浅間 (装甲巡洋艦)

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浅間
艦歴
発注
起工 1896年10月20日
進水 1898年3月22日
就役 1899年3月18日
除籍 1945年11月30日
その後 1947年にスクラップとして処分
性能諸元(竣工時)
排水量 常備:9,700t
全長 134.72m
全幅 20.45m
吃水 7.42m
機関 円缶12基
直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸推進 18,000hp
最大速 21.5kt
航続距離
乗員 726名
装甲 主水線帯 88-180ミリメートル
上部水線帯 125ミリメートル
甲板 50ミリメートル
兵装 20cm(45口径)連装砲2基4門
15.2cm(45口径)単装速射砲14基14門
8cm(40口径)単装速射砲12基12門
4.7cm単装速射砲砲8門
45.7cm水上魚雷発射管単装1基
45.7cm水中魚雷発射管単装4基
装甲 舷側:178mm(水線最厚部)、89mm(水線末端部)
甲板:51mm(平坦部)、76mm(傾斜部)
主砲塔:152mm(最厚部)
主砲バーベット:152mm(最厚部)
司令塔:356mm(側盾)、76mm(天蓋)

浅間(あさま)は、大日本帝国海軍に所属した装甲巡洋艦(一等巡洋艦)[1][2]。 日本海軍の法令上は旧字体淺間だが、本記事では浅間とする[3]浅間型装甲巡洋艦ネームシップ。 旧式化に伴い、1921年(大正10年)9月1日附で海防艦に類別変更された[2][4]。 艦名は群馬県長野県の境にある「浅間山」にちなんで名づけられた[5]。この名を持つ日本海軍の艦船としては明治初期のコルベット艦「浅間」に続いて2隻目[5]

艦歴[編集]

1946年時の「浅間」。

イギリスアームストロング・ホイットワース社が、売却用に見込み生産していたものを購入。起工は1896年(明治29年)10月20日[2][6]1897年(明治30年)10月18日、イギリスで建造の第3号一等巡洋艦は「浅間」、第4号一等巡洋艦は「常磐」と命名された[7][3]1898年(明治31年)3月21日海軍軍艦及水雷艇類別標準を制定[8]。本艦以下4隻(浅間、常磐、八雲、吾妻)が一等巡洋艦に類別される[9][1]3月22日、「浅間」は進水[2][6]1899年(明治32年)3月18日、竣工[2][6]。翌19日に出航し[10]、5月17日に横須賀に到着した。

1900年(明治33年)8月には義和団の乱で出撃した[2]。また、1902年(明治35年)6月、イギリスへ派遣されてエドワード7世戴冠記念観艦式に参加した[2]。なお、本艦はたびたび明治天皇の御召艦として観艦式に臨んだ[2][11]

第二艦隊・第二戦隊として日露戦争に参加したが、他の戦隊に臨時編入されることが多かった。仁川沖海戦では第四戦隊に編入され主力として活躍[2]。第三戦隊に編入されていた黄海海戦では、燃料補給中だったために戦場への到着が遅れてほとんど参加できなかった。 1905年(明治38年)5月27日から5月28日の日本海海戦においては第二戦隊として参加[2]。戦闘初期に被弾の影響でが故障し、落伍して集中砲火を浴びたが致命的な損傷は免れた。 「三笠」爆沈後の同年10月23日、凱旋観艦式で御召艦を務める[2][12]。 その後、練習艦隊として海軍兵学校卒業後の少尉候補生の航海任務にも用いられた[2]

第一次世界大戦では太平洋ドイツ領の攻略に参加[2]。その後アメリカ西海岸で行動中1915年(大正4年)1月31日にメキシコ沖で海図になかった暗礁に乗り上げて座礁[2]。航行不能となる。5月8日、現地に赴いた工作艦関東」の手によりサルベージされた[2]。「浅間」は「関東」に護衛されて横須賀に戻った[2]

1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に種別変更された[13][14][15]1935年(昭和10年)10月14日未明、大阪湾から呉軍港へ移動中に広島湾・倉橋島南端で座礁[16][17]。 白石灯台より距離約300m地点[18]。 当時「浅間」に乗艦していた吉田俊雄中尉によれば、当直将校(浅間航海長佐藤述少佐、浅間乗組中島親孝大尉、中野忠夫大尉)[19][20]の過失であったという[21]。 艦の中央部が岩礁に乗り上げて船体が折れそうになり、砲塔を起重機船で撤去して救難作業が行われた[22][23]。10月19日、呉到着[24]。この竜骨損傷や、経年による老朽化などにより1942年(昭和17年)7月1日、主砲、副砲を撤去し、主砲塔を撤去した跡に校舎を備え付け練習特務艦となった。

浅間は第二次世界大戦を生き延び、1945年(昭和20年)11月30日に除籍。アメリカ占領下の1947年日立造船因島工場で解体処分された。

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
  • 島崎好忠 大佐:1897年12月1日 - 1898年6月24日
艦長
  • 島崎好忠 大佐:1898年6月24日 - 1899年6月17日
  • 向山慎吉 大佐:1899年6月17日 - 1900年5月20日
  • 細谷資氏 大佐:1900年5月20日 - 1901年3月13日
  • 中尾雄 大佐:1901年3月13日 - 1903年1月12日
  • 寺垣猪三 大佐:1903年1月12日 - 7月7日
  • 八代六郎 大佐:1903年7月7日 - 1905年12月12日
  • 小泉鑅太郎 大佐:1905年12月12日 - 1906年11月22日
  • 宮地貞辰 大佐:1906年11月22日 - 1907年9月28日
  • 野間口兼雄 大佐:1907年9月28日 - 12月10日
  • 伊藤乙次郎 大佐:1907年12月10日 - 1908年5月15日
  • 山澄太郎三 大佐:1908年5月15日 - 12月10日
  • 田中盛秀 大佐:1908年12月10日 - 1909年5月22日
  • 山本竹三郎 大佐:1909年5月22日 - 1910年4月9日
  • 田中盛秀 大佐:1910年4月9日 - 1911年5月23日
  • 松岡修蔵 大佐:1911年5月23日 - 10月25日
  • 磯部謙 大佐:1911年10月25日 - 12月1日
  • 平賀徳太郎 大佐:1913年5月24日 - 1914年8月23日
  • 吉岡範策 大佐:1914年8月23日 - 1916年1月10日
  • 白石直介 大佐:1916年7月15日 - 12月1日
  • 内田虎三郎 大佐:1916年12月1日 - 1918年7月17日
  • 古川弘 大佐:1918年7月17日 - 1919年3月27日
  • 青木董平 大佐:1919年3月27日 - 7月14日
  • 今泉哲太郎 大佐:1919年7月14日 - 11月20日
  • 小山田繁蔵 大佐:1919年12月1日 - 1921年11月20日
  • 白石信成 大佐:1921年11月20日 - 1923年3月1日
  • 米村末喜大佐:1923年3月1日 - 1924年4月15日
  • 七田今朝一 大佐:1924年4月15日 - 1925年4月20日
  • 今川真金 大佐:1925年4月20日[25] - 1925年11月20日[26]
  • 山口延一 大佐:1925年11月20日 - 1926年6月15日
  • 加島次太郎 大佐:1926年6月15日[27] - 1926年12月1日[28]
  • 藤吉唆 大佐:1926年12月1日 - 1927年12月28日
  • 古川良一 大佐:1927年12月28日[29] -
  • 下村敬三郎 大佐:不詳 - 1928年12月10日[30]
  • 日比野正治 大佐:1928年12月10日 - 1929年12月24日
  • 中島直熊 大佐:1929年12月24日[31] - 1930年11月15日[32]
  • 原田文一 大佐:1930年11月15日[32] - 1931年2月1日[33]
  • 糟谷宗一 大佐:1931年2月1日 - 1932年12月1日
  • 太田泰治 大佐:1932年12月1日 - 1934年8月20日
  • 大川内傳七 大佐:1934年8月20日 - 1935年8月1日
  • 若木元次 大佐:1935年8月1日[34] - 1935年11月15日[35]
  • 小橋義亮 大佐:1935年11月15日[35] - 1936年12月1日[36]
  • 橋本愛次 大佐:1936年12月1日[36] -

同型艦[編集]

その他[編集]

  • 明治天皇が観艦式において御召艦としたのは、本艦および防護巡洋艦「高千穂」の2隻である(高千穂《明治23年4月18日》、浅間《明治33年4月30日》、浅間《明治36年4月10日》、浅間《明治38年10月23日》、浅間《明治41年11月18日》)[11]
  • 日露戦争従軍当時、艦内ペットとして犬「たま」を飼育していた[37]
  • 日本海海戦で浅間に乗り組んでいた兵士のうち、最後の生き残りだった高知県在住の大倉明治が1982年(昭和57年)5月27日に97歳で死去したと新聞にて報道された事がある。この記事によれば大倉は19歳で海軍に入隊し、1905年に浅間の機関兵として日本海海戦に参加したという。彼は日本海海戦に参加した日本海軍の最後の従軍者であったともされている。[38]

脚注[編集]

  1. ^ a b #達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣 侯爵西郷從道 |軍艦|巡洋艦|一等|淺間 常磐 八雲 吾妻|』
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.56『淺間(あさま)【二代】 艦種一等巡洋艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考初代「淺間」の項(p.15)参照。
    艦歴常磐と姉妹艦なり、我國に於ける装甲巡洋艦として最初の艦なり。明治33年北清事變從軍:同33年8月22日英・獨・露・伊・墺の聯合郡と共に参戰、太沽攻撃に從事(艦長大佐細谷資氏)、同35年6月、高砂と共に英皇戴冠式に参列(司令官伊集院五郎)、同37・8年戰役に從軍(第二戰隊):同37年仁川沖海戰に参加(第四戰隊司令官少将瓜生外吉旗艦、艦長大佐八代六郎)、同年8月黄海々戰に参加(艦長同前)、同38年5月日本海々戰に参加(艦長同前)、大正3年乃至9年戰役(日獨)に從軍:同3年9月南洋方面に行動し、獨領南洋島占領に從事(艦長大佐吉岡範策)、同3年10月又遣米支隊に属し布哇・北米・中米方面警備に從事(艦長同前)、同4年1月31日遣米枝隊として北米沿岸に活動中、南加州「サンパルトロメー」に於て海圖上に指示されざる無名の暗岩に坐礁し常磐・關東等の掩護の下に非常なる辛酸を嘗めて同5月8日離礁、「エスカイモルト」に於て應急處置を行ひ、工作艦「關東」護衛の下に横須賀に歸着、同所に於て修理完了。同10年一等海防艦に編入、御召艦なること屢次、次の如し。
    33年4月28日-30日 大演習/36年4月10日-30日大演習/38年10月23日観艦式/41年11月18日-30日大演習(観艦式共) 尚ほ明治43年以來練習艦隊として海軍少尉候補生等の練習任務に服し今日に至る。
    ―要目―(略)起工 明治29年-10-20/進水同31-3-22/竣工同32-3-18/建造所 英國エルスウィック安社』
  3. ^ a b #達明治30年10月(1)p.31『達第百四十一號 第二號甲鐡戰艦以下六艦左ノ通命名セラル 明治三十年十月十八日 海軍大臣公爵西郷從道|英國ニ於テ建造 第二號甲鐡戰艦 アサ|獨國ニ於テ建造 第一號一等巡洋艦 クモ|佛國ニ於テ建造 第二號一等巡洋艦 ヅマ|英國ニ於テ建造 第三號一等巡洋艦 アサ/第四號一等巡洋艦 トキ|横須賀海軍造船廠ニ於テ建造 第一號水雷砲艦 ハヤ
  4. ^ #達大正10年9月p.1『達第百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎|戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ』
  5. ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.19『淺間(あさま)【初代】 艦種軍艦 三檣「シップリグ・コルベット」 艦名考山名に採る、淺間山は信濃國北佐久郡、上野國吾妻郡に跨る、標高8,184尺。
    艦歴明治元年佛國に於て建造、同7年7月開拓使より受領、當時北海丸と號す。同年10月淺間艦と改名、後ち砲術練習艦として當時有名なり。同9年萩の亂從軍、同10年西南役從軍、同24年3月3日除籍、船體は同25年6月横須賀水雷隊攻撃部に付属せしが同29年12月賣却。』
  6. ^ a b c #日本軍艦集2600年版コマ67(原本105頁)『―海防艦― 淺間(あさま) 基準排水量9,240噸、長さ124.36米、幅20.45米、平均吃水7.42米、速力21.25節、備砲20糎砲4門、15糎砲12門、8糎砲4門、8糎高角砲1門、魚雷發射管4門、起工明治29年10月20日、進水明治31年3月21日、竣工明治32年3月18日、建造所英國アームストロング社』
  7. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ198『◎戰艦朝日巡洋艦八雲吾妻淺間常磐及水雷砲艦千早命名ノ件 明治三十年十月十八日(達一四一)』
  8. ^ #達明治31年3月(1)pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣 侯爵西郷從道』
  9. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50『◎軍艦及水雷艇類別等級 明治三十一年三月二十一日(達三五)改正明治三十二年十月一七八號、三十三年六月一二二號消滅 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム(別紙)軍艇|巡洋艦|一等|浅間 常磐 八雲 吾妻』
  10. ^ 『官報』第4713号、明治32年3月22日。
  11. ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.239『観艦式一覧表』
  12. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.240『明治三十八年凱旋観艦式艦艇配置圖』
  13. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59『大正十年九月一日(達一六四)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル 海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ』
  14. ^ #達大正10年9月p.16『戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ』
  15. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.19『淺間(あさま)【再出】 艦種海防艦 艦名考 艦歴}既に「日清戰役後、日露戰役迄の艦艇」の部に出づ(p.79)』
  16. ^ #造船士官の回想 上65頁
  17. ^ #浅間座礁事件報告p.1『(略)呉警備戰隊所属軍艦淺間十月九日呉鎮守府大阪灣警備演習部隊編制ト同時ニ呉防備戰隊ニ編入セラレ同日單獨一〇〇〇呉出港十日〇七五九大阪港入港同日一〇一〇本職淺間ニ乗艦将旗ヲ掲揚ス十二日〇八〇〇大阪灣警備演習開始十三日〇八一〇同上集結同日一〇〇〇本艦同艦ヲ率ヒ大阪港出港呉歸港ノ途次十四日〇二三六白石燈臺(三ツ石)ノ三六度三〇〇米ノ暗岩ニ坐礁ス 坐礁前後ノ状況淺間機密第五一號報告ノ通(註)十四日演習部隊ノ編制ヲ解カレ一〇三〇本職ノ将旗ヲ撤ス』
  18. ^ #浅間救難作業(5)p.5『1.坐礁全景(写真)/2.白石燈臺(距離230300m)』
  19. ^ #浅間座礁事件報告pp.3-4『(略)十四日〇〇一五憩潮時ニ來島海峡ヲ通過シ安藝灘ニ出ヅ此航路ハ数日前大阪ニ至ル往路ト仝一ノモノニシテ且海面ハ廣潤トナレルヲ以テ〇一〇〇頃航海長海軍少佐 佐藤述及當直将校海軍大尉中島親孝ニ操艦ヲ命ジ艦長室ニ下ル/少憩後短時間後甲板ニ上リ四圍ノ状況ヲ望見シ再ビ艦長室ニ下リ翌十五日以後役務変更ニ関スル作業原案及人員異動ニ関スル注意事項等ヲ起草シツツアリ』
  20. ^ #浅間座礁事件報告pp.18-19『軍艦淺間坐礁事件明細書 當直将校海軍大尉中野忠夫』
  21. ^ #海軍的思考法に学ぶ144頁
  22. ^ #浅間救難作業(1)p.43『(宛)(発略)機密第四〇六番電 淺間切断防止及浮揚力増加ノ爲前後部砲塔及副砲七門八糎砲二門ヲ十七日迄ニ陸揚セリ。一七-一三〇〇』
  23. ^ #造船士官の回想 上68頁
  24. ^ #浅間救難作業(1)p.24『機密第四一〇番電 淺間十九日午前二時三十分呉入港直ニ入渠セシメタリ。午前三時 一九-〇四〇〇』
  25. ^ 『官報』第3796号、大正14年4月21日。
  26. ^ 『官報』第3974号、大正14年11月21日。
  27. ^ 『官報』第4143号、大正15年6月16日。
  28. ^ 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
  29. ^ 『官報』第302号、昭和2年12月29日。
  30. ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
  31. ^ 『官報』第898号、昭和4年12月26日。
  32. ^ a b 『官報』第1166号、昭和5年11月17日。
  33. ^ 『官報』第1226号、昭和6年2月2日。
  34. ^ 『官報』第2575号、昭和10年8月2日。
  35. ^ a b 『官報』第2663号、昭和10年11月16日。
  36. ^ a b 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
  37. ^ #日露戦役海軍写真集(4)p.22『淺間艦内忙中の閑日月』-『艦内唯一の非戰闘員愛犬たま』
  38. ^ [1]

参考文献[編集]

  • 吉田俊雄 『海軍的思考法に学ぶ』 光人社、1985年12月。ISBN -4-7698-0288-9。
  • 堀元美 『造船士官の回想(上)』 朝日ソノラマ文庫、1994年8月。ISBN -4-257-17284-3。 離礁作業を見学した。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 官報
  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
    • 坪谷善四郎編 『日露戦役海軍写真集. 第1輯』 博文会、1905年9月。
    • 坪谷善四郎編 『日露戦役海軍写真集. 第2輯』 博文会、1905年10月。
    • 坪谷善四郎編 『日露戦役海軍写真集. 第3輯』 博文会、1905年11月。
    • 坪谷善四郎編 『日露戦役海軍写真集. 第4輯』 博文会、1906年7月。
    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷) info:ndljp/pid/1886711』 海軍大臣官房、1939年
    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』 海軍大臣官房、1940年
    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886713』 海軍大臣官房、1940年
    • 海軍研究社編輯部 編 『日本軍艦集 2600年版』 海軍研究社、1940年7月。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『明治30年達下巻/10月(1)』。Ref.C12070039500。
    • 『明治31年達 完/3月(1)』。Ref.C12070040500。
    • 『大正10年達完/9月』。Ref.C12070079200。
    • 『呉防戦機密第15号の21 10.10.25軍艦浅間座礁事件報告』。Ref.C05034651700。
    • 『10.10.14軍艦浅間救難作業報告外(1)』。Ref.C05034652800。
    • 『10.10.14軍艦浅間救難作業報告外(2)』。Ref.C05034652900。
    • 『10.10.14軍艦浅間救難作業報告外(3)』。Ref.C05034653000。
    • 『10.10.14軍艦浅間救難作業報告外(4)』。Ref.C05034653100。
    • 『10.10.14軍艦浅間救難作業報告外(5)』。Ref.C05034653200。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]