河内 (戦艦)

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河内
1913年5月23日、大阪での「河内」[1][注釈 1]
1913年5月23日、大阪での「河内」[1][注釈 1]
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠[2]
運用者  大日本帝国海軍
種別 戦艦[3]
艦級 (河内型)
母港 横須賀
経歴
計画 明治40年[4]
発注 1907年6月22日製造訓令[2]
起工 1909年4月1日[5]
進水 1910年10月15日[6]
竣工 1912年3月31日[7]
就役 1914年8月10日[要出典]
除籍 1918年9月21日[8]
最後 1918年7月12日爆沈[4]
その後 現場で解体[4]
要目
常備排水量 計画 20,800英トン[9]
20,823英トン [10][注釈 2]
全長 526 ft 0 in (160.32 m)[注釈 3]
垂線間長 500 ft 0 in (152.40 m)[10]
全幅 84 ft 3 in (25.68 m)[10]
深さ 44 ft 0 in (13.41 m)[11]
吃水 27 ft 0 in (8.23 m)[10]
ボイラー 宮原式石炭・重油混焼水管缶 単面8基、両面8基[12]
主機 カーチス式単式直結タービン2基[11]
推進 2軸 x 245rpm[11]
出力 計画 25,000shp[9]
実際 30,399shp[9][12]
速力 計画 20ノット[9]
実際 21.024ノット[9]
燃料 石炭 2,300トン、重油 400トン[11]
乗員 竣工時定員 999名[13]
兵装 新造時[14]
50口径毘式30cm連装砲2基4門
45口径毘式30cm連装砲4基8門
45口径四一式15cm単装砲10門
40口径四一式12cm単装砲8門
40口径四一式8cm単装砲8門
45cm水中発射管5門
装甲 舷側 12in(305mm) - 4in(102mm)KC鋼[15]
甲板 1.2in(30mm)[15] または 45lbs(28.6mm),30lbs(19.1mm)NS鋼[16]
砲塔 11in(279mm)[15]
司令塔 10in(254mm)[15]
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河内(かわち/かはち)は、日本海軍戦艦[17]河内型戦艦1番艦である。姉妹艦は「摂津」(旧字体では攝津)[17][18]。 艦名は幕末期の汽船「河内」に続いて2代目[17]。「河内国」に由来する[19][17][20]。長官公室には楠木正成(大楠公)の像が飾られていた[21]1918年(大正7年)7月12日、火薬庫爆発事故により爆沈した[22][23]

艦容[編集]

同型艦摂津との識別点として河内の艦首は直線型艦首であり、一方摂津のそれはクリッパー型だった。これは識別を明確にすると同時に、艦隊旗艦の任務が多くなるであろう河内の艦容の威厳を保つためと思われる[24]。ただし、後述のとおり河内が艦隊旗艦もしくは戦隊旗艦となった時期は短いものだった。また主機であるカーチス式タービンは川崎造船所で製造された[25][26]

艦歴[編集]

日露戦争直後の明治40年度の計画により建造された戦艦2隻のうちの1隻[27]で、計画時の名称は伊号戦艦(伊號戦艦)[2]。1909年(明治42年)2月12日、計画艦名伊号戦艦を部内限りで河内と命名[28]。4月1日[17]横須賀海軍工廠にて午前8時20分にキールが据え付けられ、起工した[5]。 9月2日、裕仁親王(のちの昭和天皇。当時8歳)、雍仁親王宣仁親王上村彦之丞横鎮長官等の案内で横須賀軍港を見学、建造中の河内を訪れた[29]。 翌1910年(明治43年)10月15日[17]、午後2時8分進水[6][30]。伊号戦艦は制式に河内と命名された[31][30]。進水式には明治天皇が臨席した[32][30]。 1912年(明治45年)3月31日、河内は竣工[17]、引き渡された[7]。河内建造の予算は明治44年度までで[33]、竣工はその期限ぎりぎりだったことになる。

竣工翌日の4月1日附で第一艦隊に編入、整備や補給をした後の4月22日に作業地へ向け出港した[34]。5月24日、第一艦隊旗艦を香取から本艦に変更[35]。 同年(大正元年)11月10日、大正天皇皇太子(のち昭和天皇。当時11歳)が第一艦隊に行啓する[36][37]。午前11時、皇太子は御召艦平戸から河内(第一艦隊旗艦、出羽重遠司令長官)に乗艦、第一艦隊赴任の挨拶をおこなう[37]。正午、皇太子は本艦から平戸に戻った[37]。 11月12日、横浜沖合で観艦式がおこなわれる(大正天皇御召艦は筑摩。皇太子・雍仁親王・宣仁親王の御召艦は平戸)[38][39]。観艦式終了後、河内には東伏見宮依仁親王が派遣された[39]

1913年(大正2年)7月14日、第一艦隊旗艦を敷島へ変更し[40]、22日本艦に復帰[41]。同年12月1日、第一艦隊旗艦を本艦から金剛へ変更[42]

1914年(大正3年)8月に日本がドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参戦すると河内も8月から9月にかけて東シナ海黄海の警備に従事した[4]。1915年(大正4年)9月、楠木正成(大楠公)座像と四条畷神社真景額寄贈の申し出があり、受理される[43][44]。9月5日、大楠公像は横須賀停泊中の河内に安置された[45]。 12月16日、第一艦隊旗艦を攝津から本艦に変更[46]。 1916年(大正5年)2月22日、第一艦隊旗艦を本艦から扶桑へ変更[47]

1917年(大正6年)1月14日、横須賀軍港には河内以下日本海軍の艦艇多数(筑波河内生駒榛名金剛津軽山城等)が所在だった[48]。 同日午後3時15分、横須賀停泊中の「筑波」は火薬庫爆発事故により爆沈[49][50]。 河内・生駒・榛名・金剛等在泊各艦は救助作業に従事した[49]。 12月1日、第一艦隊第二戦隊に編入[51]。同日附で巡洋戦艦金剛副長等を歴任した正木義太大佐が河内艦長に任命される[52]。12月2日、第二戦隊旗艦を鹿島第三艦隊第五戦隊へ転出済)から本艦に変更[53]。当時の河内は第三予備艦から復帰したばかりで、寄せ集めの乗員の練度・素行共に問題があった[52]

1918年(大正7年)3月12日、第二戦隊旗艦を本艦から摂津へ変更[54]7月12日、徳山湾には艦艇多数(山城扶桑伊勢摂津河内利根、他駆逐艦)が停泊していた[23][55]。天候は不良、暴風雨で視界は極めて悪かった[56][57]。 15時51分[58]、河内1番砲塔(舷側)から発火、15時54分に大爆発を起こして前部マスト倒壊、右舷舷側に大破口ができるなどし、船体は右に120度傾斜して転覆、水深約12mの海底に着底した[59]。正木(河内艦長)は戦艦山城に救助された[58][57]。この事故により621名が殉職した[60][58]。 皇太子(のち昭和天皇)は及川古志郎侍従武官を慰問のために派遣した[22]。 7月23日、2隻(摂津、河内)は第二戦隊から削除され、健在の摂津は第一戦隊へ転出[61]し、第二戦隊は8月19日までは在役艦が無い書類上だけの隊となる[62]。9月21日、除籍[4]。艦艇類別表からも削除された[63]。 その後、河内の残骸は現場で解体された[4]。艦内より楠木正成の座像や四條畷神社真景画も回収された[64][65]

以下、河内沈没後の動きを記す。

  • 1918年7月19日 - 河内事務所を山城から周防へ移転[66]
    • 7月21日 - 河内遭難者合同葬儀をで執行[67][68]
    • 7月26日 - 河内爆沈査問委員会事務所を周防艦内に設置[69]。横須賀で追弔会を執行[70]
    • 8月5日 - 河内爆沈査問委員会事務所を呉鎮守府内に移転[71]
    • 8月21日 - 河内事務所を徳山町内の無量寺に移転[72]
    • 8月23日 - 河内引揚方法調査会事務所を呉海軍港務部へ移転[73]
    • 9月15日 - 正木義太(河内艦長)の体調悪化、入院療養[58]
    • 9月21日 - 河内除籍[58]
    • 9月30日 - 河内事務所の残務を徳山町無量寺旧河内事務所で行う[74]
    • 10月3日 - 河内引揚方法調査委員会を呉海軍工廠へ引継ぎ解散[75]
    • 10月22日 - 徳山町無量寺の事務所を閉鎖し、事務を徳山町内呉海軍工廠出張員事務所で行う[76]
  • 1919年1月31日 - 河内の残務を終了し、事務所閉鎖[77]

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 土山哲三 大佐:1911年11月1日 - 1912年12月1日 *兼横須賀海軍工廠艤装員(- 1912年4月1日)
  • 中島市太郎 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
  • 町田駒次郎 大佐:1913年12月1日 - 1915年12月13日
  • 小山田仲之丞 大佐:1915年12月13日 - 1917年12月1日
  • 正木義太 大佐:1917年12月1日 - 1918年9月21日[58]

同型艦[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ #海軍艦艇史1p.157では1913年の神戸とされていた。
  2. ^ #軍艦基本計画資料Sheet56に(常備)排水量21,833英トン(またはトン)の記載もある。
  3. ^ #日本の戦艦(上)p.107。ただし「河内」「摂津」共に同一長としている。

出典[編集]

  1. ^ #日本軍艦史pp.74-75
  2. ^ a b c #軍艦河内、摂津製造の件(1)画像5-7、官房機密第二五七號
  3. ^ #海軍制度沿革巻八p.71、明治四十三年十月十日(達一三九) 艦艇類別等級別表中戦艦ノ欄内「安藝」ノ次ニ「河内」ヲ加フ(原文は縦書き)
  4. ^ a b c d e f #日本海軍全艦艇史中川努「主要艦艇艦歴表」p.2
  5. ^ a b #軍艦河内、摂津製造の件(1)画像25
  6. ^ a b #軍艦河内、摂津製造の件(7)画像6-7
  7. ^ a b #軍艦河内、摂津製造の件(7)画像27-31
  8. ^ #大正7年達/9月画像46『達第百六十九號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 河内 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正七年九月二十一日 海軍大臣 加藤友三郎』
  9. ^ a b c d e #帝国海軍機関史別冊、表9
  10. ^ a b c d #海軍造船技術概要p.226
  11. ^ a b c d #昭和造船史1pp.776-777
  12. ^ a b #帝国海軍機関史下巻p.400
  13. ^ #海軍制度沿革巻十の1p.505、明治四十三年十月十五日(内令一八九)。将校同相当官44人、兵曹長同相当官23人、下士229人、卒703人。
  14. ^ #海軍艦艇史1p.420
  15. ^ a b c d #日本の戦艦(上)p.220
  16. ^ #海軍造船技術概要p.222、主力艦防御計画ノ変遷図、「河内」の船体断面図で上甲板は30lbs(30/40in)、下甲板が45lbs(45/40in)のNS鋼 となっている。
  17. ^ a b c d e f g #幕末以降帝国軍艦写真と史実第88コマ(原本138頁)『河内(かはち) 艦種戰艦 二檣(三脚式)(信號用) 艦名考國名にして畿内五箇國の一に採る。
    艦歴明治42年4月1日起工、同45年3月31日竣工、攝津(二代)と姉妹艦なり。大正三年乃至九年戰役(日獨)從軍(第一艦隊第一戰隊、艦長海軍大佐町田駒次郎):同7年9月17日徳山沖に於て爆沈。
    (備考)幕末に「河内」と名くる汽船あり、明治元年12月米國人より購入したるものして長さ138呎、幅29呎、原名「カンキーナ」、後「河内」と命名す、其製造所竣工年月等不明、明治2年8月岡山藩に管せしむ、其後の艦歴亦詳ならず。
    ―要目― 長500呎/幅84呎/喫水28呎/排水量20,800噸/機關 カーチス式タルビン3軸 宮原式罐16臺/馬力25,000/速力20/乗組人員960/船材 鋼(甲帶12吋)/兵装 12吋砲12/6吋砲10/4.7吋砲8/12听砲16/機關砲4/發射管5/起工 明治42-4-1/進水 同43-10-15/竣工 45-3-31/建造所 横須賀工廠』
  18. ^ #災害篇コマ139(原本266頁)『弩級戰艦河内爆沈す(大正七年七月十三日夕刊時事新報)』
  19. ^ #日本艦船名考pp.8-9
  20. ^ #献納品(1)pp.47-49『軍艦河内記念品獻納の記』
  21. ^ #正木義太傳195-196頁『河内艦長時代 大佐』
  22. ^ a b #昭和天皇実録二巻392頁『(大正七年七月)十二日 金曜日(軍艦河内の爆沈)午前、東宮御学問所総裁東郷平八郎参殿につき、謁を賜う。雍仁親王・宣仁親王参殿につき、御昼餐を御会食になり、午後は御一緒に活動写真を御覧になる。この日、徳山湾碇泊中の第一艦隊所属の軍艦河内は、原因不明の爆発により転覆沈没し、七百名以上の死傷者を出す。(以下略)侍従武官及川古志郎、16日帰京・17日出発・23日帰京(死傷者慰問・下賜金伝達のため)』
  23. ^ a b 大正7年7月13日(土)海軍公報 第1755号 p.22』 アジア歴史資料センター Ref.C12070258600 『○軍艦沈没 軍艦河内ハ徳山灣碇泊中七月十二日午後三時五十七分中央部ニ爆發ヲ起シ約四分ノ後沈没セリ』
  24. ^ #海軍艦艇史1p.151
  25. ^ #帝国海軍機関史下巻p.455(三九三頁)
  26. ^ #軍艦河内、摂津製造の件(7)画像46-47
  27. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.224-225
  28. ^ 明治42年2月12日付 内令第22号。
  29. ^ #昭和天皇実録一巻359-360頁『(明治四十二年九月)二日木曜日(横須賀鎮守府にお成り)午前八時五十分、雍仁親王・宣仁親王と共に御出門になり、逗子停車場より列車にて横須賀に向かわれる。(略)午後、横須賀海軍工廠にお成りになり、工廠長和田賢介の案内により廠内各工場を御通覧、建造中の軍艦河内では艦体へ御自ら釘をお打ちになる。(以下略)』
  30. ^ a b c 明治43年10月19日官報第8199号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ7『○軍艦進水 横須賀海軍工廠ニ於テ製造中ノ伊號戰艦ハ本月十五日 天皇陛下横須賀軍港ニ行幸ノ上河内ト命名セラレ進水セシメラレタリ其概況左ノ如シ(海軍省)
    當日午後二時 陛下式場ニ臨御アラセラレ同時海軍大臣、横須賀鎮守府司令長官、海軍艦政本部長、海軍省軍務局長、其他關係者参列ス 是ニ於テ横須賀海軍工廠長ヨリ進水ノ準備整頓セル旨ヲ司令長官ニ報告シ司令長官ハ之ヲ海軍大臣ニ報告ス乃チ海軍大臣ハ 陛下ニ奏上シタル後本艦ノ前面ニ立チ命名書ヲ朗讀シ了テ之ヲ司令長官ニ授ク司令長官ハ之ヲ受ケ工廠長ヲシテ豫定ノ進水手續ヲ行ハシメ艦體滑動ヲ始ムルトキ海軍軍樂隊ハ愛國行進曲ヲ奏シ午後二時八分艦體全ク海上ニ浮泛シ茲ニ滞リナク式ヲ結了セリ』
  31. ^ 明治43年10月15日付 達第138号。
  32. ^ 明治43年10月18日官報第8198号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○行幸 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク本月十五日横須賀軍港ニ於テ軍艦河内進水式擧行ニ付キ午前九時二十五分御出門同九時五十分新橋停車場御發車同港ヘ行幸午後五時二十五分新橋停車場御箸車同五時五十分還幸アラセラレタリ』
  33. ^ #軍艦河内、摂津製造の件(1)画像8-13、計画当初の予算内訳表
  34. ^ #海軍艦艇史1p.156
  35. ^ 明治45年5月28日付 海軍公報 第97号。
  36. ^ 大正元年11月12日官報第86号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨十日午前七時三十五分東宮假御所御出門同八時新橋停車場御發車同八時四十五分横須賀停車場御箸車第一艦隊ヘ行啓午後二時二十分横濱停車場御發車同三時六分新橋停車場御箸車同三時二十七分還御アラセラレタリ』
  37. ^ a b c #昭和天皇実録一巻613-614頁『(大正元年十一月)十日 日曜日(第一艦隊に行啓、御召艦平戸、河内移乗))』
  38. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実第239コマ(原本87頁)『觀艦式一覧表|大正元-一一-一二|横濱沖|大演習觀艦式|筑摩|一一五|四六〇,八二五|飛行機 二』
  39. ^ a b 大正元年11月13日官報第87号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○海軍御演習觀艦式御親閲行幸 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク昨十二日午前七時三十五分青山離宮御出門同八時新橋停車場御發車同八時四十五分横濱停車場御箸車軍艦筑摩ニ乗御横濱冲ニ於テ海軍大演習觀艦式御親閲訖テ更ニ軍艦安藝ニ乗御大演習ニ参加ノ海軍将校其他ニ午餐ヲ賜ハリ午後三時五分横濱停車場御發車同三時五十分新橋停車場御箸車同四時十五分還幸アラセラレタリ|○東宮行啓 昨十二日海軍御演習觀艦式御覽ノタメ 皇太子殿下ハ雍仁親王、宣仁親王兩殿下御同伴午前六時五十分東宮假御所御出門同七時十五分新橋停車場御發車同八時横濱停車場御箸車横濱港ヘ行啓午後一時三十分横濱停車場御發車同二時十五分新橋停車場御箸車同二時三十五分還御アラセラレタリ|○皇族差遣 昨十二日横濱沖ニ於テ海軍大演習觀艦式御親閲趾午餐下賜ノ際依仁親王殿下ヲ軍艦河内ニ差遣ハサレタリ』
  40. ^ 大正2年7月14日付 海軍公報 第281号。
  41. ^ 大正2年7月23日付 海軍公報 第288号。
  42. ^ 大正2年12月1日付 海軍公報 第394号。
  43. ^ #献納品(1)pp.30-31『大正四年十月三日於伊勢湾 河内艦長 町田駒次郎 大阪府知事大久保利武殿 献納品受領ノ件』
  44. ^ #献納品(1)p.34『官房第二七四六號ノ参』
  45. ^ #献納品(1)pp.46-47『軍艦河内へ大楠公坐像小楠公社全景刺繍扁額を同艦祭神として寄贈したる事業顛末報告書』
  46. ^ 大正4年12月16日付 海軍公報(部外秘)第1001号。大正4年12月18日付 海軍公報(部外秘)第1003号。
  47. ^ 大正5年2月23日付 海軍公報(部外秘)第1052号。
  48. ^ 大正6年1月13日(土)海軍公報 第1311号 p.15』 アジア歴史資料センター Ref.C12070254200 『○艦船所在○一月十三日午前十時調【横須賀】(旗艦)榛名▲、河内、生駒、若宮、(司令)彌生、吹雪、霰、有明、(司令)浦風、海風、山風、金剛、満州、周防▲、筑波、津輕、音羽▲、橋立▲、千早、朝日▲、山城、武藏▲、松江、(司令)不知火▲、陽炎▲、叢雲▲、夕霧▲、(司令)樺、桐、櫻、橘、(司令)初霜、如月、神風、響、(司令)白露、夕暮▲、夕立、三日月、薄雲、山彦、(司令)雉▲、鷗▲、鴻▲、白鷹、高崎、栗橋○、鹿兒島丸』
  49. ^ a b #災害篇コマ136-137『筑波艦沈没す(大正六年一月十五日東京朝日新聞)十四日午後三時十五分横須賀軍港第二區に停泊中なる軍艦筑波の火藥庫轟然たる大音響を立てて爆發し同時に非常なる震動を爲し、筑波の舷首に於て茶褐色の爆煙高く揚り、上甲板上の乗組員は震動の爲海中に振り落され爆煙は次第に高く揚りて、約百米に達したるが是と同時に艦は大破して午後三時十八分に至るや艦體の後半を現出し、約三十度の傾斜を爲して三時三十分全部沈没せり。大檣は挫折し、海上には後部約一丈餘上甲板を表はし居るのみ、當日は日曜日にて六百餘名の乗組員に半舷上陸を許したれば爆發の當時艦内に在りしは、約三百四十名にて爆沈の際海上に刎ね飛ばされた生存者も悉く海中に漂ひて惨状名状するに能はず、折柄港内には軍艦津輕を初め、河内、生駒、榛名、金剛、其他各軍艦、驅逐艇碇泊し居たるが、急を見るより何れも直に艦載ランチ、カツターを出して救助に着手せるが其混在は宛ら戰場の如く、同時に上陸員全部の非常招集を行ひ、百方救護と手當に奔走し居れるが死傷者は今尚取調べ中なり。』
  50. ^ 大正6年1月15日(月)海軍公報 第1312号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C12070252300 『○軍艦沈没 軍艦筑摩昨十四日午後三時十五分横須賀軍港内ニ於テ前部火薬庫爆發シ沈没セリ(左舷十一度傾斜、艦橋以上水面ニ露出)|○筑波死傷者 死者 中尉谷口諶一、下士卒七/行衛不明者 機關兵曹長月岡安太郎、上等兵曹時田久七、仝山下源治、船匠師鈴木芳太郎、下士卒一五二』
  51. ^ 大正6年12月1日付 内令第279号。
  52. ^ a b #正木義太傳110頁『十二、大佐時代』
  53. ^ 大正6年12月3日付 海軍公報(部外秘)第1576号。
  54. ^ 大正7年3月20日付 海軍公報(部外秘)第1660号。
  55. ^ 大正7年7月12日(金)海軍公報 第1754号 p.26』 アジア歴史資料センター Ref.C12070261300 『○艦船所在○七月十二日午前十時調【徳山】(旗艦)山城、扶桑、伊勢、攝津、河内、(旗艦)利根、(司令)榎、檜、(司令)槇、欅、桑、(司令)濱風、磯風、天津風』
  56. ^ #災害篇コマ139(原本267頁)『艦は逆轉して船底を現はす(七月十四同上)』
  57. ^ a b #災害篇コマ140(原本269頁)『正木河内艦長爆沈の状を語る(同上)○暴風雨で傳令達せず―波間より軍艦山城に救助さる
    爆沈當時の模様を河内艦長正木義太大佐は記者に語る「爆沈する時にはシュウと恰度水雷を發射する時の様な音響がした、次いで少し艦が傾きかけたと思つたから上甲板に上らんとしたと同時に艦體がいよいよ傾斜して甲板に上つた時は黒煙と黄煙が朦々として立昇り、火藥庫に火が移ったと覺ったので直ひ火夫に對して汽笛を鳴らさせやうといしたが、當時は恰も暴風雨前で波浪高く號令は達せず、詮方なく傳令をして此の旨を命じやうとし是亦喇叭手の手許へ届かず、時々刻々船は危險に迫り間一髪となつた。副長、砲術長等は自分に早く避難せよと申告したが、艦長たる自分としてどうして、避難して居られやう、斷然踏み止まつてゐやうと思ってゐる間もなく、傾斜いよいよ急となり、自分は波間に投出されて仕舞った、そして軍艦山城に救助されたのである、目下御覧の通り行方不明者の死體捜索で忙殺されて居る」(呉十四日特電)』
  58. ^ a b c d e f #正木義太傳111-112頁
  59. ^ #海軍艦艇史1p.158下写真(No.1200)の解説。
  60. ^ 大正7年7月22日東京朝日新聞朝刊 5頁。
  61. ^ 大正7年7月23日付 内令第239号。
  62. ^ 大正7年8月20日付 内令第279号。
  63. ^ #海軍制度沿革巻八p.77、大正七年九月二十一日(達一七〇) 艦艇類別等級中「河内、」ヲ削ル(原文は縦書き)
  64. ^ #献納品(1)pp.7-8『大楠公座像下附願』
  65. ^ #献納品(1)pp.19-20『河内備付大楠公坐像及小楠公 四條畷神社眞景額面ニ關スル件』
  66. ^ 大正7年7月23日付 海軍公報(部外秘)第1763号。
  67. ^ 大正7年7月15日(月)海軍公報 第1756号 p.24』 アジア歴史資料センター Ref.C12070258600 『○葬儀 軍艦河内遭難死者ノ合同葬儀ヲ七月二十一日午後一時呉ニ於テ執行ス(河内艦長)』
  68. ^ #災害篇コマ141(原本270頁)『六百の英靈を葬むる(七月十二日 同上)―水漬く屍の悲曲― =荘嚴又た悲壮=河内遭難者の葬儀 =涙の正木大佐=三萬の参列者泣く 軍艦河内受難者飯島機關長外六百十三名の海軍葬葬列に據る前代未聞の大葬儀は、二十一日午後一時途中葬列を廢し、呉海兵團前練兵場にて執行されたり。』
  69. ^ 大正7年7月29日付 海軍公報(部外秘)第1768号。
  70. ^ 大正7年7月22日(月)海軍公報 第1762号 p.37』 アジア歴史資料センター Ref.C12070258600 『○追弔會 來ル七月二十六日午前十時横須賀海軍下士卒集會所ニ於テ軍艦河内殉難者ノ追弔會(佛式)ヲ執行ス(横須賀鎮守府)』
  71. ^ 大正7年8月5日付 海軍公報(部外秘)第1773号。
  72. ^ 大正7年8月22日付 海軍公報(部外秘)第1788号。
  73. ^ 大正7年8月26日付 海軍公報(部外秘)第1791号。
  74. ^ 大正7年9月30日付 海軍公報(部外秘)第1819号。
  75. ^ 大正7年10月5日付 海軍公報(部外秘)第1824号。
  76. ^ 大正7年10月22日付 海軍公報(部外秘)第1837号。
  77. ^ 大正8年2月3日付 海軍公報 第1917号。

参考文献[編集]

  • 浅井将秀/編 『日本海軍艦船名考』 東京水交社1928年12月
  • 泉江三 『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』 グランプリ出版、2001年4月ISBN 4-87687-221-X
  • 『海軍制度沿革 巻八』明治百年史叢書 第180巻、海軍省/編、原書房、1971年10月(原著1941年)。
  • 『海軍制度沿革 巻十の1』明治百年史叢書 第182巻、海軍省/編、原書房、1972年4月(原著1940年)。
  • 『日本海軍史』第9巻、第10巻、海軍歴史保存会、1995年
  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第一 自明治三十四年至大正二年』 東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74401-5
  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第二 自大正三年至大正九年』 東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74402-2
  • 『世界の艦船増刊第44集 日本軍艦史』、海人社、1995年8月ISBN 4-905551-55-2
  • 『帝国海軍機関史』明治百年史叢書 第245巻、日本舶用機関史編集委員会/編、原書房、1975年11月
  • 『昭和造船史(第1巻)』明治百年史叢書 第207巻、(社)日本造船学会/編、原書房、1981年(原著1977年10月)、第3版。ISBN 4-562-00302-2
  • 福井静夫 『海軍艦艇史 1 戦艦・巡洋戦艦』 KKベストセラーズ、1974年ISBN 4-584-17013-4
  • 福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』 ベストセラーズ、1994年ISBN 4-584-17054-1
  • 『軍艦基本計画資料』 福田啓二/編、今日の話題社、1989年5月ISBN 4-87565-207-0
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』戦史叢書第31巻、朝雲新聞社1969年
  • 『海軍造船技術概要』 牧野茂福井静夫/編、今日の話題社、1987年5月ISBN 4-87565-205-4
  • 正木生虎 『正木義太傳および補遺 一海軍士官の記憶』 文藝春秋、2009年11月。ISBN 978-4-16-371670-1
  • 官報
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『軍艦河内、摂津製造の件(1)』。Ref.C08020037600。
    • 『軍艦河内、摂津製造の件(7)』。Ref.C08020038200。
    • 『大正7年 達 完/9月』。Ref.C12070074400。
    • 『献納品(1)』。Ref.C08050894500。
    • 『献納品(2)』。Ref.C08050894600。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]