アリューシャン方面の戦い

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アリューシャン方面の戦い
Kiska Invasion 01.jpg
キスカ島上陸に先立ち、アダック島に上陸するアメリカ軍。部隊はM1ライフルを装備し、戦艦ペンシルベニアが沖合いで上陸を掩護した。
戦争:太平洋戦争
年月日1942年~1943年
場所アリューシャン列島
結果連合国軍アリューシャン列島を奪還
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カナダの旗 カナダ
指導者・指揮官
大日本帝国細萱戊子郎中将
大日本帝国木村昌福少将
大日本帝国古宇田武郎少将
大日本帝国山崎保代大佐
アメリカ合衆国キンケイド中将
アメリカ合衆国マクモリス少将
アメリカ合衆国コーレット少将
アリューシャン方面の戦い

アリューシャン方面の戦い(アリューシャンほうめんのたたかい)とは太平洋戦争大東亜戦争)中、日本軍アメリカ軍アリューシャン列島周辺で行われた戦い

歴史[編集]

1942年[編集]

アリューシャン攻略作戦[編集]

アリューシャン列島は、太平洋戦争開戦時の連合艦隊作戦計画では占領または攻撃破壊すべき外郭要地として定められていたが、これは十分に検討されたものではなかった。1942年、第一段作戦を終えた日本はアリューシャン攻略作戦(AL作戦)も含めた第二段作戦を立案した。AL作戦の目的は、米の北方路の進行を阻止するもので、米ソ間の連絡を妨害し、シベリアに米航空部隊が進出するのを妨害しようとするものであった。当時開発されたとの情報があった米大型爆撃機による帝都空襲が行われ、その一部が奇襲に成功したことで同方面の関心はさらに強くなった。また、同作戦によりミッドウェーとキスカ間に哨戒機を往復させて米空母が近接するのを防ごうという意見の者もいたが、軍令部航空主務部員の三代辰吉も連合艦隊航空参謀の佐々木彰も、霧などの関係から到底そのような飛行哨戒は不可能と考え、全くその案は考慮しなかったと回想している[1]

5月25日、アリューシャン攻撃部隊は空母隼鷹」、「龍驤」を中心とする空母2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦5隻の艦隊(細萱戊子郎中将、角田覚治少将)で大湊を出航した。続いて巡洋艦2隻、駆逐艦3隻、輸送船2隻のキスカ島攻略部隊が5月28日、巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、輸送船1隻のアッツ島攻略部隊が5月29日にそれぞれ出航した。アメリカ軍は暗号解読により日本軍の攻撃を知り、ロバート・シオボルド少将麾下の巡洋艦5隻、駆逐艦4隻をコジャック島方面に、駆逐艦9隻をウナラスカ島に配備した。

日本海軍機の空襲を受けて炎上するダッチハーバーのアメリカ軍基地

同作戦では1942年(昭和17年)6月3日から7日にかけダッチハーバーに対する空爆およびアッツ島キスカ島の攻略が行われ日本軍は両島を占領した。これは、アメリカにとって第二次世界大戦における初の領土(植民地を除く)喪失であった。

6月3日早朝、龍驤の攻撃隊がダッチハーバーのアメリカ海軍基地を空襲した。翌4日、日本軍は再度空襲を行い基地内外に大きな被害を与え、施設や宿舎などを炎上させた。日本軍は6月6日にアッツ島、7日にキスカ島に上陸し占領した。両島ともアメリカ軍の守備隊は存在していなかった。アメリカ軍は6月10日、アッツ島、キスカ島に日本軍が上陸していることを発見、爆撃機による空襲を開始した。12日には駆逐艦「」が爆撃により損傷した。

7月5日の海戦[編集]

7月5日には潜水艦グロウラー」(ギルモア艦長)の雷撃で駆逐艦「」がキスカ島沖で沈没、タンバー級潜水艦トライトン」(カークパトリック艦長、C.C. Kirkpatrick)の雷撃で駆逐艦「子日」がニア諸島アガッツ島英語版サボック岬沖で沈没した。

キスカ島砲撃[編集]

1942年8月7日、アメリカ軍は重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦4隻からなる艦隊でキスカ島を砲撃した。日本軍はアッツ島の部隊をキスカ島に移動させ同島の守備を強化した。9月になるとアメリカ軍はアダック島に飛行場を建設し空襲を強化した。日本軍はアッツ島およびキスカ島の守備の強化のため10月から輸送作戦を繰り返し行った。

1943年[編集]

アッツ島沖海戦[編集]

1943年3月27日、輸送作戦中の日本艦隊とアメリカ艦隊がコマンドルスキー諸島近海で遭遇、アッツ島沖海戦: Battle of the Komandorski Islands)が発生した。

アッツ島の戦い[編集]

1943年(昭和18年)に入ってから、アメリカ軍は本格的な反攻を開始した。1943年5月12日にアメリカ軍はアッツ島に上陸した。領土奪還をかけて大規模な兵力を投入したアメリカ軍に比べて、防衛のために兵力を増強していたものの、既にこの島を重要拠点と見なさなくなっていたために小規模であった日本軍の守備隊は29日に全滅した。

1943年5月12日、アメリカ軍約11,000名がアッツ島に上陸した。これに対し、既にこの島の戦略的価値が低いと判断していた日本軍の守備隊は山崎保代陸軍大佐以下2,665名とはるかに小規模だった。5月13日、駆逐艦「エドワーズ英語版」および「ファラガット」の爆雷と砲撃で伊号第三一潜水艦がアッツ島沖で戦没。4倍近い兵力を持つアメリカ軍の攻撃によりアッツ島の日本軍は29日に全滅した。

キスカ島撤退作戦[編集]

アッツ島の全滅によりキスカ島の維持も困難と判断した日本軍は同島からの撤退を決めた。まず、潜水艦による撤収が行われたが、被害の増加により中止された。7月7日、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻などからなる撤収部隊(木村昌福少将)が占守島を出発した。しかし、晴天続きのため16日に収容を断念し帰還した。

7月22日、撤収部隊は再度出撃した。霧が発生したため、29日、部隊はキスカに入港し何の障害もないままに守備隊を収容して帰還した。このとき、アメリカ艦隊は霧の中でレーダーに映った存在しない日本艦隊に対して攻撃を行い、燃料不足となったためいったんキスカ島の封鎖を解いていた。

日本軍が撤退したキスカ島にアメリカ軍は艦砲射撃を繰り返した後、8月15日、キスカ島にカナダ軍と合わせて約35,000名の兵力で上陸した。このさい同士討ちで米加両軍に25名の死者がでた。

脚注[編集]

  1. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦47-49頁

参考文献[編集]

  • 牛島秀彦『アッツ島玉砕戦 われ凍土の下に埋もれ』(光人社NF文庫、1999年) ISBN 4769822472
  • 有近六次「キスカ撤収」
有近六次ほか『撤退 ガダルカナル・コロンバンガラ・キスカ』(光人社NF文庫、2001年) ISBN 4769823029 125-246頁
阿川弘之『日本海軍に捧ぐ』(PHP文庫、2001年) ISBN 4569575005 22-114頁

関連項目[編集]