麻山事件

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麻山事件(まさんじけん)は、太平洋戦争末期の1945年昭和20年)8月12日満州国鶏寧県麻生区(現中華人民共和国黒龍江省鶏西市麻山区)において、日本の哈達河開拓団が避難中にソ連軍満州国軍反乱兵によって攻撃されて集団自決した事件である。421人が死亡した。

事件経過[編集]

ソ連対日参戦時、満州国の東安省鶏寧県には約5000人の日本の民間人が在留しており[1]、うち哈達河(ハタホ・こうたつが)には満蒙開拓団の開拓民1300人が入植していた[2]根こそぎ動員により1300人のうち成年男子の多くは徴兵され、残留者は女性・子供・高齢者が中心だった。満州国東部国境の防衛を担当する日本の第5軍は、人口20万人(日系6万人)が集まる中心都市牡丹江市の防衛を重視し、主力を国境から80kmも後方に配置していた[3]

1945年(昭和20年)8月9日にソ連軍の奇襲攻撃が開始され、東部国境地帯にはソ連の第1極東戦線に属する優勢な機械化部隊が押し寄せた。日本軍の前哨拠点の多くは全滅するまで抗戦したが、たちまち突破された。開拓団などの日系住民の避難も9日から開始されたが、鉄道を利用できたものは一部で、多くは徒歩での移動となった[1]。哈達河開拓団主力の貝沼洋二団長以下約700人は、滴道に駐屯していた第126師団野砲兵第126連隊残留隊(指揮官:三島政道中尉)の約540人(朝鮮出身者80人を含む)の後を追う形で、林口県方向へ避難を開始した[1]

8月12日朝、哈達河開拓団と野砲兵第126連隊残留隊は、麻山付近に到達した。しかし、麻山は林口へ向けて進撃中のソ連第39狙撃師団(師団長:ヴェ・ア・セメノフ少将)と第75戦車旅団が通過中でたちまち日本側はソ連軍の攻撃を受けて猛烈な遭遇戦に陥った[4]。麻山では満州国軍第11軍管区の歩兵第28団(団は連隊に相当)が陣地構築中のはずだったが、開戦後の行動は不明であり、離散していたものと推定される[4]。野砲兵第126連隊残留隊は、保有する改造三八式野砲・10センチ榴弾砲各3門で応戦しつつ林口に向け撤退したが、隊列後方を中心に損害が続出した[4]

ソ連軍は、哈達河開拓団にも銃砲撃を加えた。開拓団は後方からもソ連戦車が接近中との情報を受け、もはや包囲された状態と判断した。退路は北方の山地しか無く、疲労して逃亡継続が不可能と考えた婦女子は貝沼団長とともに自決することにした[4]。わずかな男子団員が自衛用に携行していた銃により射殺することで「介錯」し、凄惨な集団自決が行われた[2]。男性団員の一部はソ連軍に対して夜襲をかけるなどしており[4]、麻山における自決・戦死による団員の死者は421人とされる[5]

ソ連側はこの麻山での戦闘について、待ち伏せしていた日本の第135師団(実際には林口から牡丹江に撤退中)の後衛部隊1個大隊と満州国軍の1個大隊を夜まで続く激戦の末に包囲殲滅したと記録しているが、開拓団に関する言及はない[4]。三島中尉以下の野砲兵第126連隊残留隊は、林口・七星駅を経て交戦しつつ横道河子方面へ転進した[6]

戦後[編集]

1950年(昭和25年)、国会参議院)の特別委員会で取り上げられ、国民の知るところとなった[7]1983年(昭和58年)には、本事件を題材とした中村雪子の著作『麻山事件―満洲の野に婦女子四百余名自決す』(草思社)が大きな反響を呼んだ[2]

脚注[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]