生駒 (巡洋戦艦)

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巡洋戦艦 生駒
艦歴
起工 1905年3月15日
進水 1906年4月9日
就役 1908年3月24日
退役 1923年9月20日
除籍 1923年9月20日
その後 ワシントン海軍軍縮条約により解体
性能諸元
排水量 常備:13,750t、満載:15,400t
全長 137.1m
水線長 134.1m
全幅 23m
吃水 8m
機関 宮原式重油石炭混燃缶20基
+直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸推進 20,500hp
最大速力 20.5ノット
乗員 879名
武装 30.5cm連装砲 4門
15.2cm単装砲 12門
12cm単装砲 12門
8cm単装砲 4門
45.7cm魚雷発射管 3門
装甲 水線帯 100-180mm
砲塔 180mm
バーベット 180mm
司令塔 200mm
甲板 75mm

生駒(いこま)は[1]大日本帝国海軍巡洋戦艦[2]。竣工時は装甲巡洋艦一等巡洋艦[3]筑波型巡洋戦艦の2番艦。 艦名は、奈良県にある生駒山にちなんで命名された[4]

艦歴[編集]

戦艦に準ずる砲力を持つ巡洋艦として、また旅順攻囲戦にともなう戦艦2隻(初瀬八島)沈没を補うため、姉妹艦筑波と共に急遽計画された[5][6]呉海軍工廠で建造され、1912年(大正元年)に類別としての巡洋戦艦が新設されるまでは、一等巡洋艦(装甲巡洋艦)であった[4][3]。 筑波型2隻(筑波、生駒)は、日本艦として石炭・重油混焼缶を採用した最初期の艦であり、衝角(ラム)を世界で初めて廃止した主力艦である[5]

1905年(明治38年)3月15日丑号装甲巡洋艦(生駒)は呉工廠で起工(子号装甲巡洋艦《筑波》は1月14日起工)[4][6]6月11日、日本海軍は建造予定の主力艦艇6隻(安芸薩摩筑波生駒鞍馬伊吹)の艦名を内定する[7]。丑号装甲巡洋艦の艦名は生駒を内定[7]1906年(明治39年)4月8日明治天皇皇太子(のち大正天皇)は装甲巡洋艦「磐手」(供奉艦浅間他)に乗艦し、呉軍港に到着[8]4月9日、皇太子臨席のもとで丑号装甲巡洋艦は進水[4][9]。同日附で丑号装甲巡洋艦は制式に生駒と命名[10][1]。一等巡洋艦に類別[3][11]。生駒進水式を終え、皇太子(御召艦磐手)は宮島厳島神社)に向かった[12]1908年(明治41年)3月24日、「生駒」は竣工[4]

1910年(明治43年)にはアルゼンチン独立100周年記念式典に参加し、南米から欧州まで訪問している。

1912年(大正元年)8月28日、日本海軍は艦艇類別等級表を改訂する[13]。4隻(筑波、生駒、鞍馬、伊吹)は巡洋戦艦に類別された[14][2]

第一次世界大戦では、南洋方面で行動した[4]1916年(大正5年)7月4日大正天皇皇太子(当時15歳。のち昭和天皇)は北陸地方を行啓することになり、名古屋駅から京都駅、さらに綾部駅綾部市)を経由して午後4時に新舞鶴に到着[15][16]。「生駒」(御召艦)に乗艦して宿泊する[15][16]。供奉艦は「鞍馬[15][17]。当時の「生駒」と「鞍馬」は第二戦隊を編成していた[18]7月5日朝、東郷平八郎東宮御学問所総裁、同幹事小笠原長生伏見宮博恭王第二戦隊司令官との対面を終えた皇太子は、「生駒」より舞鶴鎮守府名和又八郎司令長官)に上陸[19][20]。舞鶴海軍工廠で建造中の駆逐艦2隻(檜、樫)を見学、籠神社国幣中社)参拝、天橋立見学等の行事を終え、夕刻に「生駒」へ戻った[19][20]7月6日、2隻(生駒、鞍馬)は七尾湾能登半島)に停泊、皇太子は上陸して行事をこなした[21][22]。また「生駒」艦内も見学している[21]7月7日朝、2隻(生駒、鞍馬)は七尾湾を出発、佐渡島に向かう[23][24]。午後1時45分に佐渡島到着、皇太子・博恭王一行は上陸して順徳天皇火葬塚や真野宮を参拝・訪問した[23][24]7月8日は悪天候のため予定中止、皇太子は佐渡島両津湾に停泊する「生駒」で過ごした[25][26]7月9日、皇太子一行は上陸、順徳天皇の黒木御所址や各地を巡った[27][28]。「生駒」帰艦後、皇太子は供奉艦「鞍馬」に立ち寄った[27]7月10日午前6時30分、2隻(生駒、鞍馬)は両津湾を出発、午前8時30分に新潟港沖に到着[29][30]。9時35分、皇太子は「生駒」を退艦、艦載水雷艇で新潟港に上陸[29][30]。本艦は皇太子御召艦任務を終えた。

1917年(大正6年)1月14日、横須賀軍港には生駒以下日本海軍の艦艇多数(筑波河内生駒榛名金剛津軽山城等)が所在だった[31][32][33]。 午後3時15分、「筑波」は前部火薬庫事故により大爆発を起こして轟沈(浅海底のため艦橋等一部露出)[34][35]。「生駒」は僚艦(河内、榛名、金剛、山城)等と筑波生存者救出に従事した[33]

1918年(大正7年)6月10日、大正天皇皇太子(当時17歳、のち昭和天皇)は伊豆諸島に行啓、「生駒」(艦長勝木源次郎大佐)は御召艦に指定された[36][37]。 皇太子は横浜港で「生駒」に乗艦し、10時15分に出港[36][37]。本艦は伊豆半島伊東市沖合で仮泊する[36][37]。 6月11日午前7時15分、「生駒」は伊東沖合を出港し、9時20分に伊豆大島到着[38][37]。皇太子は上陸して島内各所を見学後、午後0時50分に「生駒」に帰艦[38][37]。本艦は伊豆大島を周航したのち、午後6時35分に館山湾到着、碇泊する[38][37][39]。 6月12日午前8時、御召艦「生駒」は館山沖を出港、午後1時30分に横浜港到着[40][37]。皇太子は退艦し、東宮御所に戻った[40][37]

その後、ワシントン海軍軍縮条約により廃棄が決定[4]1923年(大正12年)9月20日、除籍[41]。艦艇類別等級表からも削除[42][43]。三菱長崎造船所で解体、1924年(大正13年)11月24日に解体完了した。 解体後、生駒の主砲は洲崎第一砲台に移設された。

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艦長(艤装員長)
艦長
  • 江頭安太郎 大佐:1908年3月24日 - 8月28日
  • 上泉徳弥 大佐:1908年8月28日 - 11月20日
  • 江口麟六 大佐:1908年11月20日 - 1909年3月1日
  • 荘司義基 大佐:1910年3月1日 - 12月1日
  • 吉島重太郎 大佐:1910年12月1日 - 1912年3月1日
  • 千坂智次郎 大佐:1912年3月1日 - 11月13日
  • 舟越楫四郎 大佐:1912年11月13日 - 1913年12月1日
  • 平賀徳太郎 大佐:1914年8月23日 - 1915年4月1日
  • 山口鋭 大佐:1915年4月1日 - 12月13日
  • 谷口尚真 大佐:1915年12月13日 - 1916年7月15日
  • 松村純一 大佐:1916年7月15日 - 12月1日
  • 野崎小十郎 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
  • 勝木源次郎 大佐:1917年12月1日 - 1918年11月10日
  • 安村介一 大佐:1918年11月10日 - 1919年11月20日
  • 上田吉次 大佐:1919年11月20日 - 1920年11月20日
  • 樺山可也 大佐:1920年11月20日 - 1921年12月1日
  • 高橋節雄 大佐:1921年12月1日 - 1922年7月1日
  • 森本兎久身 大佐:1922年7月1日[44] - 11月10日[45]
  • (兼)黒田瀧二郎 大佐:1922年11月10日[45] - 1923年5月10日[46]
  • (兼)江口金馬 大佐:1923年5月10日 - 12月1日

参考文献[編集]

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第二 自大正三年至大正九年』 東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74402-2
  • 原武史 『大正天皇 朝日選書663』 朝日新聞社、2000年11月。ISBN 4-02-259763-1
  • 官報
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『軍艦壱岐以下三艦ヘ勅諭ヲ下付セラル』。Ref.A01200239900。
    • 『明治三十七、八年戦役ニ於ケル戦利艦船処分済ノ件』。Ref.A04010138000。
    • 『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。
    • 『明治39年 達 完/4月』。Ref.C12070054200。
    • 『大正1年 達 完/8月』。Ref.C12070064400。
    • 『大正6年 達 完/9月』。Ref.C12070072500。
    • 『大正12年 達完/9月』。Ref.C12070082500。
    • 『生駒進水』。Ref.C06091995600。

脚注[編集]

  1. ^ a b #達明治39年4月p.7『達第五十號 呉海軍工廠ニ於テ製造ノ丑號装甲巡洋艦ヲ生駒ト命名セラル 明治三十九年四月九日 海軍大臣 齋藤實』
  2. ^ a b #達大正1年8月p.33『達第十二號 艦艇類別等級別表ノ通改正ス 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 斎藤實|艦艇類別等級表|軍艦|巡洋戰艦|筑波、生駒、鞍馬、伊吹|』
  3. ^ a b c #達明治39年4月p.7『達第五十一號 艦艇類別等級別表中巡洋艦ノ欄一等ノ下「筑波」ノ次ニ「生駒」ヲ加フ 明治三十九年四月九日 海軍大臣 齋藤實』
  4. ^ a b c d e f g #幕末以降帝国軍艦写真と史実第91コマ(原本145頁)『生駒(いこま) 艦種一等巡洋艦 二檣(信號用)筑波と姉妹艦なり。艦名考山名に採る、生駒山は大和・河内兩國に跨る、生駒郡北生駒村莱畑より約1里にして其山頂に達す、標高2,112尺。
    艦歴本艦は防禦甲板を含む全部を三菱長崎造船所に註文製造せしめたり。之れ軍艦構造の大部を私立造船所に請負はしめたる最初の試みなり。明治42年5月「アルゼンチン」國獨立百年祭に参加(艦長大佐庄司義基)、大正元年8月巡洋戰艦に列す(巡洋戰艦の名は、昭和8年廢せられ、戰艦となる)。大正3年乃至9年戰役に從軍:同3年10月第二南遣支隊として英船「モンマスシャー」を新嘉坡に護送す(艦長大佐平賀徳太郎)、同5年7月 皇太子殿下北陸沿岸御巡啓の際御召艦となる。同12年9月20日除籍、廢棄(華府軍備制限條約に由る)。
    ―要目― 長440呎/幅75呎/喫水26呎/排水量13,750噸/機關 往復機關2基、宮原式罐/馬力20,500/速力20.5/乗組人員830/船材 鋼(甲帶7吋)/兵装 12吋砲4/6吋砲12/4.7吋砲12/3吋砲6/機關砲4/發射管5/起工 明治38-3-15/進水 同39-4-9/竣工 41-3-24/建造所 呉工廠』
  5. ^ a b #主力艦展望コマ14(原本12頁)『(1)帝國軍艦筑波の竣功 日露戰争の教訓を血を以て購った我海軍は一九〇五年國産最初の主力艦として筑波の建造を開始した。同艦は排水量一二,〇〇〇噸の装甲巡洋艦であるが、その主砲に戰艦と同様四五口徑十二吋砲四門を装備し、而もこれに二〇浬の速力を與へた。此の如き性能を有する艦種はこれまで世界何れの海軍にも全く類例を見なかったもので、全く後進日本海軍が世界に投じた一石であったのでるが、これが後に發達した巡洋戰艦の先驅となったわけで、日本の投じた一石はやがて世界の海に大きな波紋を描くことゝなったのである。
    筑波はかくの如く獨特の新性能を備へて生れた我海軍自慢の新艦であった他に、今まで數十年間恰も軍艦の表徴であるかのやうに看られてゐた衝角を敢然と廢止して、商船のやうなクリッパー型艦首に改めた世界の第一艦であり、これを契機として我新造軍艦の艦首は原則としてクリッパー型に決められたのであるが、これは日露戰争の最中に我巡洋艦吉野が暗夜誤って僚艦春日に衝撃されて沈没した凄惨な事實から、敵艦を衝撃すると稱する衝角が、敵を衝く前に先づ味方を衝く危険至極の厄介者であることが實證された結果に他ならないのである。
    然るに此有害無益の長物は歐米先進国の軍艦にはその後十年近くも依然として取付けられてゐたのであるが、二〇,〇〇〇mの射程を誇る大口徑の主砲と、前世紀の遺物たる衝角とが恬然として同一の軍艦に雑居してゐるなどは、時代錯誤も甚だしいもので、識者の嗤を招くに充分な滑稽であった。
  6. ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実第91コマ(原本144頁)『筑波(つくば)【二代】 艦種一等軍巡洋艦 二檣(信號用) 艦名考艦名の起源は初代「筑波」の項(p.3)参照。艦歴明治37年2月、日露開戰後僅かに數月ならずして我海軍は初瀬・八島兩艦沈没の不運に遭遇し、愈々之に代るべき大鑑の必要を痛感し筑波・生駒の建造を決し、呉海軍工廠に於て明治38年1月14日起工。同41年英國皇帝戴冠式に列する爲め同國に回航、次に欧米諸國を回航(筑波・千歳 第二艦隊司令長官伊集院五郎引率、艦長竹内平太郎)。大正元年8月巡洋戰艦に編入(昭和8年艦船類別標準改正により此の名稱廢され戰艦となる)、同3年乃至9年戰役從軍:同3年9月第一南遣支隊に属し南洋方面に行動、「マーシャル」・東「カロリン」群島の占領に任ず(艦長大佐竹内次郎)、同6年1月14日横須賀港に於て災禍の爲め爆沈。
    ―要目― 長440呎/幅75呎/喫水26呎/排水量13,750噸/機關 往復機關2基、宮原式罐/馬力20,500/速力20.5/乗組人員830/船材 鋼(甲帶7吋)/兵装 12吋砲4/6吋砲12/4.7吋砲12/3吋砲6/機關砲4/發射管5/起工 明治38-1-14/進水 同38-12-16/竣工 40-1-14/建造所 呉工廠』
  7. ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199『◎戰艦安藝薩摩装甲巡洋艦筑波生駒鞍馬伊吹命名ノ件 明治三十八年六月十一日(内令三一六)新造軍艦六隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行マテ部内限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|呉海軍工廠ニ於テ製造 甲號戰艦 安藝|横須賀海軍工廠ニ於テ製造 乙號戰艦 薩摩|呉海軍工廠ニ於テ製造 子號装甲巡洋艦 筑波/丑號装甲巡洋艦 生駒|横須賀海軍工廠ニ於テ製造 寅號装甲巡洋艦 鞍馬|呉海軍工廠ニ於テ製造 第一號装甲巡洋艦 伊吹』
  8. ^ 明治39年4月10日官報第6830号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮御安箸 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月七日舞子有栖川宮別邸御出門軍艦磐手ニ乗御同夜備後國鞆ニ御假泊一昨八日同所御發航同日午後二時呉軍港ニ御安箸アラセラレタリ』
  9. ^ 明治39年4月10日官報第6830号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮御安箸 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月七日舞子有栖川宮別邸御出門軍艦磐手ニ乗御同夜備後國鞆ニ御假泊一昨八日同所御發航同日午後二時呉軍港ニ御安箸アラセラレタリ』
  10. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199『◎装甲巡洋艦生駒命名ノ件 明治三十九年四月九日(達五〇)呉海軍工廠ニ於テ製造ノ丑号装甲巡洋艦ヲ生駒ト命名セラル』
  11. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ54『明治三十九年四月九日(達五一)艦艇類別等級別表中巡洋艦ノ欄一等ノ下「筑波」ノ次ニ「生駒」ヲ加フ』
  12. ^ 明治39年4月13日官報第6833号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮御安箸 皇太子殿下ハ本月九日呉軍港御發艦同夜宮島御假泊同十日同所御發艦小豆島御假泊一昨十一日同所御發艦同日午前壽一時五分舞子有栖川宮別邸ニ御安箸アラセラレタリ』
  13. ^ #達大正1年8月p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 斎藤實』
  14. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ56-57『◎艦艇類別等級 大正元年八月二十八日(達一二)艦艇類別等級別表ノ通改正ス(別表)|艦艇類別等級表|軍艦|巡洋戰艦|筑波、生駒、鞍馬、伊吹|』
  15. ^ a b c #昭和天皇実録二巻213頁『(大正五年七月)四日 火曜日(舞鶴御着/御召艦生駒)』
  16. ^ a b 大正5年7月6日官報第1179号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5『○東宮御乗艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨四日午前八時五十五分名古屋離宮御出門同九時十五分名古屋停車場御發車午後四時十分新舞鶴停車場御箸車同四時五十五分軍艦生駒ニ御乗艦アラセラレタリ』
  17. ^ 大正5年7月4日(火)海軍公報 第1161号 p.8』 アジア歴史資料センター Ref.C12070250800 『○艦船所在○七月四日午前十時調【舞鶴】(旗艦)鞍馬、生駒、見島▲、(司令)眞鶴、鵲、千鳥、隼』
  18. ^ 大正5年7月3日(土)海軍公報 第1160号 p.6』 アジア歴史資料センター Ref.C12070250800 『○郵便物發送先(略)第二戰隊司令部、鞍馬、生駒宛/七月 八日迄ニ到箸見込ノモノハ 新潟/七月十五日同 館山/其ノ後ハ 横須賀(以下略)』
  19. ^ a b #昭和天皇実録二巻213-215頁『(大正五年七月)五日 水曜日(舞鶴鎮守府/舞鶴海軍工廠/籠神社/天橋立/七尾に向け御出港)』
  20. ^ a b 大正5年7月7日官報第1180号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮行啓竝御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨五日午前九時御上陸舞鶴鎮守府ヘ行啓同十一時三十分御歸艦正午舞鶴軍港御發艦午後二時宮津灣御箸艦御上陸國幣中社籠神社御参拝成相山御登臨ノ上御歸艦、同六時二十分七尾灣ニ向ヒ御發艦アラセラレタリ』
  21. ^ a b #昭和天皇実録二巻215頁『(大正五年七月)六日 木曜日(生駒艦内を見学/鹿島郡公会堂/七尾西湾御周回)』
  22. ^ 大正5年7月8日官報第1181号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○東宮御箸艦竝御巡航 皇太子殿下ハ一昨六日午後一時七尾灣御箸御上陸七尾町鹿島郡公會堂ヘ御立寄七尾灣内御巡航ノ上同五時御歸艦アラセラレタリ』
  23. ^ a b #昭和天皇実録二巻215-216頁『(大正五年七月)七日 金曜日(七尾南湾御出港/佐渡島真野湾に御着/順徳天皇火葬塚御参拝/真野宮)』
  24. ^ a b 大正5年7月10日官報第1182号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ7『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月七日七尾灣御發艦午後二時眞野灣御箸艦御上陸 順徳天皇火葬塚御拝縣社眞野宮ヘ御立寄ノ上同四時十五分御歸艦アラセラレタリ』
  25. ^ #昭和天皇実録二巻216-217頁『(大正五年七月)八日 土曜日(御上陸中止)
  26. ^ 大正5年7月8日(火)海軍公報 第1165号 p.22』 アジア歴史資料センター Ref.C12070250800 『○艦船所在○七月八日午前十時調【佐渡二見】(旗艦)鞍馬、生駒』
  27. ^ a b #昭和天皇実録二巻217-218頁『(大正五年七月)九日 日曜日(佐渡中学校/黒木御所址/吉井尋常高等小学校/供奉艦鞍馬/両津湾内に御仮泊)
  28. ^ 大正5年7月11日官報第1183号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5『○東宮御乗艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨九日午前八時三十分河原田町御上陸縣立佐渡中學校ヘ御立寄黒木御所蹟御覽吉井小學校ヘ御立寄御晝餐ノ上兩津町御着午後三時御乗艦アラセラレタリ』
  29. ^ a b #昭和天皇実録二巻218-219頁『(大正五年七月)十日 月曜日(両津湾御出航)』
  30. ^ a b 大正5年7月12日官報第1184号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○東宮御發艦竝御安着 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨十日午前六時兩津灣御發艦同八時三十分新潟港御箸艦御上陸日和山、新潟縣物産陳列館、白山公園ニ御立寄午後零時二十分新潟停車場御發車同五時十五分翁島停車場御箸車同六時翁島高松宮御別邸ヘ御安箸アラセラレタリ』
  31. ^ 大正6年1月13日(土)海軍公報 第1311号 p.15』 アジア歴史資料センター Ref.C12070254200 『○艦船所在○一月十三日午前十時調【横須賀】(旗艦)榛名▲、河内、生駒、若宮、(司令)彌生、吹雪、霰、有明、(司令)浦風、海風、山風、金剛、満州、周防▲、筑波、津輕、音羽▲、橋立▲、千早、朝日▲、山城、武藏▲、松江、(司令)不知火▲、陽炎▲、叢雲▲、夕霧▲、(司令)樺、桐、櫻、橘、(司令)初霜、如月、神風、響、(司令)白露、夕暮▲、夕立、三日月、薄雲、山彦、(司令)雉▲、鷗▲、鴻▲、白鷹、高崎、栗橋丸、鹿兒島丸』
  32. ^ 大正6年1月15日(月)海軍公報 第1312号 p.17』 アジア歴史資料センター Ref.C12070254200 『○艦船所在○一月十五日午前十時調【横須賀】(旗艦)榛名、河内、生駒、若宮、(司令)彌生、吹雪、霰、有明、(司令)浦風、海風、山風、金剛、満州、周防▲、筑波、津輕、音羽▲、橋立▲、千早、朝日▲、山城、武藏▲、松江、(司令)不知火▲、陽炎▲、叢雲▲、夕霧▲、(司令)樺、桐、櫻、橘、(司令)初霜、如月、神風、響、(司令)白露、夕暮▲、夕立、三日月、薄雲、山彦、(司令)雉▲、鷗▲、鴻▲、白鷹、高崎、栗橋丸』
  33. ^ a b #災害篇コマ136-137『筑波艦沈没す(大正六年一月十五日東京朝日新聞)十四日午後三時十五分横須賀軍港第二區に停泊中なる軍艦筑波の火藥庫轟然たる大音響を立てて爆發し同時に非常なる震動を爲し、筑波の舷首に於て茶褐色の爆煙高く揚り、上甲板上の乗組員は震動の爲海中に振り落され爆煙は次第に高く揚りて、約百米に達したるが是と同時に艦は大破して午後三時十八分に至るや艦體の後半を現出し、約三十度の傾斜を爲して三時三十分全部沈没せり。大檣は挫折し、海上には後部約一丈餘上甲板を表はし居るのみ、當日は日曜日にて六百餘名の乗組員に半舷上陸を許したれば爆發の當時艦内に在りしは、約三百四十名にて爆沈の際海上に刎ね飛ばされた生存者も悉く海中に漂ひて惨状名状するに能はず、折柄港内には軍艦津輕を初め、河内、生駒、榛名、金剛、其他各軍艦、驅逐艇碇泊し居たるが、急を見るより何れも直に艦載ランチ、カツターを出して救助に着手せるが其混在は宛ら戰場の如く、同時に上陸員全部の非常招集を行ひ、百方救護と手當に奔走し居れるが死傷者は今尚取調べ中なり。』
  34. ^ 大正6年1月15日(月)海軍公報 第1312号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C12070252300 『○軍艦沈没 軍艦筑摩昨十四日午後三時十五分横須賀軍港内ニ於テ前部火薬庫爆發シ沈没セリ(左舷十一度傾斜、艦橋以上水面ニ露出)|○筑波死傷者 死者 中尉谷口諶一、下士卒七/行衛不明者 機關兵曹長月岡安太郎、上等兵曹時田久七、仝山下源治、船匠師鈴木芳太郎、下士卒一五二』
  35. ^ #災害篇コマ137『○爆發瞬間の光景』
  36. ^ a b c #昭和天皇実録二巻378-379頁『(大正七年六月)十日 月曜日(伊豆大島沿海行啓/御召艦生駒/伊東町沖に御仮泊)』
  37. ^ a b c d e f g h 大正7年6月14日官報第1759号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮行啓 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月十日午前八時四十五分東宮御所御出門同八時御珠五分品川驛御發車同九時四十分横濱新港税關港内假驛御着車軍艦生駒ニ御乗艦同十時十五分横濱港御發艦東京灣及相模灣御巡航午後六時伊豆伊東沖御着艦御假泊同十一日午前七時十五分同所御發艦同九時二十分伊豆島元村沖御着艦御上陸大島廰ヘ行啓元村尋常高等小學校及大島椿精製所ヘ御立寄ノ上午後零時五十分御歸艦同二時同所御發艦伊豆大島御一周同六時三十五分安房館山灣御着艦御假泊同十二日午前八時同所御發艦東京灣御巡航午後一時三十分横濱港御着艦御上陸同二時五十分横濱新港税關構内假驛御發車同三時三十五分品川驛御着車同三時四十五分還御アラセラレタリ』
  38. ^ a b c #昭和天皇実録二巻379-380頁『(大正七年六月)十一日 火曜日(大島島庁/元村尋常高等小学校/大島椿油精製所/大島沿岸を周航/館山湾御着)』
  39. ^ 大正7年6月12日(水)海軍公報 第1728号 p.28』 アジア歴史資料センター Ref.C12070260800 『○艦船所在○六月十二日午前十時調【館山】生駒、(司令)夕霧、陽炎』
  40. ^ a b #昭和天皇実録二巻380頁『(大正七年六月)十二日 水曜日(横浜港御着/還啓)』
  41. ^ #達大正12年9月p.2『達第百九十五號 軍艦 香取/同 鹿島/同 薩摩/同 安藝/同 生駒/同 鞍馬/同 伊吹/同 三笠/同 肥前 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
  42. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.60『◎大正十二年九月二十日(達一九六)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス』
  43. ^ #達明治39年11月p.2『達第百九十六號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
  44. ^ 『官報』第2975号、大正11年7月3日。
  45. ^ a b 『官報』第3085号、大正11年11月11日。
  46. ^ 『官報』第3232号、大正12年5月11日。

関連項目[編集]