建艦競争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

建艦競争(けんかんきょうそう、英語: Naval arms race)は、二国あるいは他国間における軍拡競争の一形態で、軍艦を中心とした海軍力整備を互いに競い合う状況を示す言葉である。

軍拡競争は、既に存在するスーパーパワーに新興勢力が挑戦するか、既存のパワーバランスが新装備の導入等によって一時的に崩れた場合に再構築が図られる、等のパターンにより生起するが、建艦競争もこの例に漏れない。他と比べて特徴的なのは、海軍力の象徴である主力艦の性能や保有量の把握が比較的容易であり、重要な指標となりやすいことである[1]

建艦競争の継続は、他の軍拡と同様に関係国間での緊張あるいは衝突に至る対立を生む[2]。また、軍艦の整備には長い時間と膨大なコストを要することから国家財政上の大きな負担になる。このため、緊張緩和と軍事費削減を目的とした軍縮に至る結末もまま見られる一方、実際に戦争に至ってしまったと評される事例もある。

建艦競争の事例[編集]

代表的な建艦競争の事例としては、下記のものが挙げられる。

その他にも小規模・短期間のものを含めた建艦競争は、古今東西数多く生起している。

二国標準主義[編集]

二国標準主義(The Two-Power Standard)とは、19世紀末におけるイギリス海軍の整備方針で、アルマダの海戦以降急成長し、ナポレオン戦争期に絶対的優位を確立した海軍力の具体的な数値目標として確立した概念である。すでに圧倒的優勢な勢力が更なる絶対的優位を求めて軍拡を行うというかなり特殊な事例であるが、軍備計画史上海軍力拡張を明確に謳った重要な概念であることからここに述べる。

この言葉は1889年の海軍防衛条例(Naval Defence Act)に初めて銘記される。その概要は「世界第二位のフランス海軍と同第三位のロシア海軍の戦力を合したものと同等以上の海軍力を整備する」というもので、同年の国防予算には前弩級戦艦の概念を確立したことで有名な「ロイアル・サブリン」級8隻[3]の建造費が一挙に計上され、それまでの単艦もしくは少数の同型艦を整備する方針から大きく転換したものとなった。

以後、イギリスの海軍力は従来に増して列強を圧倒するものとなる[4]。この政策は新たな競争相手としてドイツ海軍が台頭してくるまで、20年にわたり維持された[5]

日露戦争に至る日露間の建艦競争[編集]

日本日清戦争の勝利によりから遼東半島の割譲を受けたが、1895年三国干渉により清に返還した。やがて同地はロシア帝国の租借するところとなり、旅順を根拠地としてロシア太平洋艦隊は急速な増強を遂げ、日本の安全保障上重大な脅威として顕在化してきた。

同国の脅威に対抗するため、日本は日英同盟を締結するとともに、清から得た賠償金の総額にほぼ匹敵する巨額の軍事費を投入して対露戦備を構築した。その過程において六六艦隊計画に基づく第一期・第二期海軍拡張計画が成立し、日本海軍は当時最新の戦艦4隻、装甲巡洋艦6隻を建造するなど、世界第四位の大艦隊に急成長した。

一方でロシア海軍も最新鋭艦を優先的に太平洋艦隊に配備し、日露戦争開戦時には戦艦7隻を中心として日本連合艦隊とほぼ互角の戦力を保有するに至っていた。

一連の開戦に至る両国の推移は典型的な建艦競争であり、開戦直前においても日本は第三期拡張計画成立や装甲巡洋艦二隻(「春日」「日進」)の緊急調達など増強を続け、ロシアもまた最新の「ボロジノ」級戦艦回航を計画していた。同戦争において海軍力の推移は開戦期を決定する重要な要素であり、日本は太平洋における両国の戦力比が最良となる機会を捉えて開戦を決断した。

  • 参考:日清戦争前の日本海軍の整備推移
日本より一足早く軍拡を開始した清国は東洋最大の装甲艦「定遠」級を中核とした強力な海軍を整備し、国力に劣る日本は対抗戦力の整備に腐心することになる。
少ない国力で「定遠」「鎮遠」両艦に対抗する戦力を模索した日本は、戦艦の建造がなかなか実現しない中で同レベルの巨砲を搭載したより小型の軍艦を検討し、「三景艦」で実現する。
一応の対抗手段を保有した日本だが、やはり正面から対抗できる戦力を欲し、改めて戦艦の建造を計画する。建造費の捻出に苦慮する国情を憂えた明治天皇建艦詔勅にて遂に実現した「富士」「八島」は日清戦争には間に合わなかったが、日露戦争において連合艦隊の重要な一翼を担うことになる。

第一次世界大戦に至る欧州、特に英独間の建艦競争[編集]

欧州の新興勢力であるドイツ帝国は、皇帝ヴィルヘルム2世ティルピッツ海相の指導下にて「ドイツの将来は海上にあり」のスローガンの下、海軍力の建設に邁進した。

最初に公布された第一次艦隊法(1898年)においては戦艦19隻(艦齢25年)を中心とした比較的穏当なものであったが、1900年の第二次艦隊法では明確にイギリス海上権への挑戦を宣し、「彼が我と戦えば、我が負けても彼も回復困難な損耗を受ける」というリスク理論を提唱して戦艦戦力を倍の38隻に増強する大軍拡を開始した。以後1908年1912年と改訂を繰り返し、総戦力は戦艦41隻(艦齢20年)と大巡洋艦20隻を中核とした、イギリス本国艦隊を上回る程の規模にまで成長せんとした。

挑戦を受ける立場のイギリスも建艦を拡大した。その渦中、1906年に就役した「ドレッドノート」が軍艦史上極めて重要な意義を持ち、弩級戦艦時代を開幕させた。この艦は建艦競争にも重大な影響をもたらした。「ドレッドノート」以前と以後で一線を画するほどの性能差は、それまで保有していた戦艦群を(建造中のものまで含めて)一挙に陳腐化させた。つまり列強各国は、「ドレッドノート」により海軍力を事実上リセットされたも同然の状態となった。特にドイツはこれを好機として弩級戦艦の建造に邁進し、急速に戦力を拡充していった。一方のイギリスもドイツ高海艦隊への優位を再び確立するべく、連邦諸国の寄付金を募ってまで建造費を確保した。

技術の発達は戦艦の性能を急速に向上させ、程なく超弩級戦艦さらには高速戦艦が登場するようになった。当然建造費は高騰し、時に年間8隻もの戦艦・巡洋戦艦を起工するという凄まじい建艦競争は、英独双方に過大な財政負担を与えつつあった。この状況は両国にとって望ましいものではなく、軍縮を目指した政治的な働きかけも行われた。しかし対独二倍を目標とするイギリスと、十五割以上の優勢は不可とするドイツの主張は結局相容れず、両国の対立は深刻さを増していった[6]

英独建艦競争推移(戦艦)
計画年度 イギリス ドイツ
隻数 トン数 艦級 隻数 トン数 艦級
1901年 3隻 47,205t キング・エドワード7世級 2隻 26,416t ブラウンシュヴァイク級
1902年 2隻 31,470t キング・エドワード7世級 3隻 39,624t ブラウンシュヴァイク級
1903年 5隻 70,990t キング・エドワード7世級
スイフトシュア級
1隻 13,191t ドイチュラント級
1904年 2隻 33,745t ロード・ネルソン級 2隻 26,382t ドイチュラント級
1905年 1隻 18,110t ドレッドノート 2隻 26,382t ドイチュラント級
1906年 3隻 56,400t ベレロフォン級 2隻 37,746t ヴェストファーレン級
1907年 3隻 58,500t セント・ヴィンセント級 2隻 37,746t ヴェストファーレン級
1908年 1隻 19,680t ネプチューン 3隻 68,424t ヘルゴラント級
1909年 6隻 129,250t コロッサス級
オライオン級
3隻 72,256t ヘルゴラント級
カイザー級
1910年 4隻 92,000t キング・ジョージ5世級 3隻 74,172t カイザー級
1911年 4隻 100,000t アイアン・デューク級 3隻 77,388t ケーニヒ級
1912年 5隻 137,500t クイーン・エリザベス級 3隻 82,996t ケーニヒ級
バイエルン級
1913年 5隻 140,000t ロイアル・サブリン級 1隻 28,800t バイエルン級
1914年 3隻 84,000t ロイアル・サブリン級 1隻 28,800t バイエルン級
英独建艦競争推移(巡洋戦艦)
計画年度 イギリス ドイツ
隻数 トン数 艦級 隻数 トン数 艦級
1901年
1902年
1903年
1904年
1905年 3隻 52,065t インヴィンシブル級
1906年
1907年 1隻 19,370t フォン・デア・タン
1908年 1隻 18,470t インデファティガブル級 1隻 22,979t モルトケ級
1909年 2隻 52,540t ライオン級 1隻 22,979t モルトケ級
1910年 3隻 63,770t インデファティガブル級
ライオン級
1隻 24,988t ザイドリッツ
1911年 1隻 28,430t タイガー 1隻 26,600t デアフリンガー級
1912年 1隻 26,600t デアフリンガー級
1913年 1隻 26,947t デアフリンガー級
1914年 1隻 31,000t マッケンゼン級

最終的には第一次世界大戦勃発の一因と後世に評価される程の両国の軍拡は、周辺諸国にも波及した。特に英独双方と領海を接するフランスはこれを座視するわけにはいかず、1900年に「装甲艦28隻整備構想」を提唱して1920年までに28隻の装甲艦(戦艦)を建造することとした。日露戦争で壊滅的打撃を受けたロシア帝国も追随し、1908年から1918年までに隔年毎4隻の主力艦を起工する再整備計画を策定した。より国力の劣るイタリアや、想定戦場が狭く強大な海軍力を必要としないオーストリア=ハンガリー帝国、さらに小国のスペインギリシャトルコ等も次々と弩級戦艦を計画・建造していった。

海の向こうでは、アメリカが英独建艦競争に反応していた。ちょうど太平洋方面に勢力を拡大する過程にあったこともあり、1903年発足した将官会議において「1919年までに戦艦48隻を中核とする世界第二位の海軍建設」が提唱された。この基本方針は後にダニエルズ・プランに発展する。

そして日露戦争に勝利し世界第三位の海軍国に躍進した日本もまた、対立が深まりつつあったアメリカに対抗するためにより強力な海軍を求めていく。しかし日本は戦利艦となった旧ロシア戦艦の再整備にリソースを取られて弩級戦艦時代に乗り遅れてしまう。次第に拡大する列強諸国との戦力差に焦る日本はその格差を埋めるため、最後の外国製主力艦となる「金剛」をイギリスに発注するとともに、新たな基本方針となった八八艦隊の実現に向け建艦を進めていく。

南米ABC三国間における建艦競争[編集]

A(アルゼンチン)・B(ブラジル)・C(チリ)の南米主要三国は潜在的な対立関係にあり、パワーバランスの維持に長年腐心してきた。その最中に起きた建艦競争は、規模は小さいながらも典型的なケースとして世に知られる。

先陣を切ったのはブラジルで、1904年度に戦艦3隻を含む海軍拡張計画を成立させた。とはいえ、中小国の国力では急速な実現は困難で、計画案は逐次修正されていく。その過程で「ドレッドノート」就役の情報がもたらされた。

同艦により、既存の主力艦が過去のものとなったことを認識したブラジルは、早期に弩級艦を戦列に加えることで、地域的な優位確立と列強への対抗が可能であると判断し、弩級戦艦建造の方針に変更した。この結果実現したのが「ミナス・ジェライス」級戦艦2隻である。

同艦の就役は、南米地域のパワーバランスを大きく崩すことになる。長年のライバル国であったアルゼンチンは直ちにこれに反応し、自らも弩級戦艦保有を決定した。建造されたのは「ミナス・ジェライス」を大きく上回る戦力を持つ「リバダビア」級2隻である。同艦により優位を崩されたブラジルは、対抗として三隻目の弩級戦艦建造を決定し、「リオ・デ・ジャネイロ」を発注した。超弩級戦艦の時代に建造された同艦は14門もの12インチ砲を搭載するが、結局は超弩級艦の方が有利であると判断され売却されることとなる。手を挙げたのはオスマン=トルコであった。

両国の建艦に対して、最後に動いたのがチリである。同国は弩級艦に見切りをつけ、超弩級艦の建造を選択した。「アルミランテ・ラトーレ」級と名付けられた2隻の戦艦は、そのまま就役すれば南米における最強艦として君臨することになるため、劣勢を認識したAB両国は三隻目の戦艦取得をそれぞれ決定した。

次第に過熱しつつあった三国間の建艦競争であったが、第一次世界大戦の勃発により情勢が激変する。三国はいずれも自国で戦艦を建造する能力は持っておらず、外注に頼っていた。建造を請け負う列強全てが戦争に突入したことで、これ以上戦艦を獲得することができなくなったのである。そればかりかブラジルは「リオ・デ・ジャネイロ」を、チリに至っては「ラトーレ」級を二隻ともイギリスに接収されてしまう。こうして三国の建艦競争は、外的要因により強制終了されることとなった。

終戦後、「リオ・デ・ジャネイロ」はそのままイギリス海軍の手に残り、「ラトーレ」はチリ海軍に返された。二番艦「コクレン」は大戦中空母「イーグル」に改装されたこともあってイギリス海軍のものとなったため、最終的に三国の保有戦艦は弩級戦艦2隻ずつと超弩級戦艦1隻でパワーバランスが均等化した。情勢が安定したことと、ワシントン海軍軍縮条約の影響で新たな戦艦取得が困難になったことで建艦競争は鎮静化し、三国の戦艦5隻は相争うことなくそれぞれ天寿を全うした。

第一次世界大戦前後における列強、特に日米間の建艦競争[編集]

第一次世界大戦は欧州に空前の惨禍をもたらしたが、直接国土が戦場とならなかった新興列強である日米両国には戦争特需の福音をもたらした。アメリカの戦艦10隻と巡洋戦艦6隻から成るダニエルズ・プランは当初想定の計画年度を1917~1921年度からさらに2年も縮め、わずか3年で全ての艦を建造する大計画となり、さらに1919年にはほぼ同規模の次計画さえ構想された。もっとも1917年の世界大戦参戦によってアメリカは戦時体制に移行し、中小型艦優先に組み替えられたことで主力艦の建造にはブレーキがかかり、計画の本格的再開は戦後を待つことになる。

日本もまた戦争特需で財政的な裏付けが得られたことから、長年の悲願であった戦艦8隻と巡洋戦艦8隻から成る八八艦隊実現の見通しがたった。1916年度の八四艦隊案を皮切りに1918年度の八六艦隊案1920年度の八八艦隊案と段階的に計画は推進され、主力全艦の予算が成立した。日本はさらに八八八艦隊案構想をも検討しており、同案が実現すれば戦艦・巡洋戦艦を毎年3隻の割で起工し続け、艦齢24年として合計72隻もの保有量に達する規模となる。だが八八艦隊案成立の時点で、すでに軍事費の膨張は維持費のみで国家予算の3割を超えると試算されるほどになっており、財政破綻の危機が現実化しつつあった。

過熱する両国の建艦競争に対し、極東地域に権益を有するイギリスも無関係ではいられなかった。大戦に疲弊しかつての建艦競争を再現したくなかったイギリスではあるが、日米の戦力が拡張を続ける中座視するわけにもいかず、戦艦巡洋戦艦各4隻の建造を決定した。

建艦競争を続けつつも、過熱状態にあるそれを沈静化させて財政負担軽減と地域安定化の必要性は関係国共通の認識となるところであった。各国とも軍縮の必要性は理解しており、世界大戦の惨禍が世論となりそれを後押しした。1921年にはワシントン軍縮会議が開催され、同会議にて成立した軍縮条約は建造・計画中の全ての主力艦の建造中止と、既存艦の相当部分の退役を求めるもので、敗戦したドイツと共産化により列強から離れたソ連を除く主要列強五カ国は互いの主力艦の保有量と性能を制限し、建艦競争を強制的に終結させた。以後同条約が破棄される1936年までを「海軍休日(Naval Holiday)」と呼び、過度の建艦競争が行われなかった時代として軍事史に刻まれる。

海軍休日期の建艦競争[編集]

ワシントン海軍軍縮条約の締結により、列強諸国において戦艦と航空母艦については建造が抑制されたが、1万トン以下の補助艦については自由に建造できたことから、各国は重巡洋艦の建造を推し進めた。1万トンの制限内で所要の性能全てを満たすことは難しく、建造された各艦はそれぞれの戦略環境を反映した取捨選択が行われており、技術的に非常に興味深い好対照を示している。

条約成立を優先して補助艦の制限を避けた結果は[7]今や重巡洋艦を中心とした建艦競争を再燃させつつあり、ワシントン会議が積み残した「解決を要する宿題」であった。だが主力艦が抑制された分を補助艦で補う構想は各国固有の事情によりかなり差異があり、妥協点を探るのは容易ではなかった。1927年ジュネーブでまず行われた軍縮会議は特に米英の対立が顕著となり決裂してしまった。この反省から事前の調整を経て1930年にロンドン軍縮会議が開催され、対立構造を完全に解消することはできなかったがなんとか妥協点を見いだし軍縮条約締結を成功させた。以後ワシントン条約が規定する1936年末までは、各国は保有枠を満たす範囲での建艦に終始するのである。

他方、ロンドン条約では仏伊は限定的な参加にとどまり、軍備を制限されるものではなかった。このため両国はロンドン条約に伴う「主力艦建造中止期間5年延長」を受けることなく、1932年より旧式戦艦の代艦建造が可能となった。折からドイツの再軍備が始まっており、軍備のニッチを突く存在であるポケット戦艦の登場は各国を大いに刺激した。フランスはポケット戦艦を捕捉・撃滅可能な中型高速戦艦「ダンケルク」級の建造を開始し、イタリアは旧式戦艦の大改装にて同艦に対抗可能な戦力構築を進めた。さらにドイツもより大型の「シャルンホルスト」級戦艦の建造を開始。再軍備宣言の後は英独海軍協定によって同艦を正当化した。欧州主要三国の建艦競争は次第に熱を帯び始め、特にナチス・ドイツへの各国の警戒心は高まっていった。

第二次世界大戦に至る列強間の建艦競争[編集]

ワシントン条約が有効期限を迎えるため、更なる軍縮を実現せんとして1935年には第二次ロンドン軍縮会議が開催された。しかしそこに日本の姿はなく、条約体制からの脱退を宣言していた。このため、米英仏三国で締結された第二次ロンドン条約は質的制限を主とした限定的なものとなり、日本やドイツの動向を見据えたエスカレータ条項も用意された。

1936年末、日本の脱退宣言によりワシントン条約は失効し、海軍休日は終わりを告げた。以後第二次世界大戦に至るまでの数年間は無条約時代と称され、各国とも新たな建艦競争にひた走ることになる。

欧州においてはヒトラー再軍備宣言から後、ドイツは各方面に領土的な野心を露わにした。オーストリアチェコポーランドと各国への圧力を強める中、当然に英仏との対立は強まっていく。対抗手段としてドイツが選択したのは、外交的にはイタリアやソ連との連携であり、大規模な軍拡であった。海軍に関しては1948年までにイギリス本国艦隊に対抗可能な戦力を構築する「Z計画」をスタートさせ、戦艦6隻と巡洋戦艦3隻を中核とした[8]大艦隊の建設を推し進め始めた。

イギリスは「新標準艦隊(The New Standard Fleet)」構想を策定し、戦艦20隻、航空母艦15隻、巡洋艦100隻体制を10年間で構築せんとした。その主たる仮想敵はドイツと、極東で勢力を増す日本であった。

その日本は自主的かつ適正な国防所要兵力標準として戦艦12隻、航空母艦10隻以下を定め、海軍国防所要兵力整備十年構想に基づいて軍拡を開始した。1937年の第三次海軍軍備補充計画では戦艦2隻、航空母艦2隻等66隻を建造している。この時点で日本は、過度の建艦競争を予想していなかった。

しかし対抗するアメリカは、経済恐慌からの立て直しの一環として建艦計画もその主要な柱の一つとしており、日本に数倍する建艦をスタートさせた。1934年第一次ヴィンソン案こそ条約保有枠を満たす程度の比較的小規模なものだったが、1938年に無条約時代最初の計画として成立した第二次ヴィンソン案は海軍力25%増強を謳い、戦艦3隻と航空母艦1隻等の増強を決めた。既存計画と合計するとその規模は日本の4倍にも達するものであり、想定以上に過激な反応を見た日本は新たな対抗手段を求められた。

1939年、当初予定から1年繰り上げて第四次海軍軍備充実計画が策定され、戦艦2隻、航空母艦1隻等80隻の建造を開始した。この計画ではアメリカの建艦に互することの困難さを認める兆候が早くも現れており、量的な対抗は不可能と考えられ始めていた。

だがアメリカは手を緩めなかった。折から第二次世界大戦が勃発したこともあり、1940年第三次ヴィンソン案ではさらに海軍力25%増強を目指した。当案は議会の査定で11%増強に抑制されたが、それでも戦艦2隻と航空母艦3隻等を追加するもので、対抗上日本も第五次海軍軍備充実計画の策定で戦艦3隻、大型巡洋艦2隻、航空母艦3隻等第三次と第四次を合計したものにほぼ等しい大計画を立案し1942年からの着手を目指した[9]。そして1940年7月、ドイツのフランス攻略を受けて発表された最大の建艦計画が日本を震撼させた。両洋艦隊法、スターク案と呼ばれた同計画は戦艦7隻、大型巡洋艦6隻、航空母艦18隻など216隻、海軍力実に70%増強を目指すもので、当時の連合艦隊総力に匹敵するという膨大な計画は、もはや日本の追随をまったく許さなかった。対抗案として1944年スタートの第六次海軍軍備充実計画が検討され、戦艦4隻、大型巡洋艦4隻、航空母艦3隻などの建造を構想してはいたが、第五次計画の実現さえ危ぶまれる情勢の中、その実現はほとんど不可能と思われた。急速に開き始めた日米間の戦力差[10]に危機感を抱いた日本では、戦力比が優位なうちに開戦を目指す論が勢いを増し始める。着手時期の関係で1941年には一時的に日米戦力比は対米8割を超えるまでに改善すると見込まれていたからで、一連の流れは太平洋戦争開戦の少なくとも一因を担ったと評されている。特に「翔鶴」「瑞鶴」2隻の正規空母の戦力化時期は、12月という開戦時期を決定する直接の動機の一つとなった。

冷戦期における米ソ間の建艦競争[編集]

第二次世界大戦の戦勝国として圧倒的な優位を確立したアメリカ海軍に対して、しばらく後に新たな挑戦者が現れた。同じく戦勝国となり、東西対立の一翼を担ったソビエト連邦である。

当初彼らが目指したのは、スターリンの指導下、比較的防衛的な海軍であった。彼の個人的な嗜好も反映されたとされる[11]整備構想は、大型巡洋艦やドイツの先進的Uボートに影響された高速潜水艦等、近海での行動を想定された艦艇群が主だった。アメリカ海軍の強大な空母機動部隊に正面から対抗しても勝ち目がないことは、彼ら自身がよくわかっていたのである。

しかしミサイル・ギャップ論に端を発する米ソの核開発競争は、劣勢側のソ連が起死回生を目指して実施したキューバへの基地建設によって重大な局面を迎えた。アメリカの内懐に突如出現した社会主義勢力はまさに獅子身中の虫であり、そこに強大な核戦力が配備されることはアメリカにとって絶対に許容できない事態であった。

キューバ危機から解決への推移は同記事に詳細を譲るとして、その過程で行われたアメリカ海軍による海上封鎖は、ソ連首脳部に重大な衝撃を与えた。ソ連は友邦を救う手立てを何一つ実行できず、圧倒的な海軍力の格差を埋める必要性を改めて認識したのである。以後ソ連海軍は大型水上艦や航空母艦を含めた大海軍建設を本格的に推進していく。

対するアメリカは、相対的な戦力低下を自覚していた。大量に保有していた第二次大戦期の諸艦はさすがに更新期を迎えており、従前の保有量を維持することは不可能だったためである。成長を続けるソ連海軍に対して戦力が低下し続けるアメリカ海軍という構図は将来的な危機感を抱かせるには十分であり、再び海軍力優位を確立し直す必要性が認められた。

1981年ロナルド・レーガン大統領の下、アメリカは「600隻艦隊構想」を提唱した。1981年時点で475隻まで低下していた海軍力を600隻まで増強しようというものである。原子力空母を含む大型空母15隻、モスボールされていたアイオワ級戦艦4隻の復活、100隻に達する原子力潜水艦群などの保有が謳われ、再びアメリカは建艦に舵を切った。対抗するソ連もモスクワ級とキエフ級を経ていよいよ大型空母が洋上に姿を見せようとしており、両国の建艦競争は最高潮を迎えつつあった。

結末は1991年唐突に訪れた。ついにソ連海軍最初の本格的航空母艦「トビリシ」が就役した直後、冷戦が終結しソ連は崩壊してしまったのである。敵を失ったアメリカ海軍も、その直前に達成していた600隻艦隊はすぐにそれを割り込み、2016年現在では313隻体制にまで縮小してしまっている。

中国の海洋進出と周辺諸国の建艦[編集]

2017年現在、最も精力的に海軍力増強を進めている国の一つが中華人民共和国である。同国の建艦政策は1996年を境に大きく変動した。この年に生起した第三次台湾海峡危機が発端である。台湾への圧力を強めた中国に対して、アメリカ海軍は空母戦闘群2個に敢えて台湾海峡を通航させる挙に出た。

かつてのキューバ危機同様、アメリカの海軍力プレゼンスに対して対抗する手段を持たなかった中国は、空母接近阻止を爾後海軍戦略の主要な一柱に位置づけることとなる。アメリカの空母機動部隊を南シナ海、さらには西太平洋から追い払い、そこに生じた力の空白部に自らが進出する列島線戦略が推し進められた。特に21世紀に入って以降の中国海軍の近代化は他国に類例が見られないほど急速に進行しており、旧式艦艇の大半が置き換わり、あるいは増強されつつある。悲願であった国産空母の建造も進んでおり、2017年中には第一艦が進水すると見込まれている。

この動きに周辺諸国も反応した。中国の海洋進出は明らかに従来のパワーバランスへの挑戦であり、2017年現在、南シナ海南沙諸島はすでに中国が実効支配を進めて新たな戦略環境構築をほぼ完了してしまった。同海域に利害関係を有する諸国を中心に、東アジア諸国はそれぞれ対抗戦力としての建艦を進め始めている。特に顕著な特徴は潜水艦の増強で、それまで保有していなかった諸国が新たに保有したり、既存の潜水艦戦力の増勢を図る動きがほぼ共通して確認されている[12]

アメリカも再び増勢に転換しようとしている。2017年現在の構想では現有戦力から1割程度の増勢が図られるようである。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 本来の意味は「Naval arms」とあるように軍艦のみならず海軍力全体を指す軍拡競争である。
  2. ^ このことからもわかるように、建艦競争とはあくまでも「平時」における状況を示す言葉である。
  3. ^ 内1隻は準同型の「フッド」となる。
  4. ^ 一例として海軍本部が作成した1904年時点の列強海軍比較表では、イギリスの戦艦既成53隻+建造中12隻に対し、フランス29隻+6隻、ロシア20隻+9隻、ドイツ18隻+8隻。
  5. ^ 公式に撤回されたのは1909年。
  6. ^ この過程でイギリスは財政負担に耐えきれず、1913年以降は整備目標を対独十六割に下げている。
  7. ^ 特に仏伊が補助艦制限に難色を示していた。
  8. ^ 既存艦と合すれば戦艦13隻、航空母艦4隻など。
  9. ^ 計画構想それ自体は1938年に検討されており、当初の建艦競争に至らない想定では、同計画は戦艦2隻と航空母艦2隻を中心とした、より抑制されたものだった。
  10. ^ 1943年時点で対米5割、44年時点で同3割まで戦力比が低下し、まったく勝ち目はなくなるとされた。
  11. ^ 特に巡洋戦艦への執着が強かったと後世に伝えられる。
  12. ^ 長尾賢 (2016年1月14日). “中国を追い、周辺国が潜水艦を相次ぎ増強”. 日経ビジネスオンライン. 2017年4月17日閲覧。

参考文献[編集]

  • 建艦競争を語る(中外商業新報 1933.9.15-9.21)
  • イギリス戦艦史(海人社)
  • ドイツ戦艦史(海人社)
  • 日本の軍艦(福井静夫)
  • 帝国海軍はなぜ敗れたか(御田俊一)
  • 新・現代の軍艦(堀元美・江畑謙介)
  • Building for Victory(George Moore)
  • Combat Fleet of the World 16th Edition(Naval Institute Press)