シンガポールの戦い

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シンガポールの戦い
Surrender Singapore.jpg
降伏交渉へ赴くアーサー・パーシヴァル中将の一行
戦争大東亜戦争 / 太平洋戦争
年月日:1942年1月31日から2月15日
場所シンガポール
結果:日本軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 イギリスの旗 イギリス
Flag of the Federated Malay States (1895 - 1946).svgイギリス領マラヤ
British Raj Red Ensign.svg イギリス領インド帝国
オーストラリアの旗 オーストラリア
指導者・指揮官
War flag of the Imperial Japanese Army.svg 山下奉文 Flag of the United Kingdom.svg アーサー・パーシヴァルWhite flag icon.svg
戦力
36,000 85,000
損害
戦死 1,715
戦傷 3,378
戦死 約5,000
捕虜 約80,000
南方作戦

シンガポールの戦い(シンガポールのたたかい、: Battle of Singapore)は、第二次世界大戦東南アジア戦域で、1942年2月7日から2月15日にかけて行われた戦闘である。2倍を超える兵力差を覆して、当時難攻不落と謳われたシンガポール要塞を日本が10日足らずで攻略した結果、英国が率いる軍としては歴史上最大規模の将兵が降参した。ウィンストン・チャーチル英国首相は自書で「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と評している。[1]

背景[編集]

1941年12月に、大日本帝国陸軍第25軍マレー半島に上陸した時、英領インド軍第3軍団(オーストラリア第27旅団および幾つかの英本国軍大隊を含む)がこれに立ち向かった。北部マレー半島で日本軍は数的には僅に優勢であるにすぎなかったが、制空権・戦車・歩兵戦術・戦闘経験において優越していた。

日本軍に航空優勢をとられたため、連合軍は切り札として期待していたイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを出撃させたが、大日本帝国海軍の陸攻隊に撃沈されてしまった(マレー沖海戦)。日本軍は難攻不落の要塞と考えられていたシンガポール島にむけ、マレー半島を着実に進撃した。シンガポールは第二次世界大戦における連合軍初の合同司令部である、アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア連合司令部(ABADACOM)の結節点であった。

1月31日、最後の連合軍部隊がマレー半島から撤退し、工兵隊がジョホール・バルとシンガポールを結ぶジョホール・シンガポール・コーズウェイを爆破して約20mの穴をあけた。しかし、その直後には日本軍の襲撃部隊や浸透部隊がゴムボートを用いてジョホール海峡を渡り始めていた。

作戦準備[編集]

連合軍司令官のアーサー・パーシヴァル中将の指揮下には、(書類上では)4個師団強に相当する8万5千の兵力があった。うち約7万人の戦闘部隊は38個歩兵大隊(英印軍17個大隊、英本国軍13個大隊、オーストラリア軍6個大隊、マレー人・シンガポール人の2個大隊)と3個機関銃大隊に編成されていた。新着のイギリス軍第18師団(師団長M.ベックワース=スミス少将)は、完全編成部隊ではあったが、戦闘経験と適切な訓練を欠いていた。その他の部隊のほとんどはマレー半島での損害から回復する時間はなく、定数を割り込んだ状態であった。現地人大隊はやはり戦闘経験が無く、いくつかの部隊は戦闘訓練すら未了であった。

パーシヴァルはG.ベネット少将指揮下の第8オーストラリア師団から抽出した2個旅団に西地区防衛の任務を与えた。この地域には主要な侵攻が行われたシンガポール島の北西部が含まれていた。この地域の主な地形は川や小川で区切られたマングローブが生い茂る湿地やジャングルであった。戦闘経験のない第22旅団は西側の約16kmの区域を担当し、第27旅団(マレー半島での後退戦でほぼ1個大隊の損害を受けていた)が北側の約3.6kmの区域を守った。到着したばかりのオーストラリア第2/4機関銃連隊が歩兵の支援にあたった。また、第44インド旅団がベネット少将の指揮下におかれた。

サー・ルイス・ハート中将指揮下の第3インド軍団は、第11インド師団(師団長B.W.ケイ少将)、第18師団、第15インド歩兵旅団からなり、北地区の防衛を担当した。市街地の主要部を含む南東部のシンガポール要塞はF.K.シモンズ少将が指揮した。シモンズ少将の指揮下には、書類上では18個大隊があり、その中には第1マレー歩兵旅団、海峡植民地義勇兵旅団、第12インド歩兵旅団が含まれていた。

第25軍司令官 山下奉文中将とその参謀たちは、航空偵察・地上偵察・侵入偵察、海峡近くの制瞰高地(たとえばジョホール・スルタンの宮殿)を占領したことなどから、連合軍の配置に関する情報は十分に得ていた。2月3日に日本軍の準備砲撃が始まった。英国空軍が10機のホーカー ハリケーン戦闘機を増派したが、この後5日間、日本軍の爆撃が強化されることを阻止することはできなかった。砲爆撃の激しさは第1次世界大戦での恐ろしい砲撃に比較されたほどであった。この準備攻撃によって連合軍部隊と上級司令部との連絡が混乱した。また防衛準備の行動も影響を受けた。連合軍には爆撃機戦力がなく砲兵戦力も不足していたため、この日本軍の攻撃に反撃することはできなかった。

シンガポールの名高い大口径要塞砲は-そのうちには3門の15インチ砲をもつ1個砲兵中隊と15インチ砲2門をもつ別の1個中隊が含まれていた-が南の海峡に向けて配置されていたため、北・西のマレー半島側から侵攻してきた日本軍に射撃できなかったという伝説があるが、これは誤りである。要塞砲は北に向けられ、侵攻軍に対して射撃を行ったが、これらの要塞砲の砲弾には対人殺傷効率の高い榴弾が配備されていなかったため対艦砲撃用の徹甲弾によって砲撃を行わざるを得ず、砲撃の効果は少なかった。

山下中将の指揮下には、近衛師団(師団長・西村琢磨中将)、第5師団(師団長・松井太久郎中将)、第18師団(師団長・牟田口廉也中将)の3個師団からなる3万強の戦闘部隊があった。また、近衛師団には軽戦車旅団が配属されていた。

戦闘経過[編集]

日本軍の侵攻[編集]

マレー半島とシンガポールをつないでいたジョホール・シンガポール・コーズウェイの爆破によって、日本軍の攻撃は1週間遅れることになったが、これによって侵攻が不可能となったわけではなかった。2月8日午後8時30分、オーストラリア機関銃兵が第5、第18師団のシンガポール侵攻第1波4000名の将兵を搭載した舟艇に砲火を開いた。 激しい戦闘が終日続いたが、次第に日本軍兵力の増加が、砲兵・航空戦力・情報での優越と相まって、物を言い始めた。北西部では、日本軍が薄く広がった連合軍の防衛戦のそこかしこに、まるでそのあたりのあちらこちらにある小川のように小さな裂け目をうがち始めた。真夜中までに、オーストラリア軍の2個旅団は互いに連絡することが出来なくなり、第22旅団は後退を強いられた。翌日の午前1時には日本軍の増援が北西地区に上陸し、オーストラリア軍は最後の予備隊を戦闘に投入した。

2月9日の夜明けまでに第22旅団の一部は蹂躙され、あるいは孤立したり降伏したりしていた。オーストラリア軍第2/18大隊は兵力の50%以上の損害を受けていた。パーシヴァル中将は北東地区で第2次上陸が行われるであろうと考え、苦戦している第22旅団を増援しなかった。日本軍の上陸作戦の重点は第44旅団が守る南西地区に移った。この日の残りには、西地区の連合軍部隊はさらに東への後退を強いられた。ベネット少将は第二次防衛線の構築を決意した。

北地区の第27旅団は2月9日午後10時の近衛師団の上陸まで戦闘にさらされていなかった。この上陸作戦は日本軍に不利なものとなった。日本軍はオーストラリア軍の迫撃砲と機関銃の射撃によってかなりの損害を受け、海水に流出させた重油への放火による重油戦術による損害のほか[2]、溺死者も発生した。少数の近衛兵たちが海岸に到達し、貧弱な海岸堡を確保した。

指揮通信上の問題と前線部隊へ適切に増援を送れなかったことから、連合軍の防衛戦にはさらに穴があいてしまった。致命的な錯誤が生じて、防衛戦に成功していたにもかかわらず、第27旅団は北地区中央のクランジから撤退してしまった。このため、連合軍は島の西部を通る重要なクランジ-ジュロン尾根の支配権を失ってしまった。

日本軍の突破[編集]

山下・パーシバル両司令官会見
シンガポール市街を行進する日本軍

クランジを占領したことで、近衛師団は戦車の揚陸と第18英本国師団を迂回して急速に南方へ前進することが可能となった。しかし日本軍戦車部隊は、シンガポール市街の中心部へ進出するチャンスをつかむことには失敗した。

2月11日、自軍の補給物資が危険なほど減少したことを知り、山下司令官はパーシヴァル中将に「無意味で絶望的な抵抗を中止するよう」呼びかけた。この時点で、日本軍の猛攻に耐えてきた第22旅団の戦力は数百名に低下しており、事実上全滅状態であった。日本軍はブキッ・ティマ地区を、連合軍の弾薬・燃料の貯蔵のほとんどとともに占領しており、またこの地区を占領したことで主要な水の供給源の支配権も得ていた。

翌日には連合軍は、島の南東部の狭い地域に防衛線を構築し、日本軍の総攻撃を撃退することが出来た。第1マレー歩兵旅団を含む他の部隊もすでに戦闘に参加していた。パシー・パンジャンの戦闘では、マレー人連隊はシンガポール人将校のアドナン・ビン・サイディ少尉の指揮下で激しい白兵戦を激しい損害にたえて戦い抜き、ラーラドーとケント・リッジを通過して前進しようとする日本軍を2日間食い止めた。しかし、2月13日には連合軍はさらに地歩を失い、上級司令部はパーシヴァルに非戦闘員の被害を最小限度に食い止めるため降伏するよう指示した。パーシヴァルは最初この指示に抵抗したが、結局上官の権威に屈した。

翌日も、残存する連合軍部隊は戦闘を続け、非戦闘員の被害は100万もの市民が避難していた連合軍が確保する地域が砲爆撃にさらされているため増加し続けた。市の幹部たちはまもなく水の供給が絶たれるのではないかと惧れ始めていた。2月15日の朝、日本軍は連合軍の最終防衛線を突破した。

米英による連合軍の食料と何種類かの弾薬は、既に底をつき始めていた。パーシヴァルは指揮下部隊の司令官たちと協議したあと日本軍と連絡し、午後5時15分を少しすぎたころフォード自動車工場において正式に山下司令官に降伏した(この時山下がパーシヴァルに「イエスかノーか」と迫ったというエピソードは有名である。山下は乃木将軍の水師営の会見のように穏やかにするつもりであったが、あまりにいろいろと言うので、ついこの言葉が出てしまったということである。)。

戦後に山下が戦犯として絞首刑に処せられる際、米軍はパーシヴァルを呼び寄せて死刑執行に立ち合わせている。

日本軍による占領政策[編集]

日本占領下のシンガポールは昭南島と改名され、日本によるシンガポール統治が始まった。その後シンガポールが戦禍に巻き込まれることもなかったため、軍政は大きな支障もなく進められ、官民を問わず多くの日本人がシンガポールに渡った。その後日本人向けの食堂や料亭も作られ、また日本軍はこれらの日本人のために昭南神社忠魂碑を建立した。

この後、蒋介石率いる中国軍やオーストラリアを経由したイギリス軍の支援を受けて日本軍に対するゲリラ活動を行っていた多数の中国系住民(華僑)が摘発された。犠牲者数については、日本側では約5000人とされることが多く、文部省社会科教科書では6000人とされていた。シンガポール側では許雲樵元南洋大学教授が作成した名簿では8600人余りとなっているが、シンガポール政府発表では数万人となっている(シンガポール華僑粛清事件[3][4]

陥落記念切手[編集]

シンガポール陥落記念切手(1942年発行)
元となった2銭切手

シンガポール陥落を予想していた日本の逓信省は、当時の2銭と4銭の普通切手(乃木希典東郷平八郎)に「シンガポール陥落」の文字と軍事費募金のための額面(寄附金付切手)の版を加えた印刷(既存切手の版に文字の版を加えた添刷で、印刷済みの切手に施すいわゆる加刷ではない)をした記念切手を陥落直後の1942年2月16日に発行した。この切手は2月11日の紀元節に作戦が成功することを前提に製造から郵便局への発送まで既に完了していたという。また同年3月1日に満州国は普通切手に加刷した記念切手を発行している。

影響[編集]

イギリス陸軍は敗北を喫し、シンガポールは陥落した。この戦いで、約8万人の英本国兵や英領インド兵や英領オーストラリア兵が捕虜となり、マレー半島の戦争で投降した5万人に加わった。

インド洋と太平洋を結ぶこの地はチョークポイントである。当時のイギリスは世界最大の植民地帝国であり、シンガポールはアジアにおいて「東洋のジブラルタル」と呼ばれていた。東洋艦隊に最新鋭の戦艦を派遣したことからこの地の重要性は理解できる。そして、この地から欧州の勢力が一掃されたという事実はアジアにおいて植民地時代の終焉に至る重大な出来事であった。

当時、自由フランス(フランス亡命政府軍)軍の指導者であったシャルル・ド・ゴールは、「シンガポールの陥落は、白人植民地主義の長い歴史の終わりを意味する」と述べた[要出典]。またこのシンガポール陥落また大英帝国戦艦のプリンス・オブ・ウェールズやレパルスが日本軍に撃沈された事はイギリスにとっては屈辱であるが、イギリス(イングランド)に長年のあいだ併合され、過酷な搾取を受けてきたアイルランドはこれを歓迎し、記念として扱っている。

このイギリス軍の敗北は、当時イギリスの植民地であった東南アジアの民衆を鼓舞した。そして、1945年に日本軍が連合国軍に敗北した後に、勝戦国であるヨーロッパの植民地宗主国軍()は再びこれらの地を支配しようと試みた。しかし第二次世界大戦で国力を失った西欧諸国の軍隊に、東南アジアの民衆は戦後の独立闘争で勝利し、植民地支配からの解放を勝ち取った。

シンガポールの戦いを扱った映画[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Churchill, Winston (1986). The Hinge of Fate, Volume 4
  2. ^ 立川京一 (2002年9月). “マレー・シンガポール作戦 -山下奉文を中心に- (PDF)”. 防衛研究所. 2011年11月23日閲覧。
  3. ^ 秦郁彦編『昭和史20の争点 日本人の常識』文藝春秋〈文春文庫〉、2006年8月、286頁。
  4. ^ シンガポールヘリテージソサエティ『シンガポール近い昔の話 1942~1945』 p111 ISBN 978-4-77-362100-6

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


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