昭南神社

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昭南神社
Shinto shrine in Shonan (Singapore) - 194210.jpg
完成間近の昭南神社
所在地 当時の昭南特別市マクリッチ水源地英語版
主祭神 天照大神
創建 1942年(昭和17年)11月
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昭南神社(しょうなんじんじゃ)とは、第二次世界大戦中にシンガポールを占領した日本軍が市内のマクリッチ水源地英語版内に建立した神社である。1942年11月に完成し、1945年8月の降服直後に日本軍によって破壊された。[1]

照南神社[編集]

1938年頃、シンガポール日本人会が、島の北部、市区から5.5マイル離れた永福虎所有のゴム園の中に「南神社」を建立した[2]。祭神は天照大神で、神官の永田氏が管理していた[2]

拡張計画[編集]

1942年2月に日本軍がシンガポールの戦いに勝利してシンガポールを占領し、シンガポールが「昭南島」と改称されると、シンガポールにおける住民の皇民化政策の一環として[要出典]神社を拡張する話が持ち上がった[2]ジョホールスルタン軍政監部財務部に5,000ドルの寄付をしたとされる[2]

造営[編集]

軍司令部は、マレー作戦で英軍が破壊した橋梁の復旧工事に携わった横山工兵連隊に昭南神社造営を命令した[3]

横山工兵連隊は、昭南島内の景勝地で伊勢神宮の地形に似た場所を物色してマクリッチ水源地英語版の西端を選定した[3]

工事は数か月間に渡って連合軍の捕虜2万人を使役して行われ、シンガポール・アイランド・クラブ・ゴルフ場オランダ語版のクラブハウスの横からコースを横切って参道が作られ、西から水源地に注ぐ小川を五十鈴川に見立てて、その上に朱塗りの太鼓橋が架けられ、橋の前後に鳥居が立てられ、玉砂利を敷き、橋を渡ったところから石段を造成、拝殿と神殿は日本から運んだ檜材を使い、総檜造りで建てられた[4]

遷宮祭[編集]

神社完成と同時に神社の管理は昭南特別市に移され、日本から中村宮司と本田神官が着任して遷宮式典の準備を行った[5]

1942年11月の佳日に昭南神社遷宮祭が行われ、大達市長が祭主となり、寺内南方軍総司令官以下が玉串奉奠、その後現地人各団体代表が礼拝した[5]

式典後、神社は一般に開放され、日本人のほか現地人の多くが訪れた[6]

参拝の強要[編集]

1943年1月20日、第25軍司令官・斎藤弥平太中将は、イスラム教徒であるスマトラスルタンを昭南に招待して昭南神社に参拝させた[6]

破壊[編集]

1945年8月18日第7方面軍司令官板垣征四郎大将から麾下の部隊長、軍政監部・市政庁の幹部に降伏が告げられると、翌日以降忠霊塔や昭南神社の爆破、破壊が行われた[7]

跡地[編集]

日本の降伏後、サイム路(Sime road)沿いあった連合国人の抑留所も解放されて、閉鎖されていたゴルフ場が再開された[6]ゴルフ場内の神社跡は荒れたまま放置されている[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ この記事の主な出典は、リー・ギョク・ボイ(2007) 102頁、許(1986) 230頁および篠崎(1976) 212-214頁。
  2. ^ a b c d 許(1986) 230頁
  3. ^ a b 篠崎(1976) 212頁
  4. ^ 篠崎(1976) 212-213頁
  5. ^ a b 篠崎(1976) 213頁
  6. ^ a b c 篠崎(1976) 214頁
  7. ^ 篠崎(1976)205頁。リー・ギョク・ボイ(2007) 102頁は解放軍によって取り壊された、としている。

参考文献[編集]

  • 許(1986): 許雲樵「5 昭南時代の新聞事業」許雲樵・蔡史君(原編)、田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986年5月、227-235頁。 :ISBN 4250860280
  • 篠崎(1976): 篠崎護『シンガポール占領秘録―戦争とその人間像』原書房、1976年。
  • リー・ギョク・ボイ(2007): リー・ギョク・ボイ(著)シンガポール・ヘリテージ・ソサイエティ(編)、越田稜(監訳)『日本のシンガポール占領-証言=「昭南島の3年半」』凱風社、2007年1月。 :ISBN 9784773631029