インディアナポリス (重巡洋艦)

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インディアナポリス(真珠湾 1937年)
艦歴
発注
起工 1930年3月31日
進水 1931年11月7日
就役 1932年11月15日
その後 1945年7月30日、日本の潜水艦 伊58 の雷撃で沈没。
除籍
性能諸元
排水量 9,800トン
全長 610 ft(186 m)
全幅 66 ft(20 m)
吃水 17 ft 4 in(5.28 m)
機関 ホワイト・フォスター式重油専焼水管缶8基+パーソンズギヤード・タービン4基4軸推進
最大速力 32 ノット(59 km/h)
航続距離
乗員 1,269
兵装 55口径8インチ3連装砲3基、25口径5インチ単装砲8基、40ミリ機関砲、20ミリ機銃(最終時)
搭載機 2機
モットー

インディアナポリスUSS Indianapolis, CA-35)は、アメリカ海軍ポートランド級重巡洋艦。1945年7月26日にテニアン島原子爆弾を運んだ後、7月30日フィリピン海で日本の潜水艦伊58回天特別攻撃隊・多門隊)の雷撃により沈没した。第二次世界大戦で敵の攻撃により沈没した最後のアメリカ海軍水上艦艇である[1]

第二次世界大戦前[編集]

インディアナポリスは1930年3月31日、ニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所で起工された。1931年11月7日に進水し、フィラデルフィア海軍工廠でジョン・M・スミリー大佐の指揮下1932年11月15日に竣工した。

1932年2月23日まで大西洋グアンタナモ湾で整調の後、パナマ運河地帯チリ沖の太平洋で訓練を行った。フィラデルフィア海軍工廠オーバーホールの後、1933年7月1日カンポベロ島ルーズベルト大統領を乗せるためメイン州へ向け出港した。同じ日の内にアナポリスに到着し、大統領を下ろした後1933年7月4日にアナポリスを離れフィラデルフィア海軍工廠に戻った。

1933年9月6日、海軍長官クロード・スワンソンパナマ運河地帯ハワイ、サンペドロ-サンディエゴの地域の艦隊の視察のためインディアナポリスに乗艦した。彼は10月27日にサンディエゴで降り、1933年11月1日、インディアナポリスは偵察部隊の旗艦となった。アメリカ西海岸沖での演習に続いて、1934年4月9日、ロングビーチを出港し5月29日にニューヨークに到着した。そこで観艦式のため再びインディアナポリスは大統領を乗せた。1934年11月9日、インディアナポリスはロングビーチに到着した。

インディアナポリスはその後も旗艦として活動し、1936年11月18日、サウスカロライナ州チャールストンで南アメリカへの"Good-Neighbor" cruiseのため再び大統領を迎えた。公式訪問のため、大統領をリオデジャネイロブエノスアイレス、およびモンテビデオに運んだ後、12月15日にチャールストンに戻り、大統領を下ろした。

第二次世界大戦[編集]

1941年12月7日、日本軍が真珠湾を攻撃したとき、インディアナポリスはジョンストン島で砲撃のシミュレーションを行っていた[2]。インディアナポリスはすぐに第12任務部隊に加わり、報道によればまだ近くにいるはずの日本の空母を捜し求めた。12月13日、インディアナポリスは真珠湾に到着し、空母レキシントン(USS Lexington, CV-2)基幹の第11任務部隊ウィルソン・ブラウン中将)に加わった[2]

1942年[編集]

凹甲板のクローズアップ(メア・アイランド海軍造船所 1942年4月19日)

南太平洋でのインディアナポリスの最初の活動は、第11任務部隊の1隻として日本の支配海域であるニューブリテン島ラバウルの南約560キロへの進出であった。1942年2月20日、第11任務部隊はブーゲンビル島近海で日本軍の九七式飛行艇に発見されたのに続き、一式陸攻17機による空襲を受けたが、対空砲火とレキシントンの戦闘機により15機を撃墜し、損害を受けた艦はなかった(ニューギニア沖海戦)。しかし、回避運動により燃料を大幅に消費したため、ラバウル空襲は断念せざるを得なかった[3]

3月10日、第11任務部隊は空母ヨークタウン(USS Yorktown, CV-5)を基幹とする第17任務部隊英語版フランク・J・フレッチャー中将)と合同で日本軍が上陸したニューギニア島ラエサラモアを攻撃した。南からのオーエンスタンレー山脈を越えた攻撃は奇襲となり、日本軍の船舶に大きな損害を与えた。アメリカ軍の損害は軽微だった。その後、インディアナポリスはメア・アイランド海軍造船所でのオーバーホールのため本国に戻った。改装後、インディアナポリスはオーストラリアへの輸送船団を護衛し、それから日本軍がアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島に上陸したため北太平洋に向かった。

1942年8月7日、キスカ島の日本軍陣地を隠していた濃い霧が晴れたため、インディアナポリスを旗艦とする重巡洋艦2隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦4隻の艦隊はキスカ島を砲撃した。インディアナポリスは海図に載っていない浅瀬に危うく座礁しかけた事もあったが、他の艦船とともに猛然と砲門を開いた。インディアナポリスから発進した観測機の報告によれば、港湾の中で船が炎上しながら沈没している様子が確認できた。やがて海岸砲台が反撃してきたが、反撃はとても不正確なものだった。部隊は正確な射撃で海岸砲台を沈黙させた。反撃に現れた潜水艦は駆逐艦に制圧され、水上飛行機は効果のない爆撃を行った。15分に及んだ[2]一連の攻撃は戦果としては大したことはなかったものの、アッツ島とキスカ島に圧力をかけるため、近隣の島々に基地を設ける必要性を示した。1ヵ月後、アメリカ軍はアダック島に上陸してダッチハーバーウナラスカ島に続く、陸上施設と飛行場を設置する環境を得た。

1943年[編集]

1943年1月12日、インディアナポリスは軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と共にアムチトカ島上陸作戦を支援した。アムチトカ島は、アメリカ軍に新たな基地となった。2月19日、インディアナポリスを含む第16.7任務部隊(重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦4隻)はアッツ島を砲撃し、その後部隊は2隊に別れた。翌20日早朝、インディアナポリスと駆逐艦2隻はアッツ島南西で哨戒中、1隻の輸送船を発見した。インディアナポリスは速力を上げ、輸送船の頭を押さえる形を取り、輸送船に対し応答を求めた。すると、相手は日本式の信号で回答してきたので敵であると判断され、インディアナポリスは砲撃を開始。輸送船は火災を起こし、随伴の駆逐艦の攻撃により輸送船は沈没した[4]。この輸送船は、幌筵島から途中まで海防艦八丈の護衛を受け、やがて分離して単独でアッツ島に向かっていた輸送船あかがね丸(日本海運、3,121トン)だった。

春から夏にかけては、インディアナポリスはアリューシャン水域で輸送船団の護衛や上陸作戦の支援に従事した。アメリカ軍は5月にアッツ島を奪還し、キスカ島も濃霧にまぎれて日本軍が撤退した後に奪還して日本軍勢力をこの方面から一掃した。アリューシャンの戦いが終わると、インディアナポリスはメア・アイランド海軍造船所で改装後ハワイに移動し、11月5日からは[5]レイモンド・スプルーアンス中将率いる第5艦隊旗艦となった。

スプルーアンス中将は旗艦を選ぶ段階では、性能や設備が整った最新鋭の戦艦を希望していたが、あいにく希望に沿うような艦がこの時点ではなかった[6]。その代わりとして、メア・アイランドから戻ってきたばかりの、もともと巡洋艦隊用の旗艦設備があった[7]インディアナポリスが旗艦に選ばれた。そのスペースは大艦隊の旗艦用としては窮屈だったので、周囲は何名かの幕僚を後方要員として陸上に置いてはと進言した。スプルーアンス中将はこの意見を容れず、むしろこれを奇貨として余分な幕僚を減らした[7]。インディアナポリスの内装もスプルーアンス中将仕様に改められた[7]。配下にあった主力艦船がブーゲンビル島の戦いに転用される一幕もあったが[5]、11月10日、インディアナポリスはガルヴァニック作戦ギルバート諸島攻略作戦)のため攻撃部隊の主力と共に真珠湾を出港した。インディアナポリスはリッチモンド・K・ターナー中将の北方部隊とともに行動し[8]、11月19日に他の艦と共にタラワを砲撃、翌日はマキン島を砲撃した。その後タラワに戻り上陸作戦の支援に当たった。タラワでギルバート諸島の攻略後の処理を終えたスプルーアンス中将は、インディアナポリスとともに12月11日に真珠湾に帰投した[9]

1944年[編集]

インディアナポリス(1944年)

ギルバート諸島を攻略したアメリカ軍は、フリントロック作戦(マーシャル諸島攻略作戦)に取り掛かった。1944年1月19日、インディアナポリスは引き続き第5艦隊旗艦としてタラワに向かった[10]。インディアナポリスはタラワで任務部隊のほかの艦と合流し、1944年1月31日、インディアナポリスは巡洋艦群の1隻としてクェゼリン環礁の島を砲撃した(クェゼリンの戦い)。翌2月1日、インディアナポリスは僚艦ルイビル(USS Louisville, CA-28)を誤って砲撃し損傷を与えてしまった[11]ものの、防塞や他の海岸の施設を破壊し、上陸部隊を援護した。2月4日にはクェゼリン環礁内に侵入し、抵抗がなくなるまで留まった。陸上で激しい戦いが行われている頃、環礁内のインディアナポリスの艦上では、スプルーアンス中将や他の幕僚が、戦いの銃声・砲声が聞こえる中で立派な昼食を食べていた[12]。この戦いが予想以上に進捗したため、アメリカ軍上層部は5月1日に予定されていた[10]エニウェトクの戦いを、クェゼリンに投入される予定だった部隊を使って上陸決行日を大幅に繰り上げる検討を始めた[13]。これは現場のスプルーアンス中将など各司令官も同じ考えをもっていたので、2月3日に作戦期日の繰り上げが本決まりとなった[14]。2月8日、インディアナポリスは占領したばかりのマジュロ環礁に入り[15]、2日後の2月10日にスプルーアンス中将は大将に昇進した[16]

泊地でのインディアナポリス(1944年)

エニウェトクの戦いと、それに関連したトラック島空襲では、インディアナポリスは第5艦隊の旗艦ではなかった。スプルーアンス大将は、トラック諸島内にいまだ有力艦船が多数残っていると考え、空襲後には外に出てくるだろうと推測した[17]。どうしても先頭を切って戦いたかった[17]スプルーアンス大将は、脱出してきた有力艦船との砲戦を念頭に、配属されたばかりの戦艦ニュージャージー(USS New Jersey, BB-62)を新たな第5艦隊旗艦にしたのである[17]。スプルーアンス大将は、1943年11月時点での希望がかなった形となった[18]。トラックへの攻撃が終わるとマリアナ諸島へ一撃加えた第5艦隊は一旦マジュロに帰投し、つかの間の休息をとった。引き続いて3月から4月の間、第5艦隊はカロリン諸島西部を攻撃した。3月30日、31日に空母艦載機はパラオを空襲し駆逐艦3隻他を撃沈した(パラオ大空襲)。加えて飛行場に対する爆撃や周辺海域への機雷の敷設も行われた。ヤップウルシー環礁は31日に、ウォレアイ環礁は4月1日に攻撃が行われた。この間日本軍機による攻撃が行われたがアメリカの艦船に損害はなかった。この間もインディアナポリスは依然第5艦隊の旗艦ではなかったが、マジュロに到着後、第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)をホーランジアの戦いの支援のために差し向けて分離した後に旗艦に復帰し、スプルーアンス大将はマリアナ諸島への侵攻作戦の打ち合わせのため、インディアナポリスとともに真珠湾に帰投した[19]

5月26日、インディアナポリスはスプルーアンス大将を乗せマーシャル諸島に向かった[20]。マーシャル諸島で主要司令官が集まりサイパンの戦いの打ち合わせを行った後[20]、6月9日にエニウェトク環礁を出撃したインディアナポリスは第58任務部隊と合流した[21]。サイパンの戦いは6月11日と12日の空母艦載機による空襲で始まり、続いて13日からは艦砲射撃が行われた。インディアナポリスは砲撃の初日は観戦のみで砲撃しなかったが、2日目からは参加した[22]。また、15日、16日には硫黄島父島母島も空襲した。19日、20日のマリアナ沖海戦でアメリカ軍は日本の機動部隊と交戦。潜水艦の攻撃と合わせて空母3隻を撃沈して撃退した。23日、インディアナポリスはサイパンに戻り、火力支援を再開した。6日後テニアン島に移動し、海岸の施設を攻撃した。8月10日にはグアムを奪還。インディアナポリスは戦争初期にグアムが陥落して以来最初にアプラ港に入港した艦船である。その後数週間はマリアナ諸島で活動し、戦局の進展に伴って次の攻略目標であるカロリン諸島西部へ向かった。8月26日、第5艦隊はウィリアム・ハルゼー大将の第3艦隊と入れ替わり[23]、スプルーアンス大将と幕僚は本国に向かった。第5艦隊の旗艦から第3艦隊の一艦となったインディアナポリスは9月12日から29日にかけペリリュー島を砲撃し、その後アドミラルティ諸島マヌス島へ向かった。そこで10日間過ごした後、メア・アイランド海軍造船所へ戻った。

1945年[編集]

インディアナポリス(メア・アイランド沖 1945年7月10日)

オーバーホール後、インディアナポリスは1945年1月に再びスプルーアンス大将の将旗を掲げて第5艦隊旗艦となった[24]。1月14日、インディアナポリスはウルシー環礁へと向かい、1月25日に到着した[25]。スプルーアンス大将は午後に入港したニュージャージーのハルゼー大将を訪問し、大艦隊の指揮権は第3艦隊から第5艦隊に移った[26]。1月28日、第21爆撃集団司令官カーチス・ルメイ陸軍少将がインディアナポリスのスプルーアンス大将の下を訪問し、硫黄島攻略に関して意見を交わした[26]。インディアナポリスはサイパン島に進出し、スプルーアンス大将と上陸部隊を率いるターナー中将との会談が予定されていたが、ターナー中将の体調不良で会談は行われなかった[27]。インディアナポリスはサイパン島を出撃し、2月14日にミッチャー中将の第58任務部隊に加わった。2月16日と17日、第58任務部隊は硫黄島攻略支援のため関東地方を攻撃した。これは1942年4月18日のドーリットル空襲以来の機動部隊による日本本土への攻撃だった。第58任務部隊は悪天候の下艦載機を発進させ、多くの施設や飛行機、艦船等を破壊した。攻撃後すぐに任務部隊は小笠原諸島に戻り硫黄島上陸を支援した。2月19日の上陸作戦当日、インディアナポリスは戦艦部隊などとともに硫黄島に対して艦砲射撃を行った。3月1日までこの任務にあたる一方、八丈島沖で第58任務部隊と再合流し、再度の東京攻撃に加わった。3月9日、インディアナポリスはウルシー環礁に帰投した[28]

沖縄戦に先立ち、アメリカ軍は損害を最小限にするため日本本土南部を空襲することとなった。3月14日、インディアナポリスは落ち着く暇もなく第58任務部隊とともに出撃し、日本の沿岸へ向かった。3月18日から、機動部隊は九州の飛行場や軍港などを空襲し日本軍に大きな損害を与えた。上陸に先立つ沖縄への攻撃は3月24日から開始され、インディアナポリスも海岸の陣地を砲撃した。3月31日午前7時10分、陸軍特攻隊誠第三十九飛行隊(笹川勉陸軍大尉。一式戦闘機5機)の1機が火力支援部隊による三重の輪型陣をかいくぐり[29]、インディアナポリスの艦尾に命中。燃料タンク付近で爆発し[30]、スクリューの一部を破損した。艦尾に浸水したインディアナポリスは慶良間列島泊地に移り、洋上で工作艦による修理が試みられたが、損傷は大きいと判定された[31]。修理がただちに行われたが、その最中工作員が外したスクリューを誤って海底に落としてしまった。修理担当の士官はスプルーアンス大将にこの事を報告したが、きつく叱責されることはなかった[32]。4月5日、旗艦が戦艦ニューメキシコ(USS New Mexico, BB-40)に移され、メア・アイランド海軍造船所に修理のために戻った。

スプルーアンス大将によると、硫黄島の攻略の折に「条約型重巡で設計が古くて安定性が悪く、魚雷の直撃を受けたらすぐに転覆して沈没するであろう」と幕僚に語ったと言われている[33]。古い艦でエアコンは無く、扇風機も作動させるとその静電気レーダーを妨害するとしてレーダー作動中は止められたため、赤道付近では蒸し風呂のような暑さで、煙突付近にあった参謀長カール・ムーア大佐の部屋は華氏100度以上(38℃近く)に達したという。旗艦としてはかなり劣悪な居住環境であったが、実際に乗艦していたスプルーアンス大将やその幕僚は結構快適だったと述べており、修理が終わったらまた旗艦として使いたいと希望していた[34]。しかし、スプルーアンス大将の手元にインディアナポリスが帰ってくることは、ついになかったのである。

極秘任務、そして沈没[編集]

グアムからレイテ島へ向かうインディアナポリスがとったルート

修理後、インディアナポリスは広島長崎へ投下予定の原子爆弾用の部品と核材料を急ぎテニアン島へ運ぶよう命じられた。任務の緊急性から修理後の調整期間に先立って7月16日サンフランシスコを出港し7月19日に真珠湾に寄港した。インディアナポリスは単独でテニアンに向かい7月26日テニアンに到着した。

テニアンに最高機密の荷物を届けた後、インディアナポリスはグアムに派遣され7月28日レイテ島へ向けグアムを出港した。インディアナポリスは単独で直線コースを取りレイテ島へ向かった。7月30日0時15分、北緯12度02分 東経134度48分 / 北緯12.033度 東経134.800度 / 12.033; 134.800の地点で日本海軍の潜水艦伊58回天特別攻撃隊・多聞隊、艦長:橋本以行少佐)が、九五式酸素魚雷を 初回発射3本、数秒おいて2回目発射3本の計6本を全門発射したうちの3本が右舷に命中、船体を鋭く貫いた魚雷が爆発。特に時差発射した2回目の魚雷が、1発目が船体に開けた穴に入り込み奥で爆発、艦内第二砲塔下部弾薬庫の主砲弾を命中と同時に誘爆させ、同艦は夜空に大きく火柱を吹き上げると、艦前半部を海に突っ込みながら暫く浮いていたが、12分後に転覆、沈没した。米軍関係の記録や話では、破孔が2つだったため命中2発としているが、生存した乗組員の間でも、また伊58の記録でも、魚雷爆発音(こもったような振動するような短い音)は3回とされている。

インディアナポリスの生存者(1945年8月 グアム)

乗員1,199名のうち約300名が攻撃で死亡し、残り約900名は8月2日に哨戒機によって初めて発見されてから5日後に救助が完了するまで、救命ボートなしで海に浮かんでいたが、水、食料の欠乏、海上での体温の低下、これらからおこった幻覚症状、気力の消耗などで多数の乗組員が死亡した。それに加えサメによる襲撃が心理的圧迫を強くした。その後映画およびディスカバリーチャンネルの番組等で、サメの襲撃が演出として過剰に語られたため、大多数がサメの襲撃の犠牲者になったかのように思われているが、おもな原因は救助の遅れと体力的限界が死亡の原因といわれている。救助された生存者は わずか316名であった[35][36]

哨戒機の報告を受け、PBY カタリナ飛行艇を皮切りに、飛行機や高速艦艇が次々と救助に派遣されていった。飛行艇は56名の生存者を救助し、高速艦艇も護衛駆逐艦セシル・J・ドイル(USS Cecil J. Doyle, DE-368)をはじめ駆逐艦ヘルム(USS Helm, DD-388)、マディソン(USS Madison, DD-425)、ラルフ・タルボット(USS Ralph Talbot, DD-390)、護衛駆逐艦デュフィルホー(USS Dufilho, DE-423)、高速輸送艦バセット(USS Bassett, APD-73)およびリングネス(USS Ringness, DE-590)らも駆けつけた。飛行機はパラシュートで当面の食糧や浮く物を投下した[37]。この頃までには、件の一方の当事者である伊58の方でも、アメリカ側が大騒ぎしていることを間接的に知ることとなった。大和田通信所からの無線情報で重要艦船の遭難と、その救助に関する通信が多くなっているという情報を受けたからである[38]

艦長チャールズ・B・マクベイ3世とその後[編集]

チャールズ・B・マクベイ3世大佐(1944年11月からインディアナポリスの艦長)は生き残った。1945年11月、彼は軍法会議にかけられ、ジグザグ運動を怠り船を危険にさらしたとして有罪とされた。軍法会議のいくつかの事実は論議を呼んだ。アメリカ海軍自体が船を危険な状態に置いたという確かな証拠があった。また、伊58艦長橋本以行元中佐(撃沈当時は少佐)はジグザグ運動をしていても撃沈できたと証言した。アメリカは第二次世界大戦の戦闘で約700隻の艦艇を失ったが、戦闘で撃沈された艦艇の艦長が軍法会議にかけられたのはマクベイ元艦長ただ一人であった。有罪になったことでマクベイ元艦長の海軍での経歴は終わり、死んだ乗組員の遺族に責め立てられ1968年に自殺した。

悲劇から50年以上後に、当時12歳で、映画『ジョーズ』(作中でインディアナポリスの話が登場する)によってこのインディアナポリス撃沈事件に興味を持ったハンター・スコット(en[39]によりマクベイ元艦長の軍法会議が誤審であるとの認識が提起され、2000年、アメリカ合衆国議会はマクベイ元艦長の記録は「彼はインディアナポリスの損失に対し無罪である」ことを反映すべきだという決議を可決した。10月30日ビル・クリントン大統領もこの決議にサインした。しかし、マクベイ元艦長の名誉回復に尽力していた橋本元中佐は5日前(10月25日)に死去していたため、その知らせを聞くことはできなかった。

USS Indianapolis National Memorial

マクベイ3世艦長の名誉回復に先立って、1995年8月2日にはインディアナポリス市内にインディアナポリス・ナショナル・メモリアルが建立された。石灰岩花崗岩で出来たメモリアルは、沈没で落命した乗組員の名前が全て刻み込まれている。また、インディアナポリスに関する資料はインディアナ州博物館英語版に納められ、艦鐘と公式ペナントはヘスラー海軍倉庫英語版で保管されている。アメリカ海軍の新兵がトレーニングを行う水泳訓練所にもインディアナポリスの名前が与えられた。

2007年7月7日には、インディアナ大戦記念プラザ英語版内にインディアナポリス博物館がオープンした[40]

2011年8月17日付けの『ハリウッド・リポーター』誌(電子版)によると、俳優ロバート・ダウニー・Jrとその妻スーザン・ダウニーがワーナー・ブラザースと組み、インディアナポリス沈没にまつわる話を11歳のハンター・スコット少年の目を通して映画化すると発表した。TVミニシリーズ『ザ・パシフィック』の脚本でエミー賞を受賞したロバート・シェンカンが、ダウニー夫妻の原案をもとに脚本を執筆する予定[41]

2013年8月4日、インディアナポリスで開催された旧乗組員再会パーティーにレイ・メイパス海軍長官が書簡を送り、次期沿海域戦闘艦にインディアナポリスの名を与えると発表した[42]

2016年、この事件を描いた映画『パシフィック・ウォー』がマリオ・ヴァン・ピーブルズ監督、ニコラス・ケイジ主演で制作された[43]

沈没した船の発見[編集]

インディアナポリスがフィリピン海に沈没していることは判明していた。 2001年7月〜8月のソナーなどを使用した調査では発見できなかった。 2005年6月に2度目の調査が行われ、ナショナルジオグラフィックは7月に、この話をカバーしリリースした。

2016年7月に、インディアナポリスの場所に関する新しい情報が発見された。その海軍の記録によれば、USS LST-779が魚雷で撃沈される前の11時間前に船の傍を通過した事が判明した。この情報をもとに、ナショナルジオグラフィックは2017年の夏に船を発見する探索計画を立てた[44]。報告によれば、予想されていた位置より西に40 km離れた場所であった[45]

2017年8月18日、マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンが率いる民間のチームが太平洋の水面下18,000フィート(5,500m)の深さの海底で、沈没した本艦を発見した[46]

艦長[編集]

インディアナポリスの艦長[47]

階級 名前 期間
大佐 John M. Smeallie 1932年11月15日 — 1934年12月10日
大佐 William S. McClintic 1934年12月10日 — 1936年3月16日
大佐 Henry Kent Hewitt 1936年3月16日 – 1937年6月5日
大佐 トーマス・C・キンケイド 1937年6月5日 – 1938年7月1日
大佐 John F. Shafroth, Jr. 1938年7月1日 – 1941年10月1日
大佐 Edward Hanson 1941年10月1日 – 1942年7月11日
大佐 モートン・デヨ 1942年7月11日 – 1943年1月12日
大佐 Nicholas Vytlacil 1943年1月12日 – 1943年7月30日
大佐 Einar R. Johnson 1943年7月30日 – 1944年11月18日
大佐 チャールズ・B・マクベイ3世 1944年11月18日 – 1945年7月30日

受賞歴[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 艦種を問わなければ、これより後の1945年8月6日に、潜水艦ブルヘッド(USS Bullhead, SS-332)がロンボク海峡九九式軍偵察機の爆撃により撃沈されている
  2. ^ a b c Wiper, 28ページ
  3. ^ 阿部, 241ページ
  4. ^ 駒宮, 59、60ページ
  5. ^ a b ブュエル, 301ページ
  6. ^ ブュエル, 299ページ。1943年11月5日現在の「最新鋭の戦艦」は訓練中のニュージャージー。ミズーリ (USS Missouri, BB-63) およびウィスコンシン (USS Wisconsin, BB-64) は進水式を迎えていない
  7. ^ a b c ブュエル, 300ページ
  8. ^ ブュエル, 308ページ
  9. ^ ブュエル, 325ページ
  10. ^ a b ブュエル, 346ページ
  11. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  12. ^ ブュエル, 351ページ
  13. ^ ブュエル, 352、354ページ
  14. ^ ブュエル, 352ページ
  15. ^ ブュエル, 354ページ
  16. ^ ブュエル, 356ページ
  17. ^ a b c ブュエル, 358ページ
  18. ^ ブュエル, 299ページ
  19. ^ ブュエル, 391ページ
  20. ^ a b ブュエル, 401ページ
  21. ^ ブュエル, 402ページ
  22. ^ ブュエル, 403、405ページ
  23. ^ ポッター, 444ページ
  24. ^ ブュエル, 493ページ
  25. ^ ブュエル, 493、494ページ
  26. ^ a b ブュエル, 495ページ
  27. ^ ブュエル, 501ページ
  28. ^ ブュエル, 526ページ
  29. ^ ウォーナー, 12、312ページ
  30. ^ ウォーナー, 12ページ
  31. ^ ブュエル, 535ページ
  32. ^ ブュエル, 537ページ
  33. ^ ブュエル, 539ページ脚注
  34. ^ ブュエル, 538ページ
  35. ^ ニミッツ提督指揮下のグアムを本拠地とする太平洋艦隊司令部と、マッカーサー将軍指揮下のフィリピン・レイテ島を本拠地とする第7艦隊司令部との間で、日本本土攻撃の総指揮をどちらが取るか(陸軍か海軍か)という手柄争いの問題や、ニミッツとマッカーサー両者の個人的な感情や意見の対立が発生したことから、互いの司令部があるグアム島とレイテ島との相互連絡はほとんど取れていない状態であった。そのような情報の不手際が発生していた時期に沈没したことが、沈没情報の確認や乗組員の救助活動の開始が遅れた原因といわれ、第二次大戦でアメリカ海軍艦艇で最大の戦死者をだした。
    映画『ジョーズ』では、元乗組員とされたクイントは「原爆部品輸送の秘密任務完了後のテニアン島からレイテ島への航路でも無線封鎖を解除していなかったために救助が遅れた」と語っている
  36. ^ http://www.flmnh.ufl.edu/fish/sharks/InNews/safe2007.html
  37. ^ 木俣, 210ページ
  38. ^ 橋本, 301ページ
  39. ^ スコットは長じて、ノースカロライナ大学en:University of North Carolina at Chapel Hill)卒業後、海軍幹部候補生課程(en:ROTC)を修了し、海軍軍人としての道を歩み始めている。
  40. ^ USS Indianapolis Museum - Mission & Vision Statement”. USS Indianapolis Museum. 2017年3月24日閲覧。
  41. ^ http://www.hollywoodreporter.com/heat-vision/robert-susan-downey-produce-uss-224511
  42. ^ 「海外艦艇ニュース 次期沿海域戦闘艦をインディアナポリスと命名」 『世界の艦船』第785集(2013年10月号) 海人社
  43. ^ “ニコラス・ケイジ、サメと闘う「米海軍史上最大の惨劇」が映画化”. WIRED.jp. (2016年9月8日). http://wired.jp/2016/09/08/uss-indianapolis-trailer/ 2016年9月9日閲覧。 
  44. ^ New Lead Uncovered in Search for USS Indianapolis” (2016年7月27日). 2017年8月20日閲覧。
  45. ^ New Details On Final Resting Place Of USS Indianapolis - News - Indiana Public Media”. 2017年8月20日閲覧。
  46. ^ USS Indianapolis discovered 18,000 feet below Pacific surface(CNN Updated 0445 GMT (1245 HKT) August 20, 2017)
  47. ^ Yarnall, Paul R. (2015年8月22日). “NavSource Online: Cruiser Photo Archive”. USS INDIANAPOLIS (CA 35). Navsource.org. 2015年11月17日閲覧。
  48. ^ At USS Indianapolis Museum official website, in the left-hand column, click on "USS Indianapolis Battle Stars". Retrieved 17 August 2011.

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書38 中部太平洋方面海軍作戦(1)昭和十七年五月まで朝雲新聞社、1970年
  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降朝雲新聞社、1970年
  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8218-9
  • 木俣滋郎『孤島への特攻』朝日ソノラマ、1982年、ISBN 4-257-17006-9
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
  • 阿部安雄「米機動部隊ラバウル空襲ならず」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
  • 石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • 橋本以行『伊58潜帰投せり』朝日ソノラマ新装版戦記文庫、1993年、ISBN 4-257-17274-6
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
  • トーマス・B・ブュエル/小城正訳『提督スプルーアンス』学習研究社、2000年、ISBN 4-05-401144-6
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
  • ダグ・スタントン(著)、平賀秀明(訳)、『巡洋艦インディアナポリス号の惨劇』、朝日文庫(2003年)、ISBN 4-02-261427-7
  • リチャード・ニューカム(著)、平賀秀明(訳)『巡洋艦インディアナポリス撃沈』、ソニーマガジンズ(2002年)、ISBN 4-7897-1837-9
  • ピート・ネルソン(著)、羽生真(訳)『少年が救った提督の名誉 : 原爆運搬艦インディアナポリスの悲劇』、(2003年)、ISBN 4-16-359320-9
  • Steve Wiper "Portland Class Cruisers(Warships Pictorial #10)" Classic Warships Publishing.、ISBN 0-9654829-9-5
  • 小灘利春、片岡紀明『特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想』海人社、2006年、ISBN 4-7698-1320-1

外部リンク[編集]