米西戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
米西戦争
USSMaine.jpg
ハバナで爆沈したUSS ACR-1 メイン
戦争:米西戦争
年月日1898年4月25日 - 8月12日
場所西インド諸島太平洋
結果:アメリカ合衆国の勝利
   パリ条約の締結 スペイン帝国の崩壊
交戦勢力
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
 キューバ
Philippines Flag Original.svg フィリピン第一共和国
スペインの旗 スペイン帝国
指導者・指揮官
アメリカ合衆国の旗 ネルソン・A・マイルズ
アメリカ合衆国の旗 ジョージ・デューイ
キューバの旗 マクシモ・ゴメス
Philippines Flag Original.svg エミリオ・アギナルド
スペインの旗 パトリシオ・モントーホ
スペインの旗 パスクアル・セルベラ
戦力
キューバの旗キューバ軍

民兵:3万人[1]
アメリカ合衆国の旗アメリカ軍
正規兵・民兵:約30万人[1]

スペインの旗 スペイン軍
正規兵・民兵:約34万人[1]
損害
キューバの旗キューバ軍
戦死者:1万665人[1]
アメリカ合衆国の旗アメリカ陸軍
戦死者:345人
負傷者:1577人
病死:2,565人[1]
アメリカ合衆国の旗アメリカ海軍
戦死者:16人
負傷者:68人[1]
スペインの旗 スペイン陸軍
戦傷者:3,000人
捕虜:6700人[2]
病死:1万3000人[1]
スペインの旗 スペイン海軍
戦死者:560人負傷者:3~400人[1]
米西戦争

米西戦争(べいせいせんそう)は、1898年アメリカ合衆国スペイン帝国の間で起きた戦争である。

アメリカ海軍メイン号の爆発を機にアメリカ世論の好戦ムードは高まる一方だった。スペインは自国傘下の海底ケーブルを持たなかったので、通信面で不利に立たされた。スペインは敗北し、カリブ海および太平洋の旧スペイン植民地に対する管理権をアメリカが獲得した。

20世紀のキューバの歴史家は、1868年から独立運動を続けてきたキューバ独立軍との関係からこの戦争をスペイン・アメリカ・キューバ戦争(米西キューバ戦争)と呼び、1946年にキューバ議会はこの名称をキューバにおけるこの戦争の正式名称とすることを決議した[3]

歴史と背景[編集]

前史~スペイン帝国の全盛期と衰退[編集]

かつて「太陽の沈まない国」と呼ばれ、世界的な強国として君臨していたスペイン帝国の地位は19世紀後半までの数世紀の間にみるみる低下していった。

それ以前、中世末期の大航海時代にクリストファー・コロンブスが現在のバハマ諸島の東端に位置するサンサルバドル島に上陸し、当初はそれを香料諸島のインドと勘違いしてそこに住む原住民を「インディアン(インドの人々)」と呼んだ。

それ以降、スペインの軍人であるエルナン・コルテスの「アステカ文明の発見と征服」を皮切りに北米・南米大陸の大部分にまで及んだ金・銀鉱山の盗掘、そして現地の先住民を奴隷化して彼ら自身に金・銀を掘らせるエンコミエンダ制を実施し、その金・銀を船に積み込んでスペインのセビリャ港に運び出した。本国ではその金・銀で貨幣を大量に鋳造し、それを海軍力の増強や植民地拡大に充てた。こうして近代16~17世紀のスペイン帝国は繁栄した。

しかし、ヨーロッパでのオランダ独立戦争で蘭(オランダ)・英(イギリス)連合軍にドーバー海峡で負けて以来、香料諸島の植民地支配の主導権はオランダに奪われ、ポトシ銀山を始めとする南米各地の金・銀の産出量は減少し、海軍力はすでに世界一の座からは落ちるという具合に、明らかに衰退していった。

植民地の独立運動[編集]

時を経て時代は19世紀末~20世紀に入ろうとする頃、既にスペインにかつての大帝国の面影はほとんど感じられなかった。東アジアでは16世紀に当時のスペイン帝国で最大の版図を誇ったフェリペ2世の名前をとって名付けられた“フィリピン”が残るのみで、太平洋アフリカおよび西インド諸島には、ほんの少数の散在した植民地しか残らなかった上に、その多くも独立のための運動を繰り広げていた。

フィリピンではエミリオ・アギナルドにより、キューバではアントニオ・マセオen)やマクシモ・ゴメスen)、ホセ・マルティなどにより既に数十年に渡るゲリラ戦争が展開されていたが、スペイン本国はこれらの脅威に対抗しうる予算、あるいは人的資源を十分に持っておらず、全ての面で不足していた。

そこでキューバにおいてキャンプを構築し住民と独立軍を分離し支援を止めさせる作戦を布告した。スペインはさらに反逆者と疑わしい人々の多くを処刑し、村々に残酷な仕打ちを行った。1898年にはキューバ島の約半分がマクシモ・ゴメス将軍の率いる独立軍に支配され、結局スペインは立場を完全に回復することができなかった(第二次キューバ独立戦争)。

ジャーナリズムの読者数獲得競争と捏造記事[編集]

キューバでのこれらの出来事は、アメリカの新聞が読者数を伸ばそうとしていた時期に起きた。1897年の「アメリカ婦人を裸にするスペイン警察」という新聞記者による捏造記事をきっかけに[4]、各紙はスペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激した。そしてキューバへの介入を求める勢力の増大を招いた。

開戦への圧力[編集]

そのため、開戦への他の圧力も増大し、アメリカ海軍は開戦の1年以上前にフィリピンでスペイン軍を攻撃するための計画を作成していた。西部への拡張およびインディアンとの大規模交戦の終了はアメリカ陸軍の任務を減少させ、軍の指導陣は新しい任務を望んだ。

早期からアメリカ人の多数はキューバが彼らのものであると考えており、マニフェスト・デスティニーに関する理論はちょうどフロリダの沖合にある、非常に魅力的に見える島によって作られた。キューバの経済の多くは既にアメリカの手にあり、ほとんどの貿易(その多くは闇市場だった)はアメリカとの間のものであった。

何人かの財界人も、開戦を同様に要求した。ネブラスカ州上院議員ジョン・M・サーストンは「スペインとの戦いは、すべてのアメリカの鉄道ビジネスおよび所得を増加させるだろう。それは、すべてのアメリカの工場の出力を増加させるだろう。それは、産業と国内通商のすべての流通を刺激するだろう。」と明言した。

太平洋を渡ってマニラまで向かうのに2ヶ月はかかる時代であったにも関わらず、マニラ湾海戦は開戦からわずか約2週間後の5月1日に勃発した。

戦闘の経過[編集]

戦争の始まり[編集]

1898年2月15日ハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メイン号(USS Maine, ACR-1)が白人士官の上陸後に爆発、沈没し266名の乗員を失う事故が発生した(この中には8名の日本人コックとボーイが含まれていた)。爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものが無かったが、『ニューヨーク・ジャーナル』、『ニューヨーク・ワールド』の2紙を始めとした当時の米国のメディアはスペイン人による卑劣なサボタージュ(破壊活動)が原因であると主張した。「Remember the Maine, to Hell with Spain!(メインを思い出せ!くたばれスペイン!)」という好戦的で感情的なスローガンを伴ったこの報道は、一層米国民を刺激することとなった。この愛国的で好戦的な風潮はスプレッド・イーグリズムあるいは主戦論として知られている。

爆発原因に関する専門家の見解は現在も定まっていないが燃料の石炭の偶然の爆発によるものとするのが一般的であり、コンピューター・シミュレーションによって確認もされている(アメリカ海軍は、調査により原因をボイラー欠陥と結論づけている[5])。一方、石炭自体にその原因を求めるものや米国を戦争に引き込もうとするキューバ人革命家によるサボタージュによるものとする異論も存在するが、スペインが戦争に消極的であったという点では一致している。

アメリカ合衆国のウィリアム・マッキンリー大統領は開戦に同意せず、世論に対して長い間持ちこたえた。しかしメイン号の爆発は、戦争への世論を非常に強力に形成した。スペイン首相・サガスタ(en:Praxedes Mateo Sagasta)はキューバから職員を撤退させてキューバ人に自治を与えるなど、戦争を防ぐ為の多くの努力をした。しかしながらこれはキューバの完全独立には不十分なもので有り、大きく現状を変更するには足りなかった。

4月11日、マッキンリー大統領は内戦の終了を目的としてキューバへ米軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出。4月19日に議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認し、大統領はスペインの撤退を要求する為に軍事力を行使することを承認した。これを受けて、スペインはアメリカとの外交関係を停止。4月25日アメリカ合衆国の連邦議会はアメリカとスペインの間の戦争状態が4月21日以来存在することを宣言した(議会はその後、4月20日に戦争の宣言をさかのぼらせる議決を承認した)。

太平洋[編集]

フィリピン[編集]

太平洋での戦い

フィリピンにおける最初の戦闘は、5月1日のマニラ湾海戦である。香港を出港したジョージ・デューイ提督率いるアメリカ太平洋艦隊が、マニラ湾でパトリシオ・モントーホen:Patricio Montojo)提督率いる7隻のスペイン艦隊を攻撃した。6時間ほどでスペイン艦隊は旗艦を含む3隻が沈没、4隻が炎上するなど壊滅状態に陥った一方、アメリカ艦隊の被害は負傷者7名のみとほぼ無傷であった。

マニラ湾海戦の結果、フィリピンのスペイン海軍は壊滅したが、マニラでは1万人以上のスペイン陸軍が駐留していた。海戦後にデューイと会談し、勝利の暁に独立させると約束されたフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルド率いるフィリピンの民族主義者は、アメリカ軍の支援と相互連携してスペイン軍を攻撃した。独立軍は1万人を超え、1898年6月にはルソン島中部を制圧し、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言し、暫定政府を組織した。アメリカ本国のマッキンリー政権はマニラ市を占領するためウェズリー・E・メリット(Wesley E Merritt)少将の指揮で大規模な派遣軍(正規軍5千人を含む2万人規模)を派遣した。6月30日に派遣軍の先発部隊、7月半ばにはメリット少将も現地に到着し、8月にはスペイン軍に降伏勧告を行い、14日に休戦協定が決定した。

フィリピン人による報復を恐れたスペイン軍は、マニラへフィリピン軍が入城しないことを降伏条件としており、スペイン降伏後のフィリピンの統治はアメリカが握ることとなった。これはフィリピンの独立運動側からすると不満な結果であり、独立運動の対象はスペインからアメリカへ移り、米比戦争へ繋がることとなった[6]

グアム島[編集]

1898年6月20日アメリカ海軍巡洋艦チャールストンおよび輸送船3隻の艦隊が当時スペインの植民地だったグアム島カノン砲で砲撃し、これを占領しようとしたがスペイン側の司令官は戦争が始まったことを知らず、司令官自身がチャールストンに現れて降伏の意思を伝え、島にいた54名のスペイン兵は捕虜となり、グアムは占領された。

カリブ海[編集]

キューバ[編集]

5月19日、大西洋側のキューバではパスクワル・セルベラ提督率いるスペイン大西洋艦隊がサンチャゴ湾に入港した。ウィリアム・サンプソン提督率いるアメリカ大西洋艦隊はサンチャゴ湾を封鎖し、陸海軍共同でスペイン艦隊を攻撃することになる。6月2日、アメリカ軍は、給炭船「メリマック英語版」をサンチャゴ湾の湾口に自沈させてスペイン艦隊の出港を防ぐ閉塞作戦を実行したが、失敗した。なお、この状況を日本海軍観戦武官として秋山真之が視察しており、後に日露戦争における旅順港閉塞作戦の参考とされた。

キューバに駐屯していたスペイン軍は約 10 万を数えたが、サンチャゴ湾付近には 14,000 人ほどしか配置されていなかった。アメリカの陸上兵力は義勇騎兵隊であるラフ・ライダーズ(荒馬乗り隊)連隊を含む約 17,000 人である。陸上での大きな戦いは7月1日のエルカネーの戦い英語版サンフアン高地の戦い英語版(サン・フアン・ヒルの戦い)だけだったが、要所であるサンフアン高地が陥落するなど一日で決着がついた。この時ラフ・ライダーズ連隊の中佐としてサン・フアン高地の戦いを指揮し、戦争の英雄となったのがセオドア・ルーズベルトである。米軍はガルシア将軍 (en:Calixto Garcia) によって率いられた独立支持者によってキューバで援助された。

7月3日にスペイン艦隊が湾外に脱出したところ、アメリカ海軍に捕捉され攻撃を受け沈没、座礁、降伏などで全滅した(サンチャゴ・デ・キューバ海戦)。米軍はスペイン艦隊を撃破しキューバ周辺のスペインに管理された水路を破った。これはスペイン軍の再補給を妨げ米軍が相当兵力を安全に上陸させることを可能にした。

その後、サンチャゴ要塞に籠城したスペイン軍との間でサンチャゴ攻囲戦が続いた。地上戦は、スペイン軍に対するよりも熱および疾病への対処の方が問題であった。7月17日にサンチャゴ要塞は降伏。7月21日には小規模なニペ湾海戦が発生し、アメリカ艦隊がスペイン艦を撃破した。アメリカ軍は、8月7日にはキューバからの撤収を開始した。

秋山真之は報告書「サンチャゴ・デ・クーバの役」(極秘諜報第百十八号)において、米軍の前線部隊がハイチ島経由の海底電線の端末を用いてアメリカ本国と通信を交わしていたこと、仮の根拠地を作り軍需品の供給のスピードを高めていたこと、キューバ独立軍に兵器や食料を与えることにより米軍が独立軍の支援を受けていたことなど、兵站・後方支援に見るべきものがあったと強調している。

プエルトリコ[編集]

7月25日に、米軍はプエルトリコに上陸した。

影響[編集]

アメリカ軍管理下のキューバの独立[編集]

スペインは太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失った。交戦状態は8月12日に停止された。形式上の和平条約は12月10日パリで調印されたパリ条約で、1899年2月6日にアメリカ上院によって批准された。

戦勝国のアメリカはフィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんど全てを獲得し、キューバを保護国として事実上の支配下に置いた。以降、アメリカの国力は飛躍的に拡大していき、南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力が一掃され、代わりにアメリカが影響力を持つという覇権の移譲とも取れる流れになっている。

戦後、スペインは植民地を失ったために国力が低下し、新興国家・アメリカにあっけなく敗れたこともあってヨーロッパでの国際的地位も発言力も同時に失った。ルネサンスから始まったポルトガル海上帝国スペイン帝国帝国主義が破綻し、産業革命に支えられた新しい帝国主義へ完全に移り変わった瞬間とも取れる。

アメリカ連邦議会は開戦前に、キューバの独立を支持してこれを討論の後に承認した。アメリカ軍は1909年1月28日までキューバを占領した。アメリカはスペイン植民地のプエルトリコ(#プエルトリコ)、フィリピン(#フィリピン#米比戦争)およびグアム(#グアム島)を併合した。

南北間の和解[編集]

この短い戦争には、もう一つ興味深いがほとんど注目されなかった影響があった。それはアメリカの北部と南部の関係を固める役目をしたということである。

この戦争は、1865年南北戦争の終了以来初めて両側に共通の敵を与えたものだった。1890年代は北軍支持者と南部連邦支持者の間の和解の期間で、北部と南部の政治家の政治的な調和を増加させた。

人種差別の再燃[編集]

1890年代は、さらに、北部における人種差別の再燃とジム・クロウ法の可決による白人と黒人の分離を増加させた時代でもあった。それは1896年プレッシー対ファーガソン裁判の最高裁判所による判決で最高潮に達して、その「分離すれども平等」主義を法律の中へ成文化した。

イエロー・ジャーナリズム[編集]

米比戦争時のニューヨークジャーナルの風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。

さらに、米西戦争はイエロー・ジャーナリズムの影響が大きかったことで有名である。ウィリアム・ランドルフ・ハーストのニューヨーク・ジャーナル紙とジョーゼフ・ピューリツァーのニューヨーク・ワールド紙の2紙は発行部数競争で熾烈な争いを行い、無責任なニュースをでっち上げたりもした。このような競争の結果、ワールド紙が15,000部、ジャーナル紙が1,500部程度の発行数だったのがマニラ湾の戦いの時には160万部まで伸びた。オーソン・ウェルズは、映画市民ケーン』の中でこの様子を皮肉った。

アメリカ反帝国主義連盟[編集]

外国に植民地を持った「アメリカ帝国」についての考えは、ウィリアム・マッキンリー大統領と帝国主義賛同派の間で国内で激しく討議された。アメリカの大衆の大部分は植民地の所有を支持した。しかし、マーク・トウェインのような多くの率直な批評家もいた。

米比戦争[編集]

1898年8月14日に、11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。アメリカがスペインに代わって国の統治を始めると同時に、アメリカとフィリピンの戦争が始まった(米比戦争)。戦争はフィリピン国家主義者の独立に対する望みを絶つために行われ20万人から150万人と言われる犠牲者が生じた。

エピソード[編集]

アメリカ退役軍人協会からのデータによれば、退役軍人の最後の生き残りネーサン・E・クック(en:Nathan E. Cook)は1992年9月10日に106歳で死去した。

参考文献[編集]

  • 加茂雄三『世界の歴史 第23巻 ラテンアメリカの独立』 講談社1978年

脚註[編集]

  1. ^ a b c d e f g h Dyal, Carpenter & Thomas 1996
  2. ^ Trask, p.371
  3. ^ 加茂雄三『世界の歴史 第23巻 ラテンアメリカの独立』p.304
  4. ^ 「バラのつぼみ『市民ケーン』と新聞王ハースト」マジソンズ
  5. ^ メイン号の沈没事件英和学習基本用語辞典アメリカ史
  6. ^ 林義勝「スペイン・アメリカ・キューバ・フィリピン戦争--海外植民地領有のレトリックと統治の実態」2001年3月(『駿台史学112』)

関連項目[編集]