オスロ合意
| 暫定自治政府原則の宣言 Declaration of Principles on Interim Self-Government Arrangements | |
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| 通称・略称 |
オスロ協定 Oslo Accords اتفاقية أوسلو הסכמי אוסלו |
| 署名 | 1993年8月20日 |
| 署名場所 |
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| 発効 | 1993年8月20日 |
| 締約国 |
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| 主な内容 | 暫定自治政府の創設 |
| 条文リンク | Israel-Palestine Liberation Organization Agreement |
オスロ合意(オスロごうい、英語: Oslo Accords、アラビア語: اتفاقية أوسلو、ヘブライ語: הסכמי אוסלו)は、1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間で同意された一連の協定。オスロ1合意やオスロ2合意などがある。
オスロ1合意は正式には暫定自治政府原則の宣言(ざんていじちせいふげんそくのせんげん、英語: Declaration of Principles on Interim Self-Government Arrangements)と呼称する。
概要
[編集]主に以下の二点が合意内容とされている。
対話から合意に至るまでの間、両者との関係が良好なノルウェー政府がこの成立に尽力した。ホルスト外相ら、政府関係者による交渉は、オスロあるいはその周辺で行われ、1993年8月20日の合意に至るまで内密に行われていた。
合意後もオスロ合意の趣旨に反してヨルダン川西岸地区へのイスラエル人入植は拡大、オスロ合意に反対するイスラエル・パレスチナ双方の過激派による妨害テロが相次ぐ。1995年、オスロ合意をまとめたラビン首相は和平反対派のイスラエル人に暗殺され、ヨルダン川西岸地区では、イスラエル・パレスチナ双方による襲撃・テロ事件が続き、入植者の増加とともにイスラエル政界では和平に反対する右派の勢力が強まる有り様であった。
オスロのプロセスは、2000年のキャンプ・デービッドにおけるアメリカを仲介としたバラック=アラファト会談の失敗と第2次インティファーダの勃発により終了した[1]。双方の和平反対派によるテロが相次ぐ中での会談の決裂であった。原因については、アメリカ・イスラエル側からの情報では、バラック首相は大幅な譲歩をしたと語られることが多いが、当時すでに力が低下していたアラファトでは譲歩できない条件をエルサレム帰属問題で提示された為とする説がある。また当時、イスラエルの右派はバラックへの批判を激化させており、バラックも大きな妥協はきわめて困難な状況にあった。結局、右派のリクード党の党首シャロンがかねて予告の通りエルサレムのイスラム教徒が管理する聖地「神殿の丘」にイスラム教徒に通行権が残された数少ないルートを敢えて通って立入り、生活や信仰に必須のルートをさらに奪われるのではないかと怖れるパレスチナ人近隣住民を挑発、住民らは抗議の第2次インティファーダを起こすこととなった[2]。
オスロ合意および後の協定で明文化されたイスラエルとアラブ国家の関係正常化の期待は未だ解決されていない[3]。
脚注
[編集]- ↑ “OSLO PEACE PROCESS – Medea” (英語). 2024年1月22日閲覧。
- ↑ “オスロ合意”. 世界史の窓. Y-History 教材工房. 2026年8月28日閲覧。
- ↑ James Mackenzie (2023年9月14日). “アングル:険しさ増す中東和平、歴史的なオスロ合意から30年”. ロイター. 2023年10月30日閲覧。