日本占領時期のシンガポール

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日本占領時期のシンガポール
昭南島
海峡植民地 1942年 - 1945年 イギリス領マラヤ
シンガポールの国旗 シンガポールの国章
日章旗菊花紋章
国歌: 君が代
シンガポールの位置
シンガポールの位置
公用語 日本語
言語 中国語
英語
マレー語
タミル語
宗教 国家神道
首都 シンガポール
天皇
1942年 - 1945年 昭和天皇
内閣総理大臣
1942年 - 1944年東條英機
1944年 - 1945年小磯國昭
変遷
太平洋戦争勃発 1941年12月8日
シンガポール駐留イギリス軍が日本軍に降伏1942年2月15日
シンガポール空襲1944年11月 - 1945年5月
大日本帝国の降伏1945年8月15日
現地日本軍が連合国に降伏1945年9月12日
イギリス植民地に復帰1946年4月1日
通貨大日本帝国政庁発行の軍票
(俗称:バナナ・マネー)
時間帯UTC +9
現在シンガポールの旗 シンガポール
イギリス軍の降伏
山下奉文(左から3番目)が
パーシヴァル(カメラに背を向け右から2番目)に面会している様子

日本占領時期のシンガポール(にほんせんりょうじきのシンガポール)では、第二次世界大戦中のシンガポールの戦い1942年2月15日)後のイギリス軍の降伏から、1945年9月12日の駐留日本軍の降伏までの期間における大日本帝国によるシンガポールの占領統治(植民地支配)について述べる。この期間、シンガポールは日本によって「昭南島(しょうなんとう)」と呼称された[1][2]

占領までの経緯[編集]

太平洋戦争勃発後、日本軍はイギリス領マラヤ全域を2ヶ月で攻め落とし(マレー作戦)、続いて東南アジアにおける連合国軍(アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア)の結節点であったシンガポールへ侵攻を開始した。難攻不落と謳われ大英帝国の一大拠点であったシンガポールを日本軍は10日足らずで攻略。約8万人のイギリス軍将兵や英領インド軍兵・オーストラリア軍将兵が日本軍の捕虜となり、シンガポールは大日本帝国の占領下に置かれた。

この事を当時のイギリス首相であったウィンストン・チャーチルは自書で「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と評した[3]

統治下のシンガポール[編集]

日本軍占領下のシンガポール要塞全図

基地[編集]

日本軍はイギリス連邦軍が廃棄したセレター軍港や航空基地などを再整備し、その後陸海軍が使用した。またインド洋における通商破壊戦に従事するドイツ海軍イタリア海軍との共同作戦を行うための基地も設けられ、遣独潜水艦作戦柳船封鎖突破船)の拠点もしくは中継地となったほか、イタリア海軍は昭南に潜水艦基地を設けるために工作船と海防艦を送り込んだ。

華僑の「粛清」[編集]

シンガポール占領後、占領を担当した第25軍司令部は、「抗日分子」の摘発・処刑のため、シンガポールの市街地を担当する昭南警備隊、シンガポール島のその他の地域を担当する近衛師団、マラヤ半島のジョホール州を担当する第18師団およびジョホール州以外のマラヤ全域を担当する第5師団に「抗日分子」の多いと見られた華僑の粛清を命じ、シンガポールを含むマレー半島各地で掃討作戦が行われることとなった。

日中間の戦争状態が拡大する中で、東南アジア各地では、日本軍施政圏下の抗日感情がたかまり、特にシンガポールの華僑は1938年10月の南僑総会の組織化に中心的な役割を果たし、1941年12月30日にはイギリス当局の要請もあって中華総商会を中心に星州華僑抗敵動員総会を発足させるなどしていたため、日本軍はシンガポールの華僑が抗日運動・対中国支援の中心になっていると見なしていた。

戦闘部隊は不祥事件の発生を警戒してシンガポール郊外に留められ、1942年2月16日に、市内の治安維持やイギリス軍の武装解除にあたるため、第2野戦憲兵隊がシンガポール市内に入った。同月17日、第5師団歩兵第9旅団長だった河村参郎少将が昭南警備隊の司令官に任命され、同警備隊には、第2野戦憲兵隊に加えて、第5師団から歩兵第11連隊第3大隊と歩兵第41連隊第1大隊が配属された。また軍参謀・林忠彦少佐が警備隊付とされた。

第25軍の山下奉文軍司令官は、河村少将に、軍の主力部隊を速やかに新作戦へ転用するため、日本側にとってのシンガポールの安全を乱し、軍の作戦を妨げる可能性のある華僑「抗日分子」を掃討することを指示した。作戦の詳細については軍参謀長・鈴木宗作中将、軍参謀・辻政信中佐から指示があり、掃討作戦の終了後は警備隊の兵員を別作戦に転用するので、作戦を同月23日までに終わらせること、選別対象は元義勇軍兵士、共産主義者、略奪者、武器を所持・隠匿している者および抗日分子となるおそれのある者とすること、掃討の方法として、中国人の住民を集めて抗日分子を選別、並行して疑わしい場所を捜索して隠れている者を拘束し、抗日分子は全て秘密裏に処刑することなどが伝えられた。また辻参謀が作戦の監督役とされた。

河村少将は、処刑すべき対象の選別が難しいと鈴木参謀長に相談し、先に入手していた中国人団体のメンバーリストをもとに選別を行うことにした。その後河村少将は第2野戦憲兵隊の大石隊長に指示を伝え、大石隊長が林忠彦参謀と相談して後述の警備隊命令を作成した。また憲兵は選別を担当することとし、処刑場所の選定や処刑方法は近衛師団の歩兵を憲兵の補助に充てた「補助憲兵」が担当することとした。

2月19日に山下軍司令官の名で「シンガポール在住の18-50歳の華僑は21日正午までに所定の場所に集合せよ」とする警備隊命令が布告された。

2月21日から23日にかけて、憲兵隊はシンガポールを5つの地区に分けて検問を行った。集合場所に集まってきた華僑を尋問し、選別された華僑をトラックに載せて海辺や山中に連行し、機銃掃射により殺害した。これらの日本軍による華僑殺害は、中国語で「検証(中国語: 大检证)」と呼ばれた。

殺害の対象となった「抗日分子」の選別は、事前に取り決めた名簿に照合する方法で厳密に行われていたわけではなく、辻参謀が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と指示を飛ばすなど、粛清する人数そのものが目的化されていたため、外見や人相からそれらしい人物を適当に選び出していた。このため、多数の無関係のシンガポール華僑が殺害された。

23日までに処刑された人数は今泉少将の法廷での証言では4-5千人、日記では約5千人とされている。同日時点では重要人物は引き続き留置取調べ中で処刑未了となっていたが、24日に開催された作戦会議で、掃討作戦はいったん終了したと報告された。

同月2月28日には近衛師団が抗日華僑の掃討作戦を行い、警備隊も抗日分子の逮捕に協力した(第2次粛清)。このとき殺害された人数は「非常に少ない人数」で、約300人だったとされている。

その後第3次の粛清が同年3月上旬に行われ、このときも約300人が殺害されたとされる。

なお、この事件のとき、シンガポール総日本領事館の篠崎護は、警備司令部特外高という立場を利用して、日本軍と戦前から関係あることを示す保護証を作成・発行して、多数の華人を摘発から免れさせた。戦後にシンガポールの中華総商会主席に就いた陳共存(K・C・TAN)も保護証で難を逃れたと述べている。

日本軍のシンガポール占領政策においては、華人を迫害する一方で、マレー人を土着民として優遇、インド人は将来の独立インドの担い手としてやや優遇するという扱いがとられ、これにより高まった民族間の対立感情が戦後社会に悪影響を及ぼしたとされる。

経済[編集]

日本軍占領下のシンガポール市内
戦時中に発行されたバナナマネー

イギリス統治時代にシンガポールの主な食糧及び資源供給地であったオーストラリアインド方面からの供給が不可能になった上に、日本海軍が周辺の制海権を手にしたものの、イギリス海軍オーストラリア海軍アメリカ海軍などの潜水艦による通商破壊戦が行われたことや、シンガポールに進出していた欧米企業の生活必需品や各種工業製品の工場の稼働が止まったこともあり、経済が混乱し生活必需品の値段がうなぎ登りになるハイパーインフレーションに陥った。

例として、の値段は100カティ(約60kg)につき5ドルほどであったが、のちには5,000ドルにもなった。日本軍は食券制度を導入して人々の食物入手量に制限をかけた。1ヵ月に一度、大人は4.8キログラム、子供は2.4キログラムの米を購入できたが、戦争が継続するにつれ大人の米の量は25パーセント削減された[4]

陥落前のイギリス当局、日本当局ともに、住民に対してわずかでも土地を持っていれば農耕による自給自足を推奨した。この農耕推奨は戦時中のイギリスで実施されたヴィクトリーガーデンと似たものである[5]。食品の品質は急激に落ち、サツマイモヤムイモは米より安く、庭のでもよく育ったため、これらが米に代わって食卓に並んだ。ヤムイモやサツマイモからは様々な料理・デザートが作られ、1日3食全てを担った。これらイモ類の栄養分は飢餓の減少に一役を買い、単調さを和らげるためにタピオカをその他の作物と組み合わせて食する新たな方法がいくつも発明された。

またドル札が不足したため、日本政庁は新たに昭南で流通するドル札(俗称「バナナマネー」)を発行し、計画経済を実行して資源の需要と供給を制限した。これにより闇市が流行する。「バナナマネー」の効果は薄く、増刷する時期が不適当であったことや、闇市ではドル札が主流であったことから極度のインフレーションと通貨価値の暴落を引き起こした。

1942年2月15日に「ラッフルズ・ホテル」は日本軍に接収され、陸軍将校の宿泊施設となった。ホテル名は「昭南旅館」に変更させられ、メイドの制服も和服になったほか、各種サービスが和風に改められた。

教育[編集]

日本軍は、日本語で現地住民を教育するために昭南日本学園を設立した。Faye Yuan Kleemanは、自著『Under an Imperial Sun: Japanese Colonial Literature of Taiwan and the South』の中で「この学校は南アジアで最も成功した」と綴っている[6]。また、日本軍は「昭南第一日本人学校」を設立した[7](現・シンガポール日本人学校)。

連合軍の反撃[編集]

昭南港爆破事件における作戦成功を祝うイバン・ライアン英語版(中央)とその他Z特殊部隊のメンバー達

日本軍政下となった昭南は、連合軍による数多の作戦の標的となり、1943年9月26日にはイバン・ライアン英語版率いる奇襲部隊・Z特殊部隊英語版シンガポール湾に侵攻し、7隻の日本の船舶を撃沈し、その総重量は39,000トンに及んだ(ジェイウィック作戦)。ライアンは他の作戦も指揮しており、リマウ作戦では足掛け1年にわたって3隻の日本船を撃沈した。しかし、彼はのちに13人の仲間と共に捕えられて殺害され、その他の作戦に参加した10人は日本軍の秘密裁判に掛けられ処刑された。

またイギリス軍は、マレー半島全域に至る地域の諜報網を敷いて、日本軍が持つ連合軍の情報を探るために、136部隊英語版という秘密組織をカルカッタに組織した[8]。しかしながら白人コーカソイドがマラヤの民衆に混じって作戦を遂行することは難しいので、潜入部隊のリーダーとして、当時重慶にいたマラヤ系中国人の林謀盛英語版(リム・ボー・セン)がリクルートされた[8]。林は同様に中国大陸にいたマラヤ系中国人から人員を募り、陳崇智英語版らの同志を得た[8]。彼らは皆、国民党の政治組織の一員であり、無線通信技術や情報収集の訓練を受けていた[8]。潜入部隊はイギリス領のセイロンから、日本軍のオランダ領東インド攻撃から逃げることができたオランダの潜水艦に乗り、1943年5月23日にペラ沿岸のパンコール島に上陸した[8]。この潜入部隊は「グスタフス[注釈 1]」というコードネームで呼ばれた[8]。彼らはその後、ペラを中心に活動し、サボタージュにより経済活動を停滞させ、反日感情を巻き起こすといった作戦を実行に移した[8]。また、共産主義系のマラヤ人民反日軍との接触も果たした[8]。グスタフスは1944年3月まで、表向きはまっとうな商売を営んでいるように見せかけて、実際は諜報を行う地下組織を確立していた[8]

しかし、組織の一員が日本の潜水艦をうっかり友軍と誤認したことから計画が露見した[8]。仲間の裏切りだったという説もある[9]。林謀盛と陳崇智を含む組織のメンバーは逮捕され、イポー近くのバトゥ・ガジャ英語版刑務所へ連行された[8]。戦後、陳崇智が語ったところによれば、林謀盛は憲兵隊に協力するよう強いられたが拒絶したという[9]。そして、食事に配られたサツマイモを逮捕されている仲間に与えるよう見張り番に頼み、絶食した[9]赤痢に罹患したが治療を拒み[9]、6月29日に死亡したという。陳崇智が1995年に公刊した回顧録に依拠する文献では、林謀盛、陳崇智らは赤痢に罹患すると、林謀盛が死亡するまで適切な治療や食事が与えられなかったとしている[10]。136部隊は戦後解体された。解体前の最後の任務は、かつての盟友だったマラヤ人民反日軍の武装解除であった[8]

1945年8月には、イギリス海軍から2隻のX艇が「ストラグル作戦」に参加した(セレター港の日本海軍基地への攻撃、日本の巡洋艦の「高雄」と「妙高」をリムペットマインを用いて破壊することを目的としていた)。だが「巡洋艦高雄」の損害は幅3m、長さ8mの亀裂が生じ、下部電信室に浸水と、損害は軽微だった。 この功績を称えてイアン・エドワード・フレイザー英語版にはヴィクトリア十字章が授与された。1944年11月から1945年5月にかけてはイギリスとアメリカの連合軍が小規模な空爆を行った。

占領の終焉[編集]

1945年9月12日、降伏式を終えて市庁舎を後にする日本代表団
1945年9月5日、英軍の帰還を歓迎するシンガポール市民

1945年8月15日に日本は連合国軍に対して降伏し、昭南の日本軍も9月12日市役所(シティホール)にて降伏文書に調印しここに日本軍による南方統治は終焉を迎えた。これを受けて、日本軍統治下の「昭南」という呼称から「シンガポール」に呼称が戻り、パダンでは戦勝記念のパレードが行われた。

イギリス王族で東南方の総指揮官のルイス・マウントバッテンがシンガポールを訪れ、寺内寿一に代わって板垣征四郎から正式に降伏申請を受理した。

しかし、イギリス本土が戦争によって大きな被害を受け、インドでは独立運動が活発化したことからシンガポールに正規軍や警察を送る余裕が無かったために、日英間の協定により1946年3月頃までは降伏した日本兵を治安維持部隊として駐留させることになった。

戦後[編集]

戦後のシンガポール[編集]

戦後もイギリスによる植民地支配は継続することとなり、長年の念願であった独立への道は再び閉ざされてしまうこととなった。しかし、長年の植民地支配に対する地元住民の反感は強く、その後も独立運動が続くことになった。第二次世界大戦によって大きなダメージを受けたイギリスには、本国から遠く離れた植民地の独立運動を抑え込む余力はもう残っておらず、 1957年にはマラヤ連邦が独立。その後の1959年6月にシンガポールはイギリスの自治領となり、1963年にマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともに、マレーシア連邦を結成する。しかし、マレー人優遇政策を採ろうとするマレーシア中央政府と、イギリス植民地時代に流入した華人が人口の大半を占め、マレー人と華人の平等政策を進めようとするシンガポールとの間で軋轢が激化。1964年7月21日にはマレー系住民への優遇政策を求めるマレー系のデモ隊と中国系住民が衝突したシンガポール暴動が発生。さらに、1963年の選挙において、マレーシア政府与党の統一マレー国民組織(UMNO)とシンガポールの人民行動党(PAP)の間で、相互の地盤を奪い合う選挙戦が展開されていたことにより、関係が悪化。マレーシア政府は両者の融和は不可能と判断し、1965年8月9日にマレーシア連邦から分離される形で都市国家・シンガポール共和国として独立した。

占領統治の記憶[編集]

日本軍占領の記憶と教訓を後世に伝えるため、シンガポール政府はいくつかの記念碑を建立した。その一部は虐殺の跡地に建立されている。

民間人戦没者慰霊碑

シンガポール華僑商工会議所の主導で運営されている民間人戦争記念館は、ビーチロードの戦争記念公園に位置している。4本の白いコンクリート柱からなる高さ61メートルのこの記念碑は、あらゆる人種の民間人の死者を追悼するものである。1960年代初頭の都市再開発ブームで、シンガポール各地から数千の遺骨が発見されたことを受けて建てられた。日本占領開始25周年となる1967年に、シンガポール初代首相リー・クアンユーによって除幕された。1966年10月に日本政府が支払った「血の負債」補償金5000万シンガポールドルの一部で建設された。 除幕式でリーは次のように述べている。

私たちは、歴史の火種となった不幸な犠牲者である男女を思い出すために集まりました。もし今日、私たちが過去の教訓を思い出し、私たちの未来をより確かなものにするための決意と決断を強めるならば、私たちが追悼するこれらの男女は決して無駄死にではなかったでしょう

毎年2月15日には、記念館で追悼式(一般公開)が行われる。

粛清センター記念碑

この碑のある場所は、チャイナタウンのホンリム・コンプレックス内にある。記念碑の碑文にはこうある。

この場所は、日本憲兵隊が「反日」中国人を選別するための臨時登録センターの一つであった。

シンガポール降伏の3日後の1942年2月18日、憲兵隊は「粛清」と名付けた作戦で「反日分子」の粛清を1ヶ月にわたって行った。18歳から50歳までのすべての華僑男性、そして場合によっては女性や子供も、憲兵隊による尋問と身分証明のために、これらの臨時登録センターに出頭するよう命じられた。

この審査に合格した者は、顔や腕や服に「審査済み」のスタンプを押されて釈放された。そうでない者は、シンガポールの辺境に連れて行かれ、反日活動をした罪で処刑された。何万人もの人々が命を落としたと推定される。

虐殺を生き延びた人々にとって、粛清は日本占領下での最悪の思い出の一つとなっている。

チャンギビーチ大虐殺記念碑

この碑のある場所は、シンガポール東部のチャンギビーチ公園である。記念碑の碑文はこうである。

1942年2月20日、このチャンギビーチの水際で日本軍の補助憲兵の発砲により66名の男性市民が殺害された。彼らは、1942年2月18日から3月4日にかけて、シンガポールの中国系住民の中から反日市民と疑われる者を粛清する日本軍の粛清作戦で命を落とした数万人の中の一人だった。数百メートル南にあるタナメラベサールビーチ(現在はシンガポール・チャンギ空港の滑走路の一部)は、最も頻繁に使われた殺害場所の一つで、千人を超える中国人と若者が命を落とした。

占領統治への評価[編集]

シンガポールにおける日本の占領統治に対する評価は総じて「シンガポールの暗黒時代」と評される。リー・シェンロン首相は戦争記念館の開館に合わせたコメントで以下のように述べている。

1942年2月15日、75年前の今日、ブキティマにある旧フォード工場で、イギリス軍は日本侵略軍にシンガポールを引き渡しました。それから、日本統治下で、シンガポールは昭南「南の光」と名前が代わり、恐怖と苦難と苦痛の3年半が訪れたのです。(中略)日本統治での恐怖と凶暴さ、我々の祖先の苦痛と勇気を、記録しています。シンガポールが自由だけでなく名前も失うとは何を意味するのかを、記録は物語っている。こんなことを二度と起こさないようにせねばなりません[11]

シンガポールでは、イギリスが日本に降伏した2月15日は「総国防日(トータル・ディフェンス・デー、Total defense day)として国防への意識啓発の記念日としている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 語源は北欧神話にあり、神の手足となって働く者を意味する。

出典[編集]

  1. ^ Abshire, Jean (2011). The History of Singapore. ABC-CLIO. p. 104. ISBN 031337743X. https://books.google.com/books?id=AHF59oExO80C&lpg=PA83&pg=PA104#v=onepage&q&f=false 
  2. ^ Blackburn, Kevin; Hack, Karl (2004). Did Singapore Have to Fall?: Churchill and the Impregnable Fortress. Routledge. p. 132. ISBN 0203404408. https://books.google.com/books?id=TUC2qveu-b8C&lpg=PA132&pg=PA132#v=onepage&q&f=false 
  3. ^ Churchill, Winston (1986). The Hinge of Fate, Volume 4 
  4. ^ Japanese Occupation”. AsiaOne. 2006年5月1日閲覧。
  5. ^ Hungry years”. AsiaOne. 2006年5月1日閲覧。
  6. ^ Kleeman, Faye Yuan. Under an ImSun: Japanese Colonial Literature of Taiwan and the South. University of Hawaii Press, 2003. p. [books.google.com/books?id=CFEyQWoNSJ8C&pg=PA43 43]. ISBN 0824825926, 9780824825928. "The most successful was the Japanese school in Singapore. A month after the British surrendered (February 15, 1942), Japan renamed the island Shonan (literally "illuminating the south") and founded the famous Shonan Japanese School (Sh?nan Nihon Gakuen 昭南日本学園)"
  7. ^ "A BRIEF HISTORY." (Archive) The Japanese School Singapore. Retrieved on 2 January 2014.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l Alex Chow (2014年8月1日). “Force 136”. Singapore National Library. 2015年11月26日閲覧。
  9. ^ a b c d LIM BO SENG - MY HERO, MY FRIEND”. 2015年11月26日閲覧。
  10. ^ Guay Ee Ling (2014年). “Tan Chong Tee”. Singapore National Library. 2015年11月26日閲覧。
  11. ^ 太平洋戦争時の日本占領名"昭南"を戦争記念館に拒否したシンガポール国民”. ハフィントンポスト. 2022年8月16日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]