ウサーマ・ビン・ラーディン

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ウサーマ・ビン・ラーディン
أسامة بن لادن
Osama bin Laden portrait.jpg
1997年頃のウサーマ・ビン・ラーディン
アルカーイダの初代アミール(司令官)
任期
1988年 – 2011年5月2日
前任者 無し(初代)
後任者 アイマン・ザワーヒリー
マクタブ・アル=ヒダマトの創立者
任期
1984年 – 1988年
前任者 無し(初代)
後任者 廃止(1代限り)
個人情報
生誕 ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディン
(1957-03-10) 1957年3月10日
サウジアラビアの旗 サウジアラビアリヤド
死没 (2011-05-02) 2011年5月2日(54歳没)
 パキスタンアボッターバード
死因 アメリカ軍による射殺
国籍 サウジアラビアの旗 サウジアラビア1957年 - 1994年
無国籍1994年 - 2011年[1]
身長 1.93–1.98 m[6]
配偶者 Najwa Ghanhem
Khadijah Sharif
Khairiah Sabar
Siham Sabar
Amal Ahmed al-Sadah
子供 20 - 26人
宗教 イスラム教ワッハーブ派 / サラフィー主義[2][3][4][5]
兵役経験
所属組織

Flag of Jihad.svg マクタブ・アル=ヒダマト1984年 - 1988年<

Flag of Jihad.svg アルカーイダ1988年 - 2011年
軍歴 1984年2011年5月2日
最終階級 アルカーイダアミール
戦闘

アフガニスタン紛争

対テロ戦争

ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディンأسامة بن محمد بن عوض بن لادن、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin, 1957年3月10日 - 2011年5月2日)は、サウジアラビア出身のイスラム過激派テロリスト1988年に国際テロ組織「アルカーイダ」を設立してその初代アミール(司令官)となり、以降アメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件を首謀したことで知られる。連邦捜査局(FBI)における最重要指名手配者の1人であった。サウジアラビア有数の富豪の一族に生まれたが、1994年にサウジアラビア国籍を剥奪され、以降は無国籍であった。2011年5月、パキスタンにおいてアメリカ海軍対テロ特殊部隊が行った軍事作戦によって殺害された。

名前と表記[編集]

日本語では、ウサマ・ビン・ラーデン外務省[7]オサマ・ビンラディンNHKテレビ朝日など)、ウサマ・ビンラディン日本テレビTBSフジテレビテレビ東京など)、ウサマ・ビンラーディン読売新聞など)などとも表記される[8]

フルネームは「ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディン」であり、「ラーディンの息子アワドの息子ムハンマドの息子ウサーマ」を意味する。「ムハンマド」は父であるムハンマド・ビン・ラーディンを、「アワド」は祖父であるアワド・ビン・アブード・ビン・ラーディンを示しているが、「ラーディン」は曽祖父の名ではなく、曽祖父アブードの父であるラーディン・アリー・アル=カフタニ (Laden Ali al-Qahtani)を示すものである[9]

「ビン・ラーディン」はに相当するものではなく、一種の父称であることから、アラビア語圏の慣習では単に「ビン・ラーディン」と呼ぶことはなく、「ウサーマ」または「ウサーマ・ビン・ラーディン」と呼称される。ウサーマの息子ウマル・ビン・ラーディン英語版によれば、一族に受け継がれる姓は「アル=カフタニ (アラビア語: القحطاني‎, āl-Qaḥṭānī)」であるが、ウサーマの父ムハンマドが正式にこの姓を使用することはなかった[10]

経歴[編集]

出自[編集]

ウサーマ・ビン・ラーディンの父のムハンマド・ビン・ラーディンは、イエメンハドラマウト地方の貧困家庭の出身で、第一次世界大戦前に家族と共に、イエメンからサウジアラビアジッダに移住し、1930年に荷夫から身を興し、ジッダで建設業を起業した。ファイサル国王の目にとまり王室御用達の建設業者となり事業は急成長を遂げ財閥「サウディ・ビンラディン・グループ」を柱とするビン・ラーディン一族を形成した[注 1]。一族の巨額な財産分与が様々な方面に流出した結果、そのいくつかがイスラム教原理主義テロ組織の資金源になっているとされる。

ムハンマド・ビン・ラーディンは22回の結婚をし54人の子供を儲けることになったが、妻子の大半は40代を過ぎて事業が拡大してからの子供たちである。また、最初の妻以外は短期間で離婚している。ウサーマ・ビン・ラーディンはムハンマドの17番目の子であった。ビン・ラーディン一族は50億ドル以上の資本を所有しており、その内、2億5000万ドル以上がウサーマに分配されていた[11][注 2]

出生から青年期まで[編集]

ウサーマ・ビン・ラーディンは、サウジアラビアのリヤドで、建設業で財を成したイエメン出身の父ムハンマド・ビン・ラーディンと、その10番目の妻でシリア出身の母アリア・ガーネム(後のハミーダ・アル=アッタス英語版)の間に生まれた[12][13]。生年月日は、ビン・ラーディン本人が1998年のインタビューの中で1957年3月10日であると語っている[13][14]

父ムハンマドはビン・ラーディンが生まれた直後にガーネムと離婚し、彼女はその後ムハンマド・アル=アッタスと再婚して別の4人の子を儲けたため、幼少期のビン・ラーディンは実父と離れて3人の異父弟・1人の異父妹と共に生活することになった[13]。ビン・ラーディンは敬虔なスンナ派ムスリムとして育てられ[15]、1968年から1976年にかけてはジッダの世俗的なエリート校で教育を受けた[13][16]。その後、ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学に進学して経済学経営学を学んだ[17]。ビン・ラーディンが1979年に土木工学の学位を取得したという報告や[18]、1981年に行政学の学位を取得したという報告が存在する一方で[19]、学位を取得する前に大学をやめたとする報告も存在する[20]

大学時代、ビン・ラーディンの関心は宗教に向かい、「クルアーンおよびジハードの解釈」と慈善活動に精力的に参加したほか[21]、詩作にも興味を示し[22]バーナード・モントゴメリーシャルル・ドゴールの著作を好んで読んだと言われている[23]。思想の面では、ムスリム同胞団に加入し、サイイド・クトゥブの思想に引き付けられた。さらに大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった(のちにビン・ラーディンは、自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている)。ビン・ラーディンは厳格なサラフィー主義から、音楽映画などに対して不寛容であった。その一方で、競走馬に大きな関心を寄せていたほか、サッカーを好んでプレーし、英国のクラブであるアーセナルFCのファンでもあった[23]

アフガニスタン紛争への参加(1979–1989年)[編集]

ソビエト連邦がアフガニスタンに進攻した1979年、ビン・ラーディンはサウジアラビアを離れてパキスタンやアフガニスタンを初めて訪れ、ソ連軍に抵抗するムジャーヒディーンを支援するための活動を始めた[24]。のちにビン・ラーディンは当時の心境を回想し、「アフガニスタンの人々に対する不公正な行いに憤慨を覚えた」と語っている[25]

1979年から1984年までの期間、ビン・ラーディンの支援活動は募金が中心であり、サウジアラビアなどの湾岸諸国を活動拠点としてアフガニスタンのムジャーヒディーンに資金や建設機械を提供していた[26]。ビン・ラーディンはその後、パキスタンのペシャーワルで活動していた大学時代の恩師アブドゥッラー・アッザームと合流した。1984年までにアッザームと共に「マクタブ・アル=ヒダマト(MAK)」を組織して、外国からムジャーヒディーンの新兵をリクルートしてアフガニスタンに送り出す活動を始めた[27][28]。1984年には自ら「ベイトゥルアンサール(支援者たちの館)」という施設をペシャワールに建設し、以降1986年までパキスタンを拠点として活動した[26]。ビン・ラーディンがアイマン・ザワーヒリーアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィーオマル・アブドッラフマーンなどと関係を構築したのもこの時期であった。

1986年以降、ビン・ラーディンは活動の拠点をアフガニスタン国内に移した[26]。1986年から1987年にかけ、ビン・ラーディンはアフガニスタン東部の村ジャジ (Jaji)近郊に自らの基地を建設し、数十人のアラブ人ムジャーヒディーンを指揮下に置いた[29]。この基地を拠点として、ビン・ラーディンとその軍団はソ連軍と交戦し、ビン・ラーディン自身も一兵士として戦闘に参加した。特に、1987年のジャジの戦い英語版ではソ連軍に勝利し、(実際には戦局に影響しない小規模な勝利だったが)アラブ系の主要メディアではこの戦果が華々しく報道され、ビン・ラーディンの知名度は高まった[29]。ビン・ラーディンがアラブ世界の一部で英雄視されるようになったのもこの時期であった[30]

1979年から1989年にかけ、アメリカとサウジアラビアはパキスタンの軍統合情報局 (ISI)を通じ、アフガニスタンで戦うムジャーヒディーンへ400億ドル相当の援助を行った(サイクロン作戦[31]。ジャーナリストのジェイソン・バーク英語版によれば、ビン・ラーディンが設立したMAKもアメリカから提供された資金を受け取っていた[32]。ビン・ラーディンはまた、ISI長官のハーミド・グル中将と知り合い、関係を深めていた。アメリカはムジャーヒディーンに資金と武器を提供したが、実際の軍事訓練はISIとパキスタン陸軍が全面的に担当していた[33]

アルカーイダの結成[編集]

1988年、ビン・ラーディンはMAKから独立した新組織「アルカーイダ」を立ち上げた。ローレンス・ライトの調査によれば、アルカーイダは1988年8月11日に、ビン・ラーディン、アッザーム、およびジハード団の幹部数名による合意によって結成され、その目的はビン・ラーディンの資金とジハード団の専門知識を組み合わせることで、ソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も世界の別の地域でジハードを継続することにあった[34]

1989年2月にソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了した後、ビン・ラーディンはサウジアラビアに帰国した[35]。サウジアラビアでビン・ラーディンとその軍団は、ソ連という「強大な超大国」を倒した英雄として扱われた[36][27]。帰国した後のビンラーディンは一族の建設会社(サウディ・ビンラディン・グループ)を手伝ったが、一方でサウジアラビアの体制に反抗する姿勢を示したため、当局から警戒された[35][27]

湾岸戦争と米軍駐留・サウジアラビアからの追放(1990–2000年)[編集]

1990年8月2日、サッダーム・フセインイラク軍クウェートに侵攻し、サウジアラビアとの国境に到達した。サウジアラビアがイラクからの脅威に直面する中、ビン=ラーディンはファハド国王およびスルターン国防相と会談を行い、国内に異教徒アメリカ軍を駐留させる代わりに、自らのムジャーヒディーン軍団によってサウジアラビアを防衛する計画を提案した[37]。しかし、サウジアラビア王家はビン・ラーディンによる提案を拒絶し、最終的にはアメリカ軍のサウジアラビア駐留を認めた[38]。1990年8月7日、アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュはアメリカ軍のサウジアラビア派遣を発表し、同軍は8月8日からサウジアラビアへの展開を開始した[39]

ビン・ラーディンは、非イスラム教徒がアラビア半島に常駐することは預言者ムハンマドによって禁じられていると解釈しており[40]メッカマディーナという2つの聖地を抱えるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍が進出したことに憤慨した[41]。それと同時に、駐留を許したサウジアラビア王家(サウード家)を「背教者」として糾弾した[40]湾岸戦争が引き金となったアメリカ軍のサウジアラビア駐留は、ビン・ラーディンを急速に反米活動に傾倒させていった。

1991年、サウジアラビア王家はアメリカ軍との同盟関係への批判を繰り返すビン・ラーディンを国外追放に処した[35][41]。サウジアラビアを追われたビンラーディンとその一派は、当初はアフガニスタンで亡命生活を送ったが、1992年までにスーダンに移動した[35][41]。アフガニスタンに滞在中の1992年3月から4月にかけ、ビン・ラーディンは激化するアフガニスタン内戦の仲裁を試み、グルブッディーン・ヘクマティヤールに対して他のムジャーヒディーン指導者と協力するよう呼びかけていた[42]

スーダン時代・アフガニスタンへの帰還[編集]

アフガニスタンのカーブルでパキスタン人ジャーナリストのインタビューを受けるビン・ラーディン(1997年頃)

スーダンに渡ったビン・ラーディンは同国の政権を担う民族イスラーム戦線と同盟関係を築くとともに、アルカーイダを国際的なテロ組織へと発展させた[41][14]。 1992年12月29日、イエメンのアデンでアメリカ軍が滞在するホテルが爆破され、2人のオーストリア人旅行者が死亡した[35]。これがビン・ラーディンが関与した最初のテロ事件とされている[35]。1993年2月26日、ビン・ラーディンとの関係が疑われるテロリストによってニューヨークで世界貿易センター爆破事件が引き起こされ、6人が死亡した[41]。1993年、アメリカ政府はスーダンをテロ支援国家に指定した[35]。1994年、サウジアラビア政府はビン・ラーディンの国籍を剥奪し、サウジアラビア国内に残された彼の財産を全て凍結した[41]。同年には、ビン・ラーディンの一族も彼との関係を断絶した(それまでウサーマは一族の財産から毎年1億ドル余りを受け取っていた)[14][41]

1996年5月、スーダン政府はアメリカおよびサウジアラビアからの圧力に屈し、ビン・ラーディンを国外に追放することを決定した[35]。ビン・ラーディンは亡命先としてアフガニスタンのジャラーラーバードを選び、5月18日にチャーター機でスーダンを離れた[43]。アフガニスタンに帰還したビン・ラーディンとアルカーイダはターリバーン政権の庇護を受け、ビン・ラーディンはターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築いた[41][44]

1996年8月、ビン・ラーディンは最初の「ファトワー(布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対して「ジハード(聖戦)」を宣言した[45]。このファトワーでビン・ラーディンは、異教徒のアメリカ軍をアラビア半島から駆逐し、占領されている2つの聖地(メッカマディーナ)を解放するよう全世界のムスリムに呼びかけた[41]。1997年5月、ジハード団の指導者であったアイマン・ザワーヒリーがアフガニスタンのビン・ラーディンに合流し、アメリカに対するジハードを共に提唱するようになった[46]

1998年2月、ビン・ラーディンとザワーヒリーは「ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成した上で新たな「ファトワー」を発し、世界各地でアメリカとその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「占領されているアル=アクサー・モスク(エルサレム)と聖なるモスク(メッカ)を解放」するために、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言した[47][48]

1998年8月7日、アルカーイダのテロリストがタンザニアダルエスサラームケニアナイロビアメリカ大使館をほぼ同時刻に爆破し、12人のアメリカ人を含む224人を殺害した[49]。テロ事件が発生した1998年8月7日は、アメリカ軍のサウジアラビア派遣からちょうど8年後であった[50]。1998年8月20日、テロへの報復として、アメリカ大統領ビル・クリントンはアフガニスタンとスーダンのアルカーイダ関連施設への攻撃を命じ、トマホーク巡航ミサイルによる爆撃が実施された[51]。1999年6月、FBIはビン・ラーディンを大使館爆破事件の容疑者として最重要指名手配犯に指定した[51]。アメリカ政府はターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアルカーイダの引き渡しを求めたが、ターリバーンは応じなかったため、1999年10月には国際連合安全保障理事会において引き渡しを求める国際連合安全保障理事会決議1267が採択された[52]。ターリバーン政権はこれにも応じず、アフガニスタンに対する経済制裁が発動された。

2000年10月、イエメンでアルカーイダのテロリストがアメリカ海軍の駆逐艦「コール」に自爆攻撃を仕掛け、17人の水兵を殺害した[51]。2000年12月、国際連合安全保障理事会決議1333が採択され、ターリバーン政権に対し再度ビン・ラーディンの引き渡しが求められた[53]

アメリカ同時多発テロ事件以後(2001–2011年)[編集]

ビン・ラーディンとアイマン・ザワーヒリー(2001年)

2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件直後から、ビン・ラーディンには首謀者の嫌疑がかけられた[54]。2001年9月16日、ビン・ラーディンは衛星テレビ局アルジャジーラを通じて声明を発表し、事件への関与を否定した[55]。ビン・ラーディンはこの声明の中で、「私は攻撃の実行者ではないと強調しておく。今回の事件は別の個人によって、彼自身の動機によって実行されたように見える」などと述べた[56]。2001年9月20日、アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュは「対テロ戦争」を宣言すると共に、アフガニスタンのターリバーン政権に対し、ビン・ラーディンを含む全てのアルカーイダ指導者を引き渡すことを要求する最後通牒を突き付けた[54]

ターリバーン政権はビン・ラーディンらの引き渡しを拒否し、2001年10月7日、アメリカを中心とする有志連合諸国はアフガニスタンへの空爆を開始した[54]。2001年11月、ジャラーラーバード郊外のビン・ラーディンの隠れ家とされる場所がアメリカ軍による爆撃を受けた[57]。その際にアメリカ軍が回収したビデオテープには、ビン・ラーディンとアルカーイダ構成員ハレド・アル=ハルビ英語版との会話が記録されており、会話の中でビン・ラーディンは同時多発テロを事前に知っていたことを暗に認めていた[58]。11月末には有志連合の侵攻によってターリバーン政権が崩壊し、以降ビン・ラーディンの正確な足取りは不明となった。

アメリカ軍が2001年11月に回収したビデオテープの中で、アル=ハルビ(右)と会話するビン・ラーディン(左)

2001年年12月17日、ビン・ラーディンがザワーヒリーと共にアフガニスタン東部ナンガルハール州トラボラの渓谷にある洞穴に潜伏しているという情報からアメリカ・イギリスドイツ北部同盟各軍が捕獲作戦(トラボラの戦い)を実施したが失敗した[注 3]。その後はビン・ラーディンはターリバーン幹部らと共にパキスタンの北西辺境州の洞窟に潜伏していると考えられていた。

2004年10月、ビン・ラーディンは新たなビデオ声明をアルジャジーラを通じて発表し、自らが同時多発テロ事件に関与したことを公に認めた[60]。18分にわたるビデオ声明の中でビンラーディンは、自分が19人の実行犯にテロ攻撃を指示したことを認め[60][61]ワールドトレードセンターのツインタワーを標的としたのは1982年にイスラエルがレバノンを侵略した際に見た光景がきっかけであったと説明した[62]

2004年以降、ビン・ラーディンが腎臓病に苦しみ常に人工透析の電子機器が必要であると報道され、死亡説も浮上した。これは、フランスの地方紙などが伝えたもので、腸チフスで死亡したとの記事であった。しかし、フランスのシラク大統領が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。一説では北朝鮮に潜伏している[注 4]とされた。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯(トライバルエリア・FATA)ではないかという見解を示した[63]

2010年10月18日CNN北大西洋条約機構当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンが、アフガニスタン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、パキスタン国内の家屋で「快適に」暮らしていると報じた。同当局者は「洞窟で暮らしているアルカーイダのメンバーは誰一人としていない」と述べた。ビン・ラーディンらは、パキスタン情報機関や地元住民に保護され、同国北西部の家屋に居住しており。付近にはアイマン・ザワーヒリーも住んでいるとされた[64]

発見と死[編集]

2010年8月頃、配下の連絡係の行動分析からウサーマ・ビン・ラーディンの居所が突き止められた。

2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、パキスタンにおいて米国海軍特殊部隊DEVGRUが行った軍事作戦によって銃撃戦になり、殺害された。

人物・家族[編集]

FBIの手配書によれば、ウサーマ・ビン・ラーディンは背が高く痩せており、身長は193–198cm、体重は約73kgであり、肌はオリーブ色で瞳と髪の色はブラウン、左利きで歩く際には杖を使うとされていた[65]。死亡後に身長の測定が行われ、ビン・ラーディンの身長は6フィート4インチ (193cm)と確認された[66]

ビン・ラーディンは1974年にシリアのラタキアで最初の結婚をした[67]。その後1983年に2度目、1985年に3度目、1987年に4度目、2000年に5度目の結婚をしているほか、一部の情報源によれば挙式後に結婚が無効にされた6人目の妻も存在する[68]。ビン・ラーディンは妻たちとの間に20–26人の子供を儲けており[69][70]、その多くは2001年の9/11テロの後イランに逃亡した[71]。1997–2001年にビン・ラーディンのボディガードを務めた人物によれば、ビン・ラーディンは倹約家で父親としては厳格であり、一方で家族を狩りやピクニックに連れて行くことを楽しみにしていたという[72]

実父ムハンマドは1967年にサウジアラビアで飛行機事故に遭い死亡した(事故原因はアメリカ人パイロットによる着陸時の判断ミスだった)[73][74]。ムハンマドの死後、長兄であるサーレム・ビン・ラーディン英語版が後継者として一族の長になったが、サーレムは1988年、テキサス州サンアントニオ近郊で自ら飛行機を操縦中、誤って送電線に突っ込む事故を起こして死亡した[75]

父のムハンマド・ビン・ラーディンは元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資グループの大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの長兄のサーレムは前アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュがかつて経営していた石油会社の共同経営者であった。無論、これらはウサーマが反米に立場を転じてテロリストとなる前の話であり、また、彼ら親族はウサーマのようなテロリストではなくそのような組織との直接的関係もない。ウサーマの息子は父に対しテロ行為をやめるようメッセージを発していた。しかし、それはジェスチャーに過ぎないとの説がある[76]

2009年7月、アメリカのラジオ局「ナショナル・パブリック・ラジオ」が、CIA当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンの息子の1人であるサアドが、パキスタン領内で米軍の無人偵察機による爆撃で死亡した可能性があると報じた[77]。しかし同年12月、サウジアラビア資本でイギリスの首都ロンドンで発行される新聞「アッ=シャルク・アル=アウサト」は、ウサーマの別の息子であるウマル・ビン・ラーディンの話として[78]、死亡説がささやかれているサアドは親族らとともにイランにいたと伝えた。これによると、サアドは、兄弟姉妹であるムハンマド、ウスマーン、ハムザ、ファーティマ、イーマーン、そしてビン・ラーディンの妻の一人であるハイリーヤ、叔父にあたるバクルを含む25人の親類と共にイラン国内で治安当局の監視下で自宅軟禁に置かれていたということを、ウスマーンが電話でウマルに話したという。ただしウマルによればサアドは一ヶ月前に逃亡し、その後はイラン国内にはいないという。ビン・ラーディンの家族はそれまで、2001年のアフガン空爆後は隣国イランに逃亡したと見られていた。

2017年1月5日、息子の一人ハムザ・ビンラディンを国際テロリストに指定したとアメリカ政府は発表した[79]

2019年9月14日、アメリカのトランプ大統領が、米軍の対テロ作戦によりハムザを殺害したと発表した[80]

活動の年譜[編集]

トリビア[編集]

  • 彼は左利きである。
  • ウサーマと言う名は、シリアの伝説的な詩人の名から付けられたものである。
  • 愛銃はAKS-74Uライフルであり、彼がメディアに登場する際は大抵立てかけられた状態で写っている。また、その影響から同ライフルは「ビン・ラディンモデル」と呼ばれている。
  • カシオデジタル腕時計F-91Wは、アルカーイダが時限爆弾のタイマーとして使用した例がある、F-91Wを着用したビン・ラーディンの写真が存在する等の理由から、「ビンラディンモデル」と呼ばれることがある。
  • 1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett) の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン・ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAP研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、テープ自体は頻繁に出されている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ グループは石油ブーム時代に建築業で財を成し、メッカおよびマディーナ(メディナ)のモスクの修理を任されるほど、サウード家と深く結びついている。グループの特徴としては、創業者自身が外国人労働者であったこともあり積極的に外国人雇用していることがあげられ、多数のアメリカ人ビジネスマンが参加している
  2. ^ 1991年の国外追放と資産凍結でその財産の多くが失われ、残された資産は2500万–3000万ドルであったとされている[11]
  3. ^ このことは2009年11月29日アメリカ上院外交委員会にて取り上げられ、現地指揮官からの増派要請を本国が拒否したのが捕獲失敗の原因と結論付けた[59]
  4. ^ 米国のAP通信は、アフガニスタンに潜伏しているオサマ・ビンラディン氏が管理している訓練キャンプで生化学武器実験が実施されたとの報道があったとし、北朝鮮関連説を提起した。AP通信は28日、「ビンラディン氏をアフガニスタン東部のクナル地域まで遂行したあるタリバーン保安関係者が、現地で北朝鮮人1人が訓練兵に化学武器訓練を行っているのを目撃した」と述べたと報道した。[要出典]

出典[編集]

  1. ^ Dan Ackman. "The Cost Of Being Osama Bin Laden" Archived July 29, 2017, at the Wayback Machine.. September 14, 2001. Retrieved March 15, 2011.
  2. ^ Fair, C. Christine; Watson, Sarah J. (February 18, 2015). Pakistan's Enduring Challenges. University of Pennsylvania Press. p. 246. ISBN 9780812246902. オリジナルのJanuary 31, 2016時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160131203102/https://books.google.com/books?id=XxtrBgAAQBAJ. "Osama bin Laden was a hard-core Salafi who openly espoused violence against the United States in order to achieve Salafi goals." 
  3. ^ Brown, Amy Benson; Poremski, Karen M. (December 18, 2014). Roads to Reconciliation: Conflict and Dialogue in the Twenty-first Century. Routledge. p. 81. ISBN 9781317460763. オリジナルのJanuary 31, 2016時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160131203102/https://books.google.com/books?id=MDzfBQAAQBAJ. 
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参考文献[編集]

外部リンク[編集]