ミシシッピ川

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ミシシッピ川
ミシシッピ川
セントルイス市付近
水系 ミシシッピ川
延長 5,971 km
水源の標高 450 m
平均流量 16,200 /s
流域面積 3,250,000 km²
水源 イタスカ湖
河口・合流先 メキシコ湾
流域 アメリカ合衆国(98.5%)
カナダ(1.5%)
※:支流ミズーリ川源流から河口までの数値
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ミシシッピ川

ミシシッピ川(ミシシッピがわ、Mississippi River)は、北アメリカ大陸を流れる河川の1つである。アメリカ合衆国ミネソタ州を源流とし、メキシコ湾へと注いでいる。全長は3779kmで、これはアメリカ合衆国内においては一番長い川である。かつては長らく世界最長の川と考えられていた。鉄道が敷かれるまでは、水運を担う重要な水路となっていた時期があり、蒸気船が航行する姿はアメリカ発展史における象徴的存在だった。

概略[編集]

主な支流にはモンタナ州を源流とするミズーリ川(アメリカ合衆国最長)やペンシルベニア州を源流とするオハイオ川などがある。ミズーリ川源流からミシシッピ川河口までの長さは5,971kmで、北アメリカ最大の水系をなす。ミズーリ川は治水のために多くのダムが建設されてダム湖により多くの蛇行がなくなり、500km以上も川の長さは短くなっている。その分ミシシッピ川全体の長さも短くなった。河口部にはミシシッピデルタと呼ばれており、鳥趾状三角州という独特な三角州となっていることで知られている。ミシシッピデルタは都市からの地下水の取水やデルタそれ自体の重みによって沈降を続けており、さらにメキシコ湾の潮流による浸食や、上流各地に建設されたダムなどによる土砂流入の減少によって縮小を続けており、デルタ上に位置するニューオーリンズもそれによって地盤沈下を続けている。この地盤沈下は、2005年8月にハリケーン・カトリーナがニューオーリンズに来襲した際に多大な被害をもたらす原因となった[1]

「ミシシッピ」の名は、オジブワ族インディアン言語で「大きな川」という意味。オハイオ川との合流地点より北を上ミシシッピ、それより南の河口までを下ミシシッピと称している。かつては川に沿った地域はフランス領であったため、セントポールからニューオーリンズまでフランス人の築いた町が多く存在する。

流路[編集]

ヴィックスバーグにおけるミシシッピ川の流量(m³/s)
(1965年から1983年の平均データ)[2].

世界主要河川の比較
アマゾン川 ナイル川 ミシシッピ川 長江 ヴォルガ川 コンゴ川
長さ(km) 7,025 6,671 3,779 6,300 3,700 4,700
流域面積
(100万km²)
7,0 2,9 3,2 1,8 1,3 3,7
平均流量
(1000m³/s.)
209 23 18 32 8 41

ミネソタ州北部のイタスカ州立公園内にあるイタスカ湖に源を発する。ミネアポリス市街地にあるセント・アンソニー滝を経由し南へ流れる。セントルイスでミズーリ川、イリノイ川を合わせ、さらに下流のイリノイ州カイロオハイオ川を、アーカンソー州アーカンザス川をそれぞれ合わせる。下流にはルイジアナ州最大の都市であるニューオーリンズがあり、そこから約160km南東のミシシッピーデルタからメキシコ湾に注ぐ。

水源のイタスカ湖に降った雨が河口に達するまで約90日を要する。

歴史[編集]

ミシシッピ川に到達した記録が残っている最初のヨーロッパ人はスペイン人コンキスタドールであるエルナンド・デ・ソトである。彼は1541年5月8日に、アメリカ南部の征服行中にミシシッピ川に到達した。彼の探検隊はミシシッピ川下流域を探検したが、1542年5月21日にミシシッピ河畔でソトは死亡した。死去した場所は、現在のミシシッピ州デソト郡などいくつかの説がある。生き残りの隊員たちはミシシッピ川を下ってメキシコ湾に出、スペイン領にたどり着いた。

デ・ソト探検隊ののち、100年以上の間ミシシッピ川流域にはほとんどヨーロッパ人はやってこなかった。次にミシシッピ流域へとやってきたのは、北の五大湖水系を制したフランス人だった。1670年代にはフランス人は五大湖沿岸の探検をほぼ終え、その過程でミシガン湖畔において海にまで流れる巨大な川の話を聞きつけた。1673年にはルイ・ジョリエが五大湖からミシシッピ川に到達し、ミシシッピ川とアーカンザス川の合流地点にまで到達して引き返した[3]。次いで1682年4月9日にはロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがミシシッピを下ってメキシコ湾にまで到達し[4]、これにより北アメリカ大陸中央部を南北に貫く幹線水路が開通した。ラ・サールは1684年に、今度はメキシコ湾からミシシッピ川をさかのぼろうとして上陸地点を誤り、テキサスに上陸してミシシッピ川にたどり着く途中で仲間割れで殺されたが、生き残りはなんとかイリノイからケベックへとたどり着いた。こうして五大湖水系とミシシッピ川水系はつながり、この水系を拠点としてフランスは広大なヌーベルフランス植民地を建設した。ミシシッピ川水系はヌーベルフランス内のフランス領ルイジアナ植民地となったが、しかし、フランス領ルイジアナは面的には広い地域だったものの人口は非常に少なく、ミシシッピ川沿いには交易所や砦が点在するにとどまっていた。それでも、1718年には河口にヌーヴェル・オルレアン(ニューオーリンズ)の街が建設され、1722年にはフランス領ルイジアナの首都となり、ミシシッピ川交易とメキシコ湾海運の結節点として栄えるようになった。このほか、セントルイスなど、このフランス領時代に建設された拠点で現在も都市として存続している場所はミシシッピ川に点在している。

流域の州[編集]

ミシシッピ川水系流域

五大湖周辺の河川を除くと、ミシシッピ川にはロッキー山脈アパラチア山脈の間のほとんどの河川が流れ込んでいる。ミシシッピ川本流はアメリカ合衆国中央部の以下の10州を流れている。

支流[編集]

下流より記載

水害[編集]

ミシシッピ川を舞台とした作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「海洋学 原著第4版」p418 ポール・R・ピネ著 東京大学海洋研究所監訳 東海大学出版会 2010年3月31日第1刷第1版発行
  2. ^ GRDC - Mississippi Basin
  3. ^ 「世界探検全史 下巻 道の発見者たち」p112 フェリペ・フェルナンデス-アルメスト著 関口篤訳 青土社 2009年10月15日第1刷発行
  4. ^ 「アリステア・クックのアメリカ史(上)」p77 アリステア・クック著 鈴木健次・櫻井元雄訳 NHKブックス 1994年12月25日第1刷発行

関連項目[編集]