ターリバーン

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ターリバーン
Tālibān
アフガニスタン紛争
ワジリスタン紛争に参加
Flag of Taliban.svg
ターリバーンの旗
活動期間 1994年-
活動目的 アフガニスタン・イスラーム首長国の復活
神権政治
宗教ナショナリズム
イスラム原理主義
反共主義
反米・反西欧
外国勢力の排除
指導者 ムハンマド・オマル
アフタル・ムハンマド・マンスール
ハイバトゥラー・アクンザダ
活動地域 アフガニスタン
パキスタン
関連勢力 パキスタン軍統合情報局
アルカーイダ
パキスタン・ターリバーン運動
イスラーム法強化運動
ラシュカレイスラム
ウズベキスタン・イスラム運動
敵対勢力 北部同盟
アフガニスタン
パキスタン
アメリカ合衆国
有志連合諸国
イラン
ISIL
ウェブサイト VOICE OF JIHAD
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ターリバーンパシュトー語: طالبان、Tālibān、英語: Taliban)は、パキスタンアフガニスタンで活動するイスラム主義組織。日本語メディアでは通常タリバン(またはタリバーン)と表記される。

白:タリバン及び関連グループの支配地域、赤:アフガニスタン政府と同盟国軍及び関連グループの支配地域、黒:ISKPの支配地域

1994年にムハンマド・オマルが創設し、1996年からアフガニスタンの大部分を実効支配し、アフガニスタン・イスラーム首長国を樹立した。2001年以降はアメリカ合衆国が主導する有志連合諸国やアフガニスタン政府と交戦し、2019年1月の時点でアフガニスタンの約1割(12%)の郡を掌握・勢力圏内に収めている[1]。現在の指導者はハイバトゥラー・アクンザダ[2]

名前の由来[編集]

「ターリバーン」という語はアラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」(طالب)のパシュトー語における複数形であり、イスラム神学校(マドラサ)で軍事的あるいは神学的に教育・訓練された生徒から構成される。このため、ターリバーン構成員を数えるとき、一人なら単数形の「ターリブ」、二人以上なら複数形の「ターリバーン」が用いられる。

組織[編集]

最高指導者の下に指導者評議会(クエッタ・シューラ)があり、軍事委員会や財政委員会などがある[3]。また各州に州知事や州軍事司令官やイスラム法廷を置き、各郡にも郡長や郡軍事司令官を置いている[3]。国旗や国名(アフガニスタン・イスラム首長国)を持ち[4]、パキスタンの都市クエッタに指導者評議会、カタールに外交交渉のための政治事務所を設置している[5]

現在の最高指導者はハイバトゥラー・アクンザダであり、副指導者としてシラジュディン・ハッカニ英語版ムハンマド・ヤクーブ英語版などが居る[3]。在カタール政治事務所代表はアブドゥル=ガーニー・バラダールである[3]

国際連合によると、タリバンの総数は約4万5000人から6万5000人である[3]パシュトゥーン人だけでなくタジク人ウズベク人トルクメン人なども居り、指導部も多様な人種により構成されている[3]

派閥としてはアフガニスタン東部のペシャワール派、北東部のバダフシャーン派、西部のマシュハド派などがある[3]。また最強硬派としてハッカーニ・ネットワーク、反主流派としてアフガニスタン・イスラム首長国高等評議会などがある[3]

対外的にはアルカーイダやインド亜大陸のアルカイダ(AQIS)、パキスタン・ターリバーン運動(TTP)、ラシュカレ・タイバ(LeT)などと連携しており[3]パキスタン軍統合情報局(ISI)の後援を受けている[6]。アメリカ合衆国やアフガニスタン政府、イスラム国(ISIS)とは敵対関係にある[3]

資金[編集]

ターリバーンは麻薬鉱物の販売、外国からの寄付、市民からの徴税により多額の収入を得ている[3]。一説によると2011年の収入は3億~5億米ドルに達し、そのうちケシ栽培による収入は約1億ドルと言われている[3]。ターリバーンは2017年頃からヘロインの生産も開始し[7]、現在はターリバーンの収入の半分(4億ドル)が麻薬の生産と輸出によるものという説もある[7][8]

歴史[編集]

1990年代前半[編集]

誕生[編集]

ターリバーン側の主張によると、ムハンマド・オマルが20人の同志とともに始めたものだとされている。またターリバーン隊士がイスラム教の聖書「クルアーン」を学んだ場所は、国境付近の難民キャンプの教員が整っていないムハンマド・オマルの開いた神学校であった。この神学校出身者が、結集時のターリバーン隊士になる。

彼らが蜂起したきっかけはムジャヒディーン軍閥が二人の少女を誘拐したことへの抗議活動であった。彼らは無事少女たちを解放し、この出来事から地元住民らから正義の味方として扱われた。

発展[編集]

内戦が続くアフガニスタンにおいて、ターリバーンは1994年頃から台頭し始めた。彼らはマドラサと呼ばれるイスラム神学校の学生たちが中心であり、ターリバーンが快進撃を続け、軍閥を追い散らし、治安を安定させ秩序を回復するようになったので、住民たちは当初ターリバーンを歓迎した。当時、アフガン市民たちは、長年にわたる内戦とそれに伴う無法状態、軍閥たちによる暴行、略奪などにうんざりし、絶望感を抱いていたため、治安を回復するターリバーンの活躍に期待した。 しかしその後、ターリバーンがイスラム教の戒律を極端に厳格に適用し、服装の規制、音楽や写真の禁止、娯楽の禁止、女子の教育の禁止などを強制していくにしたがって、住民たちはターリバーンに失望するようになった[9]

1998年にターリバーンがマザーリシャリーフを制圧した際に、住民の大虐殺を行った。この虐殺は、前年5月にマザーリシャリーフで起こったターリバーン兵大量殺害に対する報復[10]でもあるのだが、マザーリシャリーフはアフガニスタンの少数民族であるウズベク人やハザーラ人が大きな割合を占め、ターリバーンはこれらの少数民族、特にハザーラ人に対し虐殺を行ったことから、ターリバーンがパシュトゥン人からなり、パシュトゥーン民族運動の性格を併せ持つことを示すエピソードとなったと指摘されている[11]

外国との関連[編集]

ターリバーンは、軍事面および資金面でパキスタン軍諜報機関であるISI(軍統合情報局)の支援を受けていた。特にISI長官を務めたハミド・グル英語版は「ターリバーンのゴッドファーザー」とも呼ばれ[12]、アメリカが国際連合にハミド・グルのテロリスト指定を迫った際はパキスタンの友好国の中華人民共和国拒否権を行使している[13][14]

パキスタン軍にとり、敵対するインドとの対抗上、アフガニスタンに親パキスタン政権を据え、「戦略的な深み」を得ることは死活的な課題であった[15]。そして「親パキスタン政権」とは、民族的にはアフガニスタンとパキスタンにまたがって存在するパシュトゥン人主体の政権であり、かつ、パシュトゥン民族独立運動につながることを阻止する必要から、イスラム主義を信奉する勢力でなければならなかったという[16]。このためそうした要件を満たすターリバーンがパキスタンの全面的な支援を得て支配地域を拡大していった。 アフガニスタンにパキスタンの傀儡政権が成立することは、中央アジアにおける貿易やアフガニスタン経由のパイプラインを独占するという思惑、またインドとのカシミール紛争で利用するイスラム過激派をパキスタン国外で匿うという目論みにも好都合であった。

1997年にターリバーン軍がマザーリシャリーフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。2000年の第二次タロカン攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個旅団以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。このため2000年12月にはコフィ・アナン国連事務総長がパキスタンを非難する事態となった。

また、1990年代半ばにはサウジアラビア総合情報庁もパキスタンを通じてターリバーンに資金援助を行っており[17]、アフガニスタンの安定化に対するターリバーンへの期待は高かった。

また、強力で安定的な政権は中央アジア安定化につながるとして、アメリカ合衆国の支持を得ていた時期もあった。当時のアメリカのユノカル社が中央アジア石油天然ガスをアフガニスタンを経由したパイプラインインド洋に輸送することを計画していたが、これはロシアイランを避けるルートを取っており、米国政府としては好都合であり、このパイプライン建設計画を支持した。このパイプライン計画実現のためにはアフガニスタンの安定が前提条件であり、米国はターリバーンによるアフガニスタン支配に関心を示した[18]アメリカの議会関係者や国務省関係者が和平の仲介を行おうとしたが、和平は成立しなかった。

1996年9月にターリバーンが首都カーブルを制圧し、ナジブラ元大統領を処刑した際、アメリカ国務省の報道官はターリバーンの行為を非難せず、むしろターリバーンによる安定化への期待を示すなどアメリカ政府のターリバーン寄りの姿勢を示した[19]

ターリバーンによる首都カーブル制圧後、ターリバーンによる人権侵害、特に女性の扱いに世界が注目するようになり、米国もターリバーンへの姿勢を変化させていった。1997年11月にはマデレーン・オルブライト国務長官がターリバーンの人権侵害を批判し、米国のターリバーンへの反対姿勢を明確にした。1998年8月にケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破テロ事件が発生すると、アメリカは人権問題以上にテロの観点からターリバーンへの敵対姿勢を強めていった[20]

1999年12月カシミールの独立を目指すイスラム過激派によりインド航空機がハイジャックされ、アフガニスタンのターリバーンの本拠地だったカンダハルで着陸し、ハイジャックされた飛行機の乗客乗員155人を人質に立てこもる事件があった(インディアン航空814便ハイジャック事件)。その際に、ムタワッキル外相などターリバーン政権幹部の仲介により、インド当局が獄中にいるイスラム過激派(カシミール独立派)の幹部3人を釈放する代わりに乗員155人が解放された。国際的に孤立を深めるタリバン政権が、テロリストの釈放と引き換えにとはいえ、周辺国と連携して人質解放に尽力したことで、日本国内でも、国際社会もターリバーン政権をイスラム原理主義勢力として単純に敵視するのではなく、歩み寄りを行ってもよいのではないかとする論調があった[21]。また、これにはイスラム過激派支援集団とみなされていたタリバーン側の国際社会での汚名返上の思惑もあった。

1990年代後半[編集]

政権掌握[編集]

1996年時点のアフガニスタンの勢力地図。赤の部分がアフマド・シャー・マスード軍、緑の部分がラシッド・ドスタム軍、黄色の部分がターリバーンの支配地域。

ターリバーンは1996年9月に首都カーブルを制圧し、国連施設に幽閉されていた元大統領のムハンマド・ナジーブッラーを引きずりだして公開処刑として惨殺した。カーブル制圧後、アフガニスタン・イスラム首長国を建国したが、すぐにはどの国からも承認されなかった。1997年5月にターリバーンが北部の主要都市マザーリシャリーフを制圧したのを受け、パキスタンが世界で初めて政府承認し、すぐにサウジアラビアアラブ首長国連邦が続いた。この三カ国以外からは承認されることはなかった[22]国際連合の代表権はブルハーヌッディーン・ラッバーニーを大統領とするアフガニスタン・イスラム国が保持しており、通称「北部同盟」として北部で抵抗を続けた。その後3年ほどでアフガニスタンの90%を支配下においた。

ターリバーンの国内支配[編集]

ブルカを着る女性を殴打するターリバーンの宗教警察(2001年8月26日)

しかし、ターリバーンの支配はすべての音楽を禁止するなどイスラム主義に基づいた厳格なものであった。ターリバーンはパシュトゥーン人の部族掟「パシュトゥーンワーリ」に従い、パシュトゥーン人以外の民族の不満を招いた。このパシュトゥーンワーリは実際にはイスラム教のシャリーアの代表的解釈とは相容れない部分があるとも言われている。例えば、ターリバーンは殺人を犯した者に対しその犠牲者の遺族による公開処刑を行ったが、これはイスラム法に基づくというより、パシュトゥンワリに基づくものである[23]

また、アルカーイダと接近してからは、その過激主義の影響を受け、パシュトゥーンワーリからも逸脱した、偏狭頑迷なイスラーム解釈をアフガニスタン人に押し付けるようになった。このことにより、アフガニスタン国民からの支持は低下した。

政策[編集]

ターリバーンは過度に今までの娯楽や文化を否定し、また公開処刑を日常的に行うなど、過激な活動をおこなった。これは市民に対する見せしめであると同時に、娯楽の無い市民を巧妙に操る手口であり、多い時には1万人もの見物客が公開処刑に詰め掛けたといわれる。

また女性は学ぶ事も働く事も禁止され、親族男性を伴わなければ外出さえも認められなかった。外国人も例外ではなく、女性の国連職員は入国が許可されなかった。

彼らターリバーンの統治メンバーらの服装は漆黒のターバンに黒と白のモノトーンの服装を組み合わせた独特のデザインでコーディネートされ、戦闘車両の多くもそれに準じた塗装が施されている。

政権の孤立[編集]

2001年時点のアフガニスタンの勢力地図。赤の部分が北部同盟の支配下。
ヘラートで軍用車両に乗るターリバーン。2001年

1996年、ターリバーン政権はウサーマ・ビン・ラーディンとアルカーイダの幹部を客人としてアフガニスタンへの滞在を許した。アルカーイダは、「対米宣戦布告」を行うなどそれまで引き起こされていた数々の反米テロの黒幕と推定されており、またイスラム諸国からも異端視されていた組織であり、ターリバーンは周辺諸国から孤立し始めた。

アメリカのビル・クリントン大統領はターリバーンに対する政策を転換し、ユノカルのパイプライン計画も破綻した。ターリバーン政権にアルカーイダを引き渡すように要求したが、ターリバーンは拒否した。アメリカはパキスタン政府に圧力を掛け、ターリバーンへの支援を断ち切ろうとした。またサウジアラビア政府もターリバーンへの援助を打ち切ったため、ターリバーンは経済面でも大きな打撃を受けた。しかしターリバーンは国内の他勢力の拠点を次々に攻略し、勢力を拡大し続けた。

1997年5月から、ターリバーンはアブドゥルラシード・ドーストム派の拠点であったマザーリシャリーフを攻撃したが撃退され、2500人以上の壊滅的な損害を出した。しかしターリバーンはパキスタン軍の支援を受けて立ち直った。

1998年8月7日、タンザニアケニアにあったアメリカ大使館が爆破される事件が起きた。この攻撃をうけてアメリカは報復としてスーダンハルツームにあった化学工場と、アフガニスタン国内のアルカーイダの訓練キャンプをトマホーク巡航ミサイルで攻撃した。

8月8日、ターリバーンはドスタム派の幹部を買収して勢力下に入れ、再度マザーリシャリーフを攻撃し、占領した。この際、5000人以上のハザーラ人市民が殺害され、イラン総領事館の外交官10人とジャーナリストが殺害された。この攻撃はイランや国際社会から激しい非難を受け、一時は国境地帯にイラン軍が集結する事態となった。

1998年9月、サウジアラビアはアフガニスタン臨時代理大使の国外退去を求め、かつ、自国の在アフガニスタン臨時代理大使を召還させ、事実上ターリバーンと断交した。これはケニアとタンザニアのテロ事件の首謀者と見られたウサーマ・ビン・ラーディンの扱いをめぐる対立が原因であったといわれている[24]

1999年、国際連合安全保障理事会においてテロ行為の防止を目的とする国際連合安全保障理事会決議1267[25]が採択され、ターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアルカーイダ幹部の引渡しを求め、実行されない場合には経済制裁が行われることになった。しかしターリバーンはこれに従わず、経済制裁が行われることになった。

2000年代前半[編集]

2000年10月、アルカーイダはアメリカのミサイル駆逐艦コールに自爆テロ攻撃を行った(米艦コール襲撃事件)。このためアメリカはさらに経済制裁を強化することを主張し、12月には追加制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333[26]が採択された。

2001年2月26日、ターリバーン政権は、紛争続きのアフガニスタンにあって、それまで徐々に壊れていたバーミヤーンにある石窟仏陀の像(バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群)を、ターリバーンが最終的に、木っ端微塵に爆弾で吹き飛ばした。しかし、この行為に対しては、非イスラム教諸国のみならず、イスラム教諸国に至るまで非難を行い、完全に逆効果となった。支持した者は、ごく少数にとどまった。

イランの映画監督モフセン・マフマルバフは、著書『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』の中で、アフガニスタンで長年続いている人道的危機を無視し続けながら、大仏の破壊を大きく取り上げた欧米のメディアを批判した(詳しくは脚注参照)。

2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件が発生すると、アメリカはこのテロの容疑者としてアルカーイダ関係者を引き渡すように要求した。しかしターリバーン政権はこれを拒否したため、アメリカと有志連合諸国は国際連合安全保障理事会決議1368による自衛権の発動として攻撃を開始し、北部同盟も進撃を開始した。11月までにターリバーンはカーブルとカンダハールを含むアフガニスタンの大半の領域を喪失した。しかしクンドゥーズ包囲戦のように包囲されてもパキスタンの飛行機で脱出するなどして、ムハンマド・オマルをはじめとする指導部の多くは失われず、2003年以降アフガニスタン南部及びパキスタントライバルエリアワズィーリスターンを根拠地に勢力を回復した。

穏健派ターリバーン[編集]

ターリバーンには、主にアブドゥル=ワキール・アフマド・ムタワッキル元外相やアブドゥルサマド・ハクサル元内務次官らで構成されるいわゆる「穏健派ターリバーン」という勢力も存在する。彼らは武装闘争を放棄し、政治的な方法、すなわち選挙への参加を通じた議会進出による合法的な支持拡大によってターリバーンの掲げた理想の実現を図ろうと考えている。ハクサルやムタワッキルが中心となって潜伏している元メンバーや武装闘争を続ける仲間に投降を促すなどして、議会選挙参加を呼びかけた。アフガニスタン政府も同じパシュトゥーン人であるカルザイ大統領がこの動きを歓迎して後押ししたが、かつてターリバーンと戦った旧北部同盟勢力などが「ターリバーンの復権につながる」と猛反発した。また、ターリバーン側でも穏健派を裏切り者だとして暗殺をほのめかした。

2005年の議会選挙では、ムタワッキルやハクサルらは落選したものの、元ターリバーンの中でもムラー・アブドゥル・サラム・ロケッティ元司令官やムハンマド・イスラーム・ムハンマディ元バーミヤン州知事のように下院議員に当選した人物もいる。モハマディ議員は2007年1月に、ハクサル元次官は2006年1月に暗殺された。このようにターリバーンと袂を分かちカルザイ政権に協力することは容易ではない状況にある[27]

2000年代後半[編集]

ターリバーンは2006年から南部・南東部・東部を中心に攻撃を増加させ[28]、2007年も手を休めなかった[29]。そのため2008年にはアフガンスタンの治安は著しく悪化した。またターリバーンは南部や東部だけでなく首都カブールの近隣でも攻撃を行った[30]。2009年、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加」し、即席爆発装置(IED)による攻撃を急増させた[31]。 有志連合諸国も反撃を行い、2006年から国際治安支援部隊(ISAF)をアフガニスタン全土に展開させ[28]チョーラの戦い(ウルズガーン州)やパース作戦(ウルズガーン州)などを行った。また2008年のワナトの戦いの結果などを受けて2009年にはアメリカ軍を倍増させ[32]オカブ作戦(クンドゥーズ州)やカカラクの戦い(ウズルガーン州)などを行った。

ターリバーンが活動しているワジリスタン地域

しかしタリバンは2006年中にはアフガニスタン南部四州で都市部以外の支配権を獲得するに至ったと言われる。これにはパキスタンの原理主義勢力、及びその背後のISIが深く関与していると見る向きが強く、同年末にはアフガニスタン暫定行政政府の大統領ハーミド・カルザイがパキスタンを名指しで非難する事態に至った。国際部隊の治安活動もあり主要都市の陥落などの危機的状況には陥っていないが、国際部隊の展開地域等でケシ栽培を禁じられた、あるいは多国籍軍の攻撃で民間人が死亡したなどの理由により、とりわけパシュトゥーン人の間などで、治安の混乱と経済的苦境からターリバーン復活待望論が広まっているという[33]

一方、アフガニスタンから逃れてきたターリバーンの影響を受け、パキスタン国内でも過激化した武装勢力(パキスタン・ターリバーン)が誕生した。パキスタン・ターリバーンはアフガニスタンのターリバーンとは別物であり、米軍への攻撃に加え、米国を支援するパキスタン政府に対するジハードも目的としている[34]。2007年12月には、ターリバーンを支持するパキスタン人の武装勢力を統合する目的で、パキスタン国内の13のターリバーン系組織が合体してパキスタン・ターリバーン運動が発足した。発足時の最高指導者はバイトゥッラー・マフスード。パキスタン国内ではパキスタン・ターリバーン運動がアメリカ軍による最大の打倒目標になっている。(ワジリスタン紛争

アフガニスタン南部ではターリバーンが独自の知事や裁判所を設置して完全な支配下に置いている地域がある。ヴァルダク州ではターリバーン独自の州知事、軍司令官、シャリーア法廷の設置やカーディー(シャリーア法廷の裁判長)を任命し、道路税などの税金の徴収、徴兵、学校の閉鎖やマドラサでの教育の強制、シャリーアに基づく刑罰の執行などを行い、完全にターリバーンの統治下にある。ローガル州のバラキー・バラク地区はターリバーンによる制圧後、床屋で髭を剃ることとテレビの視聴を禁じ、従わないものは「異教徒と外国人のスパイ」とみなすと住民に脅迫したという。ヘルマンド州の大部分も中央政府の支配が及ばず、ターリバーンの影響下にあり、地元部族長によれば住民も政府を頼りにするのではなく、ターリバーンの"政府"を頼り、90%の住民がカルザイ政権ではなくターリバーンを支持しているという。[35]

また、再起したターリバーンは自爆テロや市街地での無差別テロなどイラクで反米武装勢力が用いた戦術を多用する傾向が顕著になり、アルカーイダとの一体化の進行が指摘されている。またこれら自爆テロでは同様の自爆テロや米軍の空爆で手足を欠損した身体障害者が6割に上るという調査結果が遺体検分に当たったカーブル大学により2008年明らかにされている。[36]

デビッド・スワンソンは、アフガニスタン国内での米軍の軍需物資の輸送のための運輸業者への支払いが、ターリバーン勢力の資金源となっていると主張している。[37][38]

日本人拉致殺人事件[編集]

  • NGOボランティアで働いていた日本人2008年8月26日に拉致され殺害される事件が発生。ターリバーン広報官は拉致について関与を認め、NHKに対して「たとえ復興支援が目的であっても、アメリカに協力して、アフガニスタンを訪れる外国人はすべて敵だ」と語った。ターリバーンはこの他にも多くの外国人NGO関係者の殺害に関与しているとされる。NHK論説委員山内聡彦の解説によれば、援助関係者を標的にすることでアフガニスタンの復興支援を妨害し、自分たちの武装闘争を有利に運ぶ狙いがある[39]
  • 日本はテロ対策特別措置法(時限立法)に基づいてインド洋において給油活動(自衛隊派遣)をおこなっているが、上記NGO職員殺害事件の結果、2008年10月にこれを延長することへの影響が懸念された。

2010年代前半[編集]

2011年5月、アメリカ軍がパキスタンでビン・ラーディンを殺害した(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害[40]

2010年代後半[編集]

2015年1月、イスラム国が「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言し、最高指導者としてハーフェズ・サイード・ハーンを任命した[41]。ハーフェズはパキスタン・ターリバーン運動の元幹部である。4月、イスラム国とターリバーンはお互いに対するジハードを宣言した[41]。5月、ナンガルハール州ファラー州でイスラム国とターリバーンの武力衝突が起き[41]、ナンガルハール州の戦いは6月も続いた[41]。同月、ターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルはイスラム国の最高指導者バグダーディーに書簡を送ったが戦闘は止まらなかった[41]。7月、ヘクマティヤール派がイスラム国への支持を表明した[41]

2015年7月、ターリバーンとアフガニスタン政府の和平協議が開催された。タリバンの最高指導者ムハンマド・オマルはラマダン明けの声明で「武力によるジハードと同時に、神聖な目標達成のための政治的努力や平和的な道を探ることは正当なイスラムの信条であり、預言者ムハンマドの政見の不可欠な要素だ」と述べ、和平協議に肯定的な態度を示した[42]。そのため第二回の和平協議は中華人民共和国で行われる予定だった[43]。ところがその直後オマルが2013年に病死していたことが明らかとなり交渉は無期限延期になった[44]。一説によるとオマルの病死説は以前から浮上していたがターリバーンやアフガニスタン政府、交渉を仲介したパキスタン政府、アメリカ合衆国や中華人民共和国にとっては生存説の方が都合が良かったため誰も追及しなかった。しかしターリバーン内の和平協議反対派がオマルの病死に気づいた為、7月下旬にオマルの息子のムハンマド・ヤクーブが幹部をクエッタのマドラサに集めて病死を発表した[45]。7月末、2010年から最高指導者を代行していたアフタル・ムハンマド・マンスールが最高指導者に指名され、ジャラールッディーン・ハッカーニーが副指導者に指名された。しかし反対派はムハンマド・ヤクーブの最高指導者就任を求めて納得せず[46]、アフガニスタン北東部のクンドゥーズ州や西部のヘラート州、南部のザブール州などで武力衝突が起きた。一方、アルカーイダはアフタルを支持した[47]。9月、反対派は選挙を要求し、11月に別の最高指導者としてモッラー・モハンマド・ラスール・アーホンドを選出した[41]。モハンマドはターリバーン設立当初からオマルの信任が厚く、ニームルーズ州ファラー州の知事を務めた人物である[3]

2016年3月、ヘラート州でマンスール派とラスール派が武力衝突し、約150人が死亡した[48]。バードギース州のラスール派の指揮官はマンスール派をパキスタン情報部の走狗と呼んで非難した。2016年5月、アフタル・ムハンマド・マンスールが米軍の無人機攻撃により殺害された[49]。同月ハイバトゥラー・アクンザダが第3代最高指導者に就任した[2]。8月、ザーブル州のターリバーンがダードゥッラー戦線を立ち上げて独立した[48]。ザブール州の司令官ダードゥッラーは前年マンスール派に攻撃された際にファラー州のイスラム国軍に援軍を求め、見返りにイスラム国に忠誠を誓っていた[41]

2020年代[編集]

2020年2月29日、ターリバーンとアメリカ政府は和平合意に関する文書に署名した[50][51][52]。まず135日以内に1万2000人規模のアフガン駐留の米軍を8600人規模に縮小する。そして、アフガン国土をテロ攻撃の拠点にしないなどの和平合意をターリバーンが履行したと判断すれば21年春ごろに完全撤収する予定[53]。なお、アフガニスタン政府の治安部隊は、和平合意の対象外であるとして同年3月2日に攻撃作戦を再開すると発表している[54]

2020年4月、ターリバーンはサーレポル州の「州知事」にシーア派のハザラ人を任命したと発表した。ターリバーンがシーア派ハザラ人を州知事に任命したのはこれが初である。これは、ターリバーンによるマザーリシャリーフ攻略で悪化した民族対立を緩和させ、国内のハザラコミュニティの支持を集めようとする動きと見なされている。[55]

2020年7月28日イード・アル=アドハーに際して3日間の停戦を発表した。[56]これに引き続き29日最高指導者ハイバトゥラー・アクンザダは純粋なイスラーム政府の樹立と、反対勢力にタリバンへの参加を呼び掛けた。[57]

麻薬問題[編集]

アフガニスタンでは、麻薬の原料になるケシの栽培が伝統的に盛んだった。ターリバーンは、1997年終盤にケシ栽培を禁止したものの効力を得ず、2000年までには、アフガニスタン産のケシは、世界の75%に達した。2000年7月27日に再びケシ栽培禁止の法令を出し、国連の調査によれば、ナンガルハル州では12,600エーカーあったケシ畑がターリバーンによって破壊され、17エーカー(以前の0.14%)にまで減少するなどした。 [58]

こうした幾度かの禁止令にも関わらず、ターリバーンは実際にはアヘン栽培を積極的に容認したものと考えられている。2001年の国連麻薬取り締まり計画や1999年ウズベキスタンタジキスタンの報告によれば、ターリバーンの支配地域が広がるにつれ周辺諸国への密輸量は跳ね上がり、隣国のパキスタンでは1979年に皆無だった麻薬中毒者が1999年には500万人に達した。イランでは同時期120万人のアヘン中毒患者が報告された。

アフガニスタンを根源にする麻薬汚染の拡大に国際的な非難が相次ぐ中、ターリバーンは、麻薬使用への死刑適用、生産地でのケシ栽培の取り締まり等、麻薬を取り締まるかのような姿勢を演出した。

しかしながら、生産量を減らしたとはいえヘロインはターリバーンが支配するただひとつの工場のみで生産が継続され、またケシ栽培の削減開始後も2,800トンに上るアヘン在庫は維持され、出荷が停止することはなかった。このため2000年12月の安全保障理事会決議1333では、ターリバーン政権にアヘン製造を禁止する要請が出されている[26]

麻薬追放・減産の形を取りながら、生産や輸出そのものの停止には至らず、むしろ麻薬類の国家管理が厳格化されたことを如実に示すこれらの事実により、ターリバーンによる2000年の麻薬禁止令は、実質としては当時供給過剰により下落傾向を見せていたアヘン相場に歯止めを掛けるための一時的な出荷停止措置であったと見られる [59]

この価格統制政策はターリバーン政権が崩壊した事で崩れ、北部同盟の掌握地域では各軍閥が自派の資金源として、または貧農が生活のためにケシ栽培を再開するケースが続出した。この為に生産量は再び激増、GDPの50%に相当する産業となっている。これは2005年では全世界の87%に当たる生産量である[60][61]

アフガニスタン新政府はケシからの転作を進めており、2008年には前年に比べてケシ畑の耕作面積を19%減少させた。しかしアフガニスタンのケシ畑はターリバーンの勢力が強いヘルマンド州に全体の3分の2が集中しており、ターリバーンの資金源となっていると見られている[62]。またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにターリバーンに献金を行っているという指摘もある[63]

2001年以降の主要な事件[編集]

2007年以前[編集]

  • 2006年12月、米軍はターリバーンの軍事評議会議長であるムッラー・アフタール・ムハンマド・ウスマーニーをアフガニスタン南部で殺害したと発表。
  • 2007年5月、同じく軍事司令官で、ターリバーン政権時代に建設相を務めたムッラー・ダードゥッラー・アフンドが戦闘で死亡。同年12月、ターリバーンのスポークスマンであるザビウッラー・ムジャーヒドは「ダードゥッラー兄弟はターリバーンの規約に反して活動していたため、運動から除名されていた」と関係を否定する声明を発表。

2008年[編集]

  • 2月11日、パキスタン国軍は、同国南西部のバローチスターン州でダードゥッラーの兄弟であるマンスール・ダードゥッラーを拘束したと発表した。
  • 2月18日、アフガニスタン駐留するNATO傘下の国際治安支援部隊の発表によると、南部ヘルマンド州でターリバーン同州指導者のムッラー・マティーンとムッラー・カリーム・アガーを殺害したと発表した。
  • 3月31日、ヘルマンド州の州都ラシュカルガーにおける戦闘でターリバーン現地指導者の一人、ムッラー・ナキーブッラーをアフガニスタン警察が拘束した。ナキーブッラーは過去2回拘束されているが、その都度に脱走していた。
  • 7月17日、アフガニスタン駐留多国籍軍の発表によると、ヘルマンド州におけるターリバーン指揮官、ビスムッラー・アフンドを7月12日に殺害したと発表した。
  • 8月22日、アフガニスタン国防省報道官の声明によると、ヘラート州において地元の過激派と会合中だったターリバーン現地指導者、ムッラー・ シッディークをアフガン軍が殺害したと発表した。
  • 9月28日、アフガン治安当局者は、ガズニー州にて、同州アンダル地区のターリバーン指導者アブドゥル=ラヒーム・デーシューワら3人が空爆で死亡したと発表した。
  • 11月23日、NATO傘下の多国籍軍の発表によると、ヘルマンド州において同月19日に同州におけるターリバーン指導者、ムッラー・アサドを殺害したと発表した。アサドは、同州ガルムシール地区における攻撃の責任者とされる。

2009年[編集]

  • 2月15日、駐留米軍は、トルクメニスタンとの国境近くの民家に潜伏していたターリバーン指導者、ムッラー・ダスタジルを殺害したと発表。ダスタジルは昨年11月にアフガニスタン軍兵士が死亡したゲリラ攻撃を指揮したとされる。ダスタギルは以前、テロ容疑で拘束されていたが、恩赦により出獄していた。
  • 6月23日、ウルーズガーン州タリーン・コート近郊で起きた、ターリバーンとアフガン・ISAF合同軍との戦闘で、同地域のターリバーン指導者ムッラー・イスマーイールが死亡した。
  • 8月6日、パキスタン・ターリバーン運動の最高指導者バイトゥッラー・マフスードがアメリカの無人偵察機による空爆で死亡したとパキスタン情報当局が発表した。後任には弟のハキームッラー・マフスードが就任。

2010年[編集]

  • 1月18日、首都カーブル中心部でターリバーンが政府施設や市場などを標的にした自爆や銃などによる攻撃を行った。治安当局と激しい銃撃戦となり、少なくとも一般市民の子ども1人を含む5人が死亡、71人が負傷した。ターリバーン側は7人が死亡。
  • 2月16日、ニューヨーク・タイムズが、ターリバーンの軍事評議会議長で、最高幹部の一人であるムッラー・アブドゥル=ガーニー・バラダールパキスタンカラーチーで拘束されたと報道。バラダールは、ターリバーン創設時からのメンバーで、ムハンマド・ウマルやウサーマ・ビン=ラーディンとも近かった人物とされ、ターリバーン政権では、国防次官の地位にあった。アフガニスタンのカルザイ大統領は、和平派と目されていたバラダールとの交渉を企図していたことから、パキスタン政府に同人の釈放を求めるも拒絶されたとされる。[64]

2011年[編集]

2013年[編集]

  • 6月18日、ターリバーンがカタールの首都ドーハに事務所を開設した[69]。タリバンとアメリカ政府の間で、和平協議が行われることが発表された[70]アフガニスタン政府は、当初、この和平交渉に参加する予定だったが、6月19日、ハーミド・カルザイ大統領が「事務所の開設の仕方とタリバンの声明は、米国がわれわれに保証していたことに明らかに反する」として、交渉がアフガン主導でなければ交渉に参加しないと表明した[71]
  • 6月26日、アメリカは、タリバンとアフガニスタン政府との取りまとめができず、アメリカのアフガニスタン・パキスタン特別代表ジェームズ・ドビンズは、アメリカに帰国した。和平交渉の開始は仕切り直しの必要に迫られている[72]
  • 7月9日、ドーハの連絡事務所の一時閉鎖を発表した[73]

2014年[編集]

  • 6月20日-6月28日、ヘルマンド州州都ラシュカルガー北東部のサンギン(Sangin)地区にて、ターリバーンの部隊と政府軍が交戦。同地区は、ターリバーンの攻勢に圧され2010年にはイギリス軍部隊が撤収する難攻の地であったが、政府軍側が800人以上の戦闘員を投入して制圧。政府側は、6月28日に同地における事実上の勝利宣言を行った。政府側の発表では、政府側の死者28人、ターリバーン側の死者およそ260人[74]

2015年[編集]

  • 7月8日、イスラマバードでアフガニスタン政府がターリバーンと初の直接の公式和平協議。これまで仲介に関与してきた中国と米国のオブザーバーも参加した[75]
  • 7月30日、消息が不明だったムハンマド・オマルが2013年4月に死亡していたことが確認された。序列2位のアフタル・ムハンマド・マンスールは死後2年間、オマルの権威を利用してオマルの名前で声明を発表していた。後継の指導者はマンスールとなる[76][77]

2016年[編集]

  • 1月11日、イスラマバードでパキスタン、アフガニスタン、中国、米国による初の4カ国協議[78]。ターリバーンとの和平を目標に定例会合を行う「4か国調整グループ(QCG)」が設立[79]
  • 3月6日、ターリバーンが和平交渉を拒否[80]
  • 5月21日(または5月20日)、アフタル・ムハンマド・マンスールがアメリカ軍の無人機の空爆を受け死亡したとされる[49][81]
  • 5月25日、ターリバーンがマンスールの死を公式に認め、後継の最高指導者にハイバトゥラー・アクンザダが選ばれたことを発表した[2]
  • 11月29日、ターリバーンが公式サイトで中国企業の中国冶金科工集団英語版が契約したメス・アイナク英語版の銅鉱山開発計画などの保護を発表[82]

2018年[編集]

  • 6月、ラマダーンに合わせて政府側が18日間にわたり停戦。うちラマダーンあけの祭り、イド・アル=フィトルの3日間は、ターリバーン側も停戦に応えてほぼ完全な停戦状態となった。しかし、祭り後はターリバーン側は戦闘を再開。政府軍側も同年6月30日より戦闘を再開している[83]

2019年[編集]

  • 1月26日、米アフガン特別代表のザルメイ・ハリルザドがカタールでのターリバーンとの6日間にわたる前例のない和平協議で非常に重要な成果を得たと述べた[84]。米軍撤退で大筋合意があったと報じられた[85]
  • 2月5日、ターリバーンとアフガニスタンのカルザイ前大統領らによるアフガン和平に関する会議がロシアモスクワで開かれた。ターリバーンの代表は米軍撤退後に単独の政権樹立は目指さないとの姿勢を示したと報じられた[86]
  • 4月26日、米アフガン特別代表のザルメイ・ハリルザドがモスクワを訪問してターリバーンとの和平案で中国やロシアと合意した[87]
  • タリバンの勢力が拡大しつつある。6月現在、アフガニスタンの地区の46.2%を掌握し、または勢力圏内に入っている[88]
  • 6月20日、中国政府はターリバーンの代表団が訪中して和平交渉やテロ対策などで意見交換したことを発表した[89]
  • 9月7日、ドナルド・トランプ米大統領は、1年近く続けてきたターリバーンと進めてきた和平交渉を中止することを発表。目前にはキャンプ・デービッドにターリバーン幹部やアシュラフ・ガニ大統領らを招いた極秘会談がセットされていたが、アメリカ兵を目標とした自爆攻撃がやまなかったことが交渉中止の理由とした[90]
  • 9月13日~10月2日、ロシア、イラン、中国、パキスタンをターリバーンの代表団が歴訪した[91]
  • 11月28日、トランプ大統領はアフガニスタンを電撃訪問してターリバーンとの協議を呼びかけ、翌29日にターリバーンは協議再開の受け入れを表明した[92]

ターリバーン幹部[編集]

2001年当時のアフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン政権)の主要幹部を挙げる。

歴代政権と同じく、ターリバーン政権期も首都はカーブルとされ、中央省庁もカーブルから移転することは無かったが、パシュトゥーン人の組織であるターリバーンは、多民族が暮らすコスモポリタンな都市文化を持つカーブルの風土を嫌い、実際にはターリバーンの本拠地でありパシュトゥーン人の都市であるカンダハールに置かれた評議会から指令が下達される統治方法が採られた。そのためカーブルの省庁はカンダハルの評議会の従属機関に過ぎなくなり、実質的に首都機能の逆転現象が発生した。

また、各省庁の長である大臣(相)も、管轄する省庁の分野に見識のある者ではなく、内戦で立てた武勲や首長であるムハンマド・オマルへの忠誠心の強さに基づき配属されるケースが多かった。

元首

内閣

1996年9月27日発足。2000年3月、8月内閣改造

  • 統治評議会議長(首相) - ムハンマド・ラッバーニー(政権崩壊前の2001年4月に病死)
  • 統治評議会第一副議長(第一副首相) - ムハンマド・ハッサン・アフンド
  • 統治評議会第二副議長(第二副首相) - アブドゥル・カビール(議長の死去後、2001年11月の政権崩壊まで議長職を代行)
  • 外相 - アブドゥル=ワキール・アフマド・ムタワッキル
  • 内相 - アブドゥル=ラザン・アフンド
  • 財務相 - アブドゥル=ワサイ・アガジャン・モタセム
  • 教育相 - アミール・ハーン・ムッタキー
  • 国防相 - ムッラー・ハッジ・ウバイドゥッラー・アフンド
  • 勧善懲悪相 - ムハンマド・ワーリ
  • 航空・観光相 - アフタル・ムハンマド・マンスール(2010年にターリバーンのナンバー2に就任、2015年7月に最高指導者に就任。2016年5月死亡)
  • 通信・労働相 - アフマドゥッラー・モティ
  • 情報・文化相 - クトラドゥッラー・ジャマール
  • 保健相 - ムッラー・ムハンマド・アッバース・アフンド
  • 司法相 - ヌールッディーン・トゥラービー
  • 軽工業相・食糧相 - ハムドラ・ザーヒド
  • 鉱工業相 - ムハンマド・イーサー・アフンド
  • 農相・動物管理相 - アブドゥル=ラティーフ・マンスール
  • 巡礼寄進相 - サイード・ギアスディン・アガー
  • 計画相 - サドルッディーン・サイード
  • 貿易相 - アブドゥル・ラッザーク
  • 難民相 - アブドゥル・ラキブ
  • 国境・部族問題相 - ジャラールッディーン・ハッカーニー英語版
  • 兵站相 - ヤル・ムハンマド
  • 保安相 - ムハンマド・ファーズィル
  • 高等教育相 - カリ・ディーン・ムハンマド

その他主要幹部

  • 治安担当内務次官 - アブドゥル=サマード・ハクサル
  • 中央軍司令官 - ムラー・アブドゥル・ラウフ
  • 情報文化次官 - アブドゥル=ラフマーン・ハタック
  • 国防次官 - アブドゥル=ガーニー・バラダール
  • 最高裁判所長官 - ヌールー・ムハンマド・サキーブ
  • アフガニスタン中央銀行総裁 - ムッラー・ハッジ・アフマディー
  • 駐国際連合使節[注釈 1] - アブドゥル=ハキーム・ムジャーヒド
  • 欧州連合代表 - ラフマトゥッラー・サフィ
  • 駐パキスタン大使 - アブドゥル=サラーム・ザイーフ
  • アフガニスタン赤新月社総裁 - マウラヴィ・エスマトゥッラー・アセム
  • アフガニスタン・オリンピック委員会委員長 - マウラヴィ・カラムッディン

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ ターリバーン政権は国際連合でのアフガニスタン政府としての代表権を主張したが、国際連合は旧政権の北部同盟にアフガンの代表権を引き続き与えたため、ターリバーンは使節(正式な大使ではない)という形式で国連に代表を派遣した。

出典[編集]

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関連項目[編集]

参考サイト[編集]