議を「不適切」としており、特にレバノン政府はヒズボラを「不当に占領を続けるイスラエルへの正当な抵抗」集団としている姿勢を崩さなかった。
2005年2月に起きたハリリ元首相暗殺爆弾テロは、国際社会の反発を呼び込み、アメリカなどの圧力もかかり、シリア軍は遂に段階的撤退を開始した。同年4月までに情報機関を含めてシリア軍は完全撤退した。次いでフランスに亡命していたアウンが帰国。同年6月に行なわれたレバノン総選挙では、ハリリ派の政党連合が、ワリード・ジュンブラートや反シリア派キリスト教徒勢力と手を組み、勝利を収めた。アウンは自らの党派を旗揚げしたが、ハリリ派には加わらず、反シリア・反ハリリ派キリスト教徒の支持を集めた。LF指導者で刑務所に収監されていたジャアジャアも、シリア撤退と政権交代によって収監の必要がなくなり、同年8月に恩赦された。90年に成立したレバノンのパックス・シリアナは15年で終わりを迎えた。
イスラエル再侵攻
2006年7月、ヒズボラはイスラエル領に侵入して兵士を拉致した。このためイスラエル軍はレバノンへの空爆、地上軍侵攻を伴う大規模な軍事行動を起こした。長期化も心配されたが、8月に国連の停戦決議が採択されて両者は停戦、国連レバノン暫定軍がイタリア主体で2000人規模に増員・再編成されて展開し、イスラエル軍は10月に撤収した。今後は国連によってレバノン軍の強化が行われるが、ヒズボラの武装解除など解決の見通しが立たない課題が山積みである。(cf. レバノン侵攻 (2006年)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ファランジスト党とも。1936年、ピエール・ジェマイエルによって、スペイン内戦で活躍した戦闘的ファシスト、ファランヘ・エスパニオラの理論体系を真似て創設された党で、レバノン最大のキリスト教徒の政党である[1]
  2. ^ この事件のきっかけについては、反対にパレスチナ・ゲリラのバスがファランヘ党武装グループによって襲撃されたという説明もある[2]
  3. ^ レバノン政府(右派・キリスト教徒の国民自由党党首)が、漁業権を漁業会社に付与したため、1975年2月26日漁民がこれに抗議して、軍隊と衝突した事件である[3]
  4. ^ 1975年2月から始まった内戦の中で、IDカード・マーダーと呼ばれた残虐大量殺人行為・宗派的無差別殺戮が1975年12月5日の土曜日以降発生した。一般市民が街中を通行中に突然武装した兵士に呼び止められIDカードの提示を求められ、カードの宗教・宗派が武装グループと違えばその場で惨殺されるか、誘拐されて、結局死体となって発見される。もしくは武装集団が個人のアパートや住宅を襲って、IDカードの提示を求めることも行われた[5]

出典[編集]

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  1. ^ 小山 (1977), pp. 148-149.
  2. ^ a b 小山 (1977), p. 148.
  3. ^ 小山 (1977), pp. 147-148.
  4. ^ 小山 (1977), p. 149.
  5. ^ 小山 (1977), p. 81.

参考文献[編集]

関連項目[編集]