黛治夫
黛 治夫 | |
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生誕 |
1899年10月2日![]() |
死没 | 1992年10月29日(93歳没) |
所属組織 |
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軍歴 | 1919年 - 1945年 |
最終階級 |
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黛 治夫(まゆずみ はるお、1899年10月2日 - 1992年10月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。ビハール号事件におけるBC級戦犯として禁錮刑に処された。
経歴[編集]
1899年10月2日、群馬県北甘楽郡富岡町(現富岡市)で、養蚕製糸業を営む父・治良と母・かよの長男として生れる[1]。姉・邦子は後に内田市太郎(最終階級は海軍大佐)と結婚している[2]。富岡中学校、横浜一中を経て、1919年10月、海軍兵学校(47期)を卒業し、少尉候補生として練習航海に出発。1920年8月1日、海軍少尉に任官。1925年11月、海軍砲術学校高等科を卒業、「伊勢」分隊長となる。1926年11月、海軍砲術学校教官兼分隊長に任命。1929年4月、島内桓太(海軍少将)の娘・千代と結婚。1930年11月、海軍大学校(甲種28期)を卒業した。12月1日、「日向」副砲長兼分隊長に就任。1931年10月10日、練習艦「浅間」の副砲長兼分隊長に就任。12月1日、少佐に昇進。1932年7月、「赤城」副砲長兼分隊長に就任。11月1日、砲術学校教官に就任。
1934年6月、アメリカ駐在となり、アメリカ海軍の大口径砲の命中率、艦船の防御力についての調査研究を行い、1936年6月に帰国。海軍省軍務局調査課、砲術学校教官、第4根拠地隊参謀、砲術学校教官、「古鷹」副長、横須賀鎮守府出仕、呉鎮守府付、「大和」副長などを経て、第3遣支艦隊参謀時の1941年10月、海軍大佐に進級。
1941年12月、太平洋戦争が開戦。以後、水上機母艦「秋津洲」艦長、第11航空艦隊兼第8艦隊参謀、軍令部出仕、横須賀砲術学校教頭などを歴任。
1943年12月、「利根」艦長に就任。1944年3月、利根は第16戦隊の指揮下に入り、サ第一号作戦に参加。利根はインド洋でイギリスの商船「ビハール号」を撃沈した際に捕虜を得て、作戦後にその殺害を命じた。この事件は戦後BC級戦犯として裁かれた(後述)。6月、マリアナ沖海戦に参加。10月、レイテ沖海戦に参加。1945年1月、横須賀鎮守府参謀副長となり、化兵戦部員兼軍令部員を経て、化学戦部長の時に終戦を迎え、同年11月、予備役に編入された。
1947年、イギリス軍香港裁判において、サ第一号作戦時の捕虜殺害の件で、第16戦隊司令官だった左近允尚正と「利根」艦長だった黛が被告人として起訴された。10月29日、左近允は絞首刑、黛は禁錮7年の判決が宣告され、1951年9月まで拘留された。捕虜殺害については、黛が指揮する「利根」が1944年3月18日に左近允が指揮する第16戦隊を脱し第7戦隊に復帰するよう命じられたため、シンガポールに向い、その途中に黛が実施した。裁判では、左近允は「自分が命令したのは作戦中のことであり、作戦後のことは命令していない」と主張し、黛は「左近允司令官の命令で殺害した」と主張した[3]。
その後、極洋捕鯨に入社し、捕鯨部にて捕鯨砲の開発や後進の育成に尽力した。その教え子の中には、大関朝潮の父親であった長岡友久も居た。先輩の岡村徳長とは個人的に親交があり、戦後もその関係が続いていた。
黛は生涯「航空主兵への転換は間違い。戦前の想定どおり、砲撃主体の艦隊決戦を挑むべきであった」と主張し続けた。「日本海軍の遠距離砲撃の命中率は米軍の三倍」とする説が存在するが、これは戦前に日本の諜報機関が米海軍の砲撃演習結果を入手し、黛が分析した結果が基になったとされている。
著書[編集]
- 『海軍砲戦史談』原書房、1972年。
- 『艦砲射撃の歴史』原書房、1977年。
出典[編集]
参考文献[編集]
- 生出寿『砲術艦長黛治夫 - 海軍常識を覆した鬼才の生涯』光人社〈光人社NF文庫〉、1996年。ISBN 4-7698-2124-7
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。