扶桑 (甲鉄艦)

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竣工直後の扶桑
艦歴
発注 1875年にサミューダ・ブラザーズで建造。
起工 1875年9月24日
進水 1877年4月17日
就役 1878年1月
除籍 1908年4月1日
その後 1910年にスクラップとして処分
前級
後級 富士型
要目(竣工時)
排水量 常備:3,717トン
全長 68.5m(224.7ft
垂線間長:67.06m(220ft)
水線長:67.0m(220ft)
全幅 14.63m(48ft)
吃水 5.49m(18ft)
機関 形式不明石炭専焼円缶4基
+横置式トランク型2段膨張2気筒レシプロ機関2基2軸推進
(1900年:円缶8基+横置式3気筒3段膨張レシプロ機関2基2軸推進)
最大出力 3,500馬力
最大速力 13.0ノット(機関航行のみ)
航続距離 10ノット/4,500海里
燃料 石炭250トン(1894年:360トン)
乗員 250名(1894年:377名)
兵装(就役時) クルップ1861年型 24cm(20口径)単装砲4基
クルップ 1863年型 17cm(25口径)単装砲2基
4.7cm単装機砲6基
兵装(1886年時) クルップ 1861年型 24cm(20口径)単装砲4基
アームストロング 12cm(40口径)単装速射砲4基
オチキス 1888年型 4.7cm(43口径)単装機砲11基
ノルデンフェルト式 25mm4連装機砲7基
ノルデンフェルト式 11mm5連装機銃2基
35.6cm水上魚雷発射管単装2門
兵装(1894年時) クルップ 1861年型 24cm(20口径)単装砲4基
アームストロング 12cm(40口径)単装速射砲4基
オチキス 1888年型 4.7cm(43口径)単装機砲14基
ノルデンフェルト式 25mm4連装機砲4基
ノルデンフェルト式 11mm5連装機銃4基
35.6cm水上魚雷発射管単装2門
兵装(1900年時) クルップ 1861年型 24cm(20口径)単装砲4基
アームストロング 15.2cm(40口径)単装速射砲2基
アームストロング 12cm(40口径)単装速射砲4基
オチキス 1888年型 4.7cm(43口径)単装機砲10基
ノルデンフェルト式 25mm4連装機砲4基
ノルデンフェルト式 11mm5連装機銃4基
マキシム 7.62mm単装機銃7基
45.7cm水上魚雷発射管単装2門
装甲(鉄製) 舷側:231mm(9.1inch)
砲郭部:203mm(最大厚)

扶桑(ふそう)は、日本海軍が保有した中央砲郭装甲艦である。当初は一等軍艦、のち、二等戦艦から二等海防艦に類別された。同型艦はない。

概要[編集]

1872年(明治5年)の海軍省設立時点で海上警備に使用できる艦艇は「日進」の1隻のみであり、残りの10隻余りは主に練習艦として使用されていた。1874年(明治7年)の佐賀の乱台湾出兵で有力な軍艦の必要性が痛感され、1875年(明治8年)度予算によりイギリスに金剛型コルベット2隻と本艦1隻、合計3隻の軍艦が発注された[1]

設計はイギリス海軍を退官して設計業をしていたエドワード・ジェームス・リードに一任し[1]、同時代のイギリス海軍の装甲艦「オーディシアス」(HMS Audacious (1869) )をタイプシップに採り、バランスよく縮小化されている。イギリスロンドンテムズ川沿いのサミューダ・ブラザーズ造船所にて建造、1878年初頭に完成された[1]。エドワード・ジェームス・リードは回航の際にわざわざ夫人を伴い日本を訪問し海軍当局に引き渡しをした上で、今後の日本軍艦に関して多くの意見を川村純義に具申した[1]

装甲艦「東艦」以来、明治政府が初めて購入した装甲艦である。正式には「扶桑艦」(ふそうかん)という。実際の艦種は機帆走装甲フリゲートまたは装甲コルベットと呼ぶべき艦である。後に艦種を二等戦艦に変更されているため一般的に日本初の戦艦であるとされているが、実際には戦艦の性能を有していない。即ち、当時の欧米諸国の主力艦の排水量(10,000t)に対して、扶桑はその半分以下の排水量しか持たないミニ軍艦で、実質的には海防戦艦程度の性能でしかなかった。それでも8年後に清国海軍が定遠級甲鉄砲塔艦定遠」及び「鎮遠」を所有するまではアジアの独立国家で唯一の近代的装甲艦であった。

扶桑の建造当時、日本海軍は装甲を有する艦として装甲艦「甲鉄」(のちの「」)及び「龍驤」を所有していたが、すでに旧式となっていた。また同時に発注された金剛型「金剛」及び「比叡」は、実際の艦種は装甲コルベットと呼ぶべきであるが、日本初の巡洋艦と言われることがある。

建造当初は汽帆併用であったが通常航海は帆走によっていた[1]。近代化改装にて帆装を撤去し、唯一の甲鉄艦として日清戦争に従軍したが、低速で旧式であり、主力艦としての意味をなさなかった[1]

艦体[編集]

同時に英国に発注された金剛型の船体は鉄骨木皮であったが、本艦の艦体は全て鉄製であった。水線部の装甲帯に231mmの装甲が張られた。

機関と帆装[編集]

近代化改装後の扶桑

機関は石炭を主燃料とする円缶に横置式トランク型2段膨張2気筒レシプロ機関2基2軸推進を組み合わせ、最大出力は3,500馬力で機関航行のみで速力13ノットを発揮した。当時の艦は入港・出航・戦闘時は汽走するが、巡航には燃費や機関の耐久性に問題があり、専ら帆走を用いたので本艦も建造時は帆走用に3本のバーク型マストを有しており、煙突は帆走を行う時は船内に下ろせる伸縮型煙突を採用していた。

1893年(明治26年)から1894年(明治27年)に実施された近代化改装時に機関を石炭専焼円缶8基と横置式3気筒3段膨張レシプロ機関2基に換装したのに伴い、煙突は固定型に換装されるとともに帆走設備は簡略化され、煙突の煤煙により損傷を受けやすい中央部マストは撤去され、前後2本のマストは位置を移されて頂上部に1段の見張り所を持つミリタリー・マストに換装された。

兵装[編集]

本艦にも搭載された対水雷艇用のノルデンフェルト式1インチ4連装機砲を運用する水兵達の図。

本艦は首尾線上に砲塔を有する戦艦が生まれる前の設計で、現代の視点から見て特異な砲配置になっている。艦の中央部の中甲板から舷側に向け、ややはみ出したかの様な正方形の装甲された部屋(砲郭:ケースメート)を設け、その4隅に「24cm(20口径)砲」を砲架の前部を支点にして扇形に旋回するセンター・ピボット式で1門ずつ設置し計4基を持つ。この配置のため各砲の射撃範囲は狭く首尾線を0度として30度から100度の間の射界であり、前方・後方への首尾線射撃はできない。この不便な配置は艦の中心線上に帆走用の大きなマストが3本立っているため、それを避けるため船体側面部に主砲を配置した結果であった。上甲板には副砲として「17cm(25口径)砲」を船体中央部舷側部に単装砲架で片舷1基ずつ計2基配置された。近距離砲戦用に4.7cm機砲が単装砲架で6基が甲板上に搭載された。

1886年(明治19年)に新たに近接戦闘用にノルデンフェルト式1インチ4連装機砲7基と11mm5連装機銃2基が配置され、対艦攻撃用に35.6cm水上魚雷発射管が単装発射管で片舷1門ずつ計2門が装備された。この時に旧態化した17cm単装砲と4.7cm機砲は撤去され、替わりにアームストロング(後のアームストロング・ホイットワース)式「12cm(40口径)速射砲」が単装砲架で舷側に片舷2基ずつ計4基とオチキス 4.7cm(43口径)単装機砲11基が搭載された。さらに1894年(明治27年)に実施された近代化改装時に25mm4連装機砲は4基に減じ、代わりにオチキス 4.7cm(43口径)単装機砲が14基に増備された。これに伴い11mm5連装機銃は4基に増加した。1900年(明治33年)にはアームストロング式「15.2cm(40口径)速射砲」を採用し、艦首甲板上に1基、後部甲板上に1基の計2基が配置された。重量増加を抑えるべくオチキス 4.7cm(43口径)単装機砲は4基撤去され10基に減じられた。また、魚雷発射管は装備方法は同じで口径を35.6cmから45.7cmに拡大された物を新たに搭載している。

クルップ砲[編集]

本艦の建造はイギリスで行われたが備砲はドイツ製のクルップ砲を採用した。これは当時のイギリス海軍が使っていた前装砲(砲口から発射薬と弾丸を装てんする古い方式)を避け、取り扱いに便利な後装砲(尾栓を開いて発射薬と弾丸を装てんする方式)を選択したためである。イギリス海軍は1863年薩英戦争で鹿児島を砲撃した後装式アームストロング砲に故障が多かったので、前装砲に戻していた。

艦歴[編集]

歴代艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 伊東祐亨 中佐:1878年5月11日 - 1879年8月19日
  • 松村淳蔵 大佐:1879年8月19日 - 1882年8月
  • 福島敬典 大佐:1882年7月7日 - 1882年8月19日
  • 井上良馨 大佐:1882年8月20日 - 1884年2月8日
  • 伊東祐亨 大佐:1884年2月8日 - 12月20日
  • 相浦紀道 大佐:1884年12月20日 - 1885年12月28日
  • 井上良馨 大佐:1886年1月6日 - 1月29日
  • 児玉利国 中佐:1886年1月29日 - 7月14日
  • 山崎景則 大佐:1886年7月14日 - 1888年6月14日
  • 新井有貫 大佐:1888年6月14日 - 1889年5月15日
  • 瀧野直俊 大佐:1889年5月15日 - 1890年5月13日
  • 鮫島員規 大佐:1890年5月13日 - 1891年6月17日
  • 佐藤鎮雄 大佐:1891年6月17日 - 1891年10月31日
  • 新井有貫 大佐:1894年7月8日 - 1895年11月18日
  • 島崎好忠 大佐:1896年6月5日 - 11月26日
  • 上村正之丞 大佐:1896年11月26日 - 1897年6月1日
  • 瓜生外吉 大佐:1897年6月1日 - 12月28日
  • 成川揆 大佐:1900年6月7日 - 8月6日
  • 今井兼昌 大佐:1900年8月6日 - 11月6日
  • 大塚暢雄 大佐:1900年11月6日 - 1901年7月5日
  • 成田勝郎 大佐:1901年7月5日 - 1902年3月13日
  • 佐々木広勝 中佐:1902年3月13日 - 1903年1月12日
  • 木村浩吉 中佐:1903年1月12日 - 7月7日
  • (兼)奥宮衛 中佐:1903年7月7日 - 12月28日
  • (心得)奥宮衛 中佐:1903年12月28日 - 1905年1月12日
  • 長井群吉 大佐:1905年1月11日 - 12月12日
  • 土山哲三 中佐:1905年12月12日 - 1907年5月2日
  • 築山清智 大佐:1907年5月2日 - 1908年4月1日

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』pp.52-67、「甲鉄艦建造への夢と憧れ」。

参考文献[編集]

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 官報
  • 「世界の艦船増刊第30集 イギリス戦艦史」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第79集 日本戦艦史」(海人社)
  • 泉 江三「軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上巻」グランプリ出版 ISBN 4-87687-221-X c2053
  • 福井静夫『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』光人社 ISBN 4-7698-0607-8

外部リンク[編集]

  • 'Fuso' (1875)本艦の説明。近代化改装以前の本艦のイラストがある。