三笠 (戦艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
三笠
佐世保に入港した「三笠」 (1905年2月18日もしくは19日撮影)
佐世保に入港した「三笠」
(1905年2月18日もしくは19日撮影)
基本情報
建造所 ヴィッカース社(イギリス
バロー=イン=ファーネス造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 戦艦
級名 敷島型(四番艦)
艦歴
発注 1898年9月26日
起工 1899年1月24日
進水 1900年11月8日
竣工 1902年3月1日
除籍 1923年9月20日
現況 記念艦として保存
要目
排水量 15,140トン(常備)
全長 131.7m
最大幅 23.2m
吃水 8.3m
機関 15,000馬力
速力 18ノット
航続距離 10ノットで7,000海里(約13,000km)
乗員 860名
兵装 主砲 40口径30.5センチ連装砲2基4門
副砲 40口径15.2センチ単装砲14門
水雷艇砲 40口径7.6センチ単装砲20門
47ミリ単装砲16基
魚雷発射管 45センチ発射管4門
装甲 KC装甲鋼板(クルップ鋼
舷側:9in(228.6mm)-4in(101.6mm)KC鋼[1]
甲板:3in(76.2mm)-2in(50.8mm)[1]
砲塔:14in(355.6mm)-8in(203.2mm)[1]
砲郭:6in(152.4mm)-2in(50.8mm)[1]
テンプレートを表示

三笠(みかさ)は、大日本帝国海軍戦艦日露戦争日本海海戦連合艦隊旗艦を務めた。

神奈川県横須賀市に現存し、公開されており、世界の三大記念艦の一つとされる[注釈 1]

概要[編集]

軍艦三笠(みかさ)」は、敷島型戦艦の四番艦。イギリスヴィッカース社で建造され、1902年明治35年)3月に竣工[3]奈良県にある三笠山春日山)にちなんで命名された[4]。 船籍港は京都府舞鶴市舞鶴港。同型艦は「敷島」「初瀬」「朝日」。1904年(明治37年)からの日露戦争では連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将らが座乗した[5]1905年(明治38年)5月末、連合艦隊旗艦として日本海海戦を戦う。同年9月11日佐世保港で爆沈した[6]後に浮揚・修理され、1908年(明治41年)4月下旬に修理工事を終えた[6]1912年大正元年)10月3日、前部火薬庫火災事故を起こす[7]

大正時代は北方警備に従事した(シベリア出兵[4]。1921年(大正10年)9月1日、海防艦に類別変更。1923年(大正12年)9月1日、横須賀軍港関東大震災に遭遇、着底した[8]ワシントン海軍軍縮条約により除籍され、横須賀で記念艦となった[9]。現在は防衛省が所管し、神奈川県横須賀市の三笠公園記念艦として保存され、現存している。

歴史[編集]

建造[編集]

1906年版ジェーン海軍年鑑における三笠の要目

日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本海軍は軍拡を進めた。その中で『六六艦隊計画』(戦艦を6隻、装甲巡洋艦を6隻配備する計画)の一環、その最終艦として「三笠」はイギリスのヴィッカースに発注されて建造された[10]

1899年(明治32年)1月24日、バロー=イン=ファーネス造船所で起工。1900年(明治33年)11月8日、進水した[4]1902年(明治35年)1月15日から20日まで公試が行われ、3月1日にサウサンプトンで日本海軍への引渡し式が行われた。建造費用は船体が88万ポンド、兵器が32万ポンドであった。

3月13日、イギリスのプリマスを出港。スエズ運河経由で5月18日に横須賀へに到着した[4]。初代艦長は早崎源吾大佐。横須賀で整備後の6月23日に出港し、7月17日本籍港である舞鶴港に到着した。

戦歴[編集]

「三笠」露天艦橋日本海海戦の指揮を執る東郷平八郎や艦長の伊地知彦次郎(左から4人目)。東城鉦太郎画『三笠艦橋之圖』

1903年(明治36年)7月24日、皇族軍人伏見宮博恭王(海軍大尉、9月26日に少佐進級)が「三笠」に着任、後部砲塔主砲)を指揮する第三分隊長となった[11]。12月28日、「三笠」は連合艦隊旗艦となった[11]。 1904年(明治37年)2月6日から日露戦争に加わり、2月9日からの旅順口攻撃旅順口閉塞作戦に参加した。3月5日、加藤寛治少佐(当時、姉妹艦「朝日」砲術長)が「三笠」砲術長に任命された[11][12]。 8月10日、黄海海戦に参加した。「三笠」の被弾箇所は20数個を数えた[13]。砲戦中の午後5時58分頃、公式には被弾[14](実際は砲弾が砲身内で自爆する膅発[注釈 3][15][16]により後部砲塔で爆発が発生、戦死1名・負傷16名を出す[注釈 4][11]。伏見宮博恭王少佐も負傷した[12]。「三笠」での勤務や海戦をきっかけに、東郷と加藤[17]、あるいは加藤と伏見宮博恭王の親密な関係が始まった[18]。 12月28日、三笠はに入港、修理を行う。膅発の原因は解明されず、各艦は不安を抱えたままであった[19]

1905年(明治38年)2月14日に呉を出港、江田島佐世保経由で21日に朝鮮半島鎮海湾に進出。以後、同地を拠点に対馬海峡で訓練を行い、5月27日・28日に日本海海戦ロシア海軍バルチック艦隊と交戦した。「三笠」艦長は伊地知彦次郎大佐、砲術長は安保清種少佐[20]。膅発を恐れて「三笠」では帆布を用いた応急措置を行ったが、それでも「三笠」「敷島」「日進」で膅発が起きた[21]。この海戦でバルチック艦隊は壊滅し、日本は勝利したものの「三笠」は113名の死傷者を出した。

日露戦争終結直後の1905年(明治38年)9月11日、三笠は佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のため沈没した[6]。この事故では339名の死者を出した。弾薬庫前で、当時水兵間で流行していた「信号用アルコールに火をつけたのち、吹き消してにおいを飛ばして飲む」(兵員達は「ピカ」と呼んでいた)悪戯の最中に、誤って火のついた洗面器をひっくり返したことが原因とする説や[22]下瀬火薬の変質が原因という説もある。事故当時、東郷は上陸していて無事であった。艦隊付属軍楽隊に着任していた瀬戸口藤吉も、事故当時は上陸中で難を逃れたが、軍楽兵の多くが事故で殉職した。この爆発沈没事故は秋山真之が宗教研究に没頭する一因ともなったとされる。

10月23日の海軍凱旋式は、「三笠」に代わって姉妹艦「敷島」が旗艦となった。明治天皇の御召艦は装甲巡洋艦浅間」であった[23]。「三笠」は予備艦とされた。12月12日、艦艇類別等級表の改定に伴い[24]戦艦の等級が廃止され、「戦艦」に類別される[25]1906年(明治39年)8月14日に浮揚、佐世保工廠で修理された[4]1908年(明治41年)4月24日、工事終了[6]。第一艦隊旗艦として現役に戻った。 同年9月25日朝、明治天皇皇太子(のちの大正天皇)は青森県青森港から「三笠」(第一艦隊司令長官伊集院五郎中将、「三笠」艦長奥宮衛大佐)に乗艦する[26]。皇太子は「三笠」で大湊要港部へ移動し、同地を視察する[27]。夕刻、三笠は青森港に戻り皇太子は退艦した[28][29]

1912年大正元年)10月3日午後6時40分、前部火薬庫で火災が発生、注水して爆沈を免れる[30]。火薬庫で自殺を図った水兵が死亡したほか、負傷者複数名を出した[31]1914年(大正3年)8月23日、日本が第一次世界大戦に参戦すると、戦争初期に「三笠」は日本海などで警備活動に従事した。その後、1918年(大正7年)から1921年(大正10年)の間、大戦中にロシア革命により誕生した社会主義国ソ連を東から牽制するシベリア出兵支援に参加した[32]。大正7年当時、木村昌福(後日、第一水雷戦隊司令官等)が海軍中尉として「三笠」で勤務していた[32]。シベリア出兵参加前、「三笠」では防寒工事が実施され、水上飛行機の臨時搭載も行った。横廠式ロ号甲型水上偵察機などは分解状態で「三笠」に搭載し、氷上や水上に下ろして発進した[33][34]

1920年(大正9年)の尼港事件の際は砕氷艦見島」(元ロシア海防戦艦アドミラル・セニャーヴィン」)とニコラエフスクに救援に向かったが堅氷に阻まれ入港できなかった。このため約700名の日本人と数千名のロシア人は救助されることなく赤軍パルチザンに惨殺された。日本海軍最初の砕氷艦「大泊」が竣工したのは、翌年11月であった[35]

1921年(大正10年)9月1日、「三笠」は海防艦(一等海防艦)に類別される[36]。 9月16日、「三笠」はウラジオストク港外のアスコルド海峡で濃霧の中を航行中座礁して大きく損傷し、浸水[4]。離礁後、ウラジオストクに入渠して応急修理を行った[4]。11月3日、舞鶴に帰投した。

廃艦とその後の荒廃[編集]

戦後間もなくダンスホールや水族館が設置された「三笠」
1950年代に撮影された「三笠」。ダンスホールや水族館が見える。

戦間期ワシントン軍縮条約によって「三笠」は廃艦が決定した[4]1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により岸壁に衝突。応急修理のままであったウラジオストク沖での破損部位から大浸水を起こし、そのまま着底した[37]。9月20日、除籍された[4]

姉妹艦のうち、「敷島」と「朝日」は武装を撤去した後に練習特務艦として再利用された[38][39]。「三笠」は解体される予定だったが、国民から愛された「三笠」に対する保存運動が勃興し、条約に基づき現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることが特別に認められる[4]1925年(大正14年)1月に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定された。6月18日に保存のための工事が開始された。舳先皇居に向けた後に船体の外周部に大量の砂が投入されるとともに、下甲板にコンクリートが注入された。この日以降、「三笠」は海に浮かんでいるのではなく海底に固定されており、潮の満ち引きによっても甲板の高さは変わらない状態となっている。保存に際して廃艦時に撤去した兵装の復元は行われなかったが、砲塔等は木製のダミーが取り付けられた[40][注釈 9]

1926年(大正15年)11月12日、三笠保存記念式が行われる[41]。式典には摂政宮(大正天皇皇太子/昭和天皇)、高松宮宣仁親王など皇族一同、井上良馨元帥東郷平八郎元帥(三笠保存会名誉会長)、阪谷芳郎三笠保存会会長、財部彪海軍大臣など重鎮多数、さらに伏見宮博恭王(元「三笠」分隊長)、加藤寛治横須賀鎮守府司令長官(元「三笠」砲術長)など日露戦役当時の「三笠」乗組員も参列した[42]

太平洋戦争第二次世界大戦)において、姉妹艦「朝日」は工作艦として南方作戦に参加し[43]、1942年(昭和17年)5月25日に潜水艦雷撃で沈んだ[44]。 「敷島」は佐世保で練習特務艦として[45][38]、「三笠」は横須賀で保存艦として、戦争期を過ごした。ドーリットル空襲時、横須賀に襲来したB-25爆撃機は「三笠」上空から爆撃を開始[46]、横須賀海軍工廠で潜水母艦から航空母艦へ改造中の「大鯨(龍鳳)」に命中弾を与えた[47]が、「三笠」に被害はなかった。マーシャル諸島ウォッジェ環礁(ウオッゼ環礁)には第四艦隊隷下の第64警備隊が駐留していたが、同島の防備のため「三笠」と「春日」から取り外された15㎝副砲が計6門提供されたという[48]。ウオッゼ環礁の砲台クェゼリンの戦いにおいて、米艦隊との交戦により破壊された[注釈 10]

戦争末期の1945年(昭和20年)7月18日、横須賀軍港への空襲により同港係留中の練習特務艦「富士」(元戦艦)[49][50]と「春日」(元装甲巡洋艦)[51]が損傷・浸水して着底したが、「三笠」に被害はなかった。敗戦後、日本が連合国軍に占領されていた時期に、日露戦争で敗北したロシア帝国の後継国家ソ連のクズマ・テレビヤンコ中将からの要求で解体処分されそうになったが、反共主義者だったアメリカ陸軍チャールズ・ウィロビー少将らの尽力によりこれを逃れた。

敗戦から1年経たない1946年4月の時点で、切断可能な金属はガスバーナーで切断されて盗まれ、甲板のチークや建材にするために盗まれ、「三笠」は急速に荒廃していた[52]。東郷平八郎を敬愛していたアメリカ海軍チェスター・ニミッツ元帥はこれを知ると激怒し、海兵隊を歩哨に立たせた。

連合国軍の構成国で横須賀港を接収したアメリカ軍のために娯楽施設が設置され、「キャバレートーゴー」が艦上に開かれた。のちに後部主砲塔があった場所に水族館が設置された。[注釈 11]

復元運動[編集]

「三笠」建造当時から使われているチーク材床。この上を東郷平八郎元帥が実際に歩いたとされている。(無線電信室出入り口付近)

この惨状を見たイギリス人のジョン・S・ルービンが英字紙『ジャパンタイムズ』に投書、大きな反響を呼んだ。さらに、前述のように東郷平八郎を敬愛しており、「三笠」の惨状を憂いた米海軍のニミッツ元帥が著作『ニミッツの太平洋戦争史(The Great Sea War)』の売上の一部を「三笠」保存や東郷神社再建奉賛会に寄付するなどして[53]、復元保存運動が徐々に盛り上がりを見せていった。

日本での当時の世論は復元保存派と完全撤去派と賛否両論の真っ二つに分かれた。後者の場合、軍艦を重要文化財に指定した前例が過去になかったのと、既に荒廃していた「三笠」を仮に復元したとしても指定が難しいという理由があった。更に高度経済成長期だったため、約四千トン分の鉄屑として売り払い(当時の時価として八千万円分)、それを資金に記念館を作るべきという意見すらあった。海上自衛隊としても維持できる予算が取れない上に「動かない艦など引き取れぬ」というコメントを当時の海上幕僚副長だった伊藤邦彦が述べている。伊藤は帝国海軍の出身で、個人的意見は保存に賛成であった[54]。しかし予算が承認され復元工事が1959年に開始すると、同年6月27日に所管が大蔵省から防衛庁(現・防衛省)に移管された[55]。工事は1961年に完了し、同年5月27日に復元記念式が挙行された。

復元にあたり、長官室に設置されていたテーブル等をはじめ、アメリカ軍が撤去した記録が残っているものは、ほぼ全てが完全な形で返還されたが[56]、誰が持ち去ったか不明なものは(戦後の混乱期で致し方ないことがあったとしても)、今日に至るまでほとんど返還されていない。1958年(昭和33年)にチリ海軍の戦艦「アルミランテ・ラトーレ」が除籍され、翌年日本において解体されたが、同じイギリスで建造された艦であったため、チリ政府より部品の寄贈を受けるという幸運があった[57]

現在[編集]

博物館船として保存されている「三笠」。
周囲は三笠公園として整備されている。

三笠は世界で現存唯一の前弩級戦艦である。敗戦後の荒廃により、本来の状態で残る部分は少なく、砲塔煙突マストなどは複製され、主砲はコンクリート製[58]で砲塔と一体化して砲身の下から支柱[注釈 12]で支持し、甲板の大半も溶接工法で復元するなど、戦後に大きく修復された。下甲板以下はワシントン軍縮条約に基づきコンクリートや土砂で埋められており、艦内の見学範囲は上甲板と中甲板だが資料展示室や上映室などが設けられ、艦後部の一部を除いて軍艦の様相はうかがえずに軍艦形状の資料館となっている。甲板の一部に現役軍艦当時のままのチーク材や、トイレットルームのタイル床、奇跡的に盗難を免れたおよびアンカークレーンが残る。先述のチーク材が残る通信室付近一帯の鋲接構造は、戦後に溶接で復元された箇所を除いて当時の遺構である。船首にあった菊花紋章1987年まで当時の状態で残されていたが現在は復元品に交換され、本体は艦内で公開保存されている。

記念艦として静置されて以来、日露戦争時に用いられた軍艦旗28枚を「記念軍艦旗」として艦内に保管していたが、「三笠」の軍艦旗を除き、敗戦後に進駐軍の将兵に盗まれ、散逸した[59]。2015年8月5日、散逸したうちの1枚が米海兵隊退役軍人会から三笠保存会に返還された[59]。三笠保存会では、返還された軍艦旗は、大きさから戦艦「朝日」のものである可能性が高いとしている[59]

三笠保存会が管理を受託しているが、日本国防衛省が所有する行政財産であり、海上自衛隊横須賀地方総監部の施設「旧三笠艦保存所」として登録されて検査や修理費は防衛費を充てる[60]。船舶の機能を喪失した非実用的施設であることから、自衛艦や防衛施設ではなく「敷地内の工作物[61]として扱われ、会計評価額は2円で土地は約2億5千万円[62]である。

自衛隊員は、横須賀教育隊一般曹候補生が「三笠研修」として訓練見学に訪れ[63]、隊員有志らはボランティアで清掃活動[64]している。上記国家財産として充てられる予算は少なく[65]、2009年に横須賀に寄港したアメリカ海軍空母「ニミッツ」の乗員が、三笠の船体塗装のボランティアを行った[65]

三笠の測距儀(旧Barr&Strouds社製、現タレス社)

平素は観覧料が必要であるが、成人の日に新成人のみ観覧が無料となる[66]

内部には、VR(バーチャルリアリティ)ゴーグルを付けて日本海海戦を疑似体験できる操艦シミュレータや展示コーナーなどがある[67]

その他[編集]

三笠刀[編集]

三笠短刀・刀身に「皇国興廃在此一戦」の彫刻
三笠短刀 中心 銘 三笠砲鋼秀明

黄海海戦で破壊された後部二連装十二吋主砲一門の残鉄を使って日本製鋼所室蘭工業所(現・室蘭製作所) 瑞泉鍛刀所の名門刀匠堀井秀明一門が(長剣)と短刀(短剣)を作り、三笠刀と呼ばれた[68]。刀匠として堀井俊秀が知られている。

マリンクロノメーター[編集]

現在搭載されているマリンクロノメーター1918年ユリスナルダンにて製造されたもので、1913年から輸入総代理店を務めていた天賞堂は自社を通じて輸入されたと推測、2008年12月に創業130周年記念事業としてマリンクロノメーターの修理を実施、2009年5月の日本海海戦104周年記念式典で返還された[69]

イギリスとの友誼[編集]

製造元のヴィッカースは日本海海戦時の活躍を誇りとし、戦艦「金剛」建造時一般に企業秘密とすることまで幅広く技術供与し、日本の造艦・造船のレベルを大きく引き上げた[70]。また建造地であるバロー=イン=ファーネス近くの島には「ミカサ通り」がある。

乗員のその後[編集]

日本海海戦で「三笠」に乗り組んでいた将兵のうち、最後の生き残りだった京都市中京区に住む杉山清七が1982年(昭和57年)1月13日に98歳で死去したと、翌日の新聞にて報道された。この記事によれば杉山は1902年(明治35年)に19歳で海軍に入隊し、二等水兵となった。その後は仁川沖海戦、黄海海戦、日本海海戦の各海戦において「三笠」右舷前部の15cm砲一番砲手を務め、現役を退いた後は警官をしていたという。日本海海戦の最後の従軍者とされる者は「浅間 (装甲巡洋艦)」の乗組員であり、同年5月27日に97歳で死去しているという[71]

略年表[編集]

  • 1898年(明治31年) - 日本政府がイギリスのヴィッカースに発注。
  • 1899年(明治32年)1月24日 - 起工。
  • 1902年(明治35年)3月1日 - 竣工。
  • 1904年(明治37年)第1艦隊第1戦隊所属で日露戦争に参加
  • 1905年(明治38年)5月27日 - 5月28日 - 日本海海戦連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官東郷平八郎が座乗。
  • 1905年(明治38年)9月11日 - 佐世保港内での爆発事故により沈没。
  • 1906年(明治39年) - 浮揚・修理着工。
  • 1912年(大正元年)10月3日 - 乗組員の自殺に伴う火薬庫爆発事故発生[72]
  • 1923年(大正12年) - ワシントン軍縮条約によって廃艦が決定。
  • 1923年(大正12年)9月20日 - 除籍。
  • 1925年(大正14年) - 記念艦として横須賀に保存されることに閣議決定。(財)三笠保存会設立。
  • 1926年(大正15年)11月12日 - 三笠保存記念式挙行[73]。「記念艦三笠」と呼ばれる。
  • 1945年(昭和20年) - 連合国軍により接収。三笠保存会解散。その後、荒廃。
  • 1958年(昭和33年) - 三笠保存会が再建され、復元募金開始。
  • 1959年(昭和34年)- 復元整備工事が開始(1961年まで)
    • 6月27日 - 所管が大蔵省から防衛庁に移管される
  • 1961年(昭和36年)5月27日 - 記念艦三笠復元記念式挙行。
  • 1992年(平成4年) - 世界船舶基金財団の海事遺産賞を受賞。

歴代艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長[編集]

  • 世良田亮 大佐:1900年5月15日 - 1900年5月21日
  • 早崎源吾 大佐:1900年5月21日 - 1901年5月1日

艦長[編集]

  • 早崎源吾 大佐:1901年5月1日 - 1903年1月12日
  • 中尾雄 大佐:1903年1月12日 - 1903年9月26日
  • 伊地知彦次郎 大佐:1903年9月26日 - 1905年9月29日
  • 井手麟六 大佐:1906年8月30日 - 1906年11月22日
  • 松村直臣 大佐:1906年11月22日 - 1908年8月28日
  • 奥宮衛 大佐:1908年8月28日 - 1909年12月1日
  • 土山哲三 大佐:1909年12月1日 - 1911年9月21日
  • 大沢喜七郎 大佐:1911年12月1日 - 1913年1月10日
  • 広瀬順太郎 大佐:1913年1月10日 - 1914年5月27日
  • 森越太郎 大佐:1914年5月27日 - 1914年12月1日
  • 久保来復 大佐:1914年12月1日 - 1916年12月1日
  • 加藤雄次郎 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
  • 大内田盛繁 大佐:1917年12月1日 - 1918年7月5日
  • 山本英輔 大佐:1918年7月5日 - 1919年6月4日
  • 新納司 大佐:1919年6月4日[74] - 1919年6月10日[75]
  • 石川秀三郎 大佐:1919年6月10日 - 11月20日
  • 迎邦一 大佐:1919年11月20日[76] - 1922年5月30日[77]
  • 八角三郎 大佐:1922年5月30日 - 1922年9月8日
  • (兼)小山武 大佐:1922年9月8日 - 1922年11月10日
  • (兼)田村丕顕 大佐:1922年11月10日 - 1923年6月1日
  • 丸尾剛 大佐:1923年6月1日[78] - 1923年9月1日[79]

諸元[編集]

「三笠」の主砲(形状を復元したもの)
「三笠」の副砲弾
  • 速力:18ノット(時速約33km)
  • 装備
    • 主砲:40口径30センチ砲4門
    • 副砲:40口径15センチ砲14門
    • 補助砲:40口径7.6センチ砲20門
    • 魚雷発射管:4門(水線下に装備)
    • 衝角
  • 防御力
    • 圧倒的な火力の充実を図ると共に、装甲板にクルップ鋼を使用して当時の世界最高水準の防禦力を実現していた。
  • 通信能力
    • 当時の最新鋭の三六式無線電信機を装備しており、その通信能力は日本海海戦時に有効であった。

登場作品[編集]

日露戦争関連映画作品などに登場している。戦闘時は主砲身に灰色のキャンバスで冷却水を循環させる砲身冷却装置を装備していたが、模型や映像では見栄えの問題から今まで一回も再現された事が無い。

映画・テレビドラマ[編集]

明治天皇と日露大戦争』(1957年新東宝
日本海海戦などに登場。本艦と敵旗艦「スワロフ」のミニチュアは主砲へ自動砲撃装置が搭載されていた。
青島要塞爆撃命令』(1963年東宝
戦艦が登場するシーンは横須賀の記念艦三笠でロケが行われた。
『日本海大海戦』(1968年)東宝
横須賀の記念艦三笠でロケが行われた他、セットも製作された。海戦シーンでは各種のミニチュアが製作され、東宝大プールでの特撮撮影が行われた。
秘密戦隊ゴレンジャー』(1976年)
第36話「真赤な猛進撃!動く要塞無敵戦艦」で軍艦仮面率いる黒十字軍に改造され、空飛ぶ戦艦として悪用されてしまう。ロケは本物の三笠艦上を使って行われている。
幕末未来人』(1977年NHK
第1話で主人公達がタイムスリップする場所が、三笠の艦橋である。三笠は最終回にも遠景として登場する。ロケは本物の三笠で行われた。
日本海大海戦 海ゆかば』(1983年東映
『日本海大海戦』同様に記念艦三笠にてロケが行われている。
坂の上の雲』(2009年 - 2011年)NHK
石川県加賀市日本元気劇場内に原寸大のオープンセット[80]が組まれた他、室内を再現した屋内セットも製作されて撮影が行われた。海上や海戦シーンでは実際の護衛艦を撮影した映像をCG合成によって加工した映像が用いられている。

アニメ・漫画[編集]

超電磁マシーン ボルテスV』(第5話)(1977年
主要人物の剛 日吉が、ボアザン軍との戦いで損傷した「三笠」復興のための募金を募っている。
蒼海の世紀』(野上武志、2005年 - 2018年)
日本海海戦の後、海援隊(本作の世界では坂本龍馬が暗殺されなかったため、準海軍組織として発展・存続している)に移籍し、主人公たちの乗艦として登場。佐世保での爆沈後に大改装が行われ、機関に最新鋭の改パーソンズ蒸気タービンエンジンが追加された他、徹底的な自動化・省力化が図られ、海援隊の主力戦艦「練習実験戦艦みかさ」として全編にわたり登場する。
蒼き鋼のアルペジオ
アニメ版オリジナルの展開として、第4話で水没した旧横須賀市街で記念艦三笠が朽ち果てた状態で登場。敵対する霧の艦隊を倒す際の大きな伏線となる。
進撃の巨人
ヒロイン「ミカサ・アッカーマン」の名前の由来。

ゲーム[編集]

World of WarshipsPCゲーム
日本サイドの課金購入艦として2015年9月1日まで販売されていた。なお、カラーリングは竣工時の姿となっている。
『日本海海戦』
バンダイifシリーズの戦術級ウォー・シミュレーションゲーム。「三笠」他、日露の主要艦艇はユニット化されている。

その他[編集]

『海の牙城(4)帝都攻防』(横山信義架空戦記小説、2006年、中央公論新社C★NOVELS
東京湾に侵入したアメリカ戦艦による艦砲射撃で破壊される。
アステロイドシップ「ヤマト」』(オフィス・アカデミー、1973年 - 1974年企画)
宇宙戦艦ヤマト』企画当時の作品で、もちろん戦艦も「大和」ではなく、この「三笠」をモチーフにしたと言われている。

参考[編集]

戦艦「三笠」の主砲先端 (福津市東郷神社)
  • 和文通話表で、「ミ」を送る際に「三笠のミ」という。
  • 旧・加賀百万石時代村の経営権を取得した大江戸温泉物語は、同村を「日本元気劇場」として2009年夏に再オープンさせ、施設内に戦艦「三笠」の前方100メートル部分をほぼ原寸大で復元した。
  • 弾痕がついた「三笠」甲板の一部がバルチック艦隊の砲弾とともに埼玉県飯能市秩父御嶽神社(東郷公園)にある。
  • 「三笠」主砲先端部が福岡県福津市東郷神社に保存されている。
  • 「三笠」除籍後に、備え付けの時鐘(時刻を知らせる鐘)が東京府立第六中学校(六中、現在の東京都立新宿高等学校)に下賜されて校庭の鐘楼に掲げられ、「興國の鐘」として六中の象徴となっていた。終戦後、進駐軍による接収を逃れるために、その鐘は校内の地中に埋め隠されたといわれる。以後、何度か発掘作業が試みられたが、発見されていない。
  • 国際基督教大学敷地内に保存されている国の登録有形文化財「泰山荘高風居」の敷居の一部に戦艦「三笠」のチーク材が使われている[81]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 世界の三大記念艦は、イギリス海軍ヴィクトリー」、アメリカ海軍コンスティチューション」、大日本帝国海軍「三笠」[2]
  2. ^ 三笠(みかさ)
    艦種一等戰艦 二檣(戰闘檣あり)
    艦名考山名に採る、三笠山大和國添上郡春日郷(今奈良市)の東に在り、春日山の内なり。山状笠を覆ふが如きを以て此名起れるならん。古書に御笠山にも作れり。此の地古來神靈の地又名所として著はる。
    艦歴明治33年3月1日英國にて竣工、同月13日英國出發、5月18日横須賀到着。明治37・8年戰役に從軍(第一艦隊第一戰隊、聯合艦隊司令長官中将(後に大将)東郷平八郎旗艦、艦長大佐伊地知彦次郎: 同37年8月黄海々戰に参加、同38年5月日本海々戰に参加、同9月11日午前0時半佐世保軍港碇泊注爆破擱座、翌39年8月14日引揚を了し後ち修理し復舊、同12月戰艦の等級を廢せらる。大正3年乃至9年戰役に從軍: 同7年5月第三艦隊に属し露領沿岸警備に從事(艦長大佐山本英輔)、同9年4月同右(艦長中佐迎邦一)、同年9月16日「アスコルド」海峡にて坐礁、同月26日離礁後浦鹽に入港修理をなす。同10年一等海防艦に編入、同12年9月20日華府條約により除籍。

    本艦は明治37年5月27日、日本海々戰に聯合艦隊司令長官東郷平八郎大正坐乗して帝國全艦隊を指揮し、名誉の戰闘を爲したる艦なり。此海戰に於て帝國を世界に顧揚せる𤳱古の偉績と共に、旗艦三笠を永久に保存せんとする國民的熱望あり、ここに除籍艦籍に入るを機とし、今後戰闘任務に堪へざる状態と爲し、其の船體を横須賀の地と卜し、陸岸に固定して紀念艦とし、以て永久に之を保存することとなれり(斯種軍艦の廢棄に關しては華府條約の規定に關係あるを以て、本艦永久保存に就ては米國其他關係列國の承認を經て之を行へり)。
    要目長432/幅75呎/喫水27呎/排水量15,200噸/機關 汽筒直立三聯成汽機2基 ベルビル25臺/馬力15,000/速力18/乗組人員756/船材 鋼|兵装 12吋砲 4/6吋砲 14/12听砲 20/3听砲 8/2.5听砲 4/其他 4/發射管 4/起工 明治32-1-24/進水 同33-11-8/竣工 同35-3-1/建造所 英國ヴィッカース社」
  3. ^ 「とうはつ」と読む。
  4. ^ 資料によっては負傷18名とする。
  5. ^ 「三十八年三笠爆沈ニ就キ聞キタル事 海軍中尉 松本善治」
    (前略)私ハ點呼ノ爲メ横須賀ニ行クモノナリ 私ハ海軍満期前佐世保海軍病院ニ在勤セシカ三笠爆沈ノ翌日同艦乗組ノ一重傷者ヲ看護セシニ火傷重リテ瀕死ノ折 傷者ノ懺悔ニ曰ハク「余ハ三笠爆發ヲナシタル一人ナリ 三笠ニテハ戰役中ヨリ發光信號用ノ「アルコール」ヲ窃取シ水ヲ混シ飲用スルコト(兵員ハ俗ニ「ピカ」ト称ス)流行セシカ余モ同輩数名ト結ヒ信號用ノ工業「アルコール」ヲ洗面器ニ入レ彈藥通路ニ携帶シ行キ先ツ火ヲ點シ木精臭気ヲ抜キ後ニ火ヲ吹消シ水ヲ入レテ薄メントセシニ火ハ洗面器ヨリ溢出シ甲板ニ廣カリタレハ上衣ニテ毆キ必死ニ防火セシニ洗面器倒レ通路全部火災ヲ起シ極力防火セシモ及ハス遂ニ大火傷負ヒ上甲板ニ遁ケ出セリ次テ大爆發トナリタリ 今死ニ臨ミ其原因ヲ明ニス」ト看護ハ尚語ヲ續ケ「余等同輩ハ死人懺悔談ヲ公ニスルニ忍ヒスシテ其儘黙シ居リシカ貴公方ハ後來ノ兵員ヲ監督セラルル方ナレハ参考迄ニ申上クル次第ナリ」ト。(以下略)
  6. ^ 〔 達第百八十二號 艦艇類別等級別表ノ通定ム 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣男爵 山本権兵衛(別表)|軍艦|戰艦| |富士、敷島、朝日、三笠、石見、相模、丹後、肥前、周防、|〕
  7. ^ 〔○東宮御安著 皇太子殿下ハ本月二十五日午前六時五十五分弘前御旅館御出門同七時十四分弘前停車場御發車同八時二十分青森停車場御著車青森桟橋ヨリ軍艦三笠ニ御移乗同九時同所御發艦同十一時三十五分大湊要港御著艦御上陸要港部御巡覧ノ上午後二時十五分御發艦同五時青森港御著艦御上陸同五時二十五分青森御旅館(青森縣知事官舎)ヘ御安著アラセラレ(以下略) 〕
  8. ^ 〔 達第百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎|戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ 〕
  9. ^ 撤去された主砲は現在の三笠売店付近に移設して展示されていたが、敗戦後に盗まれ、失われた。
  10. ^ 『最前線指揮官の太平洋戦争』228頁では、「三笠」の元副砲が重巡「ルイスビル」に損傷を与えたとするが、実際は重巡「インディアナポリス」からの誤射であった。砲台との交戦で損傷したのは駆逐艦「アンダーソン」であったという。
  11. ^ この状態の「三笠」の写真が残っている。
  12. ^ 本来は支柱は無い。

出典[編集]

  1. ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.218
  2. ^ 世界の三大記念艦”. (公財)三笠保存会. 2019年10月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年10月4日閲覧。
  3. ^ 写真日本の軍艦(戦艦II) 1989, p. 241(三笠写真解説より)
  4. ^ a b c d e f g h i j 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ62(原本91-92頁)[注釈 2]
  5. ^ 写真日本の軍艦(戦艦II) 1989, p. 239a(三笠)
  6. ^ a b c d 写真日本の軍艦(戦艦II) 1989, p. 242(三笠解説)
  7. ^ #軍艦の部(8)pp.2-9「火災ニ関スル報告」
  8. ^ 田中、横須賀鎮守府 2017, pp. 154-155.
  9. ^ 写真日本の軍艦(戦艦II) 1989, p. 240.
  10. ^ 写真日本の軍艦(戦艦II) 1989, p. 238.
  11. ^ a b c d 生出、伏見宮 2016, p. 225.
  12. ^ a b 天皇・伏見宮と日本海軍 1988, p. 43.
  13. ^ 天皇・伏見宮と日本海軍 1988, p. 136.
  14. ^ 天皇・伏見宮と日本海軍 1988, pp. 139-141敵弾による負傷ではなかった
  15. ^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 106.
  16. ^ 天皇・伏見宮と日本海軍 1988, pp. 135-137伏見宮の場合
  17. ^ 生出、伏見宮 2016, pp. 91-92.
  18. ^ 生出、伏見宮 2016, p. 226.
  19. ^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 107.
  20. ^ 生出、伏見宮 2016, p. 99.
  21. ^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 108.
  22. ^ #軍艦の部(8)pp.40-42[注釈 5]
  23. ^ 写真日本の軍艦(小艦艇I) 1990, p. 62練習特務艦 浅間
  24. ^ #達明治38年12月、pp.6-7〔 達第百八十一號 艦艇類別標準別表ノ通改メラル 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣男爵 山本権兵衛 〕
  25. ^ #達明治38年12月pp.8-9[注釈 6]
  26. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 57a青森港御解纜
  27. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 57b大湊要港に行啓
  28. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 57c大湊御発青森市に御箸
  29. ^ 明治41年9月28日『官報』第7578号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ13/宮廷録事[注釈 7]
  30. ^ #軍艦の部(8)pp.12-17「本艦火災ニ関スル報告」
  31. ^ #軍艦の部(8)pp.10-11「大正元年十月三日午後六時四十分本艦前部十二吋火薬庫給典室附近火災ノ際負傷セル者左ノ如シ」
  32. ^ a b 木村昌福中将の生涯 2012, p. 66.
  33. ^ #三笠飛行機(5)p.14「ハ号飛行機氷上組立」
  34. ^ #三笠飛行機(5)p.19「ロ号甲型飛行機出発前翼展開」
  35. ^ 写真日本の軍艦(小艦艇I) 1990, p. 28〔大泊〕
  36. ^ #達大正10年9月p.1[注釈 8]
  37. ^ 丸 (雑誌)』2011年2月号
  38. ^ a b 写真日本の軍艦(小艦艇I) 1990, p. 61(敷島解説)
  39. ^ 写真日本の軍艦(小艦艇I) 1990, p. 4(朝日解説)
  40. ^ 『兵器保管転換の件』、アジア歴史資料センター Ref.C04015205100
  41. ^ 昭和天皇実録四 2015, p. 565a三笠保存記念式に行啓
  42. ^ 昭和天皇実録四 2015, p. 565b東郷元帥と御写真撮影
  43. ^ 写真日本の軍艦(戦艦II) 1989, p. 239b(朝日)
  44. ^ 写真日本の軍艦(小艦艇I) 1990, p. 42『特務艦』行動年表 ◆朝日◆
  45. ^ 写真日本の軍艦(戦艦II) 1989, p. 239c(敷島)
  46. ^ ドーリットルッ空襲秘録 2003, pp. 107-108.
  47. ^ 写真日本の軍艦(小艦艇I) 1990, p. 87(大鯨解説)
  48. ^ 最前線指揮官の太平洋戦争 2003, pp. 222-223.
  49. ^ 写真日本の軍艦(戦艦II) 1989, p. 239d(富士)
  50. ^ 写真日本の軍艦(小艦艇I) 1990, p. 60(富士解説)
  51. ^ 写真日本の軍艦(小艦艇I) 1990, p. 66(春日解説)
  52. ^ 神奈川新聞』昭和21年4月24日
  53. ^ ニミッツ 1962, pp. 3-4東郷平八郎提督を想う ―ニミッツ元帥から出版元への手紙―
  54. ^ 毎日新聞』昭和30年10月12日夕刊記事
  55. ^ 横須賀造修補給所 廣瀬中佐 - 海上自衛隊横須賀造修補給所
  56. ^ 船の科学館資料ガイド6『戦艦三笠』(日本海事科学振興財団刊)
  57. ^ 中山定義『一海軍士官の回想』(毎日新聞社、1981)p.98
  58. ^ 「戦艦三笠」MAR-KER 2017年10月10日閲覧
  59. ^ a b c 日露戦争の軍艦旗返還 横須賀・三笠保存会 展示も検討”. 神奈川新聞カナコロ (2015年8月13日). 2018年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月14日閲覧。
  60. ^ 「平成26年度、平成27年度、平成28年度における記念艦「三笠」の検査・修理」契約希望者募集要項(公募)
  61. ^ 海上自衛隊関係施設の概要|横須賀市 - 横須賀市
  62. ^ 国有財産 - 財務省の国有財産検索サイト。「国有財産を調べる」から「地図から検索する」を選択し「神奈川県横須賀市」「防衛省」を条件に検索すると横須賀市市役所の北に「海上自衛隊横須賀地方総監部旧三笠艦保存所」が表示される。
  63. ^ 24分隊 三笠研修 - 横須賀教育隊教育
  64. ^ 記念艦「三笠」清掃(H26.11.1) - 横須賀地方隊:news・イベント情報【news】
  65. ^ a b Nimitz Preserves Ties to Renowned Japanese Warship 2017年10月10日
  66. ^ 記念艦「三笠」 - 横須賀市観光情報サイト「ここはヨコスカ」
  67. ^ 【ぐるっと首都圏】記念艦「三笠」(神奈川県横須賀市)日本海海戦を疑似体験『日本経済新聞』朝刊2018年2月3日(首都圏経済面)
  68. ^ 三笠刀
  69. ^ 戦艦三笠 1/500 | 天賞堂ニューホビー | 製品情報 | 天賞堂 鉄道模型 | Tenshod - ページ下部の解説を参照。
  70. ^ 歴史群像太平洋戦史シリーズ21 金剛型戦艦』p.71-83「日本初の超弩級金剛型の誕生」。
  71. ^ アーカイブされたコピー”. 2008年4月11日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年10月10日閲覧。
  72. ^ #軍艦の部(8)pp.10-11「大正元年十月三日午後六時四十分本艦前部十二吋火薬庫給典室附近火災ノ際負傷セル者左ノ如シ」
  73. ^ 昭和天皇実録四 2015, p. 565c.
  74. ^ 『官報』第2050号、大正8年6月5日。
  75. ^ 『官報』第2055号、大正8年6月11日。
  76. ^ 『官報』第2190号、大正8年11月21日。
  77. ^ 『官報』第2947号、大正11年5月31日。
  78. ^ 『官報』第3251号、大正12年6月2日。
  79. ^ 『官報』号外第15号、大正12年9月14日。
  80. ^ 戦艦三笠ロケセット 戦艦三笠フォトギャラリー
  81. ^ 数々の難を逃れた一畳敷 泰山荘(東京都三鷹市)東京新聞』2008年5月28日

参考文献[編集]

  • 石橋孝夫「第4章 安式砲の時代と日露戦争」『日本海軍の大口径艦載砲 戦艦「大和」四六センチ砲にいたる帝国海軍軍艦艦砲史潮書房光人社光人社NF文庫〉、2018年8月。ISBN 978-4-7698-3081-8
  • 岩崎剛二「飢餓と砲爆撃に耐えて 孤島を死守した吉見信一少将の信念」『海と空の八人の武人の生涯 最前線指揮官の太平洋戦争』光人社〈光人社NF文庫〉、2003年4月(原著1995年1月)。ISBN 4-7698-2379-7
  • 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X
  • 生出寿『昭和天皇に背いた伏見宮元帥 軍令部総長の失敗』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2016年10月(原著1991年)。ISBN 978-4-7698-2971-3
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 宮内庁編『昭和天皇実録 第三 自大正十年至大正十二年東京書籍株式会社、2015年9月。ISBN 978-4-487-74403-9
  • 宮内庁編『昭和天皇実録 第四 自大正十三年至昭和二年』東京書籍株式会社、2015年9月。ISBN 978-4-487-74404-6
  • 宮内庁図書寮編『大正天皇実録 補訂版 第三 自明治四十一年至明治四十四年』株式会社ゆまに書房、2018年8月。ISBN 978-4-8433-5041-6
  • コンスタンチン・サルキソフ著、鈴木康雄訳『もうひとつの日露戦争 新発見・バルチック艦隊提督の手紙から朝日新聞出版朝日選書 851〉、2009年2月。ISBN 978-4-02-259951-3
  • 柴田武彦原勝洋『ドーリットル空襲秘録 日米全調査』アリアドネ企画 三修社(発売)〈Ariadne military〉、2003年11月。ISBN 4-384-03180-7
  • 石橋孝夫『キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯』新潮社〈新潮文庫〉、2012年8月(原著2009年8月)。ISBN 978-4-10-138411-5
  • 田中宏巳『横須賀鎮守府』有隣堂〈有隣堂新書〉、2017年5月。ISBN 978-4-89660-224-1
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。
  • 野村實『天皇・伏見宮と日本海軍』文藝春秋、1988年2月。ISBN 4-16-342120-3
  • 『写真 日本の軍艦 戦艦 II 金剛・比叡・榛名・霧島 戦艦時代の夜明け』第2巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1989年8月。ISBN 4-7698-0452-0
    • (238-243頁)多賀一史『明治時代の戦艦』
  • 『写真 日本の軍艦 小艦艇I 特務艦・潜水母艦 特設潜水母艦 駆潜艇・哨戒艇 掃海艇輸送艦』第13巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1990年8月。ISBN 4-7698-0463-6
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所
    • 『明治38年 達 完/12月』。Ref.C12070053600。
    • 『大正10年 達 完/9月』。Ref.C12070079200。
    • 『軍艦搭載飛行機の件(1)』。Ref.C08050219100。
    • 『軍艦搭載飛行機の件(2)』。Ref.C08050219200。
    • 『軍艦搭載飛行機の件(3)』。Ref.C08050219300。
    • 『軍艦搭載飛行機の件(4)』。Ref.C08050219400。
    • 『軍艦搭載飛行機の件(5)』。Ref.C08050219500。
    • 『軍艦搭載飛行機の件(6)』。Ref.C08050219600。
    • 『明治45年~大正1年 公文備考 巻42 艦船16 艦船遭難災害1(防衛省防衛研究所)/軍艦の部(8)』。Ref.C08020060000。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯36度20分27秒 東経136度17分54秒 / 北緯36.340737度 東経136.29844度 / 36.340737; 136.29844 (三笠)