済南事件

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済南事件
Japanese victim of the Tsinan Massacre 2.jpg
日本人被害者の検屍 
戦争
年月日1928年昭和3年)5月3日
場所中華民国の旗 中華民国山東省済南
結果
交戦勢力
War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大日本帝国陸軍 Republic of China Army Flag.svg 国民革命軍
指揮官
蒋介石
損害
日本人居留民:
  • 死者14(男12、女2)
  • 暴行侮辱:30余
  • 陵辱2
  • 掠奪被害戸数136
  • 他被害人員約400


日本軍:

  • 死者26
  • 負傷者157
中国民間人・国民革命軍:
  • 死者 約3,000~6,123
  • 負傷者 約1,450~1,701

済南事件(さいなんじけん)は1928年昭和3)5月3日中国山東省済南における、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、および日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣された日本軍第二次山東出兵)と、北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。藤田栄介青島総領事は、南軍による組織的に計画された衝突と述べている。

事件の中で、日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。

衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は司令部と城壁に限り、砲撃を開始。安全地帯と避難路を指定したため、南軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し北伐を続行した。5月11日、日本軍は抵抗なく済南を占領した。中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとされる。藤田栄介青島総領事によると、中国商民らは日本軍の正確な砲撃によって被害のなかったことに感謝していた。

岩崎芳夫によると、蒋介石は後にこの事件を日本軍による北伐の妨害であったと非難したとされている[1]

当時の状況[編集]

当時、中国は南軍と北軍に別れて内戦状態にあり、治安は悪化していたが、済南は主要な商業都市であり、日本人を中心として多くの外国人が居住していた。膠済鉄道は日本の借款鉄道であり、同鉄道沿線の鉱山は日中合弁会社が経営するなど、山東省には日本の権益も存在した[2]。山東省における日本人居留民数は、昭和2年末の外務省調査によれば、総計約16,940人に達し、そのうち青島付近に約13,640人、済南に約2,160人であり、投資総額は約1億5千万円に達していた。

第1次国共合作の終了により北伐は頓挫したが、1928年(昭和3年)1月上旬、ふたたび蒋介石が国民革命軍の総司令に就任し、2月、蒋介石は馮玉祥閻錫山と北伐に関する協議を行って北伐軍を編成し、4月7日国民党は北伐を宣言した。4月12日韓荘台児荘の線を占領していた山東軍は敗れ、戦乱はふたたび山東省に及ぼうとした。

松井石根参謀本部第2部長の談話によると、 山東出兵の第一の理由は、南軍総司令蒋介石の地位の変動である。今の南軍は去年の南軍と大いに組織を異にし、南軍の内部にはいわゆる客軍が多くを占めており、蒋介石の命令は、客軍の武将に阻止されて徹底されない。第二の理由は、南軍の素質が悪くなり、これに伴う危険が増加したことである。今日の南軍は大部分が速成の兵で、いわゆる兵匪と何ら変わりない軍隊であり、いつ本性を現して不埒を働くかわからず、実に危険である。第三の理由は、南軍の内部に依然共産系が残存していることである。昨年の南京事件に懲りて南軍幹部でも極左共産党系の淘汰を計ったので共産党系の色彩は大いに緩和されたが、特に若い者の間には共産党の空気が深くしみわたって手がつけられない状態で、ある軍の如きは現に公然とロシア人の教官または指揮者を有し、盛んに共産主義の宣伝をなし、「帝国主義打倒」を振りかざして常に日本を敵視している[3]

約1年前の南京事件漢口事件のような、蒋介石率いる北伐軍の兵士や中国人による略奪、暴行などが済南に起こる危険が迫ったので、日本側は日本の権益と居留民の保護を理由として同年4月下旬に出兵した(第二次山東出兵)。当時の主要新聞の社説は、内政干渉にならないようとの憂慮を表明したが、ほとんどが出兵やむなしとするものであった。支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され、4月20日午後8時20分、臨時済南派遣隊が済南到着、4月26日午前2時半、第6師団の先行部隊の斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着した。北軍援助の誤解を避けるため、第6師団(師団長・福田彦助中将)の主力は青島に留まっていたが、4月29日、南軍によって膠済鉄道と電線が破壊されたため、青島を出発し、鉄道破壊個所を修理しながら進み、5月2日午前11時半に済南に到着した。この結果、済南に集結された兵力は、3539人となった[4]

4月21日、臨時済南派遣隊は「臨時済南派遣隊警備計画」[5]を作成し、この警備計画に基づいて居留民保護にあたった。4月27日斎藤瀏警備司令官は前警備計画を修正した「混成第十一旅団警備計画」を作成した。修正点は警備区域を商埠地全体の約8割に縮小し、歩哨線を守備区域として拡大し、守備区域への中国軍兵士の進入を禁止したことであった。4月29日、北軍退却部隊の商埠地内外を通過する数が増加し、北軍と警察の警備力は急速に衰えたため、斎藤警備司令官は29日午後一時に各地守備隊を第一期警備の部署に就かせ、午後9時半に守備区域の所要工事(土嚢、立射散兵壕、拒馬、鉄条網などの設置)を開始させた。窮民による略奪が起こったが、日本の警備地区内ではほとんど起こらなかった。[4][6]

5月1日済南は北軍の手から南軍の手に落ちると、日本国旗侮辱や反日ビラ貼付などで紛議が頻発し、また囚人が解放されて、市内は緊迫の様相を呈するに至った。5月2日午前、南軍の総司令蒋介石から斎藤瀏警備司令官に、治安は中国軍によって確保することを保障するので日本軍は撤去して欲しいとの要望がなされ、斎藤警備司令官は福田彦助第6師団長に図ることなく、守備区域のみを廃止し、防御設備をすべて撤去させ、「済南における治安維持は自今南軍総司令官蒋介石に一任す」なども口頭で補足した。5月3日、福田師団長はすでに実効済みだったので、これを黙許した[4]。守備区域の撤廃と防御設備の撤去が事件を誘発したわけではない。問題は国民革命軍の排日傾向と、前年の南京事件にも関わったと目される賀耀祖麾下の第40軍が済南に到着していたことを、日本側が軽視していた点にあった[6]

事件の発端[編集]

国民革命軍兵士による済南商埠地の邦人店舗略奪事件をきっかけに日本軍と国民革命軍は衝突した[7]。事件が起こると国民政府は諸外国や国際聯盟に働きかけ、事件の発生が日本兵の中国兵射殺に起因すること、日本軍不法行為の例として蔡公時殺害など、非は日本にあるように宣伝したが、当時は、日本側だけでなく、第三国においても、それらは支那一流の宣伝によると見なされていた[4]。事件の発端については、日本側資料と中国側資料で見解が異なり、現状ではどれが正しいか不明とする意見もある[8]

  • 日本側の見解(『昭和三年支那事変出兵史』)
    南軍の兵士が麟趾門街にある満州日報取次販売店の吉房長平方を掠奪、主人を暴行した。南軍兵は駆けつけた日本人巡査にも暴行を加えたため、日本軍が現場に赴くと掠奪兵はただちに自分の兵舎へ逃走。それを追った日本軍に対して歩哨が射撃してきたので日本軍は応戦し、歩哨を射殺。それをきっかけに戦闘となり、中国兵による乱射掠奪は一挙に市中に拡大した。まもなく停戦の申し合わせができたが、中国軍はこれを無視し、白旗を掲げて停戦を呼びかける日本軍使さえ射殺する暴挙に出た。
  • 中国側の見解(『蒋介石秘録』)
    病気となった兵士を中華民国外交部山東交渉署の向かいにあるキリスト教病院(城外商埠地)に治療に連れていったところ、日本兵に通行を阻止された。言葉が通じないままに言い争いとなったが、日本兵は、革命軍の兵士と人夫それぞれ一人をその場で射殺した。

なお、中国側資料には、以下のような説もある。(『五三惨案』より)

  1. 中国軍兵士が日本軍兵士と口論となり、衝突となった
  2. 中国軍兵士が国民政府の貨幣で買い物をしようとし、日本人に阻止された
  3. 民衆が宣伝ポスターを見ていたとき、日本軍がそれを許さず、民衆と衝突した
  4. 中国軍兵士が商埠地を通過しているところを日本軍に阻止された

略奪などの被害がほとんど日本人のみに集中しており、第6師団参謀長は「午前十時を期し一斉に開始せられたること、および小部隊に至るまで手榴弾を分配しありしことなどより見るに、相当計画的に行われたること明らか」であると見ており、師団長も「略奪の背後には隊伍を整えたる大部隊あり、白昼隊伍を組み略奪を行う如きは組織的に計画されたること明らかなり」と述べている。また第6師団の戦闘詳報には次のように書いてある。

  • この虐殺行為は計画的のものなるや否やは、いまなお不明なるも、蒋介石と領事との問答および蒋介石その他の高級将校の言明に徴するも、日本軍との事端をなるべく避けんとする方針なりしが如く、従ってこの事件は上級将校の計画的暴挙にあらずして、計画的とするも下級一部隊の企図に基くものと判断せらる。しかれども、当時南軍一般の空気は左の如き事態なりしは、想察するに難からず。
  1. 従来排日の教えを受け、日本を侮りたる中級幹部およびこれらの率いる兵卒は容易に上級幹部の命令を行わざること
  2. 済南の支那人に南軍の威力を示さんとせること
  3. 日本軍はわずか三千にして南軍はその約十倍の優勢を持するをもって、到底日本軍は対敵行為を取ることなかるべしと判断せること
  4. 支那軍内部において為にする者ありて他を陥れんとせること

(中略)

  1. 我と交戦せし部隊、主として第40軍、第41軍に属するものなるが如し
  2. 将帥の氏名 第40軍長賀耀祖、第41軍長方振武

また『昭和三年支那事変出兵史』には、襲撃事件を惹起した責任者として「第40軍長賀耀祖、同第3師長陶時岳、同歩兵第7団長王励、同第2営長劉済民、第5ないし第8連長何、䔥、姜、陳」とある。

蒋介石が南軍は軍紀厳正であって事件を起こすようなことは決してあり得ぬと再三言明していたこと、南京政府内部では、共産党を排除したものの、共産党の疑い濃厚な分子が陰に国民党崩壊の機を窺い、広東派は失態に乗じて再び広東左派の指導権を回復しようと狙っていたこと、南京政府と革命軍の中で馮玉祥が勢力を伸ばしており、軍費不足による戦備不十分を理由に躊躇する蒋介石を強いて北伐に踏み切らせたこと、事件を起こした軍隊がほとんど共産主義的色彩の強かった指揮官賀耀祖とその麾下、および馮玉祥の腹心の部下であった方振武とその麾下であったこと、事件解決を待たずして、山東管轄をめぐって蒋介石と馮玉祥の争いが起こったことなどから、蒋介石を窮地に陥れることを狙った馮玉祥の意図が働いていた可能性は少なくない。また、南方宣伝員とともに、共産党員が山東省に多数入りこんで策動していた。加藤天津総領事の報告によると、彼らは近時国民党より極端な圧迫を受けた関係上、国民党を憎むこと蛇蝎の如く、また戦乱をできる限り長引かせて自派策動の機会を得ようとする動機より、あらゆる手段を講じて北伐を阻害しようとする事実があった、という。[4]

賀耀祖は前年の南京事件にも関わっていたと目されており、今回の事件も確信的なものであったと判断されたことから、南次郎参謀次長が5月3日午後2時半に発した事件解決条件についての訓令には、賀耀祖の処刑が含まれていた[6]

ニューヨーク・タイムズ特派員アベンドは、5月3日事件の発生状況について、アメリカ領事をはじめ自分らは支那側の宣伝に信頼を置かず、蒋介石が節制のない数万の軍隊を入市させ、事変突発してもその命令徹底しなかったことが根本的過失である、と語っている。また、済寧泰安のアメリカ人が南軍兵士に略奪および射殺され、兗州、済寧、泰安でドイツ宣教師と教会が南軍によって暴行された事実があり、英、米、独の領事が西田済南総領事代理に対して、支那政局においては支那側に生命財産の保全を期待できず、現在においては日本軍に期待していることに一致している、と述べている[4]。さらに、今回の事変に鑑みれば日本の山東出兵は当を得たものと思われるが、ただ兵数少なきに失し、出兵するならば最初より少なくとも一万五千ぐらいが必要であった、という旨を述べている[9]

ノース・チャイナ・デイリー・ニュースは「すべての感情偏見を捨てて熟慮したる吾人は挑戦者は支那側であり、彼らに多数の死傷者を生じ、北伐の前途危険に陥ったことは自業自得であると観察せざるを得ない。攻撃が蒋介石に反感を持つ馮玉祥側の陰謀に基因するか、または常に無規律にして給料不渡り数カ月に及び、済南占領で上気した南軍中の排日気分爆発であったか否か、いずれにせよ結果は同じである。南方がいかに巧妙に宣伝したとて世界は最近の支那の宣伝方法を知悉している」という論説を掲げた[3]

被害状況[編集]

日本側の参謀本部が編纂した『昭和三年支那事変出兵史』によれば、被害人員約400、被害見積額は当時の金額で35万9千円に達したという。日本人居留民の被害、死者12(男10、女2)、負傷後死亡した男性2、暴行侮辱を受けたもの30余、陵辱2、掠奪被害戸数136戸、被害人員約400、生活の根柢を覆されたもの約280、との記録が残っている。なお、日本軍の損害は、死者26名、負傷者157名。[10] 被害者の治療は同仁会 済南病院にて行われ、軍、警察、中国側の立会いの下に同病院内で検死が行われた。 [11]

日本人惨殺状況に関する外務省公電には、「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切り落としたるもの二」とある。なお、居留民の虐殺については、「(犠牲者の)多くがモヒ・ヘロインの密売者であり、惨殺は土民の手で行われたものと思われる節が多かった」(佐々木到一少将、「ある軍人の自伝」)との見方もある。ただし佐々木到一は1928年5月3日の事件当時、他の被害者同様に中国側の兵士、民衆に暴行を加えられた上略奪も受けており、所持していた総司令部の護照のおかげで殺されずに済んだことを当時の陸軍省軍務局長 阿部信行宛の報告書「被害状況に関する件報告」(昭和3年5月8日 陸軍省歩兵中佐 佐々木到一)にて述べている。[12]

中国側の資料によれば、中国側の被害は、軍・民あわせて、死者は「中国側済南事件調査代表団」の報告では「約3,000人」、「済南惨案被害者家族連合会」の調査では「6,123人」。負傷者数は「中国側済南事件調査代表団」では「1,450名」、「済南惨案被害者家族連合会」では「1,701名」とされている。

虐殺された日本人の遺体が済南病院で検死されている写真が、中国の新華出版社から出された『日本侵華図片史料集』や吉林省博物館に、731部隊が中国人に細菌人体実験をしている写真として掲載され、そのイラストが中学生用の歴史教科書にも掲載された。同様の写真は『朝日ジャーナル』(昭和59年11月2日号)の「東京裁判への道」(粟屋憲太郎)にも、日本軍が進めた細菌による人体実験の一場面として掲載された。また、平成4年11月21日夜10時からテレビ朝日が報じた「戦争とはかくも非人間的な行為を生むものか」と題した番組では、元軍医と元衛生兵が、吉林省博物館に掲げてある「七三一部隊細菌戦人体実験」(実際は、済南事件で虐殺された日本人の遺体が済南病院で検死されている写真)にひたすら謝罪した[13]

事件の影響[編集]

5月4日午前、日本は緊急閣議を開いて、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を決定した。5月8日午後の閣議において、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認し、5月9日第3師団の山東派遣が命じられた(第三次山東出兵)。5月7日の時点で、南軍は済南を包囲し、千仏山の山砲は砲口を日本軍に向けて戦闘準備中で、また済南城内でも戦闘準備中であった。日本軍は10分の1程度の兵力であり、居留民保護どころか、軍自体が危うかっただろう。蒋介石は5月6日午前、ひそかに済南城を脱出した[4]

5月5日、南軍のために惨殺凌辱され埋葬隠匿された日本人同胞の死体が発見されると、軍民は激昂し、積極的膺懲論が台頭した。済南派遣軍は、参謀本部の指示のもとに5月7日午後4時、12時間の期限付きで、暴虐行為に関係ある高級武官の処刑、日本軍の面前において日本軍に抗争した軍隊の武装解除、一切の排日的宣伝の厳禁、南軍は済南及び膠済鉄道両側沿線12キロ以外の地に隔離、を要求したが、先方が事実上これを拒否したため、日本軍は済南周囲を掃討し、済南城を砲撃した。5月9日午前7時に蒋介石は、第40軍長賀耀祖の罷免および済南への不駐兵などの譲歩を提案したが、済南城内の蘇宗轍軍は武装解除に応じなかった。9日夜半から10日にかけ、南部内城壁の歴山門への砲撃のほか、済南城北西部を中心にかなり激しい戦闘が行われた。砲撃は司令部と城壁に限定し、安全地帯と避難路を指定したため、南軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し、11日、日本軍は抵抗なく済南城を占領した[14]

5月11日午前11時、南軍総参議何成濬が蒋介石の代表として来て、日本の要求に対し、次のように回答した。

  • 第40軍長賀耀祖は既に免職せり
  • 済南周囲および膠済鉄道沿線二十支里(約11.5キロ)以内には、我軍しばらく駐兵せず。済南城の秩序は巡警によって維持す。現に城内にある軍隊撤退の場合には安全に通過し得しめられたし。
  • 本軍治下の各地は日支両国親善のために明らかに排日宣伝の禁止を令し、確実に取締りあり
  • 辛庄、張家庄の部隊は既に北伐に向かえり。該方面にはしばらく駐兵せず。
  • さきに貴軍のため抑留せられし将卒および押収せられたる兵器を還付せられたし
  • 8日貴軍は我軍を襲撃す。両国の親睦および東亜の平和を維持するため、すぐに軍事行動を停止せられんことを請う

福田第6師団長は、回答の内容に満足できない点がある上、委任状を携えていないので、正式な回答はできない、という旨を返答した。

その後軍事当局間の交渉から、外交交渉を経て、1929年3月28日、日本軍は山東から撤退すること、双方の損害は共同で調査委員会を組織して改めて調査すること、を骨子とした協定が締結された。中国国内からは、外交官殺害事件が不問に付されたこと、損害賠償も事実上棚上げとなったことから、この協定への非難の声も聞かれ、反日機運が一層高まる一つの契機となった。

世界は日本を支持した。英紙デイリー・テレグラフは「中国人は掠奪と殺人を天与の権利であるかの如く暴行を繰り返している」、「日本人の忍耐にも限度がある」、日本軍の行動を「正当防衛」と論じた。仏紙ル・タンは「日本の行動は居留民保護に過ぎず、何ら政治干渉の意味はない。日本の自衛行動に憤慨するのは理由のないことだ」と報じた。京津タイムスは「日本軍がいなければ済南外人はことごとく殺戮されたに違いなく、この点大いに日本軍に感謝すべきだ。日本軍は山東省を保障占領して惨劇の再発を防止すべし」と論じた。ノース・チャイナ・デイリー・ニュースは「要するに今回の事件は全くその責任は支那南軍側にあること、公平なる第三者全部の観察である」と述べた。またアメリカの大部分の新聞も親日的論調で報じた。青島の米国領事は「去年と同じように、日本軍の到着は一般に安心感を与えており、中国側は型通りの抗議はしたが、上流階級のものはひそかに日本軍を歓迎している」と報告した。済南のプライス米国領事は、中国軍の不規律が事故を招いたものとし、日本軍の5月7日の最後通牒も、外国租界のすぐ周辺に中国軍のいたことから、むしろ正当なものであったと考えていた[14]

藤田栄介青島総領事は事件後の5月13日に、「5月1日から2日午後にかけて、約5、6万の南軍が済南に到着し、商埠地と城内の各地に分営していた。北軍が退却するや南軍の便衣隊が現れたので、居留民をわが軍の警備区域に移し警戒した。蒋介石は2日、南軍が治安維持に責任を持つので日本軍は撤退し、警戒区域の設置は必要なく、防御物も撤去するよう、要求してきたので、蒋介石の声明を信頼して軍の防御施設を撤去した。それにもかかわらず翌3日、居留民家屋に南軍兵士が侵入してきたので、これを制止しようとするや却って発砲した。何人が事件の端を開いたかは極めて明瞭であり、責任は全部南軍にある。しかもこの衝突が最初から組織的に計画されていたことは、①略奪とほとんど同時に商埠地各所で一斉に銃声が起こり、たちまち大混乱の巷と化した事実、②彼らが手榴弾を所持していたこと、③掠奪されたのがことごとく日本人家屋であって支那人はほとんどその厄にあわなかったこと、などから推して、最初から日本人を目標としたことは疑いない。わが軍の砲撃は支那人家屋に何ら被害を与えなかったので、商民らは日本軍の砲撃の正確なるによって被害のなかったことに感謝している」ということなどを語った[14]

外交官殺害[編集]

済南領事館が事件に直接関係した歩兵第47連隊第6中隊の木場大尉より聴取したところによると、「3日朝の衝突で歩兵第47連隊第6中隊が交渉公署建物の前に散開して敵に応戦中、同建物三階より狙撃され、日本兵2名が死亡したため、応射し、敵の射撃を沈黙させた。午後7時過ぎ、敵の残兵掃討のため木場大尉が第二小隊を指揮して交渉公署建物を捜索中、突然地下室に潜伏していた便衣隊らしき者から射撃をうけたため、直ちに突入、全員十六名を射殺あるいは刺殺した。虐殺は絶対に否認し、かかる行為をなす暇もなく、また銃剣は耳鼻を削ぐには不適当にしてほとんど不可能である、ということである。同建物三階には、小銃・軍刀及び小銃弾二百発、地下室には軍帽15、軍服20、内空薬莢などが散乱していた。蔡公時の交渉員任命については日本側に正式通知はなかった。支那側は、たまたま同建物が一時的に交渉公署に当てられていたこと、交渉員の蔡が文官であったことを唯一の材料として事件を、日本軍は済南交渉公署を襲い、新任の交渉員・蔡公時ら十六人を耳鼻などを銃剣で切り落として虐殺した、「外交官虐殺事件」として喧伝した」[14]としている。

脚注[編集]

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  1. ^ 岩崎芳夫「日本人として誇りを持って生きろ」(自由主義史観研究会)
  2. ^ 服部龍二編『満州事変と重光駐華公使報告書』
  3. ^ a b 高倉徹一『田中義一伝』
  4. ^ a b c d e f g 井星英「昭和初年における山東出兵の問題点」
  5. ^ 第一期(戦況著しく切迫し人心動揺甚だしきに至りたる時)と第二期(動乱暴動の徴ある時)の二段階の状況を想定し、商埠地を警備区域、歩哨戦、複郭に区分し、第一期にあっては商埠地域外居住の男子を警備区域内に移動させ、老幼婦女病者を総領事館、民団、学校、済南病院の「複郭」に収容、第二期にあっては居留民全員を総領事館以下に庚申倶楽部を加えた「複郭」に収容するというもの
  6. ^ a b c 宮田昌明「再考・済南事件」
  7. ^ http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/senzen_02.html
  8. ^ 服部龍二「済南事件の経緯と原因」『軍事史学』34(2),1998年9月
  9. ^ 昭和3、六ニニ七、暗、北京発、五月二十一日午前本省着、芳沢公使発、田中外務大臣宛、第七〇〇号ノ一(済南事件/各国ノ態度)アジア歴史資料センター所管http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02030107700?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2006092115012227553&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&
  10. ^ 日本軍の兵士の死亡状況・死因及び兵士の情報:http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C07090570000?IS_KIND=SimpleSummary&IS_KEY_S1=%E6%B8%88%E5%8D%97%E7%97%85%E9%99%A2&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InfoD&
  11. ^ 済南事件/排日及排貨関係 第一巻(P18)(青島新報/外務省外交史料館) http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02030045600?IS_LGC_S35=AND&IS_STYLE=default&IS_TAG_S35=InfoFolder&IS_LGC_S12=AND&IS_KEY_A1=%EF%BC%92 %E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%93%E5%B9%B4%EF%BC%95%E6%9C%88%EF%BC%94%E6%97%A5%E3%81%8B%E3%82%89%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%93%E5%B9%B4%EF%BC%95%E6%9C%88%EF%BC%91%EF%BC%95%E6%97%A5&IS_TAG_A1=InfoD&IS_TAG_S12=InfoFolder&IS_KIND=SimpleSummary&IS_KEY_S12=F2006090409372591601&
  12. ^ 済南事件に対する支那新聞の論評報告の件(P55)(防衛省防衛研究所) http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C07090553400?IS_KIND=MetaSummary&IS_TAG_S32=&IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=%E6%B8%88%E5%8D%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6&IS_TAG_S1=InfoD&IS_LGC_S32=&
  13. ^ 原正壽『動向』1999年10月「「済南事件」邦人被害者の写真(イラスト)を七三一部隊細菌戦人体実験として宣伝する「中国教科書」」
  14. ^ a b c d 中村粲『大東亜戦争への道』

関連文献[編集]

単行本[編集]

論文・記事[編集]

  • 井星英「昭和初年における山東出兵の問題点」(1)-(4)『芸林』昭和54年9月号、12月号、昭和55年3月号、6月号
  • 邵建国「済南事件の再検討」『九州史学(九州大学)』93号(1988年9月)、59-81頁
  • 重光葵「済南事件解決」『中国研究月報』42巻10号(通号488号、1988年10月)、中国研究所、41-46頁
  • 邵建国「『済南事件』交渉と蒋介石」日本国際政治学会編『国際政治』104号(1993年10月)、168-182頁
  • 服部龍二「済南事件の経緯と原因」軍事史学会編『軍事史学』134号(1998年9月)、19-30頁
  • 富永正三「済南事件の歴史的意義」『季刊中帰連』10号(1999年9月)、15-21頁
  • 馬節松(山辺悠喜子訳)「『五・三惨案(済南事件)』を語る」『季刊中帰連』10号(1999年9月)、22-27頁
  • 李家振(山辺悠喜子訳)「済南惨案の再検証、『済南惨案』の七〇周年に際して」『季刊中帰連』10号(1999年9月)、28-35頁
  • 邵建国「『済南事件』をめぐる中日外交交渉」『名古屋商科大学商学部論集』第44巻第2号(2000年3月)、145-156頁
  • 高文勝「済南事件の解決交渉と王正延」『情報文化研究(名古屋大学)』第16号(2002年10月)、163-188頁
  • 宮田昌明「再考・済南事件」『軍事史学』2006年9月、98-117頁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]