キスカ島撤退作戦

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キスカ島撤退作戦
Kiska Island 1943.svg
連合軍の侵攻地点
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1943年7月29日
場所キスカ島
結果:日本軍がキスカ島から撤退
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
古宇田武郎少将
木村昌福少将
トーマス・C・キンケイド中将
戦力
陸上兵力6,000
軽巡洋艦3
駆逐艦11
海防艦1
潜水艦15
補給船1
戦艦2
重巡洋艦4
軽巡洋艦1
駆逐艦9
損害
潜水艦3沈没
アリューシャン方面の戦い

キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)は、1943年昭和18年)7月29日に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦のことである。キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。

背景[編集]

西アリーシャン列島の地図(1.アッツ島 7.キスカ島 14.アムチトカ島)

昭和17年6月にミッドウェー作戦の支作戦として行われたアッツ島攻略作戦により日本軍の支配下に置かれたキスカ島だったが、ここに日本軍の拠点があることはアメリカ本土への脅威になった。アメリカ軍は反攻作戦を開始すると南方と共にこの方面も優先的に攻略を始めた。一方で日本軍は最初この地域を余り重視せず、申し訳程度の守備隊と偵察機部隊しか配置しなかった。しかし、アメリカ軍の空襲及び日本輸送船への攻撃は激しく、守備兵力の増強に迫られた日本軍は徐々に兵力を補強しようとするが、アッツ島沖海戦を代表とするアメリカ軍の阻止攻撃に遭いなかなか上手くいかなかった[1]

そして昭和18年5月12日、アメリカ軍はアッツ島に上陸、攻略作戦を本格化させた(アッツ島の戦い)。兵力差は米軍の11,000人に対して日本軍は2,650人と4分の1で、補給も増援も見込めない日本軍は必死の抵抗を続けたが、5月30日司令官山崎保代陸軍大佐以下残存兵約300名の身命を投げうった決死の突撃(バンザイ突撃)により玉砕した。これによりアッツ島は陥落しキスカ島にいる守備隊(陸海軍あわせて6,000名余)は完全に孤立してしまった。キスカ島守備隊がアッツ島守備隊より多いのは、キスカ島のほうがアメリカ本土に近いために先に攻略してくるのはこちらだろうと日本軍が読んで、兵力を重点配置したためである。しかし、アッツ島が陥落した状態ではアッツ島とアメリカ軍飛行場のあったアムチトカ島に挟まれ制海・制空権を完全にアメリカ軍に握られた戦域に孤立無援となり、退くに退けず、待つのは死か降伏かという状態になってしまった[1]

  • キスカ島守備隊
    • 陸軍北海守備隊司令官 峯木十一朗少将(陸士28期)2,700名
      • 陸軍北方軍司令官  樋口季一郎中将(陸士21期) 麾下
    • 海軍五十一根拠地隊司令官 秋山勝三少将(海兵40期)2,800名

大本営でもこの状況は把握していたが、アッツ島にアメリカ軍が上陸した時点で増援を送ることは地理的にも兵力的にもほぼ不可能に近く、まだ守備隊が戦っていた5月20日にはアリューシャン方面の放棄が決定。まだ敵軍が上陸していなかったキスカ島は守備隊を撤退させることになった。アッツ島も守備隊の撤退が提案はされたが陸海軍間で調整がつかず結局海軍の反対で断念、代わりにキスカ島の守備隊撤退に重点を絞って作戦計画が練られることとなった。

作戦名は「ケ」号作戦であった(「ケ」は「乾坤一擲」を意味する)[1]

第一期作戦[編集]

1943年6月、幌筵沖に停泊する特設潜水母艦平安丸伊号第171潜水艦

撤退作戦においては本来、ガダルカナル島撤退作戦のように駆逐艦などの高速、軽艦艇により夜陰に乗じて撤退を行うのが最も効率のよい方法であったが、水上艦隊による撤退作戦に日本海軍は消極的だった。最前線での輸送、撤退任務に駆逐艦を投入すればソロモン戦の二の舞となりかねず、またソロモン方面の戦いで海軍は駆逐艦のかなりの数を失っており、これ以上駆逐艦を損耗させることは避けたかったためである。そこで、潜水艦による守備隊への補給及び撤退作戦を立案してこれを実行した[2]

参加兵力は第一潜水戦隊(司令官:古宇田武郎少将)の潜水艦15隻であった[2]

1943年6月上旬に2回の輸送作戦が行われ、傷病兵等約800名が後送され、また弾薬125トン、糧食100トンの守備隊への輸送に成功した。しかしレーダーを始めとするアメリカ軍の哨戒網は厳重であり、この作戦により第1回輸送作戦で伊24、第2回輸送作戦で隊司令玉木留次郎大佐座乗の伊7伊9を失ってしまった。成果の割には損害が多く、また効率も悪かったために潜水艦による撤退、補給作戦は2回で打ち切られ、結局水上艦艇による撤退作戦に切り替えられることとなる[2]

第二期作戦[編集]

作戦準備[編集]

潜水艦による撤退作戦が不調に終わったために立案された水雷戦隊による撤退作戦ではあったが、正面から堂々と作戦を行っていたのではキスカ島近辺で警戒任務に当たっているアメリカ艦隊との戦闘は避けられない。そこでこの地方特有の濃霧に紛れて高速でキスカ湾に突入、素早く守備隊を収容した後に離脱を図る、という計画が立てられた。

この作戦の成否を決める要素は2つあった。

  • 視界ゼロに近い濃霧がキスカ島近辺に発生していること。
  • 日本艦隊に電探及び逆探を装備した艦艇がいること。

まず第一の要素の天候であるがこれは濃霧が発生していれば空襲を受けずに済むからであった。キスカ島のすぐ東側のアムチトカ島には先述したようにアメリカ軍の航空基地があり、B-25などの爆撃機がいたために上空援護のない撤退部隊が空襲を受ければ全滅もあり得た。しかし、この当時濃霧の中で空襲をかけられる航空機は世界中どこを探してもなかった。このキスカ島の天候状況は撤収部隊の死命を制するといっていい。そこで第一次作戦に参加した潜水艦の中から数隻を抽出して撤収部隊に先行させてキスカ島近海に配備し、この地域の気象情報を通報させることとなった。

次に、日本艦隊には当時まだ巡洋艦・駆逐艦クラスで電探を装備した艦はほとんどなかった。第一期作戦での失敗も潜水艦が濃霧の中を浮上航行していたところを敵艦にレーダーで発見され、レーダー射撃を受けて撃沈されたり損傷したりしたためであった。第一の条件である濃霧は敵の空襲から日本艦隊を守ってはくれるが、同時に日本軍の長所である肉眼による見張り能力を奪う。これを補うために逆探と電探を必要としたのである。これに関しては実行部隊である第一水雷戦隊(一水戦)の司令官に着任したばかりの木村昌福少将から特に要望が出され、これを受けた連合艦隊は就役したばかりの新鋭高速駆逐艦島風を配備する。島風は就役当時から二二号電探と三式超短波受信機(逆探)を搭載しており、配備を聞いた実施部隊は大喜びであったという。また木曾艦長の提案により、仮に肉眼でアメリカ軍に発見されたとしても、アメリカ艦と誤認するように阿武隈、木曾の3本煙突の1本を白く塗りつぶして二本煙突に見えるようにしたり、駆逐艦に偽装煙突をつけたりと各艦とも偽装工作を万全にしての出撃であった。

さらに他の部隊から駆逐艦6~10隻の借用の要望が木村昌福少将から出され、第10駆逐隊などが掻き集められた[3]

視界ゼロの霧中でも単縦陣で艦隊行動が取れるように、各艦は霧中浮標を装備していた。これは艦尾よりワイヤーで浮標を曳航し後続艦が前続艦のそれを自艦艦首付近に寄せることで一定の距離を保つものだった[4]

一方で内地における燃料事情は逼迫しており、第二期作戦開始の時点で現地の第五艦隊は撤退作戦に使用できる重油が二回分しか確保できなかった[5]

第五艦隊の河瀬四郎長官は重巡洋艦二隻(那智、摩耶)を率いて警戒に当たると言い出したが、木村少将は上記の燃料事情に加えて「ただでさえ少ない駆逐艦を重巡洋艦の護衛にさかなければならなくなるので来なくてよい」と断った[6]が、結局支援のため、7月10日19時に幌筵から北方部隊主隊(重巡洋艦那智、摩耶、軽巡洋艦多摩、駆逐艦野風、波風)が出撃した[7]

出撃、そして反転、帰投[編集]

こうしてキスカ島守備隊撤退作戦「ケ」号作戦は1943年6月29日発動された。根拠地、幌筵を最初に出撃したのは気象通報に従事する潜水艦部隊であった。水上部隊の出撃はそれに遅れること一週間、7月7日、19時30分であった。この部隊の目的はあくまでも"味方守備隊の撤退を隠密裏に行う"というものであったため、アメリカ軍部隊との接触は極力避けるのが方針であった。しかし、万が一にも敵と遭遇した場合に備えて、夜戦の用意も行っていた。

第一水雷戦隊の駆逐艦は第九駆逐隊と第二十一駆逐隊のそれのみであり、残りは駆逐隊に所属しない艦や第十一水雷戦隊など他の部隊の借り物だった[9]

7月10日、アムチトカ島500海里圏外で集結した撤収部隊は一路キスカ島へ向かった。計画では12日が"X日"つまり撤収決行日であった。だがキスカ島に近づくにつれ、霧が晴れてきたため突入を断念、一旦反転して予定日を繰り下げて決行日を13日とした。ところがこの13日も霧が晴れ、翌14、15日と決行したが全て途中で霧が晴れてしまい、突入を断念せざるを得なかった。この慎重にも慎重を期した行動は木村少将自身がこの年の2月に参加したビスマルク海海戦の敵空襲を受けた経験から来ていると言われる。上空援護のない状態での空襲は水雷戦隊にとって致命傷だということを、木村少将は嫌というほど知っていたのである。

ここに来て、燃料の残量も少なくなってきたことから木村少将は15日午前8時20分、一旦突入を諦め幌筵へ帰投命令を発した。「帰れば、また来られるからな」と言い残しての命令だったといわれる。こうして撤収部隊は18日に一旦幌筵へ帰投した[1]。出撃していた那智以下北方部隊主隊は15日に幌筵に帰投していた[10]

再出撃[編集]

手ぶらで根拠地に帰ってきた木村少将への批判は凄まじく、直属の上官である第5艦隊司令部のみならず、果ては連合艦隊司令部、更に大本営から「何故、突入しなかった」、「今すぐ作戦を再開しキスカ湾へ突入せよ」など轟々たる非難を浴びることとなった。ちょうどソロモン方面ではクラ湾夜戦コロンバンガラ島沖海戦でそれぞれ指揮官が指揮官先頭、率先垂範の規範により旗艦もろとも戦死した直後であった。この批判は、突入しなかった木村少将の態度から来たものだけではなく、8月になればこの方面の霧が晴れ始めてアメリカ軍の上陸作戦が確実に行われると予想されたこと(つまり、撤収作戦がほぼ不可能になる)、更にこの地域に備蓄していた重油が払底し始めており作戦は後一度きりしか行えないという焦りから来たものでもあった。

しかし、木村少将はこの批判を意に介せず、阿武隈の舷側から釣りをしながら濃霧が発生するのをじっと待った。撤収部隊の各艦は木村少将の判断は当然だと思っており、帰港後に上記の批判を見て驚いたという[11]

7月22日、幌筵の気象台が「7月25日以降、キスカ島周辺に確実に霧が発生する」との予報を出したため、撤収部隊はその日の夜、再出撃したのである。ただし、この出撃に際して「督戦のため」と称して河瀬四郎第5艦隊司令長官以下第5艦隊司令部が多摩に座乗、実行部隊に同行したのである。当初は第5艦隊旗艦那智で参加予定であったが、燃料不足により多摩での出撃となった。

もし敵艦隊に遭遇した場合は多摩が電信を打って敵艦隊を引きつける手筈であった[12]

  • 戦闘序列[13][14]
    • 主隊:多摩
    • 巡洋艦部隊:阿武隈、木曾
    • 収容駆逐隊:第十駆逐隊(夕雲、風雲、秋雲)、第九駆逐隊(朝雲、薄雲)、響
    • 第一警戒隊:第二十一駆逐隊(若葉、初霜)、長波
    • 第二警戒隊:島風、五月雨
    • 補給隊:日本丸、国後

この時の作戦では、艦隊はカムチャツカ半島先端の占守島から北太平洋を一挙に南下、そこからアッツ島南方海上まで東に進路を取り、そこで天候を待った後に機を見てキスカ湾へ北東に進路をとり高速で突入、守備隊を迅速に収容した後に再びアッツ島南方海域まで全速で離脱しその後幌筵に帰投する、というルートで行われた。だが、幌筵出港時から濃霧が発生しており各艦バラバラでの進撃となってしまった。このため何度か「阿武隈」が高角砲を発砲し音で位置を知らせた[15]。7月25日には国後を除くほとんどの艦艇が集結したものの、翌26日には霧中標的すら見えぬ濃霧の中を航行中に行方不明だった国後が突如阿武隈の左舷方向に出現。避ける間もなく国後は阿武隈の左舷中部に衝突、混乱で初霜の艦首が若葉の右舷に衝突、更に弾みで艦尾が長波の左舷に接触した。損傷が酷かった若葉は艦隊を離脱し単独で帰投した[1]。第二十一駆逐隊司令は若葉から島風に移乗して警戒隊の指揮をとり、初霜は補給隊に配され日本丸の護衛にあたることになった[13]

キスカの奇跡[編集]

督戦という名目で一水戦に付いて来た第5艦隊司令部であったが、いざ決行となった7月28日のキスカ島周辺の気象状況は、途中で引き返した第一次作戦時と似たような状況だった。そのため、5艦隊司令部は司令官共々、どう判断を下したら良いか判らない状態になり、適切な命令を出せないでいた。これを見かねた多摩の航海長の越口敏男少佐(59期)は「艦長を呼べ」と近くの伝令に命令する。艦長の神重徳大佐(48期)は「ぐずぐずしていたら、突入の時期を失しますよ」と五艦隊司令部に進言する。

一方で1水戦司令部では気象班[16]が翌29日は濃霧の可能性大との予報を出し、気象観測に出した潜水艦各艦及びキスカ島守備隊からの通報でもそれを裏付けられたため、木村司令官は突入を決意していた。そして1水戦司令部から5艦隊司令部へ信号が届いた。「本日ノ天佑我ニアリト信ズ適宜反転サレタシ」こうしてキスカ撤退作戦は始まった。

敵艦隊との遭遇を避けるために南西方向から直接突入せずにキスカ湾を西側から迂回して島影に沿いつつ、7月29日午後0時に艦隊はキスカ湾に突入。濃霧の中の突入だったため座礁や衝突の危険があったが、突入直後に一時的に霧が晴れる幸運があった。一方で突入時に旗艦阿武隈が敵艦隊発見を報じ直ちに魚雷4本を発射、同じく島風も発射し全弾命中したが、目標は敵艦ではなく軍艦に似た形の島であったという。普段より晴れていたとはいえ当時の霧がどれほど濃かったかを示すエピソードである。

艦隊は13時40分に投錨し、ただちに待ち構えていたキスカ島守備隊員約5,200名を大発のピストン輸送によりわずか55分という短時間で迅速に収容。この際使用済の大発は回収せずに自沈させ、陸軍兵士には持っている三八式歩兵銃[17]を投棄させて身軽にしたことも収容時間の短縮に繋がった。守備隊全員を収容後、ただちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱。直後からまた深い霧に包まれ空襲圏外まで無事に離脱することができた。

戦闘詳報によれば、各艦の収容人数は以下のとおり[18]

  • 阿武隈 1,202名
  • 木曾 1,189名
  • 夕雲 479名
  • 風雲 478名
  • 秋雲 463名
  • 朝雲 476名
  • 薄雲 478名
  • 響 418名、合計5,183名

その日の夕刻、撤収部隊は浮上航行中のアメリカ海軍の潜水艦と近距離でばったり遭遇した。だが各艦とも上述の通り偽装工作をおこなっていたため米潜水艦は撤収部隊をアメリカ艦隊と誤認したらしく、両者とも素通りして行った[19]

艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵に全艦無事帰投。気象通報に出した潜水艦もその後全艦無事帰投し、ここに戦史上極めて珍しい無傷での撤退作戦は完了する [1]

アメリカ軍の動き[編集]

日本軍の士気を下げるためにアメリカ軍機により投下された伝単

アメリカ軍は1943年8月15日に予定したキスカ島上陸作戦に向けて着々と準備を進めており、戦艦ミシシッピーアイダホの戦艦二隻と重巡洋艦4隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦9隻を中心とした艦隊で海上封鎖及びキスカ島砲撃を行っていた。

7月23日、アメリカ軍のカタリナ飛行艇がアッツ島南西200海里の地点で7隻の船をレーダー捕捉し、艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド中将は日本艦隊とみて直ちに迎撃作戦に移り、戦艦ミシシッピー、アイダホと重巡洋艦ウィチタ、ポートランド、サンフランシスコからなる艦隊が出撃した。しかし、当時、この海域には日本艦船は存在しておらず、これは全くの事実誤認であった。

7月26日、濃霧の中ミシシッピーのレーダーが15海里の地点にエコーを捕捉した。アイダホ、ウィチタ、ポートランドの艦隊各艦からも同様の報告を得たキンケイド中将は直ちにレーダー射撃を開始させ、約40分後に反応は消失。しかし、不思議なことに重巡サンフランシスコと艦隊の全駆逐艦のレーダーにはこの戦いの最初から最後まで全く反応がなかった。これは現在ではレーダーの虚像による誤反応を日本艦隊と見間違えたという説が一般的であり、勿論日本軍にも全く損害は出ておらず、一方的にアメリカ軍が無駄弾をばら撒いただけであった。この際アメリカ軍が消費した砲弾は36センチ砲弾118発、20センチ砲弾487発に上ると言われている[2]

この誤認攻撃の状況に関して、米艦隊が打電した砲撃データの電文を日本艦隊は全て傍受しており、また平文で打電されていたために「アメリカ軍は同士討ちをやっている」と日本軍は思ったという[1]

7月28日(ケ号作戦実行日)、敵艦隊を撃滅したと確信したキンケイド中将は弾薬補給のため一時、艦隊を後退させる。この時、キンケイドはキスカ島に張り付けてあった哨戒用の駆逐艦まで率いて後退してしまった。

7月29日、周辺海域からアメリカ艦隊がいなくなっているとは知らずに、日本艦隊は突入し撤退を完了した形になる。

7月30日、日本軍守備隊が撤退したとは知らず、補給が終わったアメリカ軍は封鎖を再開した[1]

艦砲射撃と空襲により攻撃再開したアメリカ軍は、キスカ島を飛んできたパイロットより「航空部隊への対空砲撃、通信所の移転、小兵力移動」との報告を受け、更なる空襲を実施した。しかしこれら報告は、のちに「対空砲撃は空襲による煙幕を誤認、通信所は視界錯覚、小兵力はキツネ」であったと判明した。

8月15日、アメリカ軍は艦艇100隻余りを動員、兵力約34,000名をもってキスカ島に上陸した。艦隊による十分な艦砲射撃を行った後で濃霧の中一斉に上陸を開始したアメリカ軍は、最早、存在しない日本軍兵士との戦闘に備えて極度に緊張した状態で進軍したため、各所で同士討ちが発生した。死者約100名、負傷者数十名を出してキスカ島攻略を完了した。上陸したアメリカ軍の見たものは、遺棄された数少ない軍需品と数匹の犬だけだったという。

また日本軍は軍医の悪戯で『ペスト患者収容所』と書かれた立て看板を兵舎前に残して行った。通訳官として従軍していたドナルド・キーンがこれを翻訳すると上陸部隊は一時パニック状態に陥り、緊急に本国に大量のペスト用ワクチンを発注した。また、感染を疑われたキーンは検査のため後方に送られそのまま終戦を迎えた(自伝小説『私と20世紀のクロニクル』にもこのエピソードが登場する)。

アメリカの戦史家サミュエル・エリオット・モリソンは『アメリカ海軍作戦史』で「史上最大の最も実戦的な上陸演習であった」と皮肉っている[1]

評価[編集]

この作戦は、玉砕を強いて無慈悲に兵を見捨てる軍上層部が、例外的に救援を優先したかのように取り上げられることが多い。たとえば、同時期より少し以前に行われたガダルカナル撤収作戦(作戦名は同じくケ号作戦であるが「捲土重来」のケ)等に関しても海軍は非常に消極的であった[1]

実際、この作戦自体が5月20日の大本営におけるアリューシャン方面の対策会議(この会議でアリューシャン方面の放棄が決定)で、陸軍が求めていたアッツ島の救援を断念する代わりに海軍はキスカ島だけは何としても救援する、という陸海軍間での妥協の産物であり[1]、この取引がなければキスカ島も見捨てられていた可能性が高い。ただニューギニア方面での艦船損失が激しくなる中において、北方方面でのアメリカ軍の侵攻を防ごうとすれば、確実にガダルカナルで見られた激しい消耗戦になっていた可能性が高い。兵力の余裕が段々と薄らいでいた時期にもあって、非常に厳しい判断状況に置かれていた。結果としては成功に終わった作戦だったが、北方艦隊が戦力に余裕をもっていたからこそ可能であった作戦でもあった。

救出艦隊の指揮を執った木村少将の戦術指揮には高い評価が与えられている。特に1度目の出撃で天候に利が無いと見て、各艦長の突入要請を蹴って反転帰投を決断したことが焦点となる。当時の海軍の状況は切迫しており、戦力として貴重な艦艇を無駄に動かす結果になることや、欠乏していた燃料を浪費してしまうこと、またそれによる上層部や各所からの批判なども当然予想されることであった。また、近年の研究で木村少将が総合的な判断から収容時間が1時間が限界で、兵士収容作戦を迅速に完了させるべく、陸軍側に全ての兵器の海中投棄を求めた際、アッツ・キスカ方面の陸軍守備隊司令官を務めていた樋口季一郎大本営並びに陸軍省上層部に決裁を仰がず独断を以て承認した。キスカ撤収作戦後、この一件を知った陸軍上層部から海軍に対する抗議がなされることになったが、樋口は欧州に大使付き駐在武官として赴任していた経験から、人命第一だと抗弁していたことが判っており、木村、樋口というふたりの陸海軍現地司令官の決断力も作戦遂行に際して重要な鍵を持つこととなった[17]

また、活発化しつつあるアメリカ軍の動きから、反転してしまえば二度と撤退のチャンスがなくなる恐れも充分に考えられた。それでも、作戦成功の可能性が無いと見て反転するという一貫性のある決断力は評価されている。実際、このとき突入を強行していれば、アメリカ軍に捕捉・撃滅されていたであろうことは、当時のアメリカ軍の展開状況から見ても容易に推察できる。

結果として濃霧を待った二度目の出撃で、偶然にもアメリカ軍が島の包囲を解いた隙を突くという、日本側に有利な条件が重なったことも事実であるが、木村少将の、霧に身を隠して一気に救出するという一貫した戦術指揮も大きく作用したのである。

戦後この作戦に参加した将兵やキスカ島から撤退した将兵たちは「この作戦の成功はアッツ島の英霊の加護があったと思った」、「(生還出来たのは)天佑神助としか思えなかった」等と述べている。この作戦が成功したのは、偶然とはいえ、作戦遂行中に日本軍に都合の良い状況がいくつも展開され、日本軍側の判断がその状況を上手く利用できたからと言えるだろう。こういったことも、この作戦が「奇跡の作戦」と言われる所以である。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争』
  2. ^ a b c d 板倉光馬 『あゝ伊号潜水艦』 
  3. ^ 木俣滋郎『日本水雷戦史』 p167
  4. ^ 有近六次 『撤退』
  5. ^ 戦史叢書(29) p621
  6. ^ 木俣滋郎『日本水雷戦史』 p166
  7. ^ 戦史叢書(29) p616
  8. ^ 一水戦機密第14号ノ8「第一水雷戦隊戦時日誌(作戦及一般ノ部)」。アジア歴史資料センター レファレンスコード C08030084600 で閲覧可能。
  9. ^ 木俣滋郎『日本水雷戦史』 p167
  10. ^ 戦史叢書(29) p620
  11. ^ 木俣滋郎『日本水雷戦史』 p168
  12. ^ 阿川弘之 『私記キスカ撤退』
  13. ^ a b 一水戦機密第14号ノ9「第一水雷戦隊戦時日誌(作戦及一般ノ部)」。アジア歴史資料センター レファレンスコード C08030084900 で閲覧可能。
  14. ^ 戦史叢書(29) p629
  15. ^ 有近六次 『撤退』
  16. ^ 橋本恭一少尉、九州帝国大学地球物理学科卒、第一期兵科予備学生(「奇跡の撤退」p179)。
  17. ^ a b 木村昌福(上)「パーフェクト」のキスカ撤退 産経新聞 2013年5月4日閲覧
  18. ^ 昭和18年8月1日付 一水戦機密第14号ノ9 『水雷部隊(北方部隊)戦闘詳報 第一号』。アジア歴史資料センター レファレンスコード C08030084900/C08030085000 で閲覧可能。
  19. ^ 戦史叢書(29) p646

参考文献[編集]

  • 有近六次 『撤退』 光人社 2001年 ISBN 4-7698-2302-9
  • 『プレジデント』 1990年8月号 キスカ、撤退作戦の要諦
  • 防衛研究所戦史室『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
  • 『歴史街道』 PHP研究所、2016年4月号 1943キスカ島の奇跡

関連項目[編集]