利根 (重巡洋艦)

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Japanese cruiser Tone.jpg
艦歴
発注 昭和九年度(マル2計画
起工 1934年12月1日
進水 1937年11月21日
就役 1938年11月20日
その後 1945年7月28日艦載機の攻撃で大破着底、戦後解体
除籍 1945年11月20日
性能諸元
排水量 基準:11,213トン 公試:13,320トン
全長 201.6m
全幅 19.4m
吃水 6.23m (公試)
機関 ロ号艦本式缶8基
艦本式タービン4基4軸
152,189馬力 (公試成績)
最大速 35.55ノット (公試成績)
航続距離 18ノットで9,240海里(公試成績)
燃料 2,700トン(実測値)
乗員 竣工時定員869名[1]
兵装
(竣工時)
20.3cm連装砲4基8門
40口径12.7cm連装高角砲4基8門
25mm連装機銃6基12挺
13mm連装機銃2基4挺
61cm3連装魚雷発射管4基12門
兵装
(1945年)
20.3cm連装砲4基8門
40口径12.7cm連装高角砲4基8門
25mm三連装機銃14基42挺
25mm連装機銃2基4挺
25mm単装機銃21挺
(機銃は推定)
61cm3連装魚雷発射管4基12門
装甲 舷側:145mm 甲板:35mm
搭載機 水上機6機 (カタパルト2基)

利根(とね)は、大日本帝国海軍重巡洋艦で、利根型重巡洋艦の1番艦。艦名は二等巡洋艦の命名慣例に従って、関東地方を流れる利根川にちなんで名づけられた。この名を持つ帝国海軍の艦船としては4隻目。艦前部に主砲塔4基を集中し、後部を飛行機発進甲板・水上偵察機待機所とした、第二次世界大戦当時としては珍しい艦型である。

概要[編集]

重巡洋艦であるにもかかわらず河川名が付けられた理由は最上型重巡洋艦(当初は軽巡洋艦であり、改装後も書類上は二等巡洋艦)5番艦として計画されたためである[2]。後に再設計により重巡洋艦(書類上は二等巡洋艦)となるが艦名はそのまま使用された。

最初の計画では、最上型と同じ15.5cm砲を装備するいわゆる条約型として1930年(昭和5年)12月1日に起工した[3]。諸外国に通知した時の数値は、基準排水量8,636トン、水線全長187.21mである[3]。しかし友鶴事件第四艦隊事件の教訓によって計画を変更した。20.3cm主砲2連装4基8門を艦首に集中配置することによって艦尾を空け、水上偵察機搭載能力を増した独特のシルエットを持つ1万t級の重巡洋艦として就役する。艦橋が中央部にあるため、舵を取る時の感度は抜群で操艦しやすい艦だったと伝えられている[4]伊吹型重巡洋艦伊吹が未完成に終わったため、利根と筑摩は日本海軍が完成させた最後の重巡洋艦となった。

艦歴[編集]

開戦前[編集]

三菱重工業長崎造船所にて建造され、竣工後は姉妹艦筑摩と共に第八戦隊を編成し第二艦隊に所属していたが、偵察能力を買われ第一航空艦隊に編入された。搭載する偵察機は、空母の攻撃隊に先立って目的地を偵察する役割があった。建造時の航空機定数は、三座水偵2機、二座水偵4機だった[5]

利根と姉妹艦筑摩は第八戦隊を編成し、当初横須賀鎮守府、続いて1939年10月には舞鶴鎮守府を母港とした[6]高松宮宣仁親王が砲術長として着任する予定だったが、親王急病のため実現していない[7]。1940年9月17日、呉を出撃して21日、海南島三亜港に到着した[8]。翌日、IC作戦が発動され、利根は重巡洋艦鳥海第二航空戦隊(空母:蒼龍飛龍)、第一駆逐隊、第四駆逐隊、舞鶴第一特別陸戦隊、神川丸と共に北部仏印進駐の支援を行った[9]。利根は船団護衛、上空哨戒任務に従事し、この任務が利根と筑摩最初の作戦行動となった。9月29日に帰還命令が下り、任務を終えた利根は日本に戻った[10]

1940年10月11日の紀元二千六百年記念行事では、姉妹艦の筑摩と共に戦艦長門以下連合艦隊主力艦が一同に会した観艦式に参加する[11]。12月、航空機定数が三座水偵(零式水上偵察機)1機、二座水偵(九五式水上偵察機)3機に変更された[5]1941年(昭和16年)4月10日、第八戦隊司令官として宇垣纏少将(真珠湾攻撃~海軍甲事件まで連合艦隊参謀長)が着任、8月1日まで同戦隊司令官を務める。わずか3ヶ月間の勤務であったが、『餘が最も眞劍に且最も愉快に指揮統率せし戦隊』であり、2隻が真珠湾攻撃から帰還した際には『よくぞ偉勲を奏して目出度帰着せる子供の凱旋を迎ふる親心なるべし』と喜んでいる[12]。9月1日よりドック入りして補修点検を行った利根は、9月22日に舞鶴を出港し、9月26日、宿毛湾に入った[13]。水偵隊は遠距離索敵や夜間緩降下爆撃の訓練に従事する[14]

10月25日、第八戦隊(利根、筑摩)は第一特別行動部隊に編入され、第一航空艦隊と行動を共にすることになった。11月3日、有明湾に集合すると、司令官や艦長は南雲忠一中将が座乗する旗艦・空母赤城で頻繁に打ち合わせをおこなっている[15]。11月10-13日、呉軍港で燃料補給、弾薬補給を行い、搭乗員は太平洋全域の地図を受け取った[16]。11月14日、呉を出港して佐伯湾に入港すると、17日には長門の艦上で山本五十六連合艦隊司令長官が機動部隊幹部将校を前に指示を行っている[17]。18日、佐伯湾を出港して外洋航海中の11月20日午前10時、全乗組員が第一種軍装を着用して上甲板に整列する中、艦長は南雲機動部隊がハワイとアメリカ軍太平洋艦隊を奇襲する真珠湾攻撃を行うことを告げた[18]。翌日、単冠湾に入港、乗組員はタラバガニを釣って英気を養う[19]。11月26日、利根は「南雲機動部隊」の1艦として太平洋に出撃した[20]

太平洋戦争緒戦[編集]

日本時間1941年12月8日午前1時、利根1号機(零式水上偵察機)が本艦を発進し、淵田美津雄総飛行隊長率いる空襲部隊より一足先に真珠湾へ向かった[21]。姉妹艦の筑摩からも索敵機が発進しており、利根機と筑摩機は第一次攻撃隊より1時間前にハワイ上空に潜入し気象や湾内の状況を報告した。午前1時30分、空母6隻より攻撃隊183機が発進、午前2時、利根2号機が所在不明の米空母を捜索し、午前5時30分に帰投した[21]。利根1号機は、戦艦霧島のマストを超える飛沫があがるほど荒れた海への着水に失敗し、転覆して失われた[22]

利根は日本への帰路についたが、ウェーク島では島を守る少数のアメリカ軍の海兵隊によって上陸作戦を決行した日本軍第四艦隊(第六水雷戦隊)が撃退された。ウェーク島第一次攻略作戦の失敗により南雲機動部隊に支援命令があり、利根と筑摩は第二航空戦隊(空母:蒼龍、飛龍)、駆逐艦谷風浦風と共にウェーク島へ向かった。12月21日から始まったウェーク島第二次攻略作戦では、利根と筑摩の水偵が周辺索敵と対潜哨戒のため発進する[23]。日本軍は島に航空機地下格納庫があると推測し、陸戦隊により完全占領するしかないと考えていた[23]。23日、日本軍はウェーク島の占領に成功する。任務を終えた利根は12月29日、呉に入港した[24]

1942年1月9日、利根は南太平洋における日本軍の作戦拠点を獲得すべく、南雲機動部隊(赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴)に随伴して日本を出撃した[25]。1月15日トラック入港、17日に出港してラバウルへ向かう[26]。1月23日、利根の水上偵察機部隊がブーゲンビル島北方のブカ島を爆撃した[27][28]。高橋の著作では「零式水偵1機、九五水偵3機」だが、戦闘詳報では「三座水偵2機、二座水偵1機」となっている。1月24-25日には、第八戦隊(利根、筑摩)と軽巡洋艦阿武隈が南雲機動部隊より分離し、水偵隊がアドミラルティ諸島を爆撃する[29][30][28]。利根はビスマルク諸島攻略の終了によって、1月27日トラック泊地に戻った[31][30]

2月1日、マーシャル諸島に空母2隻を含むアメリカ軍機動部隊出現の報告を受けて出撃するが会敵せず[31][32]、南雲機動部隊は南洋艦隊に編入されて蘭印作戦の支援に向かった[33][32]。2月8日、パラオ泊地に到着し、第四戦隊(重巡洋艦:愛宕高雄摩耶鳥海)、第三航空戦隊(鳳翔瑞鳳)と合流する[34]。2月15日、パラオを出港して南下し、オーストラリアへ向かう。2月19日、南雲機動部隊によるポート・ダーウィン空襲を支援、空襲中に利根2号機が特設巡洋艦「ヘクター」を発見して日本軍攻撃隊を誘導、撃沈に貢献した[35][36]。2月21日、利根はセレベス島スターリング湾に入港した[35][37]

2月25日、スターリング湾を出港し[35]クリスマス島近海で行動する[38]。3月1日、利根は駆逐艦エドサル(USS Edsall, DD-219)を姉妹艦筑摩、戦艦比叡、霧島と共に追跡したが「軽快艦艇に対する射撃は遠距離に於いては命中率不良にして意外に多量の弾丸を消費す」と述べるように、なかなかアメリカ軍の駆逐艦を撃沈できなかった[39]。そこで日本空母から九九式艦上爆撃機が発進、爆撃で航行不能になったエドサルに砲撃で止めをさした[40][41]。続いて3月3日、利根水偵搭乗員の高橋によれば、利根は商船を発見し、砲撃で撃沈したと述べている[40][42]。なお、南雲中将司令部付の信号兵だった橋本廣(兵曹)によれば、商船「モッドヨカード」を攻撃した際に筑摩の砲撃が空母赤城の艦上を通過し、南雲中将が第八戦隊を叱責したと証言している[43]。このエピソードも戦闘詳報によれば、駆逐艦磯風、不知火、夕暮、有明による撃沈である。3月11日、利根はスターリング湾に戻った[44][42]

3月26日、セイロン島攻撃命令を受けてスターリング湾を出港し、オンバイ海峡を通過してインド洋に進出、スンバ島南方を西進した[44][45]。4月、イギリス軍東洋艦隊の進出にともなってセイロン沖海戦が発生し、南雲機動部隊は大きな戦果をあげた。4月5日午後1時、利根から発進した九四式水上偵察機がイギリスの重巡洋艦ドーセットシャーコーンウォールを発見する[46]。だが九四水偵は燃料不足のため触接を断念した[46]。午後2時55分、零式水上偵察機(利根1号機)がイギリス軍重巡洋艦を再発見し、艦爆隊を誘導した[46][47]。ドーセットシャーとコーンウォールの2隻は攻撃開始からわずか17分で沈没したという。4月9日、南雲機動部隊はイギリスの空母ハーミーズを撃沈するなどの戦果をあげたが、利根と赤城はウェリントン爆撃機(戦闘詳報や著作によってはブリストル ブレニム)の奇襲を受けている[48]。利根は南方作戦の終了にともなって日本本土に戻った。

アメリカ軍機動部隊との激戦[編集]

1942年6月、利根はミッドウェー海戦に参加する。この時はカタパルトが故障し偵察機の発進が30分遅れ日本海軍敗北の一因となったとされていたが、後の研究で、発進が遅れたからこそアメリカ艦隊を発見できたのであり、定時に発進していたらかえって発見できなかった可能性が高いと言われている。ミッドウェー海戦後にアリューシャン作戦を支援した。

その後、ソロモン諸島方面で第二次ソロモン海戦南太平洋海戦に参加した。

1943年はトラックを基地としてマーシャル諸島カロリン諸島で活動した。10月16日、機関室タービンに故障が見つかり[49]、第八戦隊旗艦を筑摩に移した。トラック泊地で応急修理をおこなったものの、10月28日に再調査したところ別の機械にも破損を発見した[50]。ここに至り前線での修理は不可能と判断され、第十一水雷戦隊指揮のもと、10月31日に日本・呉工廠へ向け出発した[50]航空戦艦伊勢戦艦山城、空母隼鷹雲鷹、軽巡洋艦龍田、第二四駆逐隊(海風涼風)、谷風、第七駆逐隊()が利根と艦隊を組んだ[50][51]。しかし11月5日、隼鷹が日本近海で米潜水艦ハリバットの雷撃で艦尾に被雷、直進不能となった。このため、利根は隼鷹を曳航し11月6日呉に到着した。利根の修理は12月14日に完了した[52]

1944年 (昭和19年) 3月1日、利根、筑摩は第十六戦隊司令官左近允尚正少将(旗艦青葉)の指揮下でジャワ島バタビア(ジャカルタ)を出撃、重巡3隻(青葉、利根、筑摩)、軽巡2隻(大井鬼怒)、駆逐艦数隻(敷波浦波天霧)等でインド洋方面通商破壊作戦(サ号作戦)に従事する[53]。日本軍の船舶不足を補うため、連合国軍の商船を拿捕することを作戦目標としていた[53]。中央が青葉、右が利根、左が筑摩という横一列陣形で索敵中、3月9日午前11時30分に利根はイギリスの武装商船ビハール号(ベハー号)と遭遇した[53]。拿捕を試みた利根はアメリカ巡洋艦に偽装して接近、ビハール号武装射程圏外の距離9000mで軍艦旗を掲げ停船命令を発したが、ビハール号は救難信号を発信しつつ逃走を試みた[53]。そこで利根は同船を砲撃により撃沈する[53]。沈没現場で生存者115名を救助した[53]。 3月17日、サ号作戦部隊はバタビアに帰投、戦果はビハール号の撃沈のみであった[54]。サ号作戦を指揮した南西方面艦隊は捕虜処刑命令を出しており、黛利根艦長は捕虜35名をバタビアへ送ったものの、サ号作戦終了と部隊解散により残80名の処遇が宙に浮いてしまった[54]。3月18日バタビアを出港してシンガポールへ回航[54]。当時利根乗組員(黛艦長、天野軍医長、小勝上等兵曹)によれば、後部甲板に応急の木甲板を設置[55]。捕虜を「涼しい場所へ移す」という名目で艦内から後甲板へ一人ずつ連れ出し、選抜した利根武芸部員(有段者含む)が捕虜80名の処刑を実行した[55]。当身と木刀で気絶させたのち斬首・とどめに刺殺という方法で、3月19日午前零時から約3時間かかったという[56]

1944年6月マリアナ沖海戦に参加、10月には捷一号作戦に参加。10月22日ブルネイを出港する。24日シブヤン海海戦で空襲により命中弾を受けた。翌日サマール沖海戦に参加し、408発の主砲弾を発射、うち7発を敵艦に命中させた。

レイテ沖海戦後、栗田艦隊はブルネイに退避していた。利根は輸送任務のためマニラへ向かう空母隼鷹、軽巡木曾、護衛駆逐艦(夕月卯月)と合流、11月10日マニラで木曾(11月13日沈没)と駆逐艦時雨を入れ替え、内地へむかった。11月15日、隼鷹隊は米潜水艦バーブに雷撃されたが、命中しなかった。舞鶴に帰還して損傷箇所の修理と機銃の増設を行い、呉に回航。1945年3月19日、利根は海軍兵学校練習艦として呉にて停泊中アメリカ第58任務部隊による空襲を受けて損傷、海軍兵学校と江田島湾を挟んでちょうど対岸にあたる能美島の海岸付近に移動する。7月24日、第38任務部隊によって再度空襲を受け損傷した(呉軍港空襲)。7月28日にも再度空襲を受け、アメリカ軍艦載機の空襲により爆弾6発を受けた。対岸の海軍兵学校などからも応援を呼んでダメージコントロールに努めたが、その甲斐も無く翌日になって大破着底し終戦を迎えた。

戦後まもなく調査と引き上げが行われ、鉄不足解消のために1948年までにスクラップとなった。ビハール号事件に関する戦争裁判により、左近允サ号作戦時指揮官(当時少将)は死刑、黛元艦長は懲役(重労働)7年(服役4年)の判決を受けた[56]

現在、能美島江田島湾)の利根の着底した場所付近には、慰霊碑が建てられている。また、慰霊碑に隣接して、「軍艦利根資料館」があり、利根の舵輪、副碇、信号燈、コンパスなどの遺品(装備品)や精密なミニチュア模型などが展示されている。

兵装変遷[編集]

利根型重巡洋艦は開戦の時点で最新鋭巡洋艦であり戦没まで大規模な改装はなかった。しかしながら戦時中には戦訓によりレーダー(電探)の装備と対空機銃の増備を実施している。以下にその変遷を記述するが、いずれも推定であることに注意されたい。

  • 1943年(昭和18年)2月 後部予備指揮所両側に25mm連装機銃各1基増備、21号電探装備(前檣)
  • 同年12月ころ 25mm連装機銃4基を同3連装機銃に交換。その他に13mm機銃4挺があったとされる。
  • 1944年(昭和19年)6月以降、マリアナ沖海戦の戦訓により機銃の大幅な増備。25mm3連装機銃4基、同単装25挺を増備。また22号2基(前檣)、13号1基(後檣)を装備する。
  • 1945年(昭和20年)2月 レイテ沖海戦の損傷修理において後甲板に25mm3連装4基を追加。同単装は若干減少し21挺(もしくは18挺)とした。レーダーは21号を撤去し、代わりに22号を1基増備した。

最終時の機銃とレーダーは

  • 25mm3連装機銃14基、同連装2基、同単装21挺(もしくは18挺)。合計67挺
  • 電探:22号3基、13号1基

とされている。

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』122-125頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 龍崎留吉 大佐:1937年11月21日 -
  2. 原鼎三 大佐:1938年11月1日 - 1938年11月20日

艦長[編集]

  1. 原鼎三 大佐:1938年11月20日 -
  2. 大西新蔵 大佐:1939年11月15日 -
  3. 西田正雄 大佐:1940年10月15日 -
  4. 岡田為次 大佐:1941年9月10日 -
  5. 兄部勇次 大佐:1942年7月14日 -
  6. 黛治夫 大佐:1943年12月1日 -
  7. 岡田有作 大佐:1945年1月6日 - 1945年8月15日[57]

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 昭和13年11月20日付 海軍内令 第974号制定、海軍定員令「第48表ノ2 二等巡洋艦定員表 其ノ5」。この数字は飛行科要員を含み特修兵を含まない。
  2. ^ 「艦本第9490号」p.2
  3. ^ a b 「第5275号 9.12.14利根」p.2
  4. ^ #海軍操舵員よもやま話82-83頁
  5. ^ a b #操縦員手記35頁
  6. ^ #操縦員手記24頁
  7. ^ #海軍生活放談426頁
  8. ^ #海軍生活放談442-443頁、#操縦員手記30頁
  9. ^ #海軍生活放談442頁、#操縦員手記31-32頁
  10. ^ #海軍生活放談444頁
  11. ^ #海軍生活放談445頁
  12. ^ #戦藻録(1968)57頁
  13. ^ #操縦員手記38頁
  14. ^ #操縦員手記39頁
  15. ^ #操縦員手記40頁
  16. ^ #操縦員手記41頁
  17. ^ #操縦員手記42頁
  18. ^ #操縦員手記43頁
  19. ^ #操縦員手記44頁
  20. ^ #操縦員手記45頁
  21. ^ a b #操縦員手記48頁
  22. ^ #操縦員手記49頁
  23. ^ a b #操縦員手記55頁
  24. ^ #操縦員手記58頁
  25. ^ #操縦員手記59頁、「昭和17年~昭和19 第8戦隊(1)」p.9
  26. ^ 「昭和17年~昭和19 第8戦隊(1)」pp.10-11
  27. ^ #操縦員手記62頁
  28. ^ a b 「昭和17年~昭和19 第8戦隊(1)」p.4
  29. ^ #操縦員手記63頁
  30. ^ a b 「昭和17年~昭和19 第8戦隊(1)」p.5
  31. ^ a b #操縦員手記64頁
  32. ^ a b 「昭和17年~昭和19 第8戦隊(1)」p.17
  33. ^ #操縦員手記65頁
  34. ^ #操縦員手記66頁
  35. ^ a b c #操縦員手記66頁
  36. ^ 「昭和17年~昭和19 第8戦隊(1)」p.22
  37. ^ 「昭和17年~昭和19 第8戦隊(1)」pp.30
  38. ^ 「昭和17年~昭和19 第8戦隊(1)」p.31
  39. ^ 「昭和17年~昭和19 第8戦隊(1)」p.47
  40. ^ a b #操縦員手記70頁
  41. ^ 「昭和17年~昭和19 第8戦隊(1)」p.36
  42. ^ a b 「昭和17年~昭和19 第8戦隊(1)」pp.39
  43. ^ 橋本廣『機動部隊の栄光』(2001年、光人社)
  44. ^ a b #操縦員手記71頁
  45. ^ 「昭和17年~昭和19 第8戦隊(1)」p.43
  46. ^ a b c 「昭和17年~昭和19 第8戦隊(2)」pp.5-6
  47. ^ #操縦員手記74頁
  48. ^ #操縦員手記75頁
  49. ^ 「昭和17年~昭和19年 第8戦隊(7)」p.31
  50. ^ a b c 「昭和17年~昭和19 第8戦隊(7)」p.32
  51. ^ 「第11水雷戦隊戦時日誌(5)」p.4
  52. ^ 「昭和17年~昭和19年 第8戦隊(8)」p.26
  53. ^ a b c d e f #海軍操舵員よもやま話84-90頁『サ号作戦発動』
  54. ^ a b c #海軍操舵員よもやま話102-107頁『収容捕虜百十五名』
  55. ^ a b #海軍操舵員よもやま話110-118頁『捕虜を後甲板へ』
  56. ^ a b #海軍操舵員よもやま話118-124頁『悪夢の三時間』
  57. ^ 昭和20年8月27日付 秘海軍辞令公報 甲 第1897号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072107000 で閲覧可能。

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.A10110010200「第八輯 観兵式及観艦式 第二編 紀元二千六百年特別観艦式 第三章 実施」
    • Ref.C05110625500「第5275号 9.12.14 利根」
    • Ref.C05110730400「艦本第9490号 12.8.3 新造艦艇工事予定表所要部数の件」
    • Ref.C08030048200「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(1)」
    • Ref.C08030048300「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(2)」
    • Ref.C08030048400「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(3)」
    • Ref.C08030048500「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(4)」
    • Ref.C08030048600「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(5)」
    • Ref.C08030048700「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(6)」
    • Ref.C08030048800「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(7)」
    • Ref.C08030048900「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」
    • Ref.C08030126400「昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(5)」
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書』 原書房、1968年1月。
  • 大西新蔵 『海軍生活放談 日記と共に六十五年原書房、1979年6月。ISBN 031-40870-6945。
    利根2代目艦長の手記。
  • 重巡利根型 軽巡香取型 丸スペシャルNo.44、潮書房、1980年
  • 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)
  • 利根型重巡 [歴史群像]太平洋戦史シリーズVol.47、学習研究社、2004年
  • 高橋一雄 『神龍特別攻撃隊 潜水空母搭載「晴嵐」操縦員の手記光人社NF文庫2001年ISBN 4-7698-1015-6
    著者は利根2号機操縦員。1939年5月14日着任。1942年5月2日、転勤。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 小板橋孝策 『海軍操舵員よもやま物語 艦の命運を担った"かじとり魂"』 光人社NF文庫、2015年1月(原著1995年)。ISBN 978-4-7698-2868-6

関連項目[編集]