利根 (重巡洋艦)

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利根
1942年頃
1942年頃
基本情報
建造所 三菱重工業長崎造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 重巡洋艦
級名 利根型重巡洋艦
艦歴
発注 昭和9年度(マル2計画
起工 1934年12月1日
進水 1937年11月21日
就役 1938年11月20日
最後 1945年7月28日艦載機の攻撃で大破着底、戦後解体
除籍 1945年11月20日
要目
基準排水量 11,213トン
公試排水量 13,320トン
全長 201.6 m
最大幅 19.4 m
吃水 6.23 m (公試)
主缶 ロ号艦本式缶8基
主機 艦本式タービン4基4軸
出力 152,189馬力 (公試成績)
最大速力 35.55ノット (公試成績)
燃料 2,700トン(実測値)
航続距離 18ノットで9,240海里(公試成績)
乗員 竣工時定員869名[1]
兵装 竣工時
20.3cm連装砲4基8門
40口径12.7cm連装高角砲4基8門
25mm連装機銃6基12挺
13mm連装機銃2基4挺
61cm3連装魚雷発射管4基12門
1945年
20.3cm連装砲4基8門
40口径12.7cm連装高角砲4基8門
25mm三連装機銃14基42挺
25mm連装機銃2基4挺
25mm単装機銃21挺
(機銃は推定)
61cm3連装魚雷発射管4基12門
装甲 舷側:145mm 甲板:35mm
搭載機 水上機6機 (カタパルト2基)
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利根(とね)は、大日本帝国海軍重巡洋艦利根型重巡洋艦(二等巡洋艦利根型)の1番艦[2]。その艦名は二等巡洋艦の命名慣例に従い、関東地方を流れる利根川からちなんで名づけられた[3]。この名を持つ帝国海軍の艦船としては4隻目[4]。艦前部に主砲塔4基を集中し後部を飛行機発進甲板・水上偵察機待機所とした[5]、第二次世界大戦当時としては珍しい艦型である。艦内神社香取神宮である。艦名は海上自衛隊あぶくま型護衛艦とね」に継承された。

概要[編集]

重巡洋艦であるにもかかわらず河川名が付けられた理由は最上型重巡洋艦(当初は軽巡洋艦であり、改装後も書類上は二等巡洋艦)5番艦として計画されたためである[6]。後に再設計により重巡洋艦となるが艦名はそのまま使用された[7]

最初の計画では、最上型と同じ15.5cm砲を装備するいわゆる条約型として1934年(昭和9年)12月1日に起工した[8][9]。諸外国に通知した時の数値は、基準排水量8,636トン、水線全長187.21mである[8]。しかし友鶴事件第四艦隊事件の教訓によって計画を変更した。20.3cm主砲2連装4基8門を艦首に集中配置することによって艦尾を空け、水上偵察機搭載能力を増した独特のシルエットを持つ1万t級の重巡洋艦として就役する。艦橋が中央部にあるため、舵を取る時の感度は抜群で操艦しやすい艦だったと伝えられている[10]

艦歴[編集]

開戦前[編集]

マル2計画(第二次補充計画)にもとづく利根型2隻(利根、筑摩)はいずれも三菱重工業長崎造船所にて[11]、ほぼ同時に建造された[9][12]1934年(昭和9年)12月1日、日本海軍は三菱重工業長崎造船所で建造の巡洋艦を利根と命名[13]艦艇類別等級表に『利根型』が新設される[14]。本艦は同日附で起工[9][11]

1935年(昭和10年)10月1日、利根型2番艦筑摩が三菱長崎造船所で起工[12]

1937年(昭和12年)11月21日、利根は進水した[9][15][11]。 同年11月21日、日本海軍は龍崎留吉大佐(潜水母艦長鯨艦長)を利根艤装員長に任命した(後任の長鯨艦長は鵜池六蔵大佐)[16]。 利根艤装員事務所を設置し、11月26日より事務を開始する[17]

1938年(昭和13年)3月19日、三菱長崎造船所で筑摩が進水した[18][19]。筑摩進水後の3月29日[20]、三菱長崎造船所で大和型戦艦2番艦武蔵の建造が始まった[21]。 5月18日、利根艤装員長龍崎留吉大佐は筑摩艤装員長を命じられ、利根型2隻(利根、筑摩)艤装員長を兼務する[22]。 11月1日、龍崎留吉大佐(利根・筑摩艤装員長)は敷島型戦艦2番艦(工作艦)朝日特務艦長を命じられる[23]妙高型重巡洋艦4番艦羽黒艦長友成佐市郎大佐が羽黒艦長と筑摩艤装員長を兼務[23]。利根艤装員長には軍令部課長原鼎三大佐が補職された[23]

11月20日、利根は竣工した[9]横須賀鎮守府[24]。同日附で利根艤装員事務所を撤去[25]。原艤装員長も制式に利根艦長(初代)となる[26]。初代主要幹部は、副長山高松次郎中佐、運用長植田松太郎少佐、砲術長根岸實少佐、航海長門田一治少佐、水雷長矢野寛二少佐、分隊長小川正夫中尉、機関長森本芳夫機関中佐[26]

1939年(昭和14年)5月20日、利根型2番艦筑摩が竣工[12]。同日附で日本海軍は最上型巡洋艦で編制されていた第七戦隊を解隊[27]。第七戦隊司令官清水光美少将は利根型2隻(利根、筑摩)で新編された第六戦隊司令官に補職される[28][24]。 清水司令官は第六戦隊旗艦を「利根」に指定した[29]。 7月下旬、第六戦隊(利根、筑摩)は舞鶴港に初入港[30]。舞鶴に帰港するときは、艦載機を栗田水上機基地に預けることになった[30]。 10月20日、西尾秀彦大佐(筑摩艦長)が呉鎮守府附となり(11月15日附で呉海軍工廠総務部長)、原大佐(利根艦長)は筑摩艦長も兼務する[31][32]

11月15日、第六戦隊は古鷹型重巡洋艦青葉型重巡洋艦で再編され、第六戦隊司令官清水光美少将は軍令部出仕(後任の第六戦隊司令官は田結穣少将)[32]。旧第八戦隊も解散[33]。利根型2隻(利根、筑摩)は第八戦隊を新編した[24]。第八戦隊司令官は後藤英次少将(前職第二水雷戦隊司令官)[32][34]。 第八戦隊旗艦は利根に指定[35]。 また艦長人事も行われ、原大佐(利根艦長、筑摩艦長)は扶桑型戦艦2番艦山城艦長へ転任(後日、上海方面根拠地隊参謀長)[32][36]。海軍人事局第一課長大西新蔵大佐が利根艦長に、旅順要港部参謀長橋本信太郎大佐が筑摩艦長に、それぞれ任命される[32]。原大佐は11月20日をもって退艦した[37]。 12月1日、利根型2隻(利根、筑摩)は舞鶴鎮守府に転籍する[24]。利根型2隻(利根、筑摩)は舞鶴市民にとって親しみのある軍艦となった[30]。『舞鶴戦艦、利根、筑摩』の俗称もあったという[38]。同時期、高松宮宣仁親王(海軍少佐、昭和天皇弟宮)が利根砲術長として着任する予定だったが[32]、親王急病のため実現していない[39]

1940年(昭和15年)9月17日、利根は呉を出撃して21日、海南島三亜港に到着した[40]。翌日、IC作戦が発動され、本艦は高雄型重巡洋艦3番艦「鳥海」、第二航空戦隊蒼龍飛龍)、第一駆逐隊、第四駆逐隊、舞鶴第一特別陸戦隊、神川丸と共に北部仏印進駐の支援を行った[41]。第八戦隊は船団護衛、上空哨戒任務に従事し、この任務が利根型2隻(利根、筑摩)最初の作戦行動となった。9月29日に帰還命令が下り[42]、10月6日に日本へ戻った[24]

同年10月11日の紀元二千六百年記念行事では、第七戦隊・第八戦隊各艦と共に、連合艦隊主力艦が一堂に会した観艦式に参加する[43][44]。 10月15日、大西新蔵大佐(利根艦長)は長門型戦艦1番艦長門艦長[36]に補職(大西は長門艦長を経て、第七潜水戦隊司令官[45]第八艦隊参謀長[46]等を歴任)。第四艦隊参謀西田正雄大佐が、後任の利根艦長となる[36]。 11月28日、第八戦隊司令官は後藤英次少将から海軍省人事局長伊藤整一少将に交代[47]。 12月、航空機定数が三座水偵(零式水上偵察機)1機、二座水偵(九五式水上偵察機)3機に変更された[48]。第八戦隊旗艦は一時筑摩になる[49]

1941年(昭和16年)4月10日、海軍大学校長南雲忠一中将は新編の第一航空艦隊に任命[50]。第八戦隊司令官伊藤整一少将は連合艦隊参謀長(第一艦隊参謀長兼務)へ栄転[50][51]。軍令部第一部長宇垣纏少将が第八戦隊司令官に補職される[50]。 宇垣は利根に将旗を掲げた[52]。わずか3ヶ月間の勤務であったが、宇垣にとって『餘が最も眞劍に且最も愉快に指揮統率せし戦隊』であり、利根型2隻(利根、筑摩)が真珠湾攻撃から帰還した際には『よくぞ偉勲を奏して目出度帰着せる子供の凱旋を迎ふる親心なるべし』と喜んでいる[53]。 8月1日、第八戦隊司令官宇垣纏少将は伊藤の後任として連合艦隊参謀長(第一艦隊参謀長兼務)へ転任[54]。第八戦隊司令官は阿部弘毅少将に替わる[54]

9月1日よりドック入りして補修点検を行った[24]。9月10日、利根艦長西田正雄大佐は金剛型戦艦2番艦比叡艦長へ転任(第三次ソロモン海戦で比叡沈没後、予備役編入)[55][56]。軍令部艦長岡田為次大佐が利根艦長に任命される[55]。9月12日、利根水雷長畑野健二少佐は睦月型駆逐艦1番艦睦月艦長へ転任(同艦沈没後、駆逐艦萩風霜月艦長等を歴任)[57]竹内仁司大尉が利根水雷長となる[58]。 利根は9月22日に舞鶴を出港[24]、9月26日に宿毛湾へ入った[59]。水偵隊は遠距離索敵や夜間緩降下爆撃の訓練に従事する[60]

10月25日、第八戦隊(利根、筑摩)は第一特別行動部隊に編入され、第一航空艦隊と行動を共にすることになった。11月3日、有明湾に集合すると、司令官や艦長は南雲忠一中将が座乗する旗艦・空母赤城で頻繁に打ち合わせをおこなっている[61]。11月10-13日、呉軍港で燃料補給、弾薬補給を行い、搭乗員は太平洋全域の地図を受け取った[62]。11月14日、呉を出港して佐伯湾に入港すると、17日には長門艦上で山本五十六連合艦隊司令長官が機動部隊幹部将校を前に指示を行っている[63]。18日、佐伯湾を出港[24]。外洋航海中の11月20日午前10時、全乗組員が第一種軍装を着用して上甲板に整列する中、艦長は南雲機動部隊がハワイとアメリカ軍太平洋艦隊を奇襲する真珠湾攻撃を行うことを告げた[64]。翌日、単冠湾に入港、乗組員はタラバガニを釣って英気を養う[65]。11月26日、第八戦隊(利根、筑摩)は南雲機動部隊の1艦として太平洋に出撃した[66]

太平洋戦争緒戦[編集]

日本時間1941年(昭和16年)12月8日午前0時、利根艦長は艦内神社に参拝[67]。午前1時、利根1号機(零式水上偵察機)が本艦を発進し、淵田美津雄総飛行隊長率いる空襲部隊より一足先に真珠湾へ向かった[68]。姉妹艦筑摩からも索敵機が発進しており、利根機と筑摩機は第一次攻撃隊より1時間前にハワイ上空に潜入し気象や湾内の状況を報告した。午前1時30分、空母6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴)より攻撃隊183機が発進、午前2時、利根2号機が所在不明の米空母を捜索し、午前5時30分に帰投した[68]。利根1号機は、戦艦霧島のマストを超える飛沫があがるほど荒れた海への着水に失敗し、転覆して失われた[69]

南雲機動部隊は日本への帰路についたが、ウェーク島では島を守る少数のアメリカ軍の海兵隊によって、上陸作戦を決行した南洋部隊(指揮官:第四艦隊司令長官井上成美中将)が撃退された。ウェーク島第一次攻略作戦の失敗により南雲機動部隊に支援命令があり、第八戦隊司令官阿部弘毅少将指揮下の第八戦隊(利根、筑摩)は、第二航空戦隊司令官山口多聞少将指揮下の空母2隻(蒼龍飛龍)、第17駆逐隊第1小隊(谷風浦風)と共にウェーク島へ向かった。 12月21日から始まったウェーク島第二次攻略作戦では、利根・筑摩の水偵が周辺索敵と対潜哨戒のため発進する[70]。日本軍は島に航空機地下格納庫があると推測し、陸戦隊により完全占領するしかないと考えていた[70]。23日、日本軍はウェーク島の占領に成功する[71]。任務を終えた第八戦隊は12月29日、呉に入港した[72][24]

1942年(昭和17年)1月9日、南太平洋における日本軍の作戦拠点を獲得すべく南雲機動部隊(赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴)は出撃、第八戦隊(利根、筑摩)も随伴して日本を出撃した[73]。1月15日トラック入港、17日に出港してラバウルへ向かう[74]。1月23日、利根水上偵察機部隊がブーゲンビル島北方のブカ島を爆撃した[75][76]。高橋の著作では「零式水偵1機、九五水偵3機」だが、戦闘詳報では「三座水偵2機、二座水偵1機」となっている。1月24-25日には、第八戦隊(利根、筑摩)と軽巡洋艦阿武隈が南雲機動部隊より分離し、水偵隊がアドミラルティ諸島を爆撃する[77][78][76]。ビスマルク諸島攻略の終了によって、1月27日トラック泊地に戻った[79][78]

2月1日、マーシャル諸島に空母2隻を含むアメリカ軍機動部隊出現の報告を受けて出撃するが会敵せず[79][80]、南雲機動部隊は南洋艦隊に編入されて蘭印作戦の支援に向かった[81][80]。2月8日、パラオ泊地に到着し、第四戦隊(愛宕高雄摩耶)等と合流する[82]。2月15日、パラオを出港して南下し、オーストラリアへ向かう。2月19日、南雲機動部隊によるポート・ダーウィン空襲を支援、空襲中に利根2号機が特設巡洋艦ヘクターを発見して日本軍攻撃隊を誘導、撃沈に貢献した[83][84]。2月21日、セレベス島スターリング湾に入港した[83][85]

2月25日、スターリング湾を出港し[83]クリスマス島近海で行動する[86]。3月1日、南雲機動部隊はアメリカ海軍駆逐艦エドサル(USS Edsall, DD-219)と遭遇、第八戦隊(利根、筑摩)は第三戦隊(比叡、霧島)と共に追跡したが「軽快艦艇に対する射撃は遠距離に於いては命中率不良にして意外に多量の弾丸を消費す」と述べるように、なかなかエドサルを撃沈できなかった[87][88]。そこで日本空母から九九式艦上爆撃機が発進、爆撃で航行不能になったエドサルに砲撃で止めをさした[89][90]。 続いて3月3日、利根水偵搭乗員の高橋によれば、利根は商船を発見し砲撃で撃沈したと述べている[89][91]。なお、南雲中将司令部付の信号兵だった橋本廣(兵曹)によれば、商船モッドヨカードを攻撃した際に筑摩の砲撃が空母赤城(旗艦)の艦上を通過し、南雲中将が第八戦隊を叱責したと証言している[92]。このエピソードも戦闘詳報によれば、駆逐艦磯風・不知火・夕暮・有明による撃沈である。3月11日、スターリング湾に戻った[93][91]

3月26日、セイロン島攻撃命令を受けてスターリング湾を出港し、オンバイ海峡を通過してインド洋に進出、スンバ島南方を西進した[93][94]。4月、イギリス軍東洋艦隊の進出にともなってセイロン沖海戦が発生し、南雲機動部隊は大きな戦果をあげた。4月5日午後1時、利根の九四式水上偵察機がイギリスの重巡洋艦ドーセットシャーコーンウォールを発見した[95]。だが九四水偵は燃料不足のため触接を断念した[95]。午後2時55分、零式水上偵察機(利根1号機)がイギリス軍重巡洋艦を再発見し、艦爆隊を誘導した[95][96]。ドーセットシャーとコーンウォールの2隻は攻撃開始からわずか17分で沈没したという。4月9日、南雲機動部隊はイギリスの空母ハーミーズを撃沈するなどの戦果をあげたが、利根・赤城はウェリントン爆撃機(戦闘詳報や著作によってはブリストル ブレニム)の奇襲を受けている[97]。 第八戦隊は南方作戦の終了にともなって日本本土に戻り、4月23日に舞鶴[24][98]。舞鶴海軍工廠で各部の修理を行う[99][100][101]。5月16日、舞鶴出港[24]。翌日、柱島泊地に集合する[102]

アメリカ軍機動部隊との激戦[編集]

1942年8月24日 B-17より撮影 回避行動中の利根
特設運送船(給油) 『國洋丸』 から洋上補給中
1945年7月24日 停泊中の空襲
大破着底

1942年(昭和17年)6月上旬、第八戦隊は第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将の指揮下、南雲機動部隊(第一航空戦隊《赤城、加賀》、第二航空戦隊《飛龍、蒼龍》、第三戦隊第2小隊《榛名、霧島》、第八戦隊《利根、筑摩》、第十戦隊《長良谷風浦風浜風磯風風雲夕雲巻雲秋雲〔燃料補給部隊護衛〕、野分萩風舞風》)としてミッドウェー海戦に参加する[103]。この時、利根(利根飛行長、武田春生大尉)のカタパルトが故障し利根4号機(甘利一飛曹、大熊一等飛行兵)の発進が30分遅れ日本海軍敗北の一因となったとする文献がある[104]。 後年の研究では、筑摩1号機(黒田信大尉《旧姓都間。海兵66期》搭乗)は米軍機動部隊の上空を飛んでいたが、雲量のため発見できなかった(第一次攻撃隊隊長友永丈市大尉が「第二攻撃の要ありと認む」を発信する前)[104]。また利根4号機の発進が遅れたからこそアメリカ艦隊を発見できたのであり、定時に発進していたらかえって発見できなかった可能性が高いと言われている[105]。また土井美二中佐(当時の第八戦隊参謀。利根座乗)は利根4号機のコンパスが狂っており、このためアメリカ艦隊を発見できた可能性を指摘している[105]。後日、甘粕少尉は夜間索敵に出撃して戦死した(1945年5月13日)[106]。 ミッドウェー海戦後にアリューシャン作戦を支援した。6月24日、内地(大湊)に帰投した[24]

7月14日、南雲中将は第三艦隊司令長官に補職[107]。第八戦隊司令官阿部弘毅少将は金剛型戦艦2隻(比叡《艦長西田正雄大佐》、霧島《艦長岩淵三次大佐》)で新編された第十一戦隊司令官に任命[107]。解隊された第五航空戦隊の司令官原忠一少将が、阿部少将の後任として第八戦隊司令官となる[46]。 利根艦長も岡田為次大佐から装甲巡洋艦八雲艦長兄部勇次大佐[46]に交代する(岡田は7月20日より空母隼鷹艦長[108]。翌年2月、空母翔鶴艦長[109]等を歴任)。 また利根二代目艦長大西新蔵少将は第八艦隊参謀長に補職された[46]

北方作戦支援を終えた第八戦隊(利根、筑摩)は桂島泊地を経て舞鶴に回航され、7月16日帰港[24][110]。同地では軽巡那珂(クリスマス島攻略戦で大破)や駆逐艦複数隻(大潮薄雲)等と共に、修理と整備に従事する[111][112]。この時利根の右舷前機タービンに故障が見つかり、応急措置を行った結果、合計出力は152000馬力から148500馬力に減少した[99]

8月6日、第八戦隊(利根、筑摩)は舞鶴を出発[24][113]。その後、ガダルカナル島の戦い生起にともないソロモン諸島方面へ進出[114]第二次ソロモン海戦南太平洋海戦に参加した。 第二次ソロモン海戦では、分遣隊(空母《龍驤》、第八戦隊《利根》、第16駆逐隊《天津風時津風》)として参加、利根甲板の水上偵察機より偽電を発信した[114]。その後、8月24日の対空戦闘に参加、龍驤の沈没に遭遇した[115][114]。 南太平洋海戦では第十一戦隊司令官阿部弘毅少将が指揮する機動部隊前衛部隊(戦艦《比叡霧島》、重巡《筑摩、利根、鈴谷》、軽巡《長良》、駆逐艦《谷風浦風磯風秋雲風雲巻雲夕雲》)として行動。本海戦で筑摩(艦長古村啓蔵大佐)が大破、内地に回航され[116][117]、修理と整備に従事する[118]

昭和18年の行動[編集]

1943年(昭和18年)2月15日、第三戦隊司令官栗田健男中将が指揮する内地回航部隊は[119]、第三戦隊(金剛、榛名)、空母2隻(隼鷹冲鷹)、水上機母艦日進、重巡2隻(鳥海利根)、駆逐艦5隻(時雨大波黒潮陽炎)という編制でトラック泊地を出港し内地へ向かう[120][121]。 だが悪天候のため航空隊を収容できなかった3隻(隼鷹、陽炎、黒潮)のみトラックへ引き返した[122][123]。 2隻(利根、日進)は舞鶴に帰投(利根は21日着、日進は24日着)[24][124][125]。 同地で入渠各艦(那珂、龍田、霞、不知火、初春、日進、太刀風、刈萱)等と共に修理と整備に従事する[126][127][128]。 3月15日、第八戦隊司令官は原忠一中将から岸福治少将(前職第九戦隊司令官)に交代[129]。翌日、利根は舞鶴を出発し[130][24]、修理を終えた筑摩と合流する。

3月22日、第二航空戦隊司令官角田覚治少将指揮のもと[131]、空母2隻(隼鷹飛鷹)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻(夕暮陽炎初月涼月)は内地を出発、3月27日[24]にトラックへ到着した[132][133]

4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、宇垣纏連合艦隊参謀長(元第八戦隊司令官)が負傷する海軍甲事件が起きた[134]。後任の連合艦隊長官古賀峯一大将の指揮下[135]、山本の遺骨を乗せた大和型戦艦2番艦武蔵(連合艦隊旗艦)が内地に帰投する[136]。 5月17日、戦艦3隻(武蔵金剛榛名)、空母飛鷹、重巡2隻(利根、筑摩)、駆逐艦5隻(第24駆逐隊《海風》、第27駆逐隊《有明時雨》、第61駆逐隊《初月涼月》)はトラック泊地を出発[137][138]。5月22日、横須賀帰着(武蔵のみ木更津冲入泊)[139][140]。 各艦はアッツ島の戦いにより北方作戦に備えたが[141]、同島守備隊は5月29日に玉砕した。

6月30日、アメリカ軍はニュージョージア諸島レンドバ島に上陸を開始、つづいてニュージョージア島にも上陸を敢行し、ニュージョージア島の戦いが始まった。 7月8日、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将指揮下の空母4隻(瑞鶴翔鶴瑞鳳冲鷹)、水上機母艦日進、重巡3隻(利根筑摩最上)、軽巡洋艦2隻(大淀阿賀野)、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《萩風》、第17駆逐隊《磯風》、第61駆逐隊《涼月初月》、夕雲型《玉波》)は内地を出撃[142][143]。7月15日、トラック泊地に到着[24][144]。 続いて第八戦隊司令官岸福治少将指揮下の巡洋艦部隊(利根、筑摩、最上、大淀)及び第十戦隊(阿賀野、磯風、嵐、萩風、初月、涼月)はラバウルに進出[145]、利根は嵐、筑摩は萩風、大淀は磯風に接舷しそれぞれ補給を実施した[146]。準備完了後、第十戦隊司令官大杉守一少将(萩風座乗)指揮下の4隻(水上機母艦《日進》、不知火型3隻《萩風、嵐、磯風》)はラバウルを出撃、ブーゲンビル島ブインへと向かうが、ブイン直前でアメリカ軍機70機以上の攻撃を受け日進が沈没した。 このあと、第4駆逐隊(萩風、嵐)のみソロモン諸島に残ることになった[147]。他艦(利根、筑摩、最上、阿賀野、大淀、磯風、涼月、初月)はトラックへ帰投した[147][24]。以後は主に中部太平洋で行動した。

10月16日、利根の機関室タービンに故障が見つかり[148]、第八戦隊旗艦を筑摩に移した。利根はトラック泊地で応急修理をおこなったものの、10月28日に再調査したところ別の機械にも破損を発見した[149]。ここに至り前線での修理は不可能と判断され、第十一水雷戦隊司令官木村進少将指揮のもと、10月31日に日本・呉工廠へ向け出発した[149][24]。 戦艦2隻(伊勢山城)、空母2隻(隼鷹雲鷹)、巡洋艦2隻(利根、龍田)、護衛駆逐艦(第24駆逐隊《海風涼風》、第17駆逐隊《谷風》、第7駆逐隊《》)という編制である[150][151]。 しかし11月5日朝、隼鷹が日本近海でアメリカの潜水艦ハリバットから雷撃され、魚雷1本を艦尾に被雷して直進不能となった[152]。このため、利根は隼鷹を曳航[153][154]、11月6日呉に到着した[24][155]

12月1日、利根艦長兄部勇次大佐は第一艦隊附となり退艦(12月15日より戦艦長門艦長)[156][157]。重巡古鷹副長[32][36]、戦艦大和副長[158]、水上機母艦秋津洲艦長[159][160]等を歴任した黛治夫大佐(当時、海軍砲術学校教頭)が[161]、兄部の後任として利根艦長に任命される(着任12月4日)[162][163]。 利根修理は12月14日に完了した[164]。12月23日-24日、陸軍部隊を輸送するため、第五戦隊司令官橋本信太郎少将の指揮下で呉を出港[24][165]。 戊二号輸送部隊の編制は5隻(重巡3隻《妙高羽黒、利根》、駆逐艦2隻《時雨白露》)だったが[166][167]、時雨(第27駆逐隊司令原為一大佐)が漁船と衝突し、修理のため引き返した[168][169]。 12月29日[170]夕雲型駆逐艦11番艦藤波を加えた戊二号輸送部隊はトラック泊地に到着する[171][172]

昭和19年の行動[編集]

1944年(昭和19年)1月1日、第八戦隊は解隊(八戦隊司令官岸福治中将は軍令部出仕)[173]。この再編により利根型重巡2隻(利根、筑摩)は第七戦隊に編入される[174][175]。当時の第七戦隊司令官は西村祥治中将[176]。隊番号は、1番艦熊野、2番艦鈴谷、3番艦利根、4番艦筑摩[177]。ただし、利根・筑摩は臨時に第五戦隊司令官橋本信太郎少将の指揮下に入り、カビエンニューアイルランド島)への輸送任務をおこなう[178][179]。 1月2日、戊号二号輸送部隊(重巡《妙高、羽黒、利根》、駆逐艦《白露、藤波》)はトラック泊地を出撃[180][181]。4日にカビエンに到着[182][183]。同部隊は第22駆逐隊(文月皐月)の支援を受けていた[184]。米軍機動部隊艦載機約80機は利根以下戊二号輸送部隊を発見できず、第22駆逐隊(皐月、文月)を襲撃[185]。両艦とも損傷、皐月艦長の飯野忠男少佐も戦死した[185]。 1月5日、戊二号輸送部隊は被害なくトラック泊地に戻った[179][186]

1月25日附で利根は『敷島部隊』に編入され[187][188]、2月1日、トラック泊地出撃[189]。2月3日(4日とも)、パラオ入港[190]。16日、パラオを出発[191][24]シンガポールに向け移動し、21日にリンガ泊地到着[192][24]。利根型2隻(利根、筑摩)は南西方面艦隊(司令長官高須四郎中将)の指揮下に入り、27日にリンガ泊地を出撃[193][194]スマトラ島南東方のバンカ泊地へ移動、第十六戦隊旗艦の青葉型重巡洋艦1番艦青葉で『サ作戦』の打ち合わせを行う[195][196]

1944年 (昭和19年) 3月2日、第七戦隊(利根、筑摩)は南西方面艦隊麾下の第十六戦隊司令官左近允尚正少将(青葉座乗)指揮下でバンカ泊地を出撃[197][198]。重巡3隻(青葉、利根、筑摩)、軽巡2隻(大井鬼怒[199]、駆逐艦数隻(敷波浦波天霧)等でインド洋方面通商破壊作戦(サ号作戦)に従事する[200][201]。 日本軍の船舶不足を補うため、連合国軍の商船を拿捕することを作戦目標としていた[200][202]。 中央が青葉、右が利根、左が筑摩という横一列陣形で索敵中、3月9日午前11時30分にイギリスの武装商船ビハール号(ベハー号)と遭遇した[200][203]。拿捕を試みた利根はアメリカ巡洋艦に偽装して接近[204][205]。 ビハール号武装射程圏外の距離9000mで軍艦旗を掲げ停船命令を発したがビハール号は救難信号を発信しつつ逃走を試み[200][206]、拿捕を諦めた利根は同船を砲撃により撃沈することにした[207]。沈没現場で生存者115名を救助した[200][208]戦闘詳報によると104名[209]または129名[210]。 3月15日、利根はバタビアに入港[211]。サ号作戦部隊における戦果はビハール号の撃沈のみであった[212]。サ号作戦を指揮した南西方面艦隊は捕虜処刑命令を出しており、黛治夫大佐(利根艦長)は捕虜35名をバタビアへ送ったものの、サ号作戦終了と部隊解散により残80名の処遇が宙に浮いてしまった[212][208]。第十六戦隊の指揮下を離れ[197]、3月18日にジャワ島バタビア(ジャカルタ)を出港してシンガポールへ回航[24][213]。当時利根乗組員(黛艦長、天野軍医長、小勝上等兵曹)によれば、後部甲板に応急の木甲板を設置[214]。捕虜を「涼しい場所へ移す」という名目で艦内から後甲板へ一人ずつ連れ出し、選抜した利根武芸部員(有段者含む)が捕虜80名の処刑を実行した[214]。当身と木刀で気絶させたのち斬首・とどめに刺殺という方法で、3月19日午前零時から約3時間かかったという[215]

戦後、黛治夫(当時利根艦長)は「利根としては彼らにたいしては正当な待遇をして来たつもりだ。別に誇るわけではない。国際法の規定する範囲で訊問し、ある程度の情報を得たことはもちろんである。(中略)利根は戦闘において重巡第一の真価を示したばかりでなく、はからずも日本の海軍は国際法を尊重し、俘虜は人道的にあつかう精神であったことを、世界の記録にとどめることとなった。」と回想している[208]

3月25日、第七戦隊司令官は西村祥治中将から白石萬隆少将[216]に交代(西村少将は9月10日より第二戦隊司令官)[217]。白石は黛治夫(利根艦長)が古鷹副長時代の古鷹艦長であった[32][218]。 利根は3月のインド洋における通商破壊戦に従事した後(前述)、リンガ泊地およびタウイタウイ泊地で待機[24]。機動部隊に所属しマリアナ沖海戦(1944年6月)に参加した。本海戦で前衛部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)所属の各艦(第四戦隊《愛宕、高雄、鳥海、摩耶》、第一戦隊《司令官宇垣纏中将:大和武蔵》、第三航空戦隊千歳千代田瑞鳳》、第七戦隊、第二水雷戦隊等)が小沢機動部隊本隊の攻撃隊を誤射、利根も誤射した[219][220]。6月24日、内地帰投[24]。射出された利根偵察機は各地を転々とし、7月中旬になって母艦に戻ってきたという[221]

7月8日、陸軍部隊輸送を兼ねて内地を出撃[24]。陸軍輸送物資を積載した戦艦部隊(大和武蔵長門金剛)、重巡熊野等を護衛してリンガ泊地へ向かった[222]。14日午前3時頃、白露型駆逐艦6番艦五月雨(第27駆逐隊)が悪天候の中で落伍し、行方不明となった[222][223]。五月雨は捜索に出た利根に発見されて艦隊に戻り、事なきを得た[222]。第一戦隊司令官宇垣纏中将(1941年時の第八戦隊司令官)は、『五月雨スコール続く輸送かな』『スコールの後に五月雨忘れけり』と俳句を詠んでいる[222][224]

10月、第七戦隊は捷一号作戦に参加。出撃前、利根が武蔵に横付けして給油した際、黛(利根艦長)は猪口敏平少将(武蔵艦長)と寺岡正雄大佐(鈴谷艦長)と歓談、黛は手紙や私物を安全と思われた武蔵に預けている[225]。 10月22日、ブルネイを出港した。10月23日朝、栗田艦隊はパラワン島沖でアメリカの潜水艦2隻(ダーターデイス)から襲撃され、重巡2隻(愛宕《第二艦隊旗艦》、摩耶)が沈没[226]、重巡1隻(高雄)が大破して駆逐艦2隻(朝霜長波)に護衛されて離脱という被害を出した[227][228]。愛宕沈没後の第一遊撃部隊指揮官栗田健男中将は、第一戦隊司令官宇垣纏中将が座乗する戦艦大和(第一戦隊旗艦)に将旗を掲げた。

10月24日、シブヤン海にて栗田艦隊はアメリカ軍機動部隊(第38任務部隊)艦載機の空襲を受け、第一遊撃部隊・第二部隊(第三戦隊《金剛榛名》、第七戦隊《熊野、鈴谷、筑摩、利根》、第十戦隊《矢矧浦風浜風磯風雪風野分清霜》)は旗艦(指揮官鈴木義尾第三戦隊司令官、金剛座乗)を中心とする輪形陣を形成[229]。利根は中心(金剛)の斜め右前方3kmに配置された[230][231]。 一連の戦闘により、大和型戦艦2番艦「武蔵」(艦長猪口敏平少将《黛が海軍砲術学校時代の同校教頭》、副長加藤憲吉大佐《黛とは海軍兵学校同期》、砲術長越野公威大佐《黛が古鷹副長時代、同艦砲術長》)が沈没[232]。損傷を受けた3隻(妙高、浜風、清霜)が艦隊から離脱した。 戦闘中、黛(利根艦長)は第二部隊(第三戦隊)司令部に「武蔵を掩護する必要ありと認む」と意見具申した結果[233][234]、武蔵への掩護を命じられる[235][236]。利根では武蔵掩護中に爆弾1発が命中したが不発、小型爆弾の被害も限定的だった[232][237]。利根と共に武蔵掩護中の清霜にも爆弾が命中して速力低下をきたした[238]

日没後、黛(利根艦長)は原隊復帰を幾度か意見具申[239][240]、栗田長官より下令があり第二部隊に復帰した[241][242]。その際、艦首から沈みつつあった武蔵(猪口艦長)に対し『(ユトランド沖海戦における)ザイドリッツの戦例にかんがみ、艦首浮力の保持に努められよ』と信号、武蔵(猪口)からは了解の返信を貰っている[243][244]。武蔵は便乗していた摩耶の生存者を駆逐艦島風に移乗させたあと[245][246]、駆逐艦2隻(浜風、清霜)の支援を受けたが19時35分に沈没[247][238]。猪口艦長も戦死した[248]

10月25日、利根はサマール沖海戦に参加[249]。護衛空母から発進した戦闘機や雷撃機の妨害に悩まされ、機銃掃射により黛も負傷した[249]。408発の主砲弾を発射、うち7発を敵艦に命中させた(黛はさらに命中していたと主張)[250][251]。利根はカサブランカ級航空母艦19番艦ガンビア・ベイの至近距離まで進出し、砲撃でガンビア・ベイを撃沈した[252]。沈没地点北緯11度31分 東経126度12分 / 北緯11.517度 東経126.200度 / 11.517; 126.200[253]。利根は漂流するガンビア・ベイ生存者達の至近距離を通過したが、機銃掃射することなく、利根乗組員は敬礼して米兵を見送った[254]。戦後、黛治夫(利根艦長)はガンビアベイ生存者会に、同艦の奮戦を称える手紙を送っている[255]

一方、米艦隊の反撃により、第七戦隊では重巡3隻(熊野、鈴谷、筑摩)が落伍[256]。第二艦隊長官栗田健男中将から反転命令がでると、黛(利根艦長)は第五戦隊司令官橋本信太郎少将(重巡羽黒座乗)に「現状、砲撃中の敵空母を追撃すべき」を意見具申しようとしたが、最終的に断念した[257][258]。つづいて酸素魚雷の誘爆により大火災となった鈴谷より白石第七戦隊司令官を受け入れる[257][259]。利根は鈴谷の救援のためカッターボートを派遣した[260][259]。利根短艇乗組員11名(艇指揮、田中春雄中尉)は夕雲型駆逐艦14番艦沖波に救助されたが[261]、同艦における対空戦闘で4名が戦死した[262]。 一方、第七戦隊旗艦となった利根では午後1時40分頃、爆弾1発が後部に命中し一時舵故障となるが復旧に成功した[263][259]。 本海戦における戦死者は19名(愛宕乗員2名を含む)、負傷者81名(黛艦長を含む)と記録されている[264][265]

レイテ沖海戦後、栗田艦隊はブルネイに退避していた[266]。利根は駆逐艦島風(第二水雷戦隊所属)に便乗中だった摩耶生存者を受け入れ、内地に戻ることになった[267]。損傷のため、速力は20ノットに制限されていたという[268]。 利根は輸送任務のためマニラへ向かう空母隼鷹、軽巡木曾、第30駆逐隊(夕月卯月)と合流[266]。11月10日、隼鷹輸送隊はマニラで木曾(木曾は11月13日のマニラ空襲で大破着底)と[266]、スリガオ海峡夜戦から生還した白露型駆逐艦2番艦時雨を入れ替え、内地へむかった[269]。11月15日、隼鷹隊はアメリカの潜水艦バーブから雷撃されたが命中しなかった(木俣滋郎はアメリカの潜水艦ジャラオとする。)[266]。隼鷹隊と別れた利根は11月17日に舞鶴へ戻った[24][270]。舞鶴海軍工廠で損傷箇所の修理と機銃の増設を行う[268]。残存重巡2隻(利根、熊野)となった第七戦隊は11月21日附で解隊された(白石萬隆中将は軍令部出仕)[271]

昭和20年以降の行動[編集]

1945年(昭和20年)1月1日附で利根は練習艦に指定される[272]。同日附で利根は呉練習戦隊(司令官堀江義一郎少将)に編入、香取型練習巡洋艦2番艦鹿島が同隊から除かれた(同艦は第102戦隊に編入)[273]。呉練習戦隊は4隻(利根、磐手、出雲八雲)となる[274]。 1月6日、利根艦長は黛治夫大佐から岡田有作大佐(出雲型装甲巡洋艦2番艦磐手艦長)に交代[275]。2月18日、舞鶴港を出港し、20日に呉到着[276][24]。呉練習戦隊は5隻(利根、大淀《2月15日編入》、八雲、出雲、磐手)となった[277][278]

3月19日、利根は海軍兵学校練習艦として呉にて停泊中、アメリカ第58任務部隊による空襲で至近弾1発を受け、三番砲塔が使用不能となった[279][280]江田島湾の津久井茂沖合に錨泊したのち、大破着底した場合に備えて能美島の海岸付近に移動する[279][281]。松や小枝などで偽装を施した[279]。 7月24日、第38任務部隊によって再度空襲を受け、左舷中央部に直撃弾を受ける(呉軍港空襲[282][283]。7月28日にも再度空襲を受け、アメリカ軍艦載機の空襲により左舷後部に直撃弾2発と至近弾6発を受けた[284][283]。左舷後部の直撃弾は1000ポンド爆弾で、地上施設破壊用の瞬発信管であり、利根の水平装甲板を貫通せずに爆発したが被害は甚大であり[283]、至近弾もあいまって大浸水をきたした。一時は左舷に20度以上傾斜したが[283]、対岸の海軍兵学校などからも応援を呼んでダメージコントロールに努め、転覆を防ぐため注水作業を実施[282][283]。7月29日に着底[285][286]。終戦を迎えた[282]8月15日、岡田(利根艦長)は呉鎮守府附となり、利根艦長の任務を解かれた[287]

アメリカ軍による調査実施後、利根は同年11月20日に除籍された[288]1947年(昭和22年)4月7日から播磨造船所呉船渠により解体に着手[288]1948年(昭和23年)5月4日、浮揚に成功[288]。同年9月30日、解体完了[288]。利根の解体をもって呉地区沈没艦の解体は完了した[288]。 ビハール号事件に関する戦争裁判により、捕虜の処刑を命令した左近允尚正中将(サ号作戦時指揮官《当時少将、第十六戦隊司令官》は死刑(1948年1月21日、執行)[289]。黛治夫(利根六代目艦長)は捕虜の処刑を実施したものの、捕虜助命に努力していたことや秋津洲艦長時代の行動を考慮され懲役(重労働)7年(服役4年)の判決を受けた[290][208]。また原鼎三中将(利根初代艦長)はミャンマーにおける民間人殺害の責任を問われ、BC級戦犯として処刑された。大西新蔵中将(利根二代目艦長)は、第八艦隊参謀長時代に発生した峯風型駆逐艦9番艦秋風での民間人虐殺容疑でB級戦犯に指定されるが、起訴却下に終わった[291]岡田為次少将(利根四代目艦長)は戦犯としてラバウルにて処刑された。

現在、能美島江田島湾)の利根着底場所付近には、慰霊碑が建てられている。また慰霊碑に隣接して「軍艦利根資料館」があり、利根の舵輪、副碇、信号燈、コンパスなどの遺品(装備品)や精密なミニチュア模型などが展示されている。

兵装変遷[編集]

利根型重巡洋艦は開戦の時点で最新鋭巡洋艦であり戦没まで大規模な改装はなかった。しかしながら戦時中には戦訓によりレーダー(電探)の装備と対空機銃の増備を実施している。以下にその変遷を記述するが、いずれも推定であることに注意。

  • 1943年(昭和18年)2月 後部予備指揮所両側に25mm連装機銃各1基増備、21号電探装備(前檣)
  • 同年12月ころ 25mm連装機銃4基を同3連装機銃に交換。その他に13mm機銃4挺があったとされる。
  • 1944年(昭和19年)6月以降、マリアナ沖海戦の戦訓により機銃の大幅な増備。25mm3連装機銃4基、同単装25挺を増備。また22号電探2基(前檣)、13号電探1基(後檣)を装備する。
  • 1945年(昭和20年)2月 レイテ沖海戦の損傷修理において後甲板に25mm3連装4基を追加。同単装は若干減少し21挺(もしくは18挺)とした。レーダーは21号を撤去し、代わりに22号を1基増備した。

最終時の機銃とレーダーは、

  • 25mm3連装機銃14基、同連装2基、同単装21挺(もしくは18挺)。合計67挺
  • 電探:22号3基、13号1基

とされている。

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』122-125頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 龍崎留吉 大佐:1937年11月21日[16] - 1938年11月1日[23]
  2. 原鼎三 大佐:1938年11月1日[23] - 1938年11月20日[26]

艦長[編集]

  1. 原鼎三 大佐:1938年11月20日[26] – 1939年11月15日[32]
  2. 大西新蔵 大佐:1939年11月15日[32] – 1940年10月15日[36]
  3. 西田正雄 大佐:1940年10月15日[36] – 1941年9月10日[55]
  4. 岡田為次 大佐:1941年9月10日[55] – 1942年7月14日[46]
  5. 兄部勇次 大佐:1942年7月14日[46] – 1943年12月1日[162]
  6. 黛治夫 大佐:1943年12月1日[162] – 1945年1月6日[275]
  7. 岡田有作 大佐:1945年1月6日[275] - 1945年8月15日[287]

同型艦[編集]

参考文献[編集]

  • 岩崎剛二 「遺骨なく遺髪なく 第十六戦隊司令官・左近允尚正中将の運命」『海と空の八人の武人の生涯 最前線指揮官の太平洋戦争』 光人社NF文庫、2003年4月(原著1995年1月)。ISBN 4-7698-2379-7
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書』 原書房、1968年1月。
  • 生出寿 『砲術艦長 黛治夫 海軍常識を覆した鬼才の生涯』 光人社NF文庫、1996年6月(原著1988年)。ISBN 4-7698-2124-7
  • 大内健二 「第3章 航空巡洋艦」『航空戦艦「伊勢」「日向」 航空母艦と戦艦を一体化させた恐るべき軍艦 付・航空巡洋艦』 光人社NF文庫、2014年6月。ISBN 978-4-7698-2834-1
  • 大西新蔵 『海軍生活放談 日記と共に六十五年原書房、1979年6月。ISBN 031-40870-6945。
  • 岡本孝太郎 『舞廠造機部の昭和史』 文芸社、2014年5月。ISBN 978-4-286-14246-3
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 木俣滋郎 『日本空母戦史』 図書出版社、1977年
  • 木俣滋郎 「11.重巡洋艦『筑摩』『鳥海』」『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』 光人社NF文庫、2013年6月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-2786-3
  • 小板橋孝策 『海軍操舵員よもやま物語 艦の命運を担った"かじとり魂"』 光人社NF文庫、2015年1月(原著1995年)。ISBN 978-4-7698-2868-6
  • 古村啓蔵回想録刊行会編 『海の武将-古村啓蔵回想録』 原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1
  • 古村啓蔵ほか 『重巡十八隻 軍縮条約が生んだ最先端テクノロジーの結晶』 潮書房光人社、2015年4月。ISBN 978-4-7698-1590-7
    • 戦史研究家伊達久『重巡戦隊の編成変遷とその航跡の全貌』
    • 当時「筑摩」掌飛行長・海軍飛行兵曹長福岡政治『ミッドウェーの地獄を見た筑摩機悲し 筑摩を発着して眼下に見た空母炎上、敵空母発見と飛龍の最後
    • 元航空本部員・海軍大佐永石正孝『海上決戦の花形 重巡洋艦とその搭載機 連合艦隊の前衛として重巡の果たす役割と艦載水上偵察機の変遷
    • 元軍令部部員・海軍大佐三代一就『軍令部の秘策は利根型で実現されたか 主砲を前部に集中、後部を航空兵装にあてた利根型誕生の背景と内幕
    • 当時「鈴谷」艦長・海軍大佐寺岡正雄『「鈴谷」最後の艦長レイテ沖決死の突撃行 至近弾により次々と誘爆、全艦火の海と化し沈没したサマール沖の実相
    • 元「筑摩」艦長・海軍大佐古村啓蔵『先頭第一の栄光に生きた重巡「筑摩」 真珠湾から南太平洋海戦の被弾、遂には比島沖に没した獅子奮迅の記録
    • 当時「利根」艦長・海軍大佐黛治夫『不滅の重巡「利根」の悔いなき航跡 落日せまる太平洋を縦横無尽に疾駆したライオン艦長の戦場報告
    • 当時「利根」艦長・海軍大佐岡田有作『怒れる洋上砲台「利根」は沈黙せず 敢然と戦いぬいてきた勇者の最後をみとった最後の艦長が綴る鎮魂譜
    • 戦史研究家落合康夫『日本海軍重巡洋艦十八隻戦歴一覧』
  • 左近允尚敏 『捷号作戦はなぜ失敗したのか レイテ沖海戦の教訓中央公論社、2010年10月。ISBN 978-4-12-004169-3
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』 光人社NF文庫、1993年ISBN 47698-2009-7
    • 戦史の戦訓 <重巡洋艦「利根」艦長・黛治夫大佐の証言>(マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦時、利根艦長)
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』 光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9
    • 「貴重な勝利」<駆逐艦「清霜」艦長・梶本顗中佐の証言>(太平洋戦争時、駆逐艦夕風艦長、弥生艦長、三重空教官、兵学校教官、清霜艦長、第22戦隊先任参謀等)
  • 佐藤清夫 『駆逐艦野分物語 若き航海長の太平洋海戦記光人社1997年ISBN 4-7698-0803-8
  • 佐藤清夫 『駆逐艦野分 若き航海長の太平洋海戦記』 光人社NF文庫、2004年1月(原著1997年)。ISBN 4-7698-2408-4
  • 高戸顕隆私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部 海軍主計大尉の太平洋戦争』 光人社、1999年ISBN 4-7698-2227-8
  • 高橋一雄 『神龍特別攻撃隊 潜水空母搭載「晴嵐」操縦員の手記光人社NF文庫2001年ISBN 4-7698-1015-6
    著者は利根2号機操縦員。1939年5月14日着任。1942年5月2日、転勤。
  • 田中三也 『彩雲のかなたへ 海軍偵察隊戦記』 光人社NF文庫、2016年2月(原著2009年)。ISBN 978-4-7698-2932-4
    著者は利根水偵搭乗員。1942年7月から1943年8月まで利根勤務。
  • 手塚正己 『軍艦武藏 上巻』 新潮文庫、2009年8月。ISBN 978-4-10-127771-4
  • 手塚正己 『軍艦武藏 下巻』 新潮文庫、2009年8月。ISBN 978-4-10-127772-1
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • 豊田穣 『航空巡洋艦利根・筑摩の死闘』 講談社、1980年2月。
  • 橋本廣 『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記光人社2001年ISBN 4-7698-1028-8
  • 福田幸弘 『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』 時事通信社、1981年7月。ISBN 4-7887-8116-6
  • E・P・ホイト著、戸高文夫 『空母ガムビアベイ』 株式会社学研M文庫、2002年7月(原著1986年)。ISBN 4-05-901140-1
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 朝雲新聞社、1969年5月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』 朝雲新聞社、1976年8月。
  • 重巡利根型 軽巡香取型 丸スペシャルNo.44、潮書房、1980年
  • 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)
  • ハンディ判日本海軍艦艇写真集12 重巡 最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩』 雑誌『』編集部/編、光人社、1997年5月。ISBN 4-7698-0782-1
  • 「丸」編集部編 『重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!』 光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-1485-6
    • 戦史研究家大浜啓一『日本重巡十八隻の戦歴』
    • 当時「筑摩」艦長・元海軍少将古村啓蔵『前衛「筑摩」と南太平洋海戦』
    • 元熊野掌航海長兼通信長・海軍大尉青山総市『前衛部隊熊野マリアナ沖決戦記』
    • 元鈴谷艦長・海軍大佐寺岡正雄『七戦隊鈴谷サマール沖の最期』
  • 「丸」編集部編 『巡洋艦戦記 重巡最上出撃せよ』 光人社、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9
    • 連合艦隊最後の決戦場レイテ沖海戦回想録―左近允尚敏『われらが軍艦 重巡「熊野」の最期』
    • ミッドウェーの惨劇を艦長が吐露する痛恨の手記―曾爾章『重巡最上出撃せよ ミッドウェー海戦もうひとつの悲劇
  • 安永弘 『死闘の水偵隊』 朝日ソノラマ文庫、1994年 著者は筑摩の乗組(水上偵察機操縦)。レイテ沖海戦から生還。
    • 安永弘 『サムライ索敵機 敵空母見ゆ! 予科練パイロット3300時間の死闘』 光人社、2002年 朝日ソノラマ文庫の改訂
  • 吉田俊雄 「好機到来 重巡洋艦「利根」の秘密」『造艦テクノロジーの戦い 科学技術の頂点に立った連合艦隊軍艦物語』 光人社NF文庫、1995年(原著1989年)。ISBN 4-7698-2103-4
  • 利根型重巡 [歴史群像]太平洋戦史シリーズVol.47、学習研究社、2004年
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『第八輯 観兵式及観艦式 第二編 紀元二千六百年特別観艦式 第三章 実施』。Ref.A10110010200。
    • 『第5275号 9.12.14 利根』。Ref.C05110625500。
    • 『第312号 昭和10年1月26日 起工艦船に付問合に対する回答』。Ref.C11080579200。
    • 『艦本第9490号 12.8.3 新造艦艇工事予定表所要部数の件』。Ref.C05110730400。
    • 『昭和10年 達 完/達昭和10年9月』。Ref.C12070099000。
    • 『昭和15年12月25日現在10版内令提要追録第8号原稿/ 巻3追録/第13類艦船(1)』。Ref.C13071993800。
    • 『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071997700。
    • 『昭和15年12月25日現在10版内令提要追録第8号原稿/ 巻1/第6類機密保護』。Ref.C13071993000。
    • 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。Ref.C08051772000。
    • 『昭和17年11月~昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030768400。
    • 『昭和17年11月~昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030768400。
    • 『昭和17年11月~昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030768400。
    • 『昭和17年11月~昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030768400。
    • 『昭和17年11月~昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030768400。
    • 『昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030354000。
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    • 『昭和17年5月1日~昭和17年5月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030354200。
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    • 『昭和17年7月1日~昭和17年7月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030354400。
    • 『昭和17年7月1日~昭和17年7月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030354500。
    • 『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030354600。
    • 『昭和18年2月1日〜昭和18年2月28日 舞鶴鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030355500。
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    • 『昭和17年12年1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030116300。
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    • 『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(4)』。Ref.C08030048400。
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    • 『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(8)』。Ref.C08030048800。
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030101300。
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030101400。
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030101500。
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030101800。
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030101900。
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030102000。
    • 『昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030126400。
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    • 『昭和19年4月1日~昭和19年4月30日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573500。
    • 『昭和19年5月1日~昭和19年5月31日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573600。
    • 『昭和19年3月9日 軍艦利根戦闘詳報』。Ref.C08030573400。
    • 『昭和19年6月20日 軍艦利根戦闘詳報 第7号(あ号作戦中対空戦闘に対する分)』。Ref.C08030713100。
    • 『昭和19年5月1日~昭和19年11月25日 軍艦熊野戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030572400。
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年10月25日 軍艦筑摩戦時日誌(1)』。Ref.C08030575000。
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年10月25日 軍艦筑摩戦時日誌(2)』。Ref.C08030575100。
    • 『昭和19年10月2日 軍艦武蔵戦闘詳報』。Ref.C08030565200。
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(3)第7戦隊』。Ref.C08030039300。
    • 『昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)』。Ref.C08030037100。
    • 『昭和19年10月18日~昭和19年11月5日 軍艦利根戦闘詳報(1)』。Ref.C08030568500。
    • 『昭和19年10月18日~昭和19年11月5日 軍艦利根戦闘詳報(2)』。Ref.C08030568600。
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030573900。
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030574000。
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030574100。
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030574200。
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030574300。
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030574400。
    • 『昭和20年6月1日~昭和20年6月30日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030574700。
    • 『S士官の手記 史実調査部/沖波戦闘行動関係』。Ref.C14061106300。
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年12月13日 第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030149800。
    • 『昭和18年12月1日~昭和20年5月31日 呉練習戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030079000。
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  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍研究社編輯部 編 『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』 海軍研究社、1937年2月。
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    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷) info:ndljp/pid/1886711』 海軍大臣官房、1939年
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脚注[編集]

  1. ^ 昭和13年11月20日付 海軍内令 第974号制定、海軍定員令「第48表ノ2 二等巡洋艦定員表 其ノ5」。この数字は飛行科要員を含み特修兵を含まない。
  2. ^ #艦艇類別等級表(昭和15年12月25日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|利根型|利根、筑摩|』
  3. ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.140『艦名の由来』
  4. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.86『利根(とね) 艦種二等巡洋艦 二檣(信号用) 艦名考川名に採る、關東第一の大河なり 艦歴(略)昭和6年4月1日除籍。同8年4月實艦標的として爆撃戰技に依つて撃沈さる。(備考)明治6年横須賀造船所にて建造せる運送船に第一、第二利根川丸(後に「利根」と改稱)のものあり。』
  5. ^ #生出、黛(文庫)121頁
  6. ^ 「艦本第9490号」p.2
  7. ^ #豊田利根筑摩(1980)38-39頁
  8. ^ a b 「第5275号 9.12.14利根」p.2
  9. ^ a b c d e #艦船要目(昭和15年12月25日)p.3『利根|二等巡洋艦|(要目略)|三菱長崎造船所|9-12-1|12-11-21|13-11-20|15.5c/m…12 12.7c/m高角8(性能略)』
  10. ^ #海軍操舵員よもやま話82-83頁
  11. ^ a b c #ハンディ判艦艇写真集12p.142(利根進水式写真)
  12. ^ a b c #艦船要目(昭和15年12月25日)p.3『筑摩|二等巡洋艦|(要目略)|三菱長崎造船所|10-10-1|13-3-19|14-5-20|15.5c/m…12 12.7c/m高角8(性能略)』
  13. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.203『◎二等巡洋艦利根命名ノ件 昭和九年十二月一日(達二〇二)艦艇製造費ヲ以テ昭和九年度ニ於テ建造ニ着手ノ二等巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル 三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 利根トネ』
  14. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.69『昭和九年十二月一日(内令五〇三) 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 巡洋艦、最上型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |利根型|利根|』
  15. ^ 昭和12年11月24日(水)海軍公報 第3204号 p.35』 アジア歴史資料センター Ref.C12070364000 『○進水 軍艦利根十一月二十一日三菱長崎重工株式會社長崎造船所ニ於テ進水セリ』
  16. ^ a b 昭和12年11月22日(発令11月21日付)海軍辞令公報(号外)第96号 p.12』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072600 
  17. ^ 昭和12年12月1日(水)海軍公報(部内限)第2778号 p.6』 アジア歴史資料センター Ref.C12070368900 『○艤装員事務所設置 軍艦利根艤装員事務所ヲ在長崎海軍監督官事務所内ニ設置シ十一月二十六日ヨリ事務ヲ開始セリ』
  18. ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.163(筑摩進水式写真)
  19. ^ 昭和13年3月22日(火)海軍公報 第3292号 p.30』 アジア歴史資料センター Ref.C12070370200 『○進水 軍艦筑摩三月十九日三菱長崎重工業株式會社長崎造船所ニ於テ進水セリ』
  20. ^ #武藏上27頁
  21. ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.162
  22. ^ 昭和13年5月18日(発令5月18日付)海軍辞令公報(部内限)号外 第183号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C13072073800 
  23. ^ a b c d e 昭和13年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)号外 第256号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074500 
  24. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad #ハンディ判艦艇写真集12pp.160-161(重巡洋艦『利根・筑摩』行動年表)
  25. ^ 昭和13年11月24日(木)海軍公報(部内限)第3069号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C12070375900 『○事務所撤去 軍艦利根艤装員事務所ヲ十一月二十日撤去セリ』
  26. ^ a b c d 昭和13年11月21日(発令11月20日付)海軍辞令公報(部内限)第264号 p.47』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074600 
  27. ^ 昭和14年5月26日(金)海軍公報(部内限)第3217号 p.29』 アジア歴史資料センター Ref.C12070380700 『○残務整理 第七戰隊司令部ニ係ル残務整理ハ自今第六戰隊司令部ニ於テ行フ』
  28. ^ 昭和14年5月20日(発令5月20日付)海軍辞令公報(部内限)第338号 p.44』 アジア歴史資料センター Ref.C13072075700 
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  101. ^ #S1705舞鎮日誌pp.10-11『(2)艦船其ノ他ノ工事 利根筑摩第三十四驅逐隊及第三十三潜水隊ノ整備工事竝ニ薄雲ノ特定修理工事、大潮ノ損傷復舊工事、其ノ他艦船兵器及陸上部隊ノ主要造修訓令通牒工事ハ概ネ豫定通進捗中ナリ』
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  111. ^ #S1707舞鎮日誌(1)pp.7-8『(b)艦船整備工事 名取(十日)神威(十八日)三十一驅潜隊(三十一日)呂六三潜(十七日)ノ整備工事ハ何レモ概ネ順調ニ進捗各附記ノ通完成作戰地ニ向ケ進出セリ 利根、筑摩ニ對スル整備工事ハ十六日入港以来極力進捗中』
  112. ^ #S1708舞鎮日誌p.5『(a)損傷復舊工事 大潮、那珂工事=豫定通進捗中/霞工事=損傷復舊工事ノ爲本月十三日入港目下損傷部調査中 (b)利根筑摩ノ整備工事ハ六日完成シ作戰地ニ向ケ進出セリ 夕風(二十一日)、室戸(二十四日)ハ附記ノ通入稿以來極力進捗中』
  113. ^ #S1708舞鎮日誌p.60『六(天候略)一一四五筑摩出港 一三〇〇利根出港(以下略)』
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  119. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.9『(司令駆逐艦)時雨ハ十五日(司令官)3Sノ指揮下ニ入リ内地回航部隊ノ警戒ニ任ジ「トラツク」發二十日佐世保着尓後同地ニ在リテ船体ノ整備ニ任ズ』
  120. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.29『一三日一七三八(長官)GF(宛略)GF電令作第四八九號 (GF電令作第四八〇號ニ依ル回航区分(鳥海冲鷹ヲ加フ)ヲ左ノ通定ム/(イ)3S 8S(筑摩欠) 2sf(飛鷹欠) 嵐黒潮陽炎日進鳥海冲鷹ハ(司令官)3S指揮下ニ二月十五日「トラツク」發/(ロ)尓余ノ艦ハ各長官所定/二 AdB(指揮官)ハd×2ヲシテ(司令官)3Sノ指揮ヲ受ケ第一項へ威力ノ内地回航護衛ニ任ズベシ GF電令作第四二一號ニ依ル沖鷹護衛駆逐艦ノ派出ヲ解ク』
  121. ^ #S1712四水戦日誌(2)pp.30-31『一四日〇八一七(指揮官)AdB(指揮官)(宛略)AdB電令作第一四五號 一.(司令官)2sdハ15dg(親潮欠)ヲシテ二月十五日「トラツク」發呉ニ回航修理整備ニ從事セシムベシ本回航中右駆逐艦ヲシテ(司令官)3Sノ指揮ヲ受ケシムベシ/二.GF電令作第四八九號第二項ニ依リ(司令官)3Sノ指揮ヲ承ケ内地回航部隊ノ警戒ニ任ズベキ駆逐艦ヲ27dg(時雨)及大波ニ指定ス/三.AdB電令作第一一八號ニ依ル(司令官)4sdノ冲鷹警戒任務ヲ解ク』
  122. ^ #S1709三戦隊日誌(2)p.37『一五(天候略)一一〇〇「トラツク」発/一四一五2sf15dg解列「トラツク」ニ引返ス/一二五五ヨリ一七二〇迄之字運動|3S 8S 2sf鳥海冲鷹日進及駆五ヲ率ヰ内地ニ回航』
  123. ^ #S1801二水戦日誌(3)p.20『15日1100 3S時雨(佐世保ニ向ケ)鳥海冲鷹嵐大波(横須賀)2sf(飛鷹缺)日進黒潮陽炎(呉)8S(筑摩缺)(舞鶴)各軍港ニ向ケ「トラック」発|四.1700 2sf(飛鷹缺)陽炎黒潮天候不良ノ為Y収容不能ニ付「トラック」入泊』
  124. ^ #S1802舞鎮日誌(2)p.18『二一(天候略)行動 利根入港』
  125. ^ #S1802舞鎮日誌(2)p.19『二四(天候略)行動 日進入港(以下略)』
  126. ^ #S1802舞鎮日誌(1)p.5『(a)損傷復舊工事 那珂、霞、不知火、初春、何レモ豫定通進捗中/(b)修理艦船 太刀風(二日)利根(二十一日)日進(二十四日)刈萱(二十五日)}何レモ附記ノ通入港修理工事中/龍田 操舵試験ノ結果更ニ修理ヲ要スルコトトナリ極力工事中』
  127. ^ #S1803舞鎮日誌(1)pp.6-7『(a)損傷復舊工事 霞不知火初春何レモ豫定通工事進捗中/那珂ハ三十一日工事完成セリ (b)修理工事 龍田 操舵装置修理豫想外ニ困難ニシテ一日試運轉ノ結果徹底的修理ヲ要スルコトトナリ陸揚修理二十七日試運轉成績良好二十八日出動セリ/太刀風八日、日進十三日、利根十六日}整備完成何レモ出動/刈萱 整備工事中/眞鶴(十六日)、長波(十七日)、木曾(二十日)、室戸(二十三日)何レモ附記ノ通入港極力整備工事中』
  128. ^ #S1701第八戦隊日誌(5)p.18『(二)「トラック」ニテ警泊待機中ノ處十五日發内地ニ回航二十一日舞鶴着、整備ニ從事』
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  131. ^ #S1701第八戦隊日誌(5)pp.29-30『(ハ)作戦指導 前月ニ引続キ三月二十一日迄内地ニ在リテ整備補給竝ニ諸訓練ニ從事 三月二十二日2sf司令官指揮ノ下ニ8Sヲ率ヰ内海出撃「トラック」ニ回航、二十七日着尓後同地ニ警泊待機諸訓練ニ從事』
  132. ^ #S1801二水戦日誌(4)p.5『3月22日-3月28日|陽炎(将旗15dg)|2sf(隼鷹飛鷹)8S(利根筑摩)|佐伯-「トラック」』
  133. ^ #S1712四水戦日誌(5)p.25『21日1203(将旗)2sf|2sf及61dg(秋月欠)15dg(陽炎欠)夕暮「トラック」ニ向ケ佐伯発』-p.38『22日|(天候略)|一.夕暮陽炎初月涼月ト共ニ2sf8Sノ直衛ニ任ジツツ佐伯発トラックニ回航ス(略)』
  134. ^ #武藏上129頁
  135. ^ #S1701第八戦隊日誌(5)p.49『(二)十七日GF長官指揮ノ下ニ8Sヲ率ヰ「トラツク」發横須賀ニ回航二十二日着二十五日同地發木更津沖ニ回航二十九日同地發横須賀ニ回航右期間整備補給竝ニ諸訓練ニ從事』
  136. ^ #木俣空母476-478頁『トラック島艦隊、内地へ(五月十七日)』
  137. ^ #S1801二水戦日誌(6)p.14『一七(天候略)一.一〇〇〇武藏3S 8S 2sf(飛鷹)横須賀ニ向ケ「トラック」發61dg(d×2)27dg(d×2)24dg〇七〇〇出港右護衛ニ任ズ海風本日附主隊編入』
  138. ^ #武藏上142頁
  139. ^ #S1801二水戦日誌(6)p.6『五月十七日 五月二二日|海風|武藏 3S 8S 2sf(隼鷹欠)|「トラック」→横須賀|海風主隊編入中』
  140. ^ #S1805四水戦日誌(1)pp.6,33『27dg(時雨、有明)ハ前記任務ノ後17日GF電令作第564号ニ依リGF主隊ニ編入セラレ内地回航部隊(1S(大和欠)、3S、8S、2sf(隼鷹欠))直衛任務ニ従事「トラック」発 22日横須賀着』
  141. ^ #S1709三戦隊日誌(3)p.13『2.敵ノ「アッツ」島来襲ニ伴ヒ主隊ニ編入ノ上五月十七日「トラツク」発東京湾ニ回航二十二日機動部隊本隊ニ編入セラレ急速北方作戰準備ヲ實施セルモ作戰取止メトナリ内地ニ於テ訓練整備ニ從事スルコトヽナレリ』
  142. ^ #S1701八戦隊日誌(6)p.18『…翌十日機動部隊指揮官指揮ノ下ニ第八戦隊ヲ率ヰ0600同地發1230沖ノ島出撃「トラック」ニ回航15日着急速補給ヲ完了機動部隊第一部隊(8S 61dg)及第三部隊(日進)ヲ率ヰ14S(那珂)ヲ併セ指揮シ16日早朝「トラック」發ニテ搭載人員ヲ「ミレ」方面ニ輸送ノ予定ナシリ所…』
  143. ^ #S1709日進詳報(2)p.38『七月三日一八二五機動部隊指揮官|8S 10S外日進|KdB機密〇三二一一〇番電 一.略/二.冲鷹日進玉波(日進艦長ノ命ヲ受ケ日進警衛ニ任ズ)ハ便宜各所在地發七月十一日一二〇〇迄ニ當部隊ニ合同セヨ|無電』-『七月十日〇五三〇日進(宛略)日進玉波〇五〇〇「トラック」ニ向ケ發|無電』-『七月十四日〇五〇〇瑞鶴|艦隊|日進冲鷹玉波嵐ハ列ヲ解キ日進艦長所定ニ依リ概ネ當隊ニ續行「トラック」ニ入泊スベシ|信号』
  144. ^ #木俣空母486-488頁『第一航空戦隊の再出撃(七月)』
  145. ^ #S1709日進詳報(2)pp.25-26『二.計画 日進ハ六月二十五日機動部隊ニ編入何回第四支隊ヲ輸送「トラツク」ニ同航後同支隊ノ「ソロモン」方面転用決定セラルヤ八戰隊司令官指揮ノ下ニ大淀最上阿賀野ト共ニ「ラボール」ニ同航同地ニテ自動車彈薬等ノ一部ヲ卸シ陸軍約四〇〇名ヲ搭載ノ上十戰隊司令官(萩風坐乗)指揮下ノ下ニ七月二十一日ラボール發磯風萩風嵐護衛二十二日一六〇〇ブイン着揚陸ヲ行ヒ同日二一〇〇發「ラボール」ニ歸環ノ予定ナリキ』
  146. ^ #S1701八戦隊日誌(6)p.36『…21日1500「ラバウル」ニ入泊直ニ乙部隊ニ対スル積換補給(嵐ハ利根、萩風ハ筑摩、磯風ハ大淀ヨリ燃料補給満載)並ニ「ラバウル」ニ於ケル揚搭作業ヲ開始シ…』
  147. ^ a b #S1701八戦隊日誌(6)p.40『…出撃前日(23日附)4dg南東方面部隊編入ノGF電令ニ接シタルヲ以テ不取敢第一部隊ヨリ除キ第十戦隊司令官所定ニ依リ磯風ノ魚雷弾薬等ヲ同隊ニ移載ノ上第一部隊ハ24日0915「ラバウル」ヲ出撃セリ…』
  148. ^ 「昭和17年〜昭和19年 第8戦隊(7)」p.31
  149. ^ a b 「昭和17年〜昭和19 第8戦隊(7)」p.32
  150. ^ #S1804十一水戦(5)p.75『第十一水雷戰隊命令 一.聯合艦隊電令作第七七八號ニ依ル内地回航部隊(當隊(龍田)山城伊勢隼鷹雲鷹利根 二十四驅逐隊(海風涼風)谷風 第七驅逐隊(曙))ハ別紙計画ニ依リ内地ニ回航ス(以下略)』
  151. ^ #S1806二水戦日誌(4)pp.84-85『三一(天候略)大波〇四〇〇「トラツク」発/24dg(海風涼風)〇四四〇「トラツク」発/五月雨一四三〇「ラバウル」発|24dg(海風涼風)伊勢山城龍田隼鷹利根ヲ護衛シ呉ニ向ケ「トラツク」発/31dg(大波)2sf基地員物件輸送ノ爲「カビエン」ニ向ケ「トラツク」発/島風〇八〇〇東亜丸日本丸護衛ヲ止メ一四一五日章丸日榮丸ニ合同護衛任務ニ付キ「トラック」ニ向フ/五月雨一四三〇敵輸送船団及護衛艦隊撃滅ノタメ「ラバウル」発|GF電令作第七八一号31dgヲNTBニ編入ス/三十一日附24dgノ項中ニ満潮ヲ加フ』
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  165. ^ #S1701第八戦隊日誌(8)p.27『(七)十日聯合艦隊電令作第八五七號及機動部隊機密第一〇一七〇〇番電ニ依リ8S(利根)5S、27dg(時雨白露)ハ二十三日迄ニ横須賀ニ回航、陸軍部隊ヲ南東方面ニ輸送ノ豫定ナリシトコロ一月一日附ヲ以テ第八戰隊解隊ノコトトナリ豫定変更十六日聯合艦隊電令作第八六一號ニ依リ5S利根27dg(時雨白露)ヲ以テ戊二號輸送部隊ヲ編制、5S司令官之ヲ指揮シ二十二日呉ニ於テ大海機密第一五一一一番電ノ人員物件ヲ搭載「トラック」経由「カビエン」ニ向ケ二十四日一三〇〇内海西部ヲ出撃二十九日「トラック」着尚利根ハ二十五日附ヲ以テ遊撃部隊ニ編入セラル』
  166. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.49『二三日一〇一五(司令官)5S(宛略)5S利根白露十二月二十三日〇八〇〇「トラツク」ニ向ケ呉発』
  167. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.50『二四日二一四五(司令)27dg(宛略)時雨、5S直衛トシテ警戒航行中一九二八豊後水道附近ニ於テ無燈ノ大型漁船ト觸衝左舷水線上ニ数個所ノ跳出及亀裂ヲ生ジ一二節以上ノ速力ニ堪ヘズ修理ノ為(?)ニ同航ス。相手船人員機関異状ナシ損害軽微』
  168. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.15『(5)27dg(時雨)(略)二十四日5S利根ト共ニ「トラック」ニ向ケ發/二十五日一九二八魚船國吉丸ト觸衝小被害アリ命ニ依リ呉ニ引返シ修理ニ從事(以下略)』
  169. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.16『(白露)二十四日迄27dg(時雨)ニ同ジ二十九日「トラック」着』
  170. ^ #S1812利根日誌p.6『二十九(天候略)一六二〇「トラック」着 玄洋丸横付重油搭載』
  171. ^ #S1812利根日誌p.25『二十九日一六〇一(司令官)5S(宛略)5S利根一一〇〇藤波白露(敵潜制圧後)一五三〇「トラツク」着』
  172. ^ #S1812二水戦日誌(1)pp.14-15『(藤波)(略)二十五日GF電令作第八七二號ニヨリ戊二號輸送部隊ニ編入セラル/二十七日「トラック」発二十八日5Sニ合同、途中利根探知ノ敵潜攻撃(効果不明)二十九日「トラック」着/三十一日戊二號輸送人員物件搭載』
  173. ^ 昭和19年1月1日(発令1月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1292号 p.2』 アジア歴史資料センター Ref.C13072095200 
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  175. ^ #第八戦隊日誌(8)p.27『(ハ)昭和十九年一月一日附ヲ以テ第八戰隊解隊セラレ、筑摩及利根ハ第七戰隊ニ編入セラル』
  176. ^ 昭和18年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1249号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094100 
  177. ^ #S1901利根日誌p.17『(司令官)7S|7S〔艦S〕|7S信令第一號 當隊艦隊区分ヲ左ノ通リ定ム 第一小隊一番艦熊野 二番艦鈴谷 第二小隊三番艦利根 四番艦筑摩』
  178. ^ #重巡洋艦戦記181-184頁『薄氷をふむ輸送作戦』
  179. ^ a b #叢書96ガ島撤収後463頁『戊二號・戊三号輸送部隊のトラック出撃』
  180. ^ #S1901利根日誌p.3『二(天候略)一二五〇「カビエン」ニ向ケ「トラツク」出撃(略)』
  181. ^ #S1812二水戦日誌(3)p.4『仝日戊二號輸送部隊5S藤波白露「トラック」発四日朝「カビエン」着揚搭即日発五日帰投同ジツ仝部隊ノ編制ヲ解カル』
  182. ^ #S1901利根日誌p.3『四(天候略)(略)〇〇三五「カビエン」入港〇五五八出港陸軍清水部隊及軍需品揚陸|〇六三〇敵艦上機「カビエン」來襲』
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  184. ^ #S1812三水戦日誌(5)p.11『(2)特別任務 自一月三日至一月四日 22dg(水無月欠)GF戊二号輸送部隊警戒対潜掃蕩「カビエン」港外』
  185. ^ a b #叢書96ガ島撤収後466-467『第三次カビエン空襲(一月四日)』
  186. ^ #S1901利根日誌p.4『五(天候略)(略)一六五〇トラック入港』
  187. ^ #S1901利根日誌p.7『二十五(天候略)(略)二十五日附遊撃部隊ヨリ除カレ敷島部隊ニ編入』
  188. ^ #S1901利根日誌p.8『三十(天候略)〇五〇〇出撃 〇五四〇引返ス 〇六三三入港|遊撃部隊主隊ニ復皈 敵「マーシャル」方面ニ來襲』-『三十一(天候略)(略)敷島部隊ニ復歸』
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  194. ^ #S1902利根日誌p.20『二十九日〇八三五(長官)GF(宛略)GF電令作第九六九號 筑摩利根ヲ南西方面部隊ニ編入ス』
  195. ^ #S1902利根日誌p.8『二十八(天候略)一一三〇第十六戰隊ト共ニ「バンカ」泊地入港 「サ」第一號作戰ニ対スル打合会(青葉)|筑摩利根南西方面部隊ニ編入セラル』
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  200. ^ a b c d e #海軍操舵員よもやま話84-90頁『サ号作戦発動』
  201. ^ #重巡洋艦戦記184-186頁『「サ一号」作戦の後難』
  202. ^ #サ号利根p.17『(司令官)16S|一八一五 本|機密「サ」第一號作戰部隊奇襲隊命令作第一號別紙第四項敵舩舶處理要領ニ依レバ敵舩舶ハ之ヲ拿捕スルヲ立前トシ情況止ムヲ得ザル場合ノミ之ヲ撃沈スルコトト定メラレアル處撃沈スルニ至リタル件参考ノ爲承知シ度』
  203. ^ #S1903利根日誌p.5『九(天候略)(略)英貨物船「ベハー」号(約七〇〇〇屯)撃沈 南緯二〇度三四分東経八七度〇〇分(戰斗詳報参照)』
  204. ^ #サ号利根pp.8-9『一三〇五|敵舩ハ舟首舟尾ニ、八乃至一〇糎砲二門ヲ有スルヲ認メ其ノ有効砲戰距離ヲ八〇〇〇米ト判断ス 敵ノ送信妨害ノ目的ヲ以テ「電報ヲ打ツ勿レ」次デ僞瞞ノ目的ヲ以テ「我ハ米國巡洋艦ナリ」「重要通信アリ近寄レ」ヲ國際信號(旗流及ビ發光)ニ依リ送信セルモ敵ハ了解セズ』
  205. ^ #サ号利根p.25『(a)英舩多キ海面ナルニ鑑ミ大型米國軍艦旗ヲ前檣桁端ニ掲揚ス/(b)御紋章ヲ秘匿ス(御紋章ハ十二糎双眼鏡ヲ以テセバ二〇〇〇〇米以上ニ於テ視認シ得ルコトアリ)/(c)敵舩長以下ヲシテ敵味方判別ヲ困難ナラシムグガ如キ信號ヲ連發シ之ヲ忙殺シテ注意ヲ牽制ス』
  206. ^ #生出、黛(文庫)136-137頁
  207. ^ #サ号利根pp.9-10『一三二二|「主砲高角砲打方待テ」ヲ令シ敵舩ニ注意セルニ停止スルヲ認ム(發射彈數珠法通常彈二四發高角砲通常彈一五發)』-『一三三四|「主砲打方待テ」ヲ令ス(發射彈數通常彈八發、徹甲弾七發/一三三六|「高角砲打方待テ」ヲ令ス(發射彈數通常彈五四發)』
  208. ^ a b c d #重巡洋艦戦記187-188頁
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  210. ^ #サ号利根pp.12-14『一五四〇 本|一六〇〇(司令官)16S|(略)(ホ)捕虜舩長以下一二九名(内白人士官二一人外一六人其ノ他印度人)』
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  246. ^ #武藏下175-176頁
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  248. ^ #レイテ武蔵詳報p.17『一九三五|沈没 位置東経一二二度三二分北緯一三度七分水深八〇〇米 艦長ハ第二艦橋ニ於テ最後迄指揮ヲ執リ戰死(副長確認)』
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  276. ^ #重巡十八隻316頁
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  281. ^ #S1812呉練戦(4)pp.14-15『五 麾下艦船部隊ノ行動』
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  285. ^ #本土防衛戦(其の三)p.67『(ロ)被害 1.航空機/2.艦船 沈没 利根、大淀、出雲/火災着底 伊勢、榛名、青葉/大破 天城、葛城 右ノ外龍鳳、八雲、鳳翔を除き何れも損害大』
  286. ^ #本土防衛戦(其の三)p.67『(艦艇名)利根|(被害状況)大破 傾斜左21°』
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  288. ^ a b c d e #ハンディ判艦艇写真集12pp.156-159(利根解体時写真)
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関連項目[編集]