筑波 (巡洋戦艦)

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巡洋戦艦 筑波
艦歴
起工 1905年1月14日
進水 1905年12月26日
就役 1907年1月14日
その後 1917年1月14日、
火薬庫の爆発により沈没
除籍 1917年9月1日[1]
性能諸元
排水量 常備:13,750t、満載:15,400t
全長 137.1m
水線長 134.1m
全幅 23m
吃水 8m
機関 宮原式重油石炭混燃缶20基
+直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸推進 20,500hp
最大速力 20.5ノット
乗員 879名
武装 30.5cm連装砲 4門
15.2cm単装砲 12門
12cm単装砲 12門
8cm単装砲 4門
45.7cm魚雷発射管 3門
装甲 水線帯 100-180mm
砲塔 180mm
バーベット 180mm
司令塔 200mm
甲板 75mm
一等巡洋艦 筑波のポストカード

筑波(つくば)は、大日本帝国海軍巡洋戦艦(建造時は装甲巡洋艦[2][3][4]筑波型巡洋戦艦1番艦である。 艦名は茨城県の「筑波山」にちなんで名づけられた[5][6]。 この名を持つ日本海軍の艦船としては「筑波艦」(コルベット)に続いて2隻目[6][7]

概要[編集]

戦艦に準ずる砲力を持つ巡洋艦として、また旅順攻囲戦にともなう戦艦2隻(初瀬八島)沈没を補うため、姉妹艦生駒と共に急遽計画・建造された[8][9]。 技術的には巡洋戦艦の先駆ともいうべき艦であり、また旅順港閉塞作戦における事故(吉野春日の衝突で吉野沈没)の戦訓から衝角を廃止した[9][10]。 1912年(大正元年)に類別としての巡洋戦艦が新設されるまでは[11]、一等巡洋艦(装甲巡洋艦)であった[12][3]。戦艦「薩摩」と本艦(筑波)の2隻は、日本が国内で初めて建造した装甲艦である[13][9]1917年(大正6年)1月14日、「筑波」は停泊中の横須賀港で、火薬庫爆発事故により沈没した[6][14]

ジェーン海軍年鑑は、類別変更以前の装甲巡洋艦の分類を用いたが、ワシントン海軍軍縮条約において同型艦の「生駒」は、規制対象の戦艦として扱われた。

艦歴[編集]

本艦は、日露戦争初期に喪失した戦艦「初瀬」と「八島」の代艦として[6]日露戦争臨時軍事費で建造された(安芸、薩摩、筑波、生駒、鞍馬他)[15][16]。 国産最初の大艦として設計され、呉工廠で建造された[10][17]。 艦体・機関や防御力は装甲巡洋艦であるが、主砲は、戦艦と同じ12インチ砲を搭載した[9][18]1905年(昭和38年)1月14日、筑波は「子号装甲巡洋艦」として[2]、呉海軍工廠で起工された[6]。呉海軍工廠は、筑波型2隻(筑波、生駒)を同時に建造することになった[16][19]。 同年6月11日、日本海軍は建造予定の主力艦艇6隻(甲号戦艦〈安芸〉乙号戦艦〈薩摩〉子号装甲巡洋艦〈筑波〉丑号装甲巡洋艦〈生駒〉寅号装甲巡洋艦〈鞍馬〉第一号装甲巡洋艦〈伊吹〉)の艦名を、それぞれ内定する[20]

筑波進水式は同年(明治38年)12月12日を予定し[21][22]明治天皇皇太子(嘉仁親王、のちの大正天皇)が臨席することになった[23][24]。 皇太子・東郷平八郎大将・山階宮菊麿王達は装甲巡洋艦「磐手」(供奉艦笠置)に乗艦し[24]、12月11日に呉へ到着した[25][26]。 だが進水台の異常により[27]、筑波の進水式は延期される[28][29]12月26日、「筑波」は皇太子臨席および東郷平八郎大将立ち合いの下で進水した[30][31]。 同日附で、子号装甲巡洋艦は正式に「筑波」と命名される[2][32]。命名書は、海軍大臣代理の呉鎮守府司令長官有馬新一中将がよみあげた[31]。 同時に、「筑波」」は一等巡洋艦に類別された[12][33]1907年(明治40年)1月14日、竣工[6]

同年2月28日、第二艦隊司令長官伊集院五郎中将指揮下の2隻(筑波、千歳)は横浜を出発する[6][34]アメリカ殖民300年祭記念観艦式ハンプトン・ローズ)に参加し、その後ヨーロッパ各国を歴訪した[6][35]。 11月16日、帰国した[36]。 12月27日、明治天皇は「筑波」に乗艦、同時に「千歳」を親閲した[37][38]

1912年(大正元年)8月28日、日本海軍は艦艇類別等級表を改訂する[11]。4隻(筑波、生駒、鞍馬、伊吹)は巡洋戦艦に類別された[39][3]

1914年(大正3年)3月20日、裕仁親王(昭和天皇)・雍仁親王(秩父宮)宣仁親王(高松宮)は神戸港で戦艦「薩摩」(加藤友三郎第一艦隊司令長官)に乗艦する[40]。先導艦は戦艦「摂津」、供奉艦は戦艦「石見」であった[40]。海軍兵学校のある江田島にむけて航行中の3月22日午前中、軍艦3隻(筑波、金剛周防)は御召艦の仮想敵となる[41]。当時の筑波艦長は加藤寛治大佐だった[41]

1915年(大正4年)12月4日、横浜沖合で特別観艦式がおこなわれる[36][42]大正天皇横浜港において「筑波」に乗艦、本艦は天皇の御召艦となった[43][44]裕仁親王(皇太子。のちの昭和天皇)秩父宮雍仁親王高松宮宣仁親王は装甲巡洋艦「常磐」に乗艦して、防護巡洋艦「矢矧」に先導される「筑波」を出迎えた[45]。供奉艦は常磐以下3隻(矢矧、満州、常磐)[45][43]。日本海軍艦艇(扶桑摂津河内安芸薩摩筑摩笠置利根比叡金剛榛名霧島対馬新高音羽最上橋立大和武蔵千早、嵯峨、宇治)等以外にも、米国支那艦隊司令長官座乗の巡洋艦サラトガ(ACR-2、4代目サラトガ)が参列した[43]。 このあと大正天皇は「筑波」より賜餐艦の扶桑型戦艦「扶桑」に乗艦した[45][44][46]

1916年(大正5年)5月21日、皇太子(裕仁親王)・雍仁親王・宣仁親王が横須賀軍港に行啓し、修理中の巡洋戦艦「金剛」や建造中の扶桑型戦艦「山城」を見学する(筑波も横須賀在泊)[47][48]。この時、軍港の見学移動に筑波艦載の水雷艇が使用された[47]。 10月25日、東京湾で行われた観艦式で、「筑波」は再び大正天皇の御召艦となる[49][50]

1917年(大正6年)1月14日、横須賀軍港には本艦以下日本海軍の艦艇多数(筑波河内生駒榛名金剛津軽山城等)が所在だった[51][52][53]。 午後3時15分、「筑波」は前部火薬庫事故により大爆発を起こして轟沈した(浅海底のため艦橋等一部露出)[54][55]。 日曜日で乗組員の半数が上陸しており、爆発時に艦内に残っていた乗組員は約340名と推定され、そのうち約半数以上が殉職した[53][56]

1月16日、日本海軍は事故査問委員会(委員長加藤寛治少将)を組織、平賀譲も一委員として加わっている[57]。 合同葬儀は1月21日に行われた[58][59]9月1日、「筑波」は軍艦籍[1]および艦艇類別等級表から除籍された[60][61]。爆沈時の筑波艦長有馬純位大佐は、事故から約2年後に病死[62]。横須賀の馬門山海軍墓地には、筑波・河内(1918年7月12日爆沈)の慰霊碑が並んで建立されている[62]

略歴[編集]

なお児童文学作家佐藤さとるが、編集顧問(最高代表)をつとめる同人「鬼ヶ島通信」で連載した、海軍士官だった父の人物伝『佐藤完一の伝記 海の志願兵』の同誌50+5号掲載分で(連載終了後、書き下ろしを加えて偕成社から発売)父の日記が引用されており、「自分(父)と同期の二人の目前で筑波が突如爆発し、絶句した」と記されている。

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 竹内平太郎 大佐:1906年8月10日 - 1907年12月27日
  • 広瀬勝比古 大佐:1908年9月15日 - 1910年12月1日
  • 築山清智 大佐:1910年12月1日 - 1911年4月12日
  • 山路一善 大佐:1911年4月12日 - 1911年12月1日
  • 橋本又吉郎 大佐:1911年12月1日 - 1912年7月9日
  • 竹下勇 大佐:1912年7月9日 - 9月12日
  • 鈴木貫太郎 大佐:1912年9月12日 - 1913年5月24日
  • 堀内三郎 大佐:1913年5月24日 - 12月1日
  • 加藤寛治 大佐:1913年12月1日 - 1914年5月6日
  • 竹内次郎 大佐:1914年5月6日 - 1915年4月1日
  • 片岡栄太郎 大佐:1915年4月1日 - 12月13日
  • (兼)関重孝 大佐:1915年12月13日 - 1916年1月10日
  • 吉岡範策 大佐:1916年1月10日 - 12月1日
  • 有馬純位 大佐:1916年12月1日 -

同型艦[編集]

参考文献[編集]

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第一 自明治三十四年至大正二年』 東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-487-74401-5。
  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第二 自大正三年至大正九年』 東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74402-2
  • 宮内庁図書寮編 『大正天皇実録 補訂版 第二 自明治三十四年至明治四十年』 株式会社ゆまに書房、2017年11月。ISBN 978-4-8433-5040-9
  • 原武史 『大正天皇 朝日選書663』 朝日新聞社、2000年11月。ISBN 4-02-259763-1
  • 福井静夫福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第一巻 日本戦艦物語〔Ⅰ〕』 阿部安雄、戸高一成編、光人社、1992年5月。ISBN 4-7698-0607-8
  • 福井静夫福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第二巻 日本戦艦物語〔Ⅱ〕』 阿部安雄、戸高一成編、光人社、1992年8月。ISBN 4-7698-0608-6
  • 福井静夫福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第八巻 世界巡洋艦物語』 阿部安雄、戸高一成編、光人社、1994年6月。ISBN 4-7698-0656-6
  • 正木生虎 『正木義太傳および補遺 一海軍士官の記憶』 文藝春秋、2009年11月。ISBN 978-4-16-371670-1
  • 『写真 日本の軍艦 戦艦 II 金剛・比叡・榛名・霧島 戦艦時代の夜明け』第2巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1989年8月。ISBN 4-7698-0452-0
  • 官報
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『軍艦壱岐以下三艦ヘ勅諭ヲ下付セラル』。Ref.A01200239900。
    • 『明治三十七、八年戦役ニ於ケル戦利艦船処分済ノ件』。Ref.A04010138000。
    • 『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。
    • 『明治38年 達 完/12月』。Ref.C12070053600。
    • 『大正1年 達 完/8月』。Ref.C12070064400。
    • 『大正6年 達 完/9月』。Ref.C12070072500。
    • 『筑波進水(1)』。Ref.C06091995400。
    • 『筑波進水(2)』。Ref.C06091995500。
    • 『米艦「サラトガ」参列の件』。Ref.C08020561500。
    • 『米艦「サラトガ」関係』。Ref.C08020583600。

脚注[編集]

  1. ^ a b c #達大正6年9月p.1「達第百三號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 筑波 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正六年九月一日 海軍大臣 加藤友三郎」
  2. ^ a b c #達明治38年12月p.22「達第一九五號 呉海軍工廠ニ於テ製造ノ子號装甲巡洋艦ヲ筑波ト命名セラル 明治三十八年十二月二十六日 海軍大臣男爵 山本権兵衛」
  3. ^ a b c #達大正1年8月p.33「達第十二號 艦艇類別等級別表ノ通改正ス 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 斎藤實|艦艇類別等級表|軍艦|巡洋戰艦|筑波、生駒、鞍馬、伊吹|」
  4. ^ #帝国最新軍艦帖コマ45「巡洋戦艦 筑波」
  5. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ13(原本3頁)「筑波(つくば)【初代】
    艦種軍艦 三檣「シップリッグ・コルベット」
    艦名考山名に採る、筑波山は筑波山、筑波ツクバネの別稱あり、常陸國筑波・眞壁・新治の三郡に跨る、標高2,892尺。嘉永4年英領「マラッカ」の内「ムヲルメン」に於て建造、原名「マラッカ」、明治4年7月英國人より購入、筑波艦と名づく、同10年西南役從軍、同27・8年戰役從軍(横須賀軍港警備)同31年3月三等海防艦に列す、同37・8年日露戰役從軍、同38年6月除籍、同40年1月賣却。 ―要目―(省略)]
  6. ^ a b c d e f g h i 幕末以降帝国軍艦写真と史実第91コマ(原本144頁)「筑波(つくば)【二代】
    艦種一等軍巡洋艦 二檣(信號用)
    艦名考艦名の起源は初代「筑波」の項(p.3)参照。
    艦歴明治37年2月、日露開戰後僅かに數月ならずして我海軍は初瀬・八島兩艦沈没の不運に遭遇し、愈々之に代るべき大鑑の必要を痛感し筑波・生駒の建造を決し、呉海軍工廠に於て明治38年1月14日起工。同41年英國皇帝戴冠式に列する爲め同國に回航、次に欧米諸國を回航(筑波・千歳 第二艦隊司令長官伊集院五郎引率、艦長竹内平太郎)。大正元年8月巡洋戰艦に編入(昭和8年艦船類別標準改正により此の名稱廢され戰艦となる)、同3年乃至9年戰役從軍:同3年9月第一南遣支隊に属し南洋方面に行動、「マーシャル」・東「カロリン」群島の占領に任ず(艦長大佐竹内次郎)、同6年1月14日横須賀港に於て災禍の爲め爆沈。
    ―要目― 長440呎/幅75呎/喫水26呎/排水量13,750噸/機關 往復機關2基、宮原式罐/馬力20,500/速力20.5/乗組人員830/船材 鋼(甲帶7吋)/兵装 12吋砲4/6吋砲12/4.7吋砲12/3吋砲6/機關砲4/發射管5/起工 明治38-1-14/進水 同38-12-16/竣工 40-1-14/建造所 呉工廠」
  7. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ196「◎筑波艦命名ノ件 明治四年八月十九日(兵部省七二) マラカ艦 自今筑波艦ト改稱相成候條此旨相達候事」
  8. ^ #福井戦艦物語壱134-138頁「筑波型の急速建造」
  9. ^ a b c d #主力艦展望コマ14(原本12頁)「(1)帝國軍艦筑波の竣功 日露戰争の教訓を血を以て購った我海軍は一九〇五年國産最初の主力艦として筑波の建造を開始した。同艦は排水量一二,〇〇〇噸の装甲巡洋艦であるが、その主砲に戰艦と同様四五口徑十二吋砲四門を装備し、而もこれに二〇浬の速力を與へた。此の如き性能を有する艦種はこれまで世界何れの海軍にも全く類例を見なかったもので、全く後進日本海軍が世界に投じた一石であったのでるが、これが後に發達した巡洋戰艦の先驅となったわけで、日本の投じた一石はやがて世界の海に大きな波紋を描くことゝなったのである。
    筑波はかくの如く獨特の新性能を備へて生れた我海軍自慢の新艦であった他に、今まで數十年間恰も軍艦の表徴であるかのやうに看られてゐた衝角を敢然と廢止して、商船のやうなクリッパー型艦首に改めた世界の第一艦であり、これを契機として我新造軍艦の艦首は原則としてクリッパー型に決められたのであるが、これは日露戰争の最中に我巡洋艦吉野が暗夜誤って僚艦春日に衝撃されて沈没した凄惨な事實から、敵艦を衝撃すると稱する衝角が、敵を衝く前に先づ味方を衝く危険至極の厄介者であることが實證された結果に他ならないのである。
    然るに此有害無益の長物は歐米先進国の軍艦にはその後十年近くも依然として取付けられてゐたのであるが、二〇,〇〇〇mの射程を誇る大口徑の主砲と、前世紀の遺物たる衝角とが恬然として同一の軍艦に雑居してゐるなどは、時代錯誤も甚だしいもので、識者の嗤を招くに充分な滑稽であった。
  10. ^ a b #福井世界巡洋艦220頁「(2)筑波、生駒 一九〇五〜一九〇六年、一万三七五〇トン、二一ノット」
  11. ^ a b #達大正1年8月p.32「達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 斎藤實」
  12. ^ a b #達明治38年12月p.23「達第一九六號 艦艇類別等級別表中巡洋艦ノ欄一等ノ下「阿蘇」ノ次ニ「筑波」ヲ加フ 明治三十八年十二月二十六日 海軍大臣男爵 山本権兵衛」
  13. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ238(原本84頁)「一、初めて内國にて装甲艦を起工す ― 明治三十八年(一九〇五)戰艦「薩摩」を横須賀工廠にて、又巡洋艦「筑波」を呉工廠にて起工す、初めて十二吋砲及び装甲鈑を呉にて造り且つ宮原式混燃水管罐を装備す、(此年英國に「ドレットノート」起工)」
  14. ^ #海軍夜話コマ111-112(原本195-196頁)「海軍建設史上の尊い犠牲」
  15. ^ #福井戦艦物語壱140-141頁「(4)明治三十九年艦艇補足計画」
  16. ^ a b 写真日本の軍艦2巻、248-249頁「阿部安雄日露戦役後の国産戦艦」
  17. ^ #海戦の変貌コマ176(原本315頁)「四十年には、軍艦筑波が呉海軍工廠で竣工した。これは排水量一萬四千噸の装甲巡洋艦であつたが、十二吋砲を四門搭載してゐた。當時は世界何れの國の海軍を見ても巡洋艦に十二吋砲を搭載してゐるものは一隻もなかつたのである。次いで姉妹艦の生駒が生れ、更に改良型の鞍馬、伊吹が生れた。」
  18. ^ #福井戦艦物語壱143-144頁「筑波型に見る建艦政策の卓見」
  19. ^ #福井戦艦物語壱152-154頁「空前の二隻同時建造」
  20. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199「◎戰艦安藝薩摩装甲巡洋艦筑波生駒鞍馬伊吹命名ノ件 明治三十八年六月十一日(内令三一六)新造軍艦六隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行マテ部内限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|呉海軍工廠ニ於テ製造 甲號戰艦 安藝|横須賀海軍工廠ニ於テ製造 乙號戰艦 薩摩|呉海軍工廠ニ於テ製造 子號装甲巡洋艦 筑波/丑號装甲巡洋艦 生駒|横須賀海軍工廠ニ於テ製造 寅號装甲巡洋艦 鞍馬|呉海軍工廠ニ於テ製造 第一號装甲巡洋艦 伊吹」
  21. ^ #筑波進水(1)pp.10-12「呉鎮第一七三九號ノ一六 來ル十二月十二日一等装甲巡洋艦進水式擧行セシメラレ皇太子殿下行啓爲在ニ付其御次第書左ノ通定メラル 明治三十八年十二月十日 呉鎮守府司令長官有馬新一」
  22. ^ #福井戦艦物語壱154-156頁「進水式当日の大椿事」
  23. ^ 明治38年12月18日官報第6741号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5「○皇太子殿下ハ本月二十六日軍艦筑波進水式ニ臨マセラルルタメ舞子ニ御滞在アラセラヘキ旨仰出サレタリ」
  24. ^ a b 大正天皇実録第二、229-230頁「(明治三十八年十二月)八日 呉軍港に行啓/横浜港御解纜/供奉員」
  25. ^ 大正天皇実録第二、230頁「呉軍港に御箸」
  26. ^ 明治38年12月27日官報第6749号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5「○東宮御安著 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月二十四日舞子有栖川宮別邸御出門軍艦磐手ニ乗同夜備後國鞆ニ御假泊一昨日二十五日同所御發午後二時十五分呉軍艦ニ御著アラセラレタリ/○東宮臨御 皇太子殿下ハ昨二十六日午前九時呉軍港ニ於ケル軍艦筑波進水式ニ臨マセラレタリ/○東宮還御仰出 皇太子殿下ハ昨二十六日呉御發陸路還御アラセラルヘキ旨仰出サレタリ御發著割左ノ如シ 十二月二十六日午後一時 呉停車場御發車/同二十七日午後一時四十分新橋停車場御著者 還御」
  27. ^ 大正天皇実録第二、230頁「(明治三十八年十二月)十二日 軍艦筑波進水式に御臨場/故障の為め進水を中止す」
  28. ^ #筑波進水(2)pp.13-16「軍艦筑波進水中止ノ原因等調書(明治三十八年十二月十二日)」
  29. ^ 「筑波艦進水式故障の為め失敗」報知新聞1905年12月15日『新聞集成明治編年史. 第十二卷』(国立国会図書館http://dl.ndl.go.jp/)
  30. ^ #東郷全集1巻コマ281(原本536頁)「明治三十八年十二月二十六日呉軍港に於て子號ねごう一等巡洋艦(筑波と命名せられたるものなり)の進水式擧行せられ、東宮殿下御臨場あらせらるゝことゝなるや、軍令部長たる東郷大将は扈從し奉る爲め、小笠原参謀を從へて、同月二十四日呉に箸し、同鎮守府司令長官海軍中将有馬新一以下の出迎を受けて旅館吉川に投宿せしが、二十五日殿下の御召艦磐手舞子より入港せるを以て、直ちに同艦に赴きて御機嫌を奉伺せり、尋いで翌二十六日進水式式場の台臨に扈從し奉り、了りて還啓の御召列車に陪乗を差許され二十七日新橋停車場御箸の上東宮御所まで御供申上げたり。是同大将が鶴駕に扈從し奉りたるの嚆矢にして、亦實に記念すべき一事なりとす。」
  31. ^ a b 大正天皇実録第二、233-234頁「(明治三十八年十二月)二十六日 軍庵筑波進水式に御臨場/呉軍港御発」
  32. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199番「◎装甲巡洋艦筑波命名ノ件 明治三十八年十二月二十六日(達一九五)呉海軍工廠ニ於テ製造ノ子號装甲巡洋艦ヲ筑波ト命名セラル」
  33. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ54「明治三十八年十二月二十六日(達一九六)達第一九六號 艦艇類別等級別表中巡洋艦ノ欄一等ノ下「阿蘇」ノ次ニ「筑波」ヲ加フ」
  34. ^ 明治40年3月1日官報第7098号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6「○陸海軍○軍艦發箸 各港灣ニ於ケル軍艦發箸左ノ如シ(海軍省)筑波千歳}同二八 横濱 新嘉坡」
  35. ^ 大正天皇実録第二、292頁「東宮武官御差遣」「二月二十五日|亜米利加並欧羅巴沿岸へ派遣の軍艦筑波・千歳|東宮武官 黒水公三郎」
  36. ^ a b #水難救済軍艦コマ67-68「巡洋戰艦筑波 一、進水年月日 明治三十八年十二月二十六日/一、排水量 一萬三千七百五十噸/一、馬力 一萬九千馬力/一、速力 二十節五/一、主砲 十二吋砲四門 六吋砲十二門/一、建造地及建造所 呉海軍工廠/一、日獨戰爭に参加したる際重要なる事項 南遣隊に編入山屋司令官の麾下に属し南洋方面に行動す/一、其他特に重要なる事項 大正四年十二月四日東京灣に於ける特別觀艦式御召艦任務に從事 明治四十年二月廿八日(遣外艦隊に編入欧米に派遣せらる)本邦發同年十一月十六日歸投航程三萬三千九百四十三浬/以上」
  37. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ239(原本86頁)「明治四〇-一二-二七|横須賀軍港にて軍艦筑波千歳御親閲|軍艦筑波」
  38. ^ 明治40年12月28日官報第7352号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ14「○行幸 天皇陛下ハ曩ニ仰出サレシ如ク昨二十七日横須賀軍港ニ於テ第二艦隊ノ一部御親閲ノタメ午前九時御出門同九時二十分新橋停車場御發車同港ヘ行幸午後三時十分還幸アラセラレタリ」
  39. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ56-57「◎艦艇類別等級 大正元年八月二十八日(達一二)艦艇類別等級別表ノ通改正ス(別表)|艦艇類別等級表|軍艦|巡洋戰艦|筑波、生駒、鞍馬、伊吹|」
  40. ^ a b 昭和天皇実録第二、15-16頁「(大正三年三月)二十日 金曜日 京都御発/軍艦薩摩にて神戸出港」
  41. ^ a b 昭和天皇実録第二、16-17頁「(大正三年三月)二十二日 日曜日 発火演習御覧/江田島湾御到着/海軍兵学校に行啓)」
  42. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ239(原本87頁)「大正 四-一二-四|横濱沖|特別観艦式|筑波(略)」
  43. ^ a b c #菊華会、花之巻コマ65-66(原本103-104頁)「筑波艦に乗御」
  44. ^ a b 大正4年12月6日官報第1004号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3「○行幸 天皇陛下ハ一昨四日午前七時四十五分御出門同八時東京停車場御發車同八時五十分舊横濱停車場御著車軍艦筑波ニ乗艦横濱沖ニ於テ特別観艦式ヲ行ハセラレ訖テ更ニ軍艦扶桑ニ乗御特別観艦式ニ關與ノ海軍将校其他ニ午餐ヲ賜ハリ午後四時三十五分舊横濱停車場御發車同五時二十五分東京停車場御着車同五時四十分還幸アラセラレタリ/○東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨四日午前七時十分東宮御所御出門同七時四十分東京停車場御發車横濱港ヘ行啓観艦式御覽午後一時五十五分横濱新港税關桟橋御發車同三時二十五分還御アラセラレタリ」
  45. ^ a b c 昭和天皇実録二、170-171頁「(大正四年十二月)四日 土曜日(特別観艦式/軍艦常磐に御乗艦)」
  46. ^ #菊華会、花之巻コマ66(原本105頁)「扶桑艦上の賜宴」
  47. ^ a b 昭和天皇実録二、206-207頁「(大正五年五月)二十一日 日曜日(横須賀行啓/海軍工廠御見学/横須賀鎮守府/横須賀海軍航空隊)」
  48. ^ 大正5年5月20日(土)海軍公報 第1124号 p.39』 アジア歴史資料センター Ref.C12070250500 「○艦船所在○五月二十日午前十時調【横須賀】金剛▲、筑波、津輕、橋立▲、満州▲、周防、千早▲、八雲▲、山城、(司令)浦風▲、海風▲、山風▲、(司令)橘、樺▲、櫻、桐▲、朝日▲、(司令)如月▲、初霜▲、神風▲、響▲、薄雲、山彦、(司令)夕暮、夕立、白露、三日月、青島、(司令)鷗、雉、鴻、白鷹、(司令)夕霧、叢雲、陽炎、不知火▲、若宮、栗橋丸、鹿兒島丸」
  49. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ239(原本87頁)「大正 五-一〇-二五|横濱沖|恒例観艦式|筑波(略)」
  50. ^ 大正五年十月二十六日官報第1272号。国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953383 コマ2「○行幸 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク昨二十五日午前七時二十五分御出門同七時四十分東京停車場御發車同八時二十分横濱停車場御著車軍艦筑波ニ乗御東京湾ニ於ケル大正五年恒例観艦式御閲終テ午後三時五十分横濱停車場御發車同四時三十分東京停車場御著車同四時四十五分還幸アラセラレタリ」
  51. ^ 大正6年1月13日(土)海軍公報 第1311号 p.15』 アジア歴史資料センター Ref.C12070254200 「○艦船所在○一月十三日午前十時調【横須賀】(旗艦)榛名▲、河内、生駒、若宮、(司令)彌生、吹雪、霰、有明、(司令)浦風、海風、山風、金剛、満州、周防▲、筑波、津輕、音羽▲、橋立▲、千早、朝日▲、山城、武藏▲、松江、(司令)不知火▲、陽炎▲、叢雲▲、夕霧▲、(司令)樺、桐、櫻、橘、(司令)初霜、如月、神風、響、(司令)白露、夕暮▲、夕立、三日月、薄雲、山彦、(司令)雉▲、鷗▲、鴻▲、白鷹、高崎、栗橋丸、鹿兒島丸」
  52. ^ 大正6年1月15日(月)海軍公報 第1312号 p.17』 アジア歴史資料センター Ref.C12070254200 「○艦船所在○一月十五日午前十時調【横須賀】(旗艦)榛名、河内、生駒、若宮、(司令)彌生、吹雪、霰、有明、(司令)浦風、海風、山風、金剛、満州、周防▲、筑波、津輕、音羽▲、橋立▲、千早、朝日▲、山城、武藏▲、松江、(司令)不知火▲、陽炎▲、叢雲▲、夕霧▲、(司令)樺、桐、櫻、橘、(司令)初霜、如月、神風、響、(司令)白露、夕暮▲、夕立、三日月、薄雲、山彦、(司令)雉▲、鷗▲、鴻▲、白鷹、高崎、栗橋丸」
  53. ^ a b #災害篇コマ136-137「筑波艦沈没す(大正六年一月十五日東京朝日新聞)十四日午後三時十五分横須賀軍港第二區に停泊中なる軍艦筑波の火藥庫轟然たる大音響を立てて爆發し同時に非常なる震動を爲し、筑波の舷首に於て茶褐色の爆煙高く揚り、上甲板上の乗組員は震動の爲海中に振り落され爆煙は次第に高く揚りて、約百米に達したるが是と同時に艦は大破して午後三時十八分に至るや艦體の後半を現出し、約三十度の傾斜を爲して三時三十分全部沈没せり。大檣は挫折し、海上には後部約一丈餘上甲板を表はし居るのみ、當日は日曜日にて六百餘名の乗組員に半舷上陸を許したれば爆發の當時艦内に在りしは、約三百四十名にて爆沈の際海上に刎ね飛ばされた生存者も悉く海中に漂ひて惨状名状するに能はず、折柄港内には軍艦津輕を初め、河内、生駒、榛名、金剛、其他各軍艦、驅逐艇碇泊し居たるが、急を見るより何れも直に艦載ランチ、カツターを出して救助に着手せるが其混在は宛ら戰場の如く、同時に上陸員全部の非常招集を行ひ、百方救護と手當に奔走し居れるが死傷者は今尚取調べ中なり。」
  54. ^ 大正6年1月15日(月)海軍公報 第1312号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C12070252300 「○軍艦沈没 軍艦筑摩昨十四日午後三時十五分横須賀軍港内ニ於テ前部火薬庫爆發シ沈没セリ(左舷十一度傾斜、艦橋以上水面ニ露出)|○筑波死傷者 死者 中尉谷口諶一、下士卒七/行衛不明者 機關兵曹長月岡安太郎、上等兵曹時田久七、仝山下源治、船匠師鈴木芳太郎、下士卒一五二」
  55. ^ #災害篇コマ137「○爆發瞬間の光景」
  56. ^ #大正の海軍物語コマ101(原本182頁)「又この間に我海軍は二大艦を失つて居た。大正六年一月十四日横須賀軍港二區に繋留の巡洋戰艦筑波は、午後三時十四分前部の火藥庫突如として爆發し、艦體は前部より見る見る沈没し、遂に檣、艦橋、煙突等を水上に現はして海底に膠着した。當日は恰も日曜日のことゝて、乗員は半舷上陸をして居たが、在艦員に多數の死傷者を出した。」
  57. ^ 大正6年1月16日(火)海軍公報 第1313号 pp.19-20』 アジア歴史資料センター Ref.C12070254200 「○辭令 海軍少将 加藤寛治 軍艦筑波爆沈事件ニ關スル査問委員長ヲ命ス」
  58. ^ #災害篇コマ138「百五十の英靈瞑せん(一月二十一日、同上)」
  59. ^ 大正6年1月18日(水)海軍公報 第1315号 p.20』 アジア歴史資料センター Ref.C12070252300 「○葬儀 故海軍中尉谷口諶一以下筑波殉難者ノ葬儀ハ來二十一日午後二時横須賀海軍下士卒集會所ニ於テ海軍葬儀執行」
  60. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ58「大正六年九月一日(達一〇四)艦艇類別等級別表中「筑波、」ヲ削ル」
  61. ^ #達大正6年9月p.1〔達第百四號 艦艇類別等級別表中「筑波、」ヲ削ル 大正六年九月一日 海軍大臣 加藤友三郎 〕
  62. ^ a b #正木義太傳195-197頁「河内艦長時代 大佐」
  63. ^ #筑波進水(2)p.35「筑波廿六日午前九時無事進水セリ 十二月廿六日呉鎮長官」
  64. ^ #大正天皇(原2000)108頁
  65. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ239(原本86頁)「大正四-一二-四|横濱港にて特別観艦式|軍艦筑波」
  66. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ239(原本86頁)「大正五-一〇-二五|横濱港にて恒例観艦式|軍艦筑波」
  67. ^ 昭和天皇実録二、268-269頁「(大正六年一月)十五日 月曜日(軍艦筑波爆沈事故)昨十四日、横須賀軍港において軍艦筑波が火薬庫爆発事故により沈没し、多数の死傷者・行方不明者を出す。よってこの日、御慰問のため東宮武官宇川知義を差し遣わされる。十七日には死亡者・行方不明者へ香料を、負傷者へ菓子料を下賜される。」

関連項目[編集]