出雲 (装甲巡洋艦)

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装甲巡洋艦 出雲
艦歴
発注
起工 1898年5月14日
進水 1898年9月19日
就役 1900年9月25日
その後 1945年7月24日戦没
除籍 1945年11月20日
性能諸元
排水量 9,750t
全長 121.92m
全幅 20.94m
吃水 7.37m
機関 ベルヴィール式石炭専焼水管缶24基
直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸推進
最大速 20ノット
兵員 672名
兵装 20.3cm連装砲塔2基
15.2cm単装速射砲14門
12ポンド単装速射砲12門
2.5ポンド単装速射砲8門
45.7cm水中魚雷発射管単装4門
兵装(最終時) 八九式12.7cm(40口径)連装高角砲2基
15.2cm(40口径)単装速射砲4基
三年式8cm(40口径)単装高角砲1基
九六式25mm三連装機銃2基
九六式25mm連装機銃2基
九六式25mm単装機銃4基
九三式13.2mm単装機銃2基

出雲(いずも)は、日本海軍装甲巡洋艦出雲型1番艦

日露戦争第一次世界大戦支那事変に参加し、太平洋戦争で戦没するまでの45年間現役にあった。

艦歴[編集]

六六艦隊計画(戦艦6、装甲巡洋艦6)の一艦としてイギリスに発注された。

日露戦争では上村彦之丞提督率いる「上村艦隊」の旗艦として参加し、殿(しんがり)艦を務めた姉妹艦磐手と共に活躍している。

日露戦争[編集]

日露戦争中の出雲は通商破壊戦を行うウラジオ艦隊を警戒して対馬海峡に展開していたが、その努力も虚しく1904年明治37年)6月15日に陸軍の輸送船「常陸丸」がウラジオ艦隊によって撃沈される常陸丸事件が発生してしまう。降伏を拒否して小銃で応戦した陸軍将兵達の悲壮な最期が国内に伝えられると、濃霧によりウラジオ艦隊を取り逃がした上村や出雲の所属する第二艦隊は国民からの強い批判にさらされた。演説会や新聞では「無能」や「露探(ロシアのスパイ)提督」などと中傷され、激昂した暴徒が上村将軍の家に押し寄せて石や短刀を投げつける事件も発生している。この事態に上村の部下たちは憤慨したが、上村は「家の女房は度胸が据わっているから大丈夫」と笑って取り合わなかったといわれる。上村の妻は毎日寺参りをして敵艦隊発見を祈願していた。

常陸丸事件から2か月後に発生した蔚山沖海戦では、第二艦隊がついにウラジオ艦隊の装甲巡洋艦リューリクを撃沈した。上村将軍は残存する敵艦の追撃を指示するも「我レ、残存弾数ナシ」の報告を受け結局攻撃を断念した。

撃沈されたリューリクは日本の艦船を多数撃沈しており、上村中将にとっては常陸丸事件の件でも恨みの深い相手であったが、沈みながらも味方艦を逃がすために砲撃を続ける姿に感銘を受けた日本艦隊は生存者の救助に当たった。この行動は国内外で賞賛され、後にこの救助活動を元にした「上村将軍」という歌が作られている。スラバヤ沖海戦で敵兵を救助した工藤俊作もこの歌を祖母から子守唄のように聞かされていたとされている[1]

日本艦隊に撃沈されるリューリク

上村将軍(一部) 作詞:佐々木信香 作曲:佐藤茂助

蔚山沖の雲晴れて 勝ち誇りたる追撃に 艦隊勇み帰る時 身を沈め行くリューリック

恨みは深き敵なれど 捨てなば死せん彼等なり 英雄の腸ちぎれけん

救助と君は叫びけり 折しも起る軍楽の 響きと共に永久に

高きは君の功なり 匂うは君の誉れなり

この際、出雲に救助されたリューリクのロシア将校が艦内に小鳥が飼われているのを見つけ「この小鳥は前から飼っているのか」と聞くと、日本人通訳が「あれはリューリックの溺者を救助にいったものが海に浮かんでいるのを見つけて可哀そうだから捕えてきて飼っているのだ」と答えると、ロシア将校は涙を浮かべてそれは自分が飼っていた鳥であること、通商破壊戦で多くの民間船を撃沈していたため報復されると思っていたことを語り、神に黙祷を捧げたというエピソードが残っている[2]。艦を指揮した上村中将は非常に感情の激しい人物として有名であるが、鳥が好きであった。この際救助した小鳥かは不明だが、肩に小鳥を乗せて笑みを浮かべている写真を何枚か残している。

上村将軍の歌詞には、救助活動時の軍楽隊による演奏についての一説があるが、当時の出雲の軍楽隊長は吉本光藏であった。

その後の日本海海戦でも上村の指揮のもとで参加。舵が故障した戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」を見てバルチック艦隊が北へ向かうと誤認した旗艦「三笠」は、これの追撃を指示したが、上村と副官の佐藤鉄太郎中佐は舵の故障と即座に判断、三笠の命令を無視して「我に続け」の信号旗を掲げながらバルチック艦隊に突撃。巡洋艦中心の第2戦隊が、戦艦中心のバルチック艦隊に突撃するという前代未聞の作戦を実施し、結果的に挟撃することに成功した。クニャージ・スヴォーロフ以外のバルチック艦隊の後続艦は南東方向に舵を取ってウラジオストクへの離脱を目指していたため、三笠の命令に従っていれば残存艦艇に逃げられていた可能性は高く、日本側の勝利に大きく貢献する活躍となった。

1910年には日露戦争の英雄的人物である秋山真之も艦長を務めている。

第1次世界大戦・戦間期[編集]

1913年11月には、ウエルタ将軍のクーデターに端を発する内戦で混乱するメキシコに邦人保護を目的に派遣された。翌年の1914年第一次世界大戦が勃発すると、装甲巡洋艦「浅間」、戦艦「肥前」(旧「レトヴィザン」)とともに遣米支隊が編成され、出雲は旗艦としてアメリカ西海岸を防衛する任務に当たった。また、1917年8月に第二特務艦隊の増援部隊として地中海マルタ島に派遣され、中央同盟国潜水艦部隊による通商破壊から船団を護衛する任務に従事した。

1919年に御親閲式(第一次大戦の遣欧艦隊に対する閲兵)が行われた際には大正天皇が乗艦する御召艦(おめしかん)を務めた。

その後は練習艦として遠洋航海に6回参加し、士官候補生達を乗せてヨーロッパや米国など世界中を回った。1922年の「ブラジル独立100年祭記念観艦式」の際には、同型艦の「磐手」や「浅間」と共に参加している。

1922年9月1日にはワシントン海軍軍縮条約の影響を受けて艦種が「一等海防艦」に変更された。1934年からは九〇式二号水上偵察機を搭載するようになった。

支那事変・太平洋戦争[編集]

上海沖に停泊している出雲(37年撮影)

支那事変に際しては第三艦隊旗艦として上海に派遣された。1937年に発生した第二次上海事変では、上海に停泊していた出雲が8月14日に中華民国軍爆撃機の攻撃を受けたが、軽巡洋艦川内と共に撃退している。同月16日には中国魚雷艇の攻撃を受けたが幸いにも無傷で済んだ。なお、攻撃した中国魚雷艇は撃沈。後に引き上げられて日本軍に使用されている。

1941年12月8日、真珠湾攻撃によって日米が開戦したこの日に出雲は米国の砲艦「ウェーク」を拿捕、投降を拒否した英国の砲艦「ペテレル」(w:HMS_Peterel_(1927))を撃沈している。なお、ウェークは第二次世界大戦で唯一敵に降伏したアメリカ海軍の艦船となっている。

戦争末期に対空火器が増設されたが戦闘に出ることはなく瀬戸内海で練習艦として運用された。1945年7月24日に呉軍港空襲で米艦載機の攻撃を受け、至近弾により転覆着底、3名が死亡した。姉妹艦「磐手」も2日後に同じく呉軍港で撃破されている。

広島県江田島市には、共に小用港沖で戦い戦没した戦艦「榛名」と合同の戦没者留魂碑が小用港沖を望む丘の上に建てられている。

年譜[編集]

歴代艦長[編集]

※脚注無き限り『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
艦長
  • 井上敏夫 大佐:1900年3月14日 - 1902年3月12日
  • 宮岡直記 大佐:1902年3月12日 - 1903年9月26日
  • 伊地知季珍 大佐:1903年9月26日 - 1905年12月12日
  • 加藤定吉 大佐:1905年12月12日 - 1906年2月2日
  • 名和又八郎 大佐:1906年2月2日 - 10月12日
  • 奥宮衛 大佐:1906年10月12日 - 1907年8月5日
  • 釜屋忠道 大佐:1907年8月5日 - 1908年2月20日
  • 矢島純吉 大佐:1908年2月20日 - 1908年9月15日
  • 茶山豊也 大佐:1908年9月15日 - 1909年5月22日
  • 山口九十郎 大佐:1909年5月22日 - 1909年7月10日
  • 竹下勇 大佐:1909年7月10日 - 1910年4月9日
  • 秋山真之 大佐:1910年4月9日 - 1910年12月1日
  • 関野謙吉 大佐:1910年12月1日 - 1911年3月11日
  • (兼)西垣富太 大佐:1911年3月11日 - 1911年5月23日 (本職:敷島艦長)
  • 田所広海 大佐:1911年5月23日 - 1912年12月1日
  • 竹内次郎 大佐:1912年12月1日 - 1913年11月12日
  • 森山慶三郎 大佐:1913年11月12日 - 1914年11月19日
  • 三村錦三郎 大佐:1915年1月25日 - 1915年12月13日
  • 河田勝治 大佐:1915年12月13日 - 1916年11月6日
  • 小林研蔵 大佐:1916年11月6日 - 1918年7月5日
  • 増田幸一 大佐:1918年7月5日 - 1919年11月20日
  • 宮村暦造 大佐:1919年11月20日 - 1921年2月15日
  • (兼)小泉親治 大佐:1921年2月15日 - 1921年4月14日 (本職:肥前艦長)
  • 植村信男 大佐:1921年4月14日 - 1922年4月15日
  • 原敢二郎 大佐:1922年4月15日 - 1923年3月1日
  • (兼)白石信成 大佐:1923年3月1日 - 1923年5月1日 (本職:常磐艦長)
  • (兼)佐藤巳之吉 大佐:1923年5月1日 - 1923年7月20日 (本職:佐多特務艦長)
  • 原道太 大佐:1923年7月20日[6] - 1923年11月10日[7]
  • 重岡信治郎 大佐:1923年11月10日[7] - 1925年12月1日
  • 井上継松 大佐:1925年12月1日 - 1927年2月1日
  • 鈴木秀次 大佐:1927年2月1日[8] - 1927年12月1日[9]
  • 広田穣 大佐:1927年12月1日 - 1929年2月8日
  • (兼)山本松四 大佐:1929年2月8日[10] - 1929年5月1日[11] (本職:龍田艦長)
  • 小籏巍 大佐:1929年5月1日[11] - 1929年11月30日[12]
  • (兼)川名彪雄 大佐:1929年11月30日 - 1930年2月5日 (本職:夕張艦長)
  • 星埜守一 大佐:1930年2月5日 - 1931年11月2日
  • 松野省三 大佐:1931年11月2日 - 1932年11月15日
  • 中村重一 大佐:1932年11月15日 - 1933年11月15日
  • 高須三二郎 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月1日
  • 大島四郎 大佐:1934年11月1日 - 1935年7月10日
  • 岩越寒季 大佐:1935年7月10日 - 1936年11月16日
  • 鎌田道章 大佐:1936年11月16日 - 1937年12月1日
  • 岡新 大佐:1937年12月1日 - 1938年9月1日
  • 原田清一 大佐:1938年9月1日 - 1939年11月15日
  • 吉富説三 大佐/少将:1939年11月15日 - 1940年11月1日
  • 秋山勝三 大佐:1940年11月1日 - 1941年9月13日
  • 魚住治策 大佐:1941年9月13日 - 1942年10月7日
  • 村山清六 大佐:1942年10月7日[13] - 1943年9月12日[14]
  • 西岡茂泰 大佐:1943年9月12日 - 1943年12月30日
  • 加藤與四郎 大佐:1943年12月30日 - 1944年8月10日
  • 草川淳 大佐/少将:1944年8月10日[15] - 1945年3月1日[16]
  • 鳥居威美 大佐:1945年3月1日[16] - 1945年8月10日[17]

脚注[編集]

  1. ^ 【消えた偉人・物語】 工藤俊作と上村彦之丞 再現された少年時代の“手本” 産経新聞 2011.3.19(現在はリンク切れ)
  2. ^ 長谷川伸 日本捕虜志 p.169
  3. ^ 『官報』第5180号、明治33年10月5日。
  4. ^ 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇、4頁。
  5. ^ 昭和17年7月1日付 内令第1186号』 アジア歴史資料センター Ref.C12070164000 
  6. ^ 『官報』第3293号、大正12年7月21日。
  7. ^ a b 『官報』第3367号、大正12年11月12日。
  8. ^ 『官報』第28号、昭和2年2月2日。
  9. ^ 『官報』第279号、昭和2年12月2日。
  10. ^ 『官報』第634号、昭和4年2月12日。
  11. ^ a b 『官報』第699号、昭和4年5月2日。
  12. ^ 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
  13. ^ 昭和17年10月7日付 海軍辞令公報 (部内限) 第959号』 アジア歴史資料センター Ref.C13072087200 
  14. ^ 昭和18年9月13日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1214号』 アジア歴史資料センター Ref.C13072093000 
  15. ^ 昭和19年8月14日付 秘海軍辞令公報 甲 第1563号』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100500 
  16. ^ a b 昭和20年3月9日付 秘海軍辞令公報 甲 第1741号』 アジア歴史資料センター Ref.C13072103700 
  17. ^ 昭和20年8月18日付 秘海軍辞令公報 甲 第1888号』 アジア歴史資料センター Ref.C13072106900 

参考文献[編集]

  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』普及版、光人社、2003年。
  • 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
  • 『JAPANESE NAVAL VESSELS AT THE END OF WAR』第二復員局 1947年刊行
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 官報

関連項目[編集]