薩摩 (戦艦)

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戦艦 薩摩
艦歴
発注 1904年
起工 1905年5月15日
進水 1906年11月15日
就役 1910年3月25日
退役 1923年9月20日除籍
その後 1924年9月2日、標的艦として沈没
性能諸元
排水量 基準:19,372 t、満載:19,700 t
全長 137.2m
全幅 25.4 m
吃水 8.38 m
機関 宮原式石炭専焼缶20基
3段膨張式レシプロ2基2軸
17,300馬力
最大速 18.25ノット
兵員 887名
兵装 30.5cm砲連装2門
25.4cm砲12門
12.0cm砲12門
8.0cm砲8門
45cm魚雷発射管5門
装甲 水線9inch
甲板2inch
主砲塔8inch
副砲郭6inch

薩摩(さつま)は[1]日本海軍戦艦[2][3]。 艦名は薩摩国に由来する[1]日本が初めて自国で建造した戦艦である[4]日露戦争中の明治37年度の臨時軍事費で建造された。準同型艦に「安芸」がある[1]

概要[編集]

薩摩は常備排水量19,372トンで建造当時世界最大の戦艦であった。だが1906年イギリスドレッドノート弩級艦)が竣工したため、竣工前に旧式艦となってしまった。

しかしながら東洋有色人種国家が独自設計の戦艦を建造する事自体が、西欧列強にとっては驚異的であり、薩摩が無事進水できるかどうかで、当時の日本在住の外国人の間で賭けが行われていたとも言われる。[要出典]

主砲は前後に30.5cm45口径連装砲各1基と両舷に25.4cm45口径連装砲各3基を搭載し、副砲として12cm40口径単装砲12基を搭載していた[1]弩級戦艦に勝らないまでもかなり肉薄する砲力を持っていたが、実際には初の国産戦艦である本艦の主砲には問題があり、発射速度が低く、実際には敷島型にも劣る砲力しか無かった。だがその後逐次改良・整備が進められ、晩年に至って弩級戦艦にも匹敵する砲戦能力に達したとも言われる。[要出典]

艦歴[編集]

1905年(明治38年)5月15日、本艦は横須賀海軍工廠で起工[1]1905年(明治38年)6月11日、日本海軍は乙号戦艦の艦名を「薩摩」と内定する(甲号戦艦は安芸を予定)[5]1906年(明治39年)11月15日、進水[1][6]明治天皇嘉仁親王皇太子)が臨席し[6]、乙号戦艦は制式に「薩摩」と命名される[7][2]。同日附で戦艦に類別[3]1910年(明治43年)3月25日、竣工[1][8]。第一艦隊に編入[9]

1911年(明治44年)11月26日、当時10歳の裕仁親王(のちの昭和天皇)および弟宮の雍仁親王宣仁親王、また皇族一同と乃木希典小笠原長生等は横浜港沖合に停泊中の「薩摩」に乗艦[10]上村彦之丞第一艦隊司令長官や山口九十郎薩摩艦長の案内で、本艦を見学した[10]

1914年(大正3年)3月下旬、大正天皇皇太子(当時13歳の裕仁親王。のち昭和天皇)および弟宮(雍仁親王、宣仁親王)は江田島に行啓することになった[11][12]。 3月20日昼、神戸港で皇太子一行は「薩摩」(薩摩艦長吉島重太郎大佐)に乗艦[11][12]。供奉艦は戦艦2隻(摂津《摂津艦長木村剛大佐》、石見《石見艦長小林恵吉郎大佐》)[11]。 3月21日、皇太子達は高松市香川県)に上陸[13][12]。 3月22日午前中、皇太子一行(薩摩、摂津、石見)は軍艦3隻(筑波金剛周防)との演習を見学[14]。午後2時、「薩摩」は江田島に到着し、皇太子一行は海軍兵学校に行啓した[14][15]。 3月23日も皇太子一行は海軍兵学校に行啓、午後4時頃に「薩摩」へ戻った[16][17]。 3月24日、「薩摩」は宮島に移動、皇太子一行は上陸して厳島神社を参拝、午後2頃帰還した[18][19]。呉に移動後、皇太子一行は呉軍港に上陸する[18][19]。 3月25日、艦隊(薩摩、摂津、石見)は小豆島に移動する[20][21]。 3月26日、艦隊(薩摩、摂津、石見)は小豆島から神戸港に移動(途中、戦艦朝日と遭遇)[22][23]。昼頃に神戸港到着、皇太子一行は御召艦「薩摩」を退艦した[22][23]

第一次世界大戦では第二南遣支隊に組み入れられ、太平洋ドイツ領の攻略作戦などで活躍した[24]

1920年(大正9年)3月下旬、大正天皇皇太子(のちの昭和天皇)が四国・九州地方を巡啓することになり、3月24日に神戸港で御召艦「香取」に乗艦する[25][26]。先導艦を「安芸」、供奉艦を「薩摩」他が務めた[25]

1923年(大正12年)9月20日ワシントン軍縮条約によって廃艦が決定され[1]、除籍[27]。艦艇類別等級表からも削除[28][29]

1924年(大正13年)9月2日連合艦隊の主力艦艇が館山沖に集結[30]。本艦は房総半島野島埼沖(伊豆大島東方海面)において戦艦日向金剛などの研究射撃標的艦となる[31]。つづいて長良型軽巡洋艦2隻(由良名取)による研究射撃を実施したが、上部構造物の破壊にとどまった[31]。最終的に第5駆逐隊の松風型駆逐艦3隻(第三号《朝風》第五号《春風》第七号《松風》)が発射した魚雷3本により雷撃処分された[31]中村俊久(当時、東郷元帥副官)によれば、東郷平八郎元帥は「石見(元ロシア戦艦オリョール)は分捕艦だから別だが、国民の血税で漸く出来た艦を自らの手で沈めるのは見るに忍びない」として「薩摩」の沈没には立ち会わなかったという[32]

年表[編集]

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 上泉徳弥 大佐:1909年1月15日 - 12月1日 *兼横須賀海軍工廠艤装員
  • 荘司義基 大佐:1909年12月1日 - 1910年3月1日 *兼横須賀海軍工廠艤装員(1909年12月8日 - 1910年3月1日)
  • 江口麟六 大佐:1910年3月1日 - 1911年1月31日 *兼横須賀海軍工廠艤装員( - 1910年4月1日)
  • 上村経吉 大佐:1911年1月31日 - 11月20日
  • 山口九十郎 大佐:1911年11月20日 - 1913年5月24日
  • 上村経吉 大佐:1913年5月24日 - 12月1日
  • 吉島重太郎 大佐:1913年12月1日 - 1915年10月1日
  • 布目満造 大佐:1915年10月1日 - 12月13日
  • 堀輝房 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
  • 飯田久恒 大佐:1916年12月1日 - 1917年3月19日
  • 竹内重利 大佐:1917年3月19日 - 12月1日
  • 島内桓太 大佐:1917年12月1日 - 1918年4月9日
  • 飯田延太郎 大佐:1918年4月9日 - 6月1日
  • 大内田盛繁 大佐:1918年7月5日 - 1919年11月20日
  • 森本義寛 大佐:1919年11月20日[33] - 1920年11月20日
  • 中川寛 大佐:1920年11月20日 -
  • 三上良忠 大佐:1921年11月26日 - 1922年1月26日
  • 横地錠二 大佐:1922年1月26日 - 11月10日
  • 田村丕顕大佐: 1922年11月10日 - ※1923年6月1日まで「三笠」艦長兼任[34]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.85『薩摩(さつま) 艦種一等戰艦 二檣(信號用)安藝と姉妹艦。 艦名考國名なり、薩摩國に採る。 艦歴本艦は日露戰役の教訓により副砲を始めて10吋砲とし、所謂弩級戰艦の先驅をなしたるもの、大正3年乃至大正9年戰役(日獨)從軍:同3年9月第蓋南遣支隊に属し西「カロリン」群島の警戒及占領に任ず(司令官中将松村龍雄旗艦、艦長大佐吉島重太郎)、同12年9月20日除籍、廢棄(華府海軍々備制限條約に由る)。 ―要目― 長482呎/幅83.5呎/喫水2.75呎/排水量19,370噸/機關 直立三聯成汽罐2基 宮原式20臺/馬力17,300/速力18.25/乗組人員930/船材 鋼(甲帶9吋)/兵装 12吋砲4 10吋砲12 4.7吋砲12 12听砲12 機關砲4 發射管5/起工 明治38-5-15/進水 同39-11-15/竣工 同42-3-25/建造所 横須賀工廠』
  2. ^ a b #達明治39年11月p.6『達第百四十九號 横須賀海軍工廠ニ於テ製造ノ乙號戰艦ヲ薩摩ト命名セラル 明治三十九年十一月十五日 海軍大臣 斎藤實』
  3. ^ a b #達明治39年11月p.6『達第百五十號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「鹿島」ノ次ニ「薩摩」ヲ加フ 明治三十九年十一月十五日 海軍大臣 斎藤實』
  4. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ238(原本84頁)『一、初めて内國にて装甲艦を起工す ― 明治三十八年(一九〇五)戰艦「薩摩」を横須賀工廠にて、又巡洋艦「筑波」を呉工廠にて起工す、初めて十二吋砲及び装甲鈑を呉にて造り且つ宮原式混燃水管罐を装備す、(此年英國に「ドレットノート」起工)』
  5. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.199『◎戰艦安藝薩摩装甲巡洋艦筑波生駒鞍馬伊吹命名ノ件 明治三十八年六月十一日(内令三一六)新造軍艦六隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行マテ部内限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|呉海軍工廠ニ於テ製造 甲號戰艦 安藝|横須賀海軍工廠ニ於テ製造 乙號戰艦 薩摩|呉海軍工廠ニ於テ製造 子號装甲巡洋艦 筑波/丑號装甲巡洋艦 生駒|横須賀海軍工廠ニ於テ製造 寅號装甲巡洋艦 鞍馬|呉海軍工廠ニ於テ製造 第一號装甲巡洋艦 伊吹』
  6. ^ a b 明治39年11月16日官報7016号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○行幸 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク昨十五日横須賀軍港ニ於テ軍艦薩摩進水式擧行ニ付キ午前八時四十分御出門同九時新橋停車場御發車同港ヘ行幸午後五時八分新橋停車場御着同五時三十分還幸アラセラレタリ/○東宮行啓 皇太子殿下ハ昨十五日午前八時十分新橋御發車横須賀軍港ヘ行啓軍艦薩摩進水式御覽午後三時五十六分横須賀御發車同五時五十五分還御アラセラレタリ』
  7. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.200『◎戰艦薩摩命名ノ件 明治三十九年十一月十五日(達一四九)横須賀海軍工廠ニ於テ製造シタル乙號戰艦ヲ薩摩ト命名セラル』
  8. ^ #正木義太傳173-174頁『薩摩砲術長時代 中佐』
  9. ^ #正木義太傳70-76頁
  10. ^ a b #昭和天皇実録一巻538頁『(明治四十四年十一月)二十六日 日曜日(軍艦薩摩御見学)軍艦薩摩第一艦隊旗艦を御見学のため、午前八時十分、雍仁親王・宣仁親王と共に馬車にて御出門になる。新橋停車場からは芳麿王・博忠王・朝融王・邦久王のほか御学友十名も合流し、学習院長乃木希典及び同御用掛小笠原長生が随伴する。横浜停車場より人力車にて税関波止場に向かわれ、艦載水雷艇にて薩摩に御乗艦になる。長官室において第一艦隊司令長官上村彦之丞及び艦長山口九十郎以下長官に謁を賜う。次いで艦首に移られ、上錨・羅針・信号・海図・司令塔・砲塔及び諸室、救護演習・水雷填込等を御巡覧、さらに薩摩・朝日と弥生以下駆逐艦・水雷艇との砲撃演習を御覧になる。御昼食は弁当を召され、午後は、御昼食厨より吹奏を続ける軍楽隊のもとにお出ましになり、軍歌・唱歌等の演奏をお聴きになる。それより上甲板に移られ、馬蹄形に整列した総員による軍歌「決死隊」「軍人勅諭」の合唱をお聴きになる。ついで消火練習を御覧の後、午後二時十分御退艦、同四十分横浜停車場を御発射になり、御帰還になる。なお、薩摩艦御見学の実現には、学習院御用掛小笠原長生(海軍軍令部出仕兼参謀)が種々奔走し、この日は皇太子の御内命により専ら御案内の任に当る。』
  11. ^ a b c #昭和天皇実録二巻15-16頁『(大正三年三月)二十日 金曜日(軍艦薩摩にて神戸出港)午前九時十分二条離宮を御出門、江田島に向かわれる。これより御服装は海軍通常礼装となる。京都停車場を御発車になり、途中、大阪停車場において勅任官以上に謁を賜う。神戸停車場より直ちに人力車にて米利堅波止場へ御移動になり、御召艦薩摩に御乗艦、第一艦隊司令長官加藤友三郎・同参謀長佐藤鉄太郎・薩摩艦長吉島重太郎・摂津(先導艦)艦長木村剛・石見(供奉艦)艦長小林恵吉郎以下乗組将校に謁を賜う。午後零時三十分、御召艦は出港する。航海中は上甲板において兵員の作業や艦隊航行などの御覧になる。六時三十分香川県高松沖に御箸艦、御仮泊になる。御夕餐後、甲板においてサーチライトを御覧になり、乗組員による「軍人勅諭」などの軍歌をお聴きになる。』
  12. ^ a b c 大正3年3月23日官報492号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ13『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ雍仁親王、宣仁親王兩殿下御同伴御豫定ノ如ク本月二十日午前九時十分二條離宮御出門同九時四十分京都停車場御發車同十一時二十分神戸停車場御箸車軍艦薩摩ニ御乗艦午後零時三十分御發艦アラセラレタリ|○東宮御箸艦竝御假泊 皇太子殿下竝ニ雍仁親王、宣仁親王兩殿下ハ本月二十日午後六時三十分高松沖御箸艦御假泊一昨二十一日午前九時十分御上陸栗林公園御覽同十一時四十五分御歸艦午後零時三十分御發艦同四時五十分愛媛縣來島沖御箸艦御假泊アラセラレタリ』
  13. ^ #昭和天皇実録二巻16頁『(大正三年三月)二十一日 土曜日(栗林公園)午前九時十分高松に御上陸になり、人力車にて栗林公園にお成りになる。園内を御巡覧の後、広芝において小学校生徒による旗体操・舞踏などを御覧になる。(略)十一時四十五分御帰艦になる。午後零時三十分高松沖を出港される。航海中、後甲板において兵員による柔道・撃剣・銃剣・相撲等の試合を御覧になる。四時五十分愛媛県来島沖に御到着、御仮泊になる。』
  14. ^ a b #昭和天皇実録二巻16-17頁『(大正三年三月)二十二日 日曜日(発火演習御覧)午前九時来島沖を出港、江田島に向かわれる。十時より筑波・金剛・周防三艦を仮想敵とした発火演習を御覧になる。演習途中、墺国軍艦カイゼリン・エリーザベトに邂逅する。十一時十五分、演習を終えた筑波・金剛・周防三艦により登舷礼をお受けになる。昼餐後、後艦橋において兵員の作業の様子を御覧になる。午後二時十分江田島に御到着。海軍兵学校長山下源太郎・金剛艦長山中榮吉・周防艦長岡野富士松・筑波艦長加藤寛治が御召艦薩摩に伺候につき、謁を賜う。午後三時、御召艦薩摩を御出艦、海軍兵学校に行啓される。御休所において山下校長以下教官に謁を賜い、続いて校長より同校に関する説明をお受けになる。ついで運動場にお出ましになり、学生による徒手体操・人馬競争・野砲競争等を御覧になる。四時三十五分御帰還になる。御夕餐後、甲板へお出ましになり、海岸付近における兵学校生徒による発火演習を御覧になる。』
  15. ^ 大正3年3月24日官報493号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5『○東宮御箸艦竝行啓 皇太子殿下竝ニ雍仁親王、宣仁親王兩殿下ハ一昨二十二日午前九時來島沖御發艦午後二時十分江田島御箸艦同三時十分御上陸海軍兵學校ヘ行啓同四時三十五分御歸艦アラセラレタリ』
  16. ^ #昭和天皇実録二巻17-18頁『(大正三年三月)二十三日 月曜日(再び海軍兵学校に行啓)午前八時十分御出艦-海軍兵学校行啓・雍仁親王・宣仁親王共に記念樹手植え・午後3時50分薩摩帰艦』
  17. ^ 大正3年3月25日官報494号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○東宮御巡覽 皇太子殿下竝ニ雍仁親王、宣仁親王兩殿下ハ一昨二十三日午前八時二十五分御上陸海軍兵學校御巡覽午後四時五分御歸艦アラセラレタリ』
  18. ^ a b #昭和天皇実録二巻18-19頁『(大正三年三月)二十四日 火曜日(宮島沖御着、厳島神社御参拝、弥山登山)午前六時江田島湾を御出港・厳島神社参拝・雍仁親王・宣仁親王と共に杉を手植え・弥山登山、二時御帰艦。三時十五分宮島沖を出港、呉軍港に向かわれ、四時五十五分御到着になる。御夕餐後、後艦橋において呉市街を御遠望になり、呉海軍工廠に関する説明をお聴きになる』
  19. ^ a b 大正3年3月26日官報495号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5『○東宮御箸艦 皇太子殿下竝ニ雍仁親王、宣仁親王兩殿下ハ一昨二十四日午前六時江田島御發艦同七時二十分宮島御箸艦御上陸宮島御覽ノ上午後三時十五分御發艦同四時五十五分呉軍港ニ御箸艦アラセラレタリ』
  20. ^ #昭和天皇実録二巻19頁『(大正三年三月)二十五日 水曜日(呉市御上陸の中止、池田湾に御仮泊)麻疹流行のため上陸中止、午前六時御召艦薩摩出発、薩摩・摂津・石見各艦対抗溺者救助競技御覧。午後五時十分、小豆島池田湾に御着艦、御仮泊。』
  21. ^ 大正3年3月27日官報496号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ7『○東宮御箸艦竝御假泊 皇太子殿下竝ニ雍仁親王、宣仁親王兩殿下ハ一昨二十五日午前六時呉軍港御發艦午後五時十分小豆島ニ御箸艦御假泊アラセラレタリ』
  22. ^ a b #昭和天皇実録二巻19-20頁『(大正三年三月)二十六日(神戸御上陸)午前七時四十五分、御召艦薩摩は神戸港に向け池田湾を出航する。十時三十分より乗組員による相撲を御覧になる。途中、航行中の軍艦朝日より艦礼を受けられ、御答礼になる。午後零時四十分神戸港に御到着になる。二時十五分御退艦、米利堅波止場に向かわれ、停車場にて第一艦隊司令長官加藤友三郎・同参謀長佐藤鉄太郎・薩摩艦長吉島重太郎・兵庫県知事服部一三以下に賜謁の後、御発車になる。(以下略)』
  23. ^ a b 大正3年3月28日官報497号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ37『○東宮御安箸 皇太子殿下竝ニ雍仁親王、宣仁親王兩殿下ハ一昨二十六日午前七時四十五分小豆島御發艦午後零時四十分神戸港御箸艦御上陸同三時神戸停車場御發車同四時五十分京都停車場御箸車同五時二十分二條離宮ニ御安箸アラセラレタリ|○東宮行啓 皇太子殿下竝ニ雍仁親王宣仁親王兩殿下ハ昨二十七日午前九時三十分二條離宮御出門八幡及宇治方面ヘ行啓午後四時二十五分還御アラセラレタリ』
  24. ^ #戦袍余薫懐旧録.第3輯コマ78(原本125頁)『第二南遣支隊の行動 南洋群島占領とヤップ島事件(第二南遣支隊司令官海軍少将) 海軍中将松村龍雄』
  25. ^ a b #昭和天皇実録二巻552-553頁『神戸港御出発』
  26. ^ 大正9年3月26日官報第2292号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ一昨二十四日午前六時四十分二條離宮御出門同七時京都驛御發車同八時五十五分神戸驛御箸車御乗艦同十一時神戸港御發艦アラセラレタリ』
  27. ^ #達明治39年11月p.2『達第百九十五號 軍艦 香取/同 鹿島/同 薩摩/同 安藝/同 生駒/同 鞍馬/同 伊吹/同 三笠/同 肥前 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
  28. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.60『◎大正十二年九月二十日(達一九六)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス』
  29. ^ #達明治39年11月p.2『達第百九十六號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
  30. ^ 大正13年9月2日(火)海軍公報 第3553号 p.8』 アジア歴史資料センター Ref.C12070292900 『○艦船所在○九月二日午前十時調【館山】(旗艦)長門、陸奥、日向、山城、(旗艦)多摩、夕張、(旗艦)天龍、(旗艦)迅鯨、常磐、(旗艦)比叡、金剛、(旗艦)由良、名取、長良、(旗艦)川内、(旗艦)平戸、韓崎、若宮、扶桑、(司令)驅三、驅五、驅七、(司令)羽風、秋風、夕風、(司令)潜五九、潜七二、(司令)潜六二、潜四五、潜四四』
  31. ^ a b c #提督草鹿任一47-49頁『砲術学校射撃科教官』
  32. ^ #小柳資料上596頁
  33. ^ 『官報』第2190号、大正8年11月21日。
  34. ^ 『官報』第3251号、大正12年6月2日。

参考文献[編集]

  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』 海軍大臣官房、1940年
    • 藤田定市編 『戦袍余薫懐旧録.第3輯 info:ndljp/pid/1447108』 財団有終會、1928年1月。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『明治39年 達完/11月』。Ref.C12070054900。
    • 『大正12年 達完/9月』。Ref.C12070082500。
    • 『皇太子殿下安芸薩摩射撃へ行啓(1)』。Ref.C08051064100。
    • 『皇太子殿下安芸薩摩射撃へ行啓(2)』。Ref.C08051064200。
    • 『皇太子殿下安芸薩摩射撃へ行啓(3)』。Ref.C08051064300。
    • 『皇太子殿下安芸薩摩射撃へ行啓(4)』。Ref.C08051064400。
    • 『皇太子殿下安芸薩摩射撃へ行啓(5)』。Ref.C08051064500。
    • 『皇太子殿下安芸薩摩射撃へ行啓(6)』。Ref.C08051064600。
    • 『皇太子殿下安芸薩摩射撃へ行啓(7)』。Ref.C08051064700。
    • 『皇太子殿下安芸薩摩射撃へ行啓(8)』。Ref.C08051064800。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 草鹿提督伝記刊行会 『提督 草鹿任一』 光和堂、1976年2月。
  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第一 自明治三十四年至大正二年』 東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-487-74401-5。
  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第二 自大正三年至大正九年』 東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4487-74402-2
  • 財団法人水交会 『帝国海軍提督達の遺稿 上 小柳資料 敗戦後十余年海軍の中枢が語った大東亜戦争への想い』 水交会、2010年4月。
  • 正木生虎 『正木義太傳および補遺 一海軍士官の記憶』 文藝春秋、2009年11月。ISBN 978-4-16-371670-1
  • 官報

関連項目[編集]