秋津洲 (水上機母艦)

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秋津洲
Japanese seaplane carrier Akitushima.jpg
終末全力運転中の秋津洲
(1942年4月18日、淡路沖)[1]
経歴
運用者  大日本帝国海軍
建造所 川崎重工業[2]艦船工場(神戸)
種別 水上機母艦[3]
計画 昭和14年度(1939年)、マル4計画[4]
起工 1940年10月29日
進水 1941年7月25日
竣工 1942年4月29日
除籍 1944年11月10日[5]
最後 1944年9月24日沈没
母港 横須賀[6]
建造費 成立予算 11,825,000円[7]
要目
基準排水量 4,650英トン[8]
公試排水量 5,000トン[9]
全長 114.800m[9]
水線長 113.000m[9]
垂線間長 108.700m[9]
水線幅 15.800m[9]
深さ 9.65m[10]
吃水 5.400m (公試平均)[9]
ボイラー 補助缶:ホ号艦本式缶(空気過熱器付[8]) 2基[9]
主機 22号10型ディーゼル4基[9]
(フルカンギア接続)[9]
推進 2軸 x 350rpm[8]
直径2.500m、ピッチ2.200m[8]
出力 8,000hp[9]
速力 19ノット[9]
燃料 重油満載 455トン[9]
航続距離 8,000カイリ / 14ノット[9]
乗員 計画乗員 545名[10]
竣工時定員 338名[11]
搭載能力 航空燃料689トン[10]
航空魚雷36本[12]
爆弾 800kg30個、500kg15個、250kg100個、60kg100個[13]
糧食・真水[9]
魚雷艇5隻(最終時)[14]
兵装
搭載艇 9m内火艇1隻、12m内火ランチ2隻、9mカッター2隻、6m通船1隻[15]
搭載機 飛行艇1機搭載可能 (停泊時)[16]
レーダー 21号電探7型1基(最終時)[14][17]
その他 臨時の工作艦設備(最終時)[18]
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秋津洲(あきつしま)は、大日本帝国海軍水上機母艦[2][19]。 日本海軍の類別上は水上機母艦だが[3]、実際には大型飛行艇への補給、整備を任務とする艦艇であり、飛行艇母艦と呼ばれる事もある[20]

艦名は明治期の防護巡洋艦秋津洲」に続き2代目[21]秋津洲とは、日本の別称[22]

計画[編集]

帝国海軍では、真珠湾攻撃の5年前から航空機によるハワイ攻撃作戦の研究が組織的に進められていた。

1936年(昭和11年)に海軍大学校がまとめた文書、「対米作戦用兵ニ関スル研究」には、「開戦前敵主要艦艇特ニ航空母艦AL(=真珠湾)ニ在泊スル場合ハ敵ノ不意ニ乗ジ航空機(空母(艦載機)並ニ中艇、大艇)ニ依ル急襲ヲ以テ開戦スルノ着意アルヲ要ス」とある。もし対米戦が始まっても、アメリカ艦隊が出撃して来なければ、帝国海軍の想定した速戦即決の艦隊決戦は起きない。そこで敵の根拠地である真珠湾を航空機で(宣戦布告前に)奇襲攻撃することで開戦し、アメリカ艦隊に早期の出撃を強要することを考えたのである。その奇襲攻撃には空母艦載機の他に、航続力の大きい飛行艇(大艇、中艇)を使用するつもりだったのである。

この文書には、続いて、「而シテ現状ニ於テハ大艇、中艇ハGK(=マーシャル諸島)東端付近ヨリ出発シ予メ洋上静穏ナル地域ニ配備セル水上機母艦ニ於テ中継補給ヲ行フ等ノ手段ヲ講ズルヲ要ス」とある。この手段を、水上艦艇で具体化したものが、飛行艇母艦「秋津洲」であり、潜水艦で具体化したものが、「潜補型」であった。

水上機戦力に力を入れた帝国海軍は、大型飛行艇九七式飛行艇二式飛行艇)を洋上補給・整備するための新造飛行艇母艦(移動基地)を要望した[20]。そのため「神威」を改装したが十分でなく、昭和14年度計画(マル4計画)において新艦(仮称第131号艦)を建造することとなった[23]。 昭和17年度の改マル5計画では同型艦3隻が建造予定だったが、戦局の変遷により建造中止になった[23]。開戦の準備として発動された戦時急備計画(マル急計画)でも同型艦(第303号艦、予定艦名「千早」)の建造が決まり、昭和16年7月25日に起工されたが、昭和17年秋には建造中止となる[24]。このほかに、1万1000トン級の艦隊随伴型大型飛行艇母艦、3300トン級の小型飛行艇母艦も計画された[20]。さらに福田啓二造船中将により排水量3万トン、全長200m、幅24mの巨大艦も検討されたが、いずれも太平洋戦争の勃発により実現しなかった[20]

艦型[編集]

「秋津洲」は排水量5000トン程度であり、大型飛行艇1機を艦上で整備するという構想には無理があった[24]。当初の計画では、艦尾のスロープから大型飛行艇をウインチで船体後部の飛行艇収容区画へ引き揚げる計画だった[20]。ところが川西航空機が開発した二式飛行艇(重量31トン)をウインチで引き揚げるのは無理という判断により、設計を変更して艦尾に35トン電動クレーンを装備した[24]。このクレーンが秋津洲型の最大の特徴となった[24]。艦内には航空隊員用の居住施設、飛行艇に搭載する魚雷・爆弾・機銃弾等の弾薬庫、軽質油用タンク、工作施設を備え、通信設備も充実していた[13]。なお秋津洲型は大型飛行艇を艦上に収容した場合、搭載機が航行中に損傷したり、あるいは操艦そのものが困難となるため、揚収中は航行しない事を前提に運用されている[24]

本艦が施していた特異な迷彩塗装は、初代艦長黛治夫大佐の影響であった[18]。第一次ソロモン海戦後のラバウルで、第八艦隊参謀長大西新蔵少将が本艦の迷彩の事を「厚化粧みたいにゴテゴテ塗ってきたな」と指摘した時には「攻撃力がないから、昆虫のように保護色にしたんですよ」と黛艦長は説明している[25]。また、空襲の多いショートランド方面で行動していた際には、連日の爆撃から航海士が米重爆の水平爆撃のクセを見抜き、艦長に進言し「秋津洲流戦闘航海術」として実践した。これは停泊中に空襲を受けた場合に、両舷の錨を右舷側に偏らせ150mの所まで錨鎖を伸ばしておき、敵機が仰角38度になった時に前進一杯を号令すると艦が急速に右舷側に動いて回避できるという方法であった[26]。ラバウル方面で行動する時には、座礁すれすれの場所を通ることで米潜水艦の襲撃を防いでいる。黛は「秋津洲流戦場航海術」と称していた[27]

機関は22号10型ディーゼル4基を搭載、2組ずつフルカンギアで接続し2軸とした[9]。その他補助缶2基を搭載した[9]。電源は200KVAディーゼル発電機2基、2770KVA同1基を搭載、交流電源だった[10]

大戦中は飛行艇用の広い後甲板とクレーンを利用して魚雷艇数隻を搭載し前線への輸送を行った[18]1944年(昭和19年)3月に横須賀海軍工廠で損傷修理を行った際に21号電探を前部マスト上に1基装備、機銃を増備し25mm3連装機銃6基、同単装3挺となった[12]。また後甲板に軌条3組を設けて、魚雷艇または大発などの運搬設備を設けた[12]。1944年前半に工作艦船のほとんどを喪失したため[18]、同年8月に呉海軍工廠で臨時の工作艦任務のための改造を行った[12]

戦歴[編集]

1941年(昭和16年)6月30日、神戸川崎重工業で建造中の水上機母艦に対し、正式に「秋津洲」の艦名が与えられる[2]。同日附で水上機母艦に類別[3]。 本艦は7月25日に進水。当事の神戸川崎重工業では、翔鶴型航空母艦2番艦「瑞鶴」の建造が最終段階を迎え(9月25日竣工)[28]、また給糧艦「伊良湖」の建造も進んでいた(進水2月14日)[29][30]。 10月15日、日本海軍は岩淵三次大佐を秋津洲艤装員長[31]に任命する(岩淵は10月15日まで香取型練習巡洋艦3番艦「香椎」艦長)[32]。11月5日、神戸川崎重工業に秋津洲艤装員事務所を設置する[33]。 12月5日、「秋津洲」に先駆けて「伊良湖」が竣工、神戸を離れた[29]

1942年(昭和17年)3月25日附で秋津洲艤装員長は、重巡「古鷹」副長[34]、戦艦「大和」副長、第三遣支艦隊参謀[35]等を歴任した黛治夫大佐に交代する[36](岩淵大佐は4月20日より金剛型戦艦4番艦「霧島」艦長、同艦沈没まで勤務)[37]

4月18日、アメリカ軍はB-25中爆によるドーリットル空襲を敢行する。4月21日、神戸沖で公試中の「秋津洲」は『B-25を発見、砲撃して撃退した』と報告する[38]。実際は、九六式陸上攻撃機ダグラス輸送機に対する誤射であり、弾丸の破片が関西汽船所有の小型客船「天女丸」に降り注いだ[39]。 「秋津洲」は4月29日に竣工。同時附で秋津洲艤装員事務所を撤去[40]。黛艤装員長は制式に秋津洲初代艦長となる[41]横須賀鎮守府[42]

飛行艇母艦[編集]

飛行艇母艦として行動していた頃は、単艦もしくは「秋風」などの駆逐艦1隻を護衛に伴っての行動が多かった[43]。1942年(昭和17年)8月7日、米軍がガダルカナル島とツラギ諸島に上陸してガダルカナルの戦いが始まると「秋津洲」は不時着機の救助を命じられ、ガダルカナル方面に進出した[44]。8月8日夕刻、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官(海軍中将)が指揮する第八艦隊鳥海青葉加古衣笠古鷹天龍夕張夕凪)と遭遇し、情報を交換した。第八艦隊側は、迷彩を施した本艦を見て敵艦と誤認しかけている[45]。これが前述の「厚化粧」発言につながった。第八艦隊はその夜、第一次ソロモン海戦で大勝利をおさめた。 第二次ソロモン海戦直前の8月22日には、駆逐艦「陽炎」に燃料補給を行った事も記録されている[46]。その後も各地で飛行艇の母艦任務、索敵哨戒等に従事した[47]。また、その艦形を活かして基地設営、物資輸送、魚雷艇の輸送、工作艦任務などにも活躍した[18][48]。 12月3日、秋津洲艦長は高尾儀六大佐[49]に交代(黛は第八艦隊参謀や横須賀海軍砲術学校教頭等を経て、翌年12月1日より重巡洋艦「利根」艦長[50])。

1943年(昭和18年)1月23日[51]、「秋津洲」は峯風型駆逐艦7番艦「羽風」と共にニューアイルランド島カビエン近海で行動中、護衛の「羽風」は米潜水艦の雷撃を受け南緯02度47分 東経150度39分 / 南緯2.783度 東経150.650度 / -2.783; 150.650地点で轟沈した[52]。この潜水艦はガードフィッシュ (USS Guardfish, SS-217) だった。「秋津洲」は羽風生存者約140名を救助した[52]

8月26日、秋津洲艦長は藤牧美穂大佐(7月17日まで給油艦「尻矢」特務艦長)[53]に交代する[54](高尾は11月23日より空母「海鷹」艦長)[55]。 9月中旬、本艦は陸軍兵力の上海からトラック泊地への輸送『丁二号輸送作戦』に参加する[56]。 9月16日、駆逐艦「山雲」と特設巡洋艦「護国丸[57]、特設巡洋艦「清澄丸」(夕雲型駆逐艦巻波」と合流予定)はそれぞれ呉を出発[58]。 同日午後、旗艦「平安丸」(第一潜水戦隊司令官古宇田武郎少将)と「秋津洲」は駆逐艦「」に護衛されて横須賀を出発[59]。20日迄に上海市に到着[60]。丁二号輸送部隊各艦は集結を終えた[61][62]。 9月24日、輸送部隊7隻(平安丸、護国丸、清澄丸、秋津洲、巻波、山雲、響)は上海を出撃する[63]。29日、「響」は燃料補給のためサイパン島へ向かう[64]。 10月2日、丁二号輸送部隊はトラック泊地に到着[65][66]。ラバウルに物資と人員を輸送し、10月9日にトラック帰投[67]。ここに丁二号輸送部隊は編成を解かれ、3隻(護国丸、清澄丸、山雲)は丁四号輸送部隊に編入[68]。第十四戦隊司令官伊藤賢三少将指揮下の第二輸送部隊(那珂五十鈴、清澄丸、護国丸、山雲)としてトラックを出発した[69]。「秋津洲」は横須賀に戻った。

1944年(昭和19年)2月16日、「秋津洲」はトラック島空襲に遭遇、中破状態で日本本土へ帰投した。同時期、帝国海軍は工作艦「明石」(3月31日パラオ大空襲で沈没)や多数の特設工作艦を喪失する[18]。それにともない「秋津洲」も工作艦として投入されることになった[18]

沈没[編集]

9月8日、ヒ75船団の護衛艦(空母神鷹、第30駆逐隊《夕月卯月》、海防艦3隻《三宅、満珠、干珠》)、加入船舶(秋津洲、西貢丸浅間丸、雄鳳丸、良栄丸、日栄丸、万栄丸、あまと丸、東邦丸せりあ丸)は[70]シンガポールを目指して日本本土(門司)を出撃[71][72]。立ち寄った先の伊万里港では、「秋津洲」の内火艇が船舶間の連絡に用いられることになった[73]。 9月12日夕刻に「浅間丸」は台湾基隆市へ向かい[74]、残るヒ75船団は9月13日に高雄市へ到着[75][76]。9月14日、護衛艦3隻(海防艦18号、水雷艇、第28号掃海艇)[75]と油槽船3隻(富士山丸、黒潮丸、大邦丸)を加えて出港する[77]

9月17日、水上機母艦「秋津洲」、特設巡洋艦「西貢丸」、司令澤村成二大佐指揮下の第30駆逐隊(夕月、卯月)はヒ75船団から分離してフィリピンマニラ港へ向かう[78]。夕刻、駆逐艦「秋風」(第30駆逐隊)が合流する[79]。 9月18日午前10時40-50分頃、米潜水艦フラッシャー(USS Flasher, SS-249)の雷撃で「西貢丸」が轟沈[80][81]。第30駆逐隊(夕月、卯月)は対潜掃蕩作戦を行い(19日夕刻マニラ着)[82][83]、本艦は「秋風」と共に退避するも途中で「秋風」を対潜掃蕩へ向かわせた[84]。「秋津洲」は単艦でマニラに先行した。 だが同地は既に米軍機動部隊の脅威にさらされていた[85]。9月21日午後、マニラ湾で出撃準備中だった駆逐艦「皐月」(第30駆逐隊所属)が[86]、米軍機動部隊艦載機の攻撃で沈没する(生存者は給糧艦「伊良湖」等に救助)[87]。「皐月」沈没の直前、第30駆逐隊(卯月、夕月、秋風)は別の船団を護衛してマニラを離れていた[88][89]。 9月24日、「秋津洲」は退避した先のコロン島(コロン湾)で米空母艦載機の攻撃を受け、給糧艦「伊良湖」等と共に撃沈された。

11月10日、軍艦「秋津洲」は水上機母艦から削除[90]。また空母「雲鷹」、潜水母艦「迅鯨」等と共に帝国軍艦籍から除籍された[5]。 「秋津洲」最後の艦長となった藤牧は、12月5日より運送艦(4月19日附で水上機母艦より艦種変更)[91][92]神威」特務艦長となった[93]

現在ではファンダイビングの沈船スポットになっており、海底に沈む船体を観察することができる。

艦歴[編集]

  • 1940年10月29日 川崎重工神戸にて起工。
  • 1941年
    • 6月30日 命名、水上機母艦に類別。
    • 7月25日 進水。
  • 1942年4月29日 竣工、横須賀鎮守府籍。
    • 5月15日 横須賀出港、19日サイパン入港、24日ラバウル入港。
    • 8月8日 三川軍一中将が指揮する第八艦隊と遭遇。
    • 8月16日 ショートランド方面に進出。
    • 12月12日 横須賀入港
  • 1943年1月15日 横須賀出港、22日カビエン入港、24日ラバウル入港。
    • 3月12日 マキン入港。八〇二空所属飛行艇の母艦として従事。
    • 6月6日 イミエジ出港、八〇二空の損傷飛行艇を輸送。
    • 7月6日 ケ号作戦支援のため幌筵島柏原湾に入港、8月29日まで同島で待機[94]
  • 1944年2月17日 トラック島空襲、損傷を受ける。
    • 3月14日 横須賀入港
    • 4月2日 入渠、13日出渠
    • 8月2日-30日 呉で工作艦設備を付与[94][95]。31日佐世保へ回航。
    • 9月5日 佐世保出港、13日高雄入港、18日マニラ入港、22日コロン湾入港。
    • 9月24日 コロン湾にて艦上機の攻撃により戦没。
    • 11月10日 除籍

歴代艦長[編集]

※脚注無き限り『艦長たちの軍艦史』191頁、『日本海軍史』第9巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 岩淵三次 大佐:1941年11月1日[31] - 3月25日[36]
  2. 黛治夫 大佐:1942年3月25日[36] - 4月29日[41]

艦長[編集]

  1. 黛治夫 大佐:1942年4月29日[41] - 12月3日[49]
  2. 高尾儀六 大佐:1942年12月3日[49] - 8月26日[54]
  3. 藤牧美徳 大佐:1943年8月26日[54] - 1944年10月6日[96]

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ #海軍艦艇史3p.252
  2. ^ a b c #達昭和16年6月pp.55-56『達第二百十九號 昭和十五年度及昭和十六年度ニ於テ建造ニ着手ノ水上機母艦一隻、驅潜艇二隻、敷設艇一隻及魚雷艇三隻ニ左ノ通命名ス|昭和十六年六月三十日 海軍大臣及川古志郎|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 水上機母艦 秋津洲(アキツシマ)|株式會社播磨造船所ニ於テ建造 第二十三號驅潜艇|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 第二十六號驅潜艇|三菱重工業株式會社横濱船渠ニ於テ建造 敷設艇 石埼(イシザキ)|株式會社横濱ヨット工作所ニ於テ建造 第一號魚雷艇 第二號魚雷艇 第三號魚雷艇』
  3. ^ a b c #内令昭和16年6月(3)p.32『内令第七百三十四號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十六年六月三十日 海軍大臣 及川古志郎|軍艦、水上機母艦ノ項中「日進」ノ下ニ「、秋津洲」ヲ加フ|驅潜艇、第十三號型ノ項中「第二十二號」ノ下ニ「、第二十三號、第二十六號」ヲ加フ』
  4. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.577
  5. ^ a b #内令(秘)昭和19年11月(2)pp.21-22『内令第一二五四號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 秋津洲 軍艦 迅鯨|呉鎮守府在籍 軍艦 雲鷹|佐世保鎮守府在籍 軍艦 八重山|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 蒼鷹 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 皐月 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(略)|昭和十九年十一月十日 海軍大臣|』
  6. ^ #昭和17年4月~6月 内令 2巻/昭和17年4月(6)画像22『内令第七百五十三號 軍艦 秋津洲 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 昭和十七年四月二十九日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  7. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.565
  8. ^ a b c d #海軍造船技術概要p.1684
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q #海軍造船技術概要pp.767-768
  10. ^ a b c d e #軍艦基本計画資料Sheet22
  11. ^ #内令昭和17年4月(6)画像22『内令第七百五十四號 海軍定員令中左ノ通改正セラル 昭和十七年四月二十九日 海軍大臣 嶋田繁太郎 水上機母艦定員表其ノ五ヲ別表ノ如ク定ム(別表一葉添)』。同画像24、士官19人、特務士官4人、准士官8人、下士官97人、兵210人
  12. ^ a b c d e #写真日本の軍艦第4巻p.168
  13. ^ a b #福井空母物語370頁
  14. ^ a b c 「表C あ号作戦後の対空兵装等強化(昭和19年7月現在)」#福井空母物語p.418、「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」同書p.430
  15. ^ #公式図面p.82「水上機母艦秋津洲平面図」
  16. ^ #昭和造船史1pp.794-795
  17. ^ #矢萩登2009p.104
  18. ^ a b c d e f g #福井空母物語371頁
  19. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.2『軍艦|水上機母艦|能登呂、神威、千歳、千代田、瑞穂、日進、秋津洲』
  20. ^ a b c d e #福井空母物語345-346頁『飛行艇母艦たる水上機母艦』
  21. ^ #聯合艦隊軍艦銘銘伝(普)pp.29-31
  22. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.41『秋津洲(あきつしま) 艦種 巡洋艦二檣(戦闘檣あり) 艦名考 秋津洲は日本國の別稱なり。 艦歴 明治27・8年戦役従軍』
  23. ^ a b c #福井空母物語368頁
  24. ^ a b c d e f #福井空母物語369頁
  25. ^ 生出寿『ライオン艦長黛治夫』58頁
  26. ^ 生出寿『ライオン艦長黛治夫』43-45頁
  27. ^ 生出寿『ライオン艦長黛治夫』47頁
  28. ^ #艦船要目公表範囲(S1706)p.8『瑞鶴|航空母艦|(艦要目略)|川崎重工業會社|13-5-25|14-11-27|16-9-25|(装備略)』
  29. ^ a b #艦船要目公表範囲(S1706)p.22『伊良湖|運送艦|(艦要目略)|川崎重工業會社|15-5-30|16-2-14|16-12-5|(装備略)』
  30. ^ 昭和16年7月25日(金)海軍公報(部内限)第3854号 p.3』 アジア歴史資料センター Ref.C12070396400 『○艦船所在 七月二十五日午前十時【神戸】伊一二一▲(瑞鶴)▲(伊良湖)▲(伊一〇)▲(伊二五)▲(伊三一)▲(伊四一)▲(伊一一)▲』
  31. ^ a b 昭和16年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)第739号 p.23』 アジア歴史資料センター Ref.C13072083000 
  32. ^ 昭和16年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第728号 p.2』 アジア歴史資料センター Ref.C13072082800 
  33. ^ 昭和16年11月18日(土)海軍公報(部内限)第3940号 p.3』 アジア歴史資料センター Ref.C12070398300 『○事務開始 秋津洲艤装員事務所ヲ十一月五日神戸市湊區東川崎町二丁目川崎重工業株式會社内ニ設置シ事務ヲ開始セリ』
  34. ^ 昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.42』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 
  35. ^ 昭和17年2月21日(発令2月20日付)海軍辞令公報(部内限)第815号 p.5』 アジア歴史資料センター Ref.C13072084300 
  36. ^ a b c 昭和17年3月25日(発令3月25日付)海軍辞令公報(部内限)第834号 p.17』 アジア歴史資料センター Ref.C13072084700 
  37. ^ 昭和17年4月20日(発令4月20日付)海軍辞令公報(部内限)第845号 p.11』 アジア歴史資料センター Ref.C13072085200 
  38. ^ #高松宮日記4巻236頁『○大阪「秋津洲」〔行間書込〕一五二五、公試中和田岬沖ニテB-25ヲ見テ砲撃、東ヘ撃攘スト。《輸送キカ》(神経戦ノ目的通リ)。』
  39. ^ #高松宮日記4巻236頁『大阪湾内天女丸一五二八機銃掃射ヲ受ク。(ホントカ、然ラザレバ「秋津洲」ノ弾丸炸裂破片ナラン)(岩国空ノ九六陸攻ガウタレタ、モウ一ツ陸軍ノ「ダグラス」ガ通ツタ、ソレラシイ)』
  40. ^ 昭和17年5月4日(月)海軍公報(部内限)第4081号 p.34』 アジア歴史資料センター Ref.C12070411900 『○事務所撤去 秋津洲艤装員事務所ヲ四月二十九日撤去セリ』
  41. ^ a b c 昭和17年4月30日(発令4月29日付)海軍辞令公報(部内限)第845号 p.53』 アジア歴史資料センター Ref.C13072085200 
  42. ^ #内令昭和17年4月(6)p.22『内令第七百五十三號 軍艦 秋津洲 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 昭和十七年四月二十九日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  43. ^ #第5空襲部隊戦闘詳報第2次ソロモン(2)pp.3-4
  44. ^ #第5空襲部隊戦闘詳報ソロモン海戦間(5)pp.7-11、p.39
  45. ^ 生出寿『ライオン艦長黛治夫』47-48頁
  46. ^ #S1708二水戦日誌(3)p.19
  47. ^ #第5空襲部隊戦闘詳報第2次ソロモン(3)p.27
  48. ^ #第5空襲部隊戦闘詳報第2次ソロモン(4)p.9、pp.14-15
  49. ^ a b c 昭和17年12月3日(発令12月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1004号 p.9』 アジア歴史資料センター Ref.C13072088500 
  50. ^ 昭和18年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1272号 p.49』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094600 
  51. ^ #S1709八艦隊日誌(4)p.37『一月二十二日羽風「ステフェン」海峡ニ於テ雷撃ヲ受ケ沈没』-p.44『羽風|1-23|雷沈没』
  52. ^ a b #高松宮日記5巻496頁『○「羽風」(二四-〇八〇〇)一、「秋津洲」艦長ノ指揮ヲ受ケ先行、対潜掃蕩中、二十三日一六〇二、2°-47.5′S150°-39′ニテ敵潜水艦ノ雷爆二ヲ受ケ(一ハ機械室ニ命中)、船体両断沈没。艦長以下一四三(内一戦死)「秋津洲」ニ収容』
  53. ^ 昭和18年7月19日(発令7月17日付)海軍辞令公報(部内限)第1172号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C13072092200 
  54. ^ a b c 昭和18年8月31日(発令8月26日付)海軍辞令公報(部内限)第1199号 p.24』 アジア歴史資料センター Ref.C13072092600 
  55. ^ 昭和18年11月24日(発令11月23日付)海軍辞令公報(部内限)第1172号 p.38』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094500 
  56. ^ #S1808護国丸(2)p.19『1SS参謀|九月十日一〇三五護國丸清澄丸秋津洲山雲響巻波(GF長官 大海一部長)|1SS機密第〇九一五一五番電發第一潜戰参謀 丁二號輸送ブタノ輸送計畫概要左ノ通ニ付予メ準備アリ度 一.各艦搭載人員数及積荷量(立方米)平安丸一二〇〇 一五〇〇/清澄丸一一〇〇 三五〇〇/護國丸一五〇〇 二二〇〇/秋津洲五〇〇 二〇〇/驅逐艦一〇〇 二〇 二.平安丸秋津洲及響ハ九月十六日横須賀發護國丸及山雲ハ同日呉發清澄丸ハ九月十七日呉發巻波ハ下関海峡西口ニテ清澄丸ニ合同夫々上海ニ回航セシメラルヽ予定 三.上海發後ノ輸送日程約十日』
  57. ^ #S1808護国丸(2)p.4『一六(天候略)〇五三〇呉発護衛艦山雲ト共ニ丁一號輸送任務ノ爲上海ニ回航』
  58. ^ #S1808護国丸(2)p.32『清澄丸艦長(宛略)清澄丸機密第一七〇七〇二番電發清澄丸艦長 上海ニ向ケ呉發』
  59. ^ #S1808護国丸(2)pp.31-32『1SS司令官(宛略)1SS機密第一六一五三〇番電發一潜戰司令官 平安丸秋津洲響上海ニ向ケ横須賀發』
  60. ^ #S1808護国丸(2)p.5『二〇(天候略)一.平安丸響入港』
  61. ^ #S1808護国丸(2)p.34『九月十八日一五四五護國丸艦長緒(宛略)護國丸山雲上海着』
  62. ^ #S1808護国丸(2)p.5『一九(天候略)一.巻波清澄丸入港』
  63. ^ #S1808護国丸(2)p.5『二四(天候略)一.一〇二九トラツクニ向ケ上海発/二.一五三五大戰山沖合假泊/三.二一五五旗艦平安丸假泊地着(略)二.二一五五丁二號輸送部隊大戰山沖假泊地ニ集結完了 艦船番號一.平安丸 二.本艦 三.清澄丸 四.秋津洲 五.巻波 六.山雲 七.響』
  64. ^ #S1808護国丸(2)p.6『十九(天候略)一.〇六〇〇 一三度二〇分北一四一度東響分列サイパンニ向フ』
  65. ^ #S1808護国丸(3)p.3『二|トラック|(天候略)|〇八一二入港用意/一六〇〇出港用意』
  66. ^ #S1806二水戦日誌(4)p.7『巻波 丁二號輸送部隊トシテ二日「トラツク」着即日發五日「ラバウル」着任務終了六日同發九日「トラツク」着十二、十三日大波ト共ニ敵潜掃蕩攻撃十七日以降「ブラウン」大鳥島方面行動大波ニ同ジ爾後「トラツク」ニテ待機』
  67. ^ #S1808護国丸(3)p.6『九(天候略)〇七二〇「トラック」泊地入港』
  68. ^ #S1808護国丸(3)pp.17-18『GF長官(宛略)GF機密第〇五一七二〇番電 GF電令作第七三八番號 一.左ニ依リ丁四號輸送部隊ヲ編成GF附属ニ編入 (イ)指揮官第十四戰隊司令官/(ロ)兵力 第十四戰隊木曾多摩栗田丸日枝丸4dg(野分舞風)(以上十月五日)護國丸山雲(以上丁二號輸送部隊PT帰着時)/二.丁四號輸送部隊指揮官ハ十月中旬上海發南東方面転進ノ十七師團第二次輸送ニ任ズベシ』
  69. ^ #S1804十四戦隊日誌(3)p.26『一一(天候略)第二次輸送隊(第十四戰隊清澄丸護国丸山雲)〇五〇〇上海ニ向ケPT発/第一輸送隊(多摩木曾)一〇四五呉淞着』
  70. ^ #S1906第30駆日誌(2)pp.64-65『一九.七.一一半晴一〇三〇|ヒ七五船團(船團十一隻護衛艦神鷹夕月卯月満珠干珠三宅)第八護衛船團司令官指揮ノ下ニ九月八日門司発昭南ニ向ケ航行中(速力十二節之字運動T法實施)神鷹発進ノ直衛機三〇〇〇度方向ニ敵潜発見』
  71. ^ #海防艦三宅戦記96頁
  72. ^ #S1906第30駆日誌(1)p.10『九月八|航海中|ヒ七五船團護衛門司發伊万里着』
  73. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.19『八日一四一五第八船團司令官(干珠)|船團|信令第二號 一.秋津洲ハ伊萬里入港後内火艇二隻ヲ以テ船團廻リ便ヲ出スベシ/二.打合セ其ノ他用事アル輸送船ハ右内火艇ヲ利用スベシ』
  74. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.6『一二(天候略)一七四〇淺間丸ヲ分離ス』
  75. ^ a b #海防艦三宅戦記101頁
  76. ^ #S1906第30駆日誌(1)p.10『九月十三|航海中|ヒ七五船團護衛高雄入港』
  77. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.22『十二日一二二〇運航指揮官(雄鳳丸)|船團|第二警戒航行隊形ヲ左ノ通リ定ム/左側列第一第二分團神鷹右側列第三四分團/日榮丸新加入船(黒潮丸富士山丸大邦丸)ヲ第四分團トス』
  78. ^ #S1906第30駆日誌(1)p.11『九月十七|航海中|ヒ七五船團ト分離西貢丸船団護衛「マニラ」ニ向フ』
  79. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.8『一七(天候略)一〇二二船團ト分離西貢丸船團護衛「マニラ」ニ向フ/一六四五秋風合同ス』
  80. ^ #S1906第30駆日誌(1)p.11『九月十八|航海中|一〇四八西貢丸敵潜ノ雷撃ヲ受ケ轟沈爾後掃蕩スルモ手懸ナシ』
  81. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.8『一八(天候略)一〇四八西貢丸雷撃ヲ受ケ轟沈ス配置ニ就ク』
  82. ^ #S1906第30駆日誌(1)p.11『九月十九|マニラ|一六〇〇掃蕩ヲ止メ「マニラ」入港「キャビテ」繋留』
  83. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.9『一九(天候略)一四一五掃蕩ヲ止メ「マニラ」ニ向フ/一八一〇「マニラ」着「カナカオ」岸壁ニ横付ス(略)一六三五秋風司令旗ヲ掲グ』
  84. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.18『十八日一二四七秋津洲(司令官)3KF(卯月夕月)|一三四〇秋風本艦護衛ヲ止メ西貢丸遭難現場ニ急行セシム』
  85. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.32『二十一日一一二三大海参一部長|〇九三〇菲島東方海面敵機動部隊アリ』
  86. ^ #S1906第30駆日誌(1)p.17『(一)任務企図 九月二十日二二〇〇「マニラ」湾ニ到着ヲ以テ神威船團護衛任務終了三十駆機密第 番電ニ依リ本艦特別任務ノ有無ニ関シ南西方面艦隊司令部ト連絡ノ上至急燃料補給後同月二十一日午後同地發二十一日早朝「マニラ」發ノ第三十駆逐隊ニ合同セントス』
  87. ^ #S1906第30駆日誌(1)p.23『一七三〇頃|大發一隻現場ニ急行シ來ル日没迄ニ生存者全部ハ根拠地隊派遣艇(大發一隻)並ニ伊良湖其他ノ船ニ救助セラル』
  88. ^ #S1906第30駆日誌(1)p.11『九月二一|航海中|マタ二七A船団護衛高雄ニ向ケ假泊地出撃 敵機動部隊艦載機ヲ発見、安土丸分離』
  89. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.9『二一(天候略)〇五五四マタ二七A船團ヲ護衛高雄ニ向ケ「マニラ」發/〇九四〇「マニラ」逐空襲警報(以下略)』
  90. ^ #内令(秘)昭和19年11月(2)pp.21-22『内令第一二四七號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十九年十一月十日 海軍大臣|軍艦、航空母艦大鷹型ノ項中「雲鷹、」ヲ、同水上機母艦ノ項中「、秋津洲」ヲ、同潜水母艦ノ項中「迅鯨、」ヲ、敷設艦ノ項中「、八重山」「、蒼鷹」ヲ削ル 驅逐艦、一等卯月型ノ項中「、皐月」ヲ削ル(略)』
  91. ^ #内令昭和19年4月(1)p.32『内令第五百四十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年四月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、水上機母艦ノ項中「、神威」ヲ削ル|潜水艦、一等伊十七型ノ項中「、伊號第三十」ヲ、第伊百七十六型ノ項中「、伊號第百七十九」ヲ削ル』
  92. ^ #内令昭和19年4月(1)pp.32-33『内令第五百四十九號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年四月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|運送艦ノ部中隠戸型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | |神威』
  93. ^ 昭和19年10月14日(発令10月6日付)海軍辞令公報(甲)第1619号 p.49』 アジア歴史資料センター Ref.C13072101500 
  94. ^ a b 丸スペシャル(1979年)、p. 24。
  95. ^ 丸スペシャル(1979年)、p. 38。
  96. ^ 昭和19年10月14日(発令10月6日付)海軍辞令公報(甲)第1619号 p.49』 アジア歴史資料センター Ref.C13072101500 

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)
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    • 『昭和16年5月~8月内令2巻/昭和16年6月(3)』。Ref.C12070151800。
    • 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年4月(6)』。Ref.C12070162600。
    • 『昭和19年1~7月内令/昭和19年4月(1)』。Ref.C12070196500。
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    • 『基地航空第5空襲部隊戦闘詳報 ソロモン海戦 第2次ソロモン海戦 昭和17年8月~17年9月(2)』。Ref.C13120132800。
    • 『基地航空第5空襲部隊戦闘詳報 ソロモン海戦 第2次ソロモン海戦 昭和17年8月~17年9月(3)』。Ref.C13120132900。
    • 『基地航空第5空襲部隊戦闘詳報 ソロモン海戦 第2次ソロモン海戦 昭和17年8月~17年9月(4)』。Ref.C13120133300。
    • 『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030095800。
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    • 『昭和18年8月1日~昭和18年11月30日 特設巡洋艦護国丸戦時日誌 南海守備隊輸送 丁2.4号輸送(3)』。Ref.C08030654100。
    • 『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030052400。
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  • 『海軍造船技術概要』 牧野茂福井静夫/編、今日の話題社、1987年5月ISBN 4-87565-205-4
  • 写真日本の軍艦 第4巻 空母II』 雑誌『』編集部/編、光人社、1989年10月ISBN 4-7698-0454-7
  • 矢萩登/解説「水上機母艦秋津洲公式図面」、『ネイビーヤード』第10巻、大日本絵画、2009年3月31日、 82-84頁。
  • 矢萩登「帝国海軍水上機母艦 秋津洲」、『ネイビーヤード』第10巻、大日本絵画、2009年3月31日、 97-104頁。

関連項目[編集]