香椎 (練習巡洋艦)

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Japanese cruiser Kashii 1941.jpg
艦歴
発注
起工 1940年5月30日
進水 1941年2月14日
就役 1941年7月15日
その後 1945年1月12日に戦没
除籍 1945年3月20日
性能諸元(計画)
排水量 基準:5,890t、公試:6,300t
全長 133.50m
全幅 15.95m
吃水 5.75m(公試状態)
軸数 2
軸馬力 8,000hp
(タービン2基:4,400hp
ディーゼル2基:3,600hp)
最大速 計画:18.0ノット
航続距離 12ノットで7,000海里
燃料 重油600t
乗員数 竣工時定員505名[1]
兵装
新造時 50口径14cm連装砲 2基4門
40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
25mm機銃 Ⅱ×4
53.3cm連装魚雷発射管 2基4門
航空機×1、射出機×1
爆雷×?
1944年 50口径14cm連装砲 2基4門
40口径12.7cm連装高角砲 3基6門
25mm機銃 Ⅲ×4、Ⅱ×4、Ⅰ×10
13mm機銃 Ⅰ×8
航空機×1、射出機×1
爆雷×300

香椎かしい)は旧日本海軍の練習巡洋艦[2]香取型練習巡洋艦の3番艦である[3]。艦名は、福岡県香椎宮に由来している。練習艦として建造されたが、長距離練習航海には使用されないまま実戦投入され、船団護衛中に空襲で撃沈された。

艦歴[編集]

1939年(昭和14年)10月4日、三菱横浜造船所で起工[4]1940年(昭和15年)8月30日、練習巡洋艦「香椎」、駆逐艦「谷風」「野分」等に艦名が与えられる[2]。10月15日、進水[4]1941年(昭和16年)7月15日に竣工(駆逐艦舞風と同日)[4]佐世保鎮守府籍。しかし本来の建造目的である練習航海には1度も使用されなかった。

同年7月31日、「香椎」は新編された南遣艦隊(司令長官平田昇中将)の旗艦となるが、本艦以外の戦力は海防艦「占守」、設営隊等しか所属していない弱小部隊であった。だが日米開戦が決定的になると、日本海軍は南遣艦隊を一挙に増強[5]。10月24日(18日附着任)、小沢治三郎中将が司令長官としてサイゴンに停泊する「香椎」に到着した[5]。南方部隊指揮官近藤信竹中将(第二艦隊司令長官:旗艦「愛宕」)は、「小沢中将は『香椎』か陸上基地(サイゴン)で指揮すれば良い」という立場だったが、小沢は指揮旗艦として重巡洋艦の派遣を要請[5]。そこで山本五十六連合艦隊司令長官は第四戦隊から重巡「鳥海」を引き抜き南遣部隊に編入、旗艦は「香椎」から「鳥海」に移った[5]

太平洋戦争直前の南遣艦隊は、重巡「鳥海」・練習巡洋艦「香椎」・海防艦「占守」以下、第七戦隊(司令官栗田健男少将:熊野鈴谷三隈最上)、第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将:旗艦「川内」、第11駆逐隊《初雪白雪吹雪》、第12駆逐隊《白雲叢雲東雲》、第19駆逐隊《綾波敷波浦波磯波》)、第四潜水戦隊(司令官吉富説三少将:《軽巡鬼怒、特設潜水母艦名古屋丸》、第18潜水隊、第19潜水隊、第21潜水隊)、第五潜水戦隊(司令官醍醐忠重少将:《軽巡由良、特設潜水母艦りおでじゃねろ丸》、第28潜水隊、第29潜水隊、第30潜水隊、第9潜水隊)、第12航空戦隊(山陽丸神川丸)、第22航空戦隊(元山海軍航空隊美幌海軍航空隊)、第9根拠地隊(初鷹)、工作艦「朝日」等の『寄せ集め部隊』に膨れ上がっていた[5][6]

太平洋戦争開戦後はマレー上陸作戦の護衛任務など、南方攻略作戦に参加した。1942年(昭和17年)2月、連合国軍艦隊はいまだ巡洋艦数隻を保持していた。小沢中将は対水上艦戦闘を想定して第二護衛隊に属していた軽巡「由良」を主隊(鳥海、第七戦隊、第19駆逐隊第1小隊《綾波、磯波》、第12駆逐隊《白雲》、第三航空部隊《空母龍驤、駆逐艦敷波》)に編入、それまで主隊だった「香椎」を第二護衛隊に編入する[7]。2月11日、第二護衛隊(香椎、占守、第20駆逐隊《夕霧天霧》)はスマトラ島攻略を目指す輸送船14隻と共にベトナムカムラン湾を出撃した[7]。2月下旬~3月上旬、日本軍輸送船団撃滅を企図するABDA連合国艦隊スラバヤ沖海戦バタビア沖海戦、および南雲機動部隊の掃蕩作戦によって東南アジア方面から一掃され、日本軍輸送船団の脅威は取り除かれた。

4月上旬までに、日本軍は当初の攻略目標をすべて占領。4月10日附連合艦隊第二段階作戦第一期兵力部署発動により、それまで南遣艦隊(第一南遣艦隊)に編入されていた他部隊・艦艇は新たな部隊や任地に転じていった[8]。「鳥海」、「由良」、第三水雷戦隊、第七戦隊、空母「龍驤」はそれぞれ内地へ帰投[8]。4月12日、第一南遣艦隊旗艦(南西方面艦隊所属)は「鳥海」から「香椎」に移った[8]。7月14日、司令長官は小沢中将から大川内伝七中将に変わった。

その後、一時的に練習艦として使用。ただし、本来の目的である長距離の練習航海に就く機会は無かった。

1943年(昭和18年)7月、シンガポールからポートブレアへ向かう呉第八特別陸戦隊を乗せた特設運送艦「屏東丸」を、掃海艇7号とともに護衛[9]。8月、シンガポールからサバンへ第三三一航空隊の整備員を輸送したが、その際命中はしなかったもののサバン入港直前にイギリス潜水艦トライデントの雷撃を受けた[9]

海上護衛部隊[編集]

1944年(昭和19年)5月3日海上護衛総隊に編入。同年11月15日、「香椎」と海防艦(対馬大東鵜来、23号、27号、51号)で第101戦隊渋谷紫郎少将)が編成され、「香椎」はその旗艦となった[10]

同年11月17日、「香椎」はヒ80船団を護衛してシンガポールを発ち、12月4日に長崎に着いた[11]。12月19日、第101戦隊はヒ85船団とモタ38船団を護衛して門司を出発[12]。12月25日に高雄に着き、そこで多数のタンカーが船団に加わったがフィリピンに向かう船とは別れた[13]。船団は12月27日に高雄を出発し、1945年(昭和20年)1月4日に仏印サン・ジャックに到着した[14]

第101戦隊は、サン・ジャックからはヒ86船団を護衛し内地に戻ることになった。この船団はシンガポールから北上して来ていたもので、4隻のタンカーと6隻の貨物船からなっていた[15]。船団は1月9日に出発したが、このとき多数の空母を含むアメリカ軍第38任務部隊南シナ海に侵入していた[16]。ヒ86船団は1月11日にキノン湾に仮泊し、翌日キノン湾を発ち北上したが、その日に船団は第38任務部隊による空襲を受け壊滅した[17][18]。「香椎」は第38.3任務群(空母エセックスタイコンデロガラングレーサン・ジャシント基幹)による空襲で午後1時45分にまず爆弾2発が命中し、続いてさらに爆弾3発と魚雷2本が命中して午後2時5分に総員退艦となり、沈没した[19]。生存者は海防艦「鵜来」に7名が救助されただけで、艦長や渋谷少将も含む621名が戦死した[19]

1945年(昭和20年)3月20日、練習巡洋艦「香椎」、軽巡「木曾」は軍艦籍より除籍された[20]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』181-182頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 岩淵三次 大佐:1941年4月1日 - 7月15日

艦長[編集]

  1. 岩淵三次 大佐:1941年7月15日 -
  2. 小島秀雄 大佐:1941年10月15日 -
  3. 重永主計 大佐:1942年6月25日 -
  4. 高田俐 大佐:1943年1月7日 -
  5. 松村翠 大佐:1944年3月5日 - 1945年1月12日戦死

同型艦[編集]

絵葉書

脚注[編集]

  1. ^ 昭和16年7月15日付 海軍内令 第806号改正、海軍定員令「第48表ノ3 練習巡洋艦定員表」。この数字は飛行科要員を含み、候補生および特修兵を含まない。
  2. ^ a b #達昭和15年8月p.19『達第百六十七號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十四年度及同十五年度ニ於テ建造ニ着手ノ練習巡洋艦一隻、驅逐艦二隻、潜水艦二隻、測量艦一隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十五年八月三十日海軍大臣吉田善吾|三菱重工業株式会社横濱船渠ニ於テ建造 練習巡洋艦 香椎(カシヒ)|株式会社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 谷風(タニカゼ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 野分(ノワキ)|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 伊號第三十三潜水艦|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 伊號第三十九潜水艦|三菱重工業株式会社横濱船渠ニ於テ建造 測量艦 筑紫(ツクシ)|鶴見製鉄造船株式会社ニ於テ建造 第十六驅潜艇』
  3. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.5『練習巡洋艦|香取、鹿島、香椎』
  4. ^ a b c #内令昭和17年5月(2)p.22『香椎|練習巡洋艦|(性能略)|三菱横濱|起工年月日14-10-4|進水年月日15-10-15|竣工年月日16-7-15|(兵装略)』
  5. ^ a b c d e #回想の提督25-27頁『南遣艦隊司令長官時代』
  6. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦(付図第一)『南方作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』
  7. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦294-298頁『船団の進航』
  8. ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦668-669
  9. ^ a b 日本軽巡戦史、388ページ
  10. ^ 日本軽巡戦史、622ページ
  11. ^ 日本軽巡戦史、623-624ページ
  12. ^ 日本軽巡戦史、624ページ
  13. ^ 日本軽巡戦史、625ページ
  14. ^ 日本軽巡戦史、625-626ページ
  15. ^ 日本軽巡戦史、626-627ページ
  16. ^ 日本軽巡戦史、627-629ページ
  17. ^ 日本軽巡戦史、629-631ページ
  18. ^ #戦隊行動調書p.28『20.1.-1.12 昭南-内地ヒ86船団護衛/1.12 船団護衛中仏印キノン北方ニ於テ敵機動部隊ト交戦船団部隊全滅』
  19. ^ a b 日本軽巡戦史、631ページ
  20. ^ #内令(軍極秘)昭和20年3月p.44『内令第二四八號(軍極秘)|佐世保鎮守府在籍 軍艦 香椎|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 木曾|右帝国軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年三月二十日海軍大臣』

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C12070162800 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(2)』。
    • Ref.C12070204300 『昭和17年8月10日.昭和20年7月13日 内令及び海軍公報(軍極秘)/昭和20年3月』。
    • Ref.C13072003500 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/巻3追録/第13類艦船(1)』。
    • Ref.C08051772000 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 朝雲新聞社、1969年5月。
  • 小沢提督伝刊行会編 『回想の提督 小沢治三郎』 原書房、1971年3月。
  • 木俣滋郎、『日本軽巡戦史』、図書出版社、1989年
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9

関連項目[編集]