八紘一宇

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八紘一宇(はっこういちう)、または八紘為宇[1]とは「天下を一つののようにすること」[2]、「全世界を一つの家にすること」を意味する語句であり[3]、「天皇総帝論」、「唯一の思想的原動力」等ともいう[4]。『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家のようにすると解釈したもの[5]

概要[編集]

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、『大辞泉』、『大辞林』は、「八紘一宇」とは第二次世界大戦中、日本中国東南アジアへの侵略を正当化するスローガンとして用いられたと記す[6][7][8]。一方でこの語については侵略思想を示すものではなく人道の普遍的思想を示すものにすぎないとの論[9]、「『平和のためにつくった』ことにすることで、日本が侵略戦争に積極的だったという事実から逃げている」という論[10]反知性主義的な言葉だという論もある[11]。『日本書紀』には、大和橿原を定めた時の神武天皇詔勅に「兼六合以開都,掩八紘而為宇」(六合〈くにのうち〉を兼ねてもって都を開き、八紘〈あめのした〉をおおいて宇〈いえ〉となす)との記述があり、これをもとに田中智学が日本的な世界統一の原理として1903年明治36年)に造語したとされる[6]

このように、日本書紀の記述は「八紘為宇(掩八紘而為宇)」であるが、1940年昭和15年)8月に、第二次近衛内閣基本国策要綱大東亜新秩序を掲げた際


、「皇国国是八紘一宇とする肇国(ちょうこく。建国)の大精神に基」づくと述べ[1]、これが「八紘一宇」の文字が公式に使われた最初となった[1]。近衛政権が「八紘一宇」という語を述べた西暦1940年は皇紀(神武紀元)2600年に当たり、「八紘一宇」は1940年の流行語になり、政治スローガンにもなった。1940年の近衛政権以来、教学刷新評議会の「国体観念をあきらかにする教育」を論ずる中などで頻繁に使用され[1]、「大東亜共栄圏の建設、延いては世界万国を日本天皇の御稜威(みいづ)の下に統合し、おのおののをしてそのところを得しめようとする理想」を表明するものとして引用使用された[1]

第二次世界大戦に至る中で、「八紘一宇」は「天皇総帝論」であり、それはまた

  • 唯一思想的原動力」
  • 「天皇中心の世界一体観」
  • 「大宇宙をも包含するが如き深遠宏大なる日本肇国理念」
  • 「真日本の発見」
  • 「純なる日本的世界観」
  • 古事記の発見」
  • 「天皇政治の世界性」
  • 大和民族の宿志」
  • 「大和民族本来の世界史的使命]
  • 神武天皇が抱懐せられたる世界史的御雄図」
  • 惟神(かんながら)的世界観」

等であると認識されていった[4]。こうした八紘一宇・天皇総帝論の由来は、「天皇信仰の主唱者」「世紀の予言者」と呼ばれていた幕末国学者大国隆正が唱えた議論だった[12]。これは要するに、天皇は世界の皇帝たちよりも上の地位にあり、歴史の「必然」として世界の「総帝」であるという主張だった[12]。八紘一宇においては、天皇が「現人神」「唯一天皇」「唯一神」「真神」「絶対至尊」などと見なされるようにもなった[13]。このようにして、大国隆正のような国学者たちが足がかりにされ、「八紘一宇」が日本建国の理念へと結合されて、「伝統の発明」が完成した[14]

日本書紀における出典[編集]

この言葉が日本でよく知られるようになったのは『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」(いわゆる橿原奠都の詔)である[15]

「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」
(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。)
— 日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」

この意味について、記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀っている橿原神宮は以下のように説明をしている[16]

神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。

用語の整理[編集]

「八紘為宇」及び「八紘一宇」の混同[編集]

日本書紀の元々の記述によれば「八紘為宇」である。「八紘一宇」というのはその後、戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約した語である。ただし現代では、「為宇」の文字が難解であるため、「八紘一宇」の表記が一般的となっており、神武天皇の神勅について言及する際にも「一宇」が用いられる例がしばしば存在する[16]。 また「八紘」という表現は古代中国でしばしば用いられた慣用句を元としている。

古代中国で用いられた慣用句の影響[編集]

この言葉が日本でよく知られるようになったのは上記に参照した『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」(いわゆる橿原奠都の詔)[15]からの引用である。ここで「八紘」とは、

九州外有八澤、方千里。八澤之外、有八紘、亦方千里、蓋八索也。一六合而光宅者、並有天下而一家也。 — 『淮南子』墬形訓
「……湯又問:『物有巨細乎?有修短乎?有同異乎?』革曰:『渤海之東不知幾億萬里、有大壑焉、實惟無底之谷、其下無底、名曰歸墟。八紘九野之水、天漢之流、莫不注之、而無增無減焉。』……」 — 『列子』湯問

に見ることができる。すなわち「8つの方位」「天地を結ぶ8本の」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語として解釈されている。また、「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味している。このような表現は中国の正史後漢書』・『晋書』にもあり、例えば晋書では晋の武帝、司馬炎三国志でも有名な呉・蜀を滅ぼし中国全土を統一したことを「八紘同軌」[17]といっている。

津田左右吉の説によれば、日本書紀は「文選に見えている王延寿の魯霊光殿賦のうちの辞句をとってそれを少し言い変えたもの」といい、元来は「(大和地方は服属したが、さしあたって橿原に皇居を設けることにするが、大和以外の地方はまだ平定してないゆえ)日本の全土を統一してから後に、あらためて壮麗な都を開き、宮殿を作ろう」という意味だという[18]

それ以後「八紘」の語は世界と同義語として若干使われた形跡がある。たとえば箕作阮甫1851年嘉永4年)に著した『八紘通誌』は、世界地理の解説書である。しかし大正期までこの言葉は文人が時々用いる雅語どまりで、それほど用例が豊富ではなかった。

田中智學による国体研究[編集]

大正期に日蓮宗から在家宗教団体国柱会を興した日蓮主義者・田中智學が「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に着眼して「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると解釈、その結果「掩八紘而為宇」から「八紘一宇」を道徳価値の表現として造語したとされる[19]。これについては1913年(大正2年)3月11日に発行された同団体の機関紙・国柱新聞「神武天皇の建国」で言及している。田中は1922年(大正11年)出版の『日本国体の研究』に、「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家領土民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である」と述べている[20]。もっとも、田中の国体観は日蓮主義に根ざしたものであり、「日蓮上人によって、日本国体の因縁来歴も内容も始末も、すっかり解った」[21]と述べている。

八紘一宇の提唱者の田中は、その当時から戦争を批判死刑廃止も訴えており、軍部が宣伝した八紘一宇というプロパガンダに田中自身の思想的文脈が継承されているわけではない。田中は1923年(大正12年)11月3日社会運動組織として立憲養正會を創設。「養正」の語も神武天皇即位前紀から取られている。立憲養正會は1929年昭和4年)智學の次男、田中澤二が総裁となると、政治団体色を強め、衆議院ほか各種選挙に候補を擁立(田中澤二本人も選挙に立候補しているが、落選)。衆議院の多数を制し、天皇の大命を拝し、合法的に「国体主義の政治を興立」することを目標とした。その後同会は一定の政治勢力となり、田中耕が衆議院議員を2期(1期目は繰り上げ当選)務めたほか、地方議会農会には最盛期で100人を超す議員が所属した。しかし新体制運動大政翼賛会を批判していたためかえって弾圧の対象となり、1942年(昭和17年)3月17日には結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。日蓮主義を政治に実現しようとすることは、軍部などが言う国体を無視する思想であると見なされたためである。同年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では現職の田中耕ほか元会員37名が無所属で立候補したものの全員が落選している。第二次大戦後同会より衆議院議員に当選した齋藤晃は当時「護国の政治運動を展開していたが、大政翼賛会憲兵から弾圧を受けた」という。戦後、田中澤二は公職追放となったものの同会組織は復活し、再び衆議院に議席を獲得。日本国憲法施行後も同会公認の浦口鉄男が衆議院議員に当選。浦口は他の小政党所属議員とともに院内会派を結成し、政権野党として活動した。

第一次大戦後〜第二次大戦中の用例の概要と評価[編集]

二・二六事件における言及[編集]

1936年昭和11年)に発生した二・二六事件では、反乱部隊が認(したた)めた「蹶起趣意書」に、「謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」とある。この事件に参加した皇道派は粛清されたが、日露戦争以降の興亜論から発展したアジア・モンロー主義を推し進める当時の日本政府の政策標語として頻繁に使用されるようになった[要出典]

右側に「八紘一宇」の文字がある紀元2600年記念切手(1940年発行)

「八紘一宇」という表現を内閣として初めて使ったのは第一次近衛内閣であり、1937年(昭和12年)11月10日に内閣・内務省文部省国民精神総動員資料第4輯として発行した文部省作成パンフレット「八紘一宇の精神」であるとされる[22]1940年(昭和15年)には、第2次近衛内閣による基本国策要綱(閣議決定文書、7月26日)で、「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」[23]と表現し、大東亜共栄圏の建設と併せて言及された。同年9月27日には、日独伊三国同盟条約の締結を受けて下された詔書にて「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ」と言及されるに至った。

第二次大戦中のスローガン[編集]

現在、日本の代表的な国語辞典では、八紘一宇は「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」[24]、と説明している[25]

第二次世界大戦での日本の降伏後、連合国軍最高司令官総司令部によるいわゆる神道指令により国家神道軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書における八紘一宇の語の使用が禁止された[26]

清水芳太郎による研究[編集]

昭和初期に活躍したジャーナリストである清水芳太郎は、世界大恐慌の中、主要国がこぞってブロック経済の構築を進めていた国際情勢に対抗するために、八紘一宇の理念を提唱すべきであると主張した[27]。清水はブロック経済の中で大国が行っていることは弱者に対する搾取であると批判した。そして日本は八紘一宇の精神を想起し、弱肉強食を前提とした搾取の構造に加わることなく、むしろを拝んで仲間とし、平和を達成すべきであるとした[28]

更に八紘一宇といふ事は、世界が一家族の如く睦み合ふことである。
これは國際秩序の根本原則を御示しになつたものであらうか。現在までの國際秩序は弱肉強食である。強い國が弱い國を搾取するのである。所が、一宇即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一案強い者が弱い者のために働いてやる制度が家だ。世界中で一番強い國が弱い國、弱い民族達のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる。日本は一番強くなつて、そして天地の萬物を生じた心に合一し、弱い民族達のために働いてやらねばならぬぞと仰せられたのであらう。何といふ雄渾なことであらう。日本の國民は振ひ起たねばならぬではないか。強國はびこつて弱い民族をしいたげている。
— 『建國』(1938年)、58頁

戦中における対ユダヤ人政策との関連[編集]

一方で、八紘一宇の考えが欧州での迫害から満州や日本に逃れてきたユダヤ人ポーランド人を救済する人道活動につながったとの評価がある。

当時の日本はナチス・ドイツをはじめとする同盟国の政策を取り入れず、独自のユダヤ人保護政策をとった。当時制定された「現下に於ける対猶太民族施策要領」及び「猶太人対策要綱」では、ユダヤ人についてあくまで受動的な立場をとること、そしてドイツをはじめとする欧州諸国には八紘一宇の精神等に立脚する理由を理解させる旨が記載されている[29]

猶太民族に対しては現下時局の推移に伴い、台頭しつつある在極東猶太民族の日満依存傾向を利導して之を世界に散在する彼ら同族に及ぼし以て彼らにして功利的術数を抛ち、真に正義公道を基として日満両国に依存するにおいては之を八紘一宇の我大精神に抱擁統合するを理想とす。然れどもこれが実施に方りては、世界情勢の推移、満州国内の状況、猶太民族の特性に鑑み、序を追って特に慎重を期するを要す。之が為、現下の情勢に応じ取敢えず施策上着意すべき要綱を述ぶれば左記の如し。

一、対猶太人(ユダヤ人)対策の実施は、一般に尚暫く受動的態度をとると共に、日満両国政府の公的機関の表面進出を避け、専ら内面工作に依り裏面隠微の間に序を追うて進む。
二、諸工作の実施に方りては、急激なる成果の獲得に焦慮するを戒むると共に、苟も敏感なる彼らをして我態度を迎合乃至便宜的利用主義と誤認せしめ、あるいは彼らをして恩に狎れて増長に至らしめざるを要す。特に現下、満州国の開発に際し外資導入に専念するの余り、猶太資本を迎合的に投下せしめるがごとき態度は厳に之を抑止す。
三、全満に於ける猶太人耕作は関東軍司令部において統制各実施期間は相互連携を密にし支離の態度に陥るなからしむ。

四、ドイツその他列国に対しては、我民族協和、八紘一宇の精神並びに防共の大義に遵由するを諒解せしめ誤解なからしむ — 『現下に於ける対猶太民族施策要領 昭和十三年一月二十一日関東軍司令部』(編集により現代仮名遣いとした)

新しい歴史教科書をつくる会元理事の上杉千年は、「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」とする見解を示している。

ただし実際は日本が一時期ユダヤ人を助けた動機は、危険だが利益もあるといういわゆる「河豚計画」であった。以下示す通り、戦前の日本当局や一般人は フリーメーソンイルミナティシオン議定書などのいわゆるユダヤの陰謀を信じており、フランス革命やロシア革命もユダヤ人が引き起こしたと考えていたようである(右翼#反ユダヤを参照)。[独自研究?][要出典]

対米開戦でユダヤ人の利用価値が無くなると、日本政府はユダヤ保護方針を転換し「元来猶太人は悪い奴故今後之を厳重に取締らんとする趣旨」[30]の「時局に伴ふ猶太人対策」を1942年3月11日決定した。そこには「日満支其の他我が占領地に対する猶太人の渡来は特殊の事由あるものを除き一切之を禁止す」[31]とある。

戦前日本当局や一般人のユダヤ陰謀説[編集]

日本は第一次大戦で連合国側で参戦しドイツと戦い、またロシア革命後のシベリア出兵でソビエトと戦ったが、その頃からユダヤ人が関心の対象となり始めた。1921年3月外務省情報部員森権吉「猶太人に関する研究」では「我国に於ては従来猶太人種との交渉深からざりし為め、同人種に就ての興味は至って尠く、従て之に対する研究も等閑視せられたる様なるが、近代の経済問題より社会問題乃至国際問題を研究するには、猶太人問題を不問に付する能はざるに至れり」[32]とする。北満洲特務機関「猶太研究」(1921年11月)では「対過激派政策上猶太問題研究の必要を認め、北満憲兵隊と協力して」[33]調査を始めたと述べ、外務省欧米局第二課編「猶太人問題」(1922年6月)[34]は在独日本大使館の依頼でベルリン大学講師が起稿したものを要訳したものである。

森の「猶太人に関する研究」には「猶太人が露国の革命を醸成し、之に参与したことは周知の事実なるが、フランス革命の原動力となりしも亦猶太人なりき」と述べさらに「イルミナティ」「フリーメーソン」「ザイオン長老の記録」に言及している[35]。北満州特務機関の資料も「マッソン結社(フリーメーソン)」に言及しフランス・ロシア革命とユダヤ人の関連を指摘し、さらに次のように主張している。

故に吾人が猶太人を排する理由は左の三点にあらざる可らず。

一 猶太人は四海同胞の大義を滅却す。

ニ 猶太人は己れの文化を人に強ゆ。

三 猶太人は秘密諜報に長じ刻下の機密を暴露す。 — 北満洲特務機関編「猶太研究」175-176頁

外務省欧米局第二課編「猶太人問題」は「猶太人は一の毒薬なり」(77頁)とする。

こうしたユダヤの陰謀・ユダヤの世界征服野望的主張が日本で広まり、右翼界でも同様であった。

  • 北海タイムス1919年10月の無名氏寄稿「猶太人は国家もなく、軍隊もなく只人民だけが世界中到る所に散在し極秘密に強固に結束して居ります、其団体を『マッソン』結社と申します…ユダヤ人が世界を掌握しようという大陰謀の計画は先ず君主独裁国を立憲君主国とする憲法制度に依ると主権者が政治の一部を臣民に与えることになる、即ち主権を弱めるのであります、更に進んで共和政体にし、民本政体にし、尚進んで無政府状態に導こうと云うのです」[36]
  • 「猶太研究叢書第2巻 フリーメーソンと世界革命」(ドクトル・ウィヒテル著、1924年)[37]
  • 「猶太民族の大陰謀」(酒井勝軍著、1924年)[38]
  • 「赤露の理想と現実: 猶太の大陰謀」(松井構間太郎著、1924年)[39]
  • 「猶太人の陰謀と排日問題」(勝井辰純著、1924年) [40]
  • 大阪時事新報1932年記事「彼等がかく全世界を掌握(?)するに至った経路こそ常に姿を現はしては消えたるところのユダヤ禍、即ち彼等独特の陰謀が潜んでゐたのである。」[41]
  • 神戸又新日報1933年記事「フリー・メーソンは一つの秘密結社であって自由な正義の帯を連らねる一つの帯である、この帯は職業、党派、国籍、宗教を超越したものである、等これらを遵奉し全世界をユダヤ人によって支配せんとする」[42]
右翼による反ユダヤ・ユダヤ陰謀論[編集]
  • 天皇機関説騒動で「国体無視の美濃部博士」と非難した[43]若宮卯之助「猶太人の陰謀は、今や世界的の事実で、此の点に問題はない。…猶太人の侵撃は、金と宣伝とからだ。…猶太人の問題を疎略に付する者は、固より自ら知らざる乱臣賊子の一種であるが…」(1924年)[44]
  • 「猶太民族も正義を六合に普及せんとするならば必ずしも悪む可きでない、寧ろ前述の神武大宣言の御主旨と結局同一点に帰着するやも知れない、然れども帝国は古来終始一貫王道坦々として進み彼は常に蛇の如く迂余曲折現世を混乱擾乱せしめ来った、其罪決して軽しとせない。…本の道は王道であり猶太のは覇道である我は正道の護持をして行きつゝあるが彼は先へ行ったら正道の護持をやろうとして今甚だしい邪を行って居るのである。」(1924年)[45]
  • 「我が国民思想の悪化については、種々の原因があるけれどもその主なるものは猶太人の陰謀より来るものである」「彼等の最も恐ろしき敵となるものは、君民同治の生態、神意によって定められたる国体であって、理屈や何故にを超越した精神的極地によって建設されたる国家である。即ち我大日本帝国のそれである。今日猶太人が全力を傾注して破壊に導くべく努力しつゝあるのは西にあっては英国、東にあっては我が日本である」(1928年)[46]
  • 大日本愛国社(1929年設立)の主義綱領「一、凡ての国策は皇道に基本す 六、ユダヤ民族世界的赤化悪化の思想的大宣伝を排斥撲滅す」[47]
  • 日本愛国勤労組合「世界革命の何れもが猶太人が陰に陽に関係し計画せる事が知れる。…彼等の戦法である解放、改造、現状打破、革命と言ふ経路に対しては深甚な注意を払らはねばならぬ。同時に万邦無比の光機ある帝冠を奉戴する我等大和民族は絶対の確信と非常な容易を備へて予め之を警戒し防御せねばならぬ。」(1930年)[48]
  • 黒正厳「忠君愛国の根本精神は政党政治の存続すればするほど頽廃せざるを得ぬ。…資本主義的組織によって生活する以上、日本資本家と雖もユダヤ人ではないが、ユダヤ的ならざるを得ぬ。資本家的組織中に生存するものを保護するにはユダヤ的売国的ならざるを得ぬ、故にこの区域の有害なる組織を打破して、新なる愛国的日本国民社会主義を国民の間にインスピレートしやうと努力するのである。」(「経済往来」1932年3月号)[49]
  • 226事件で反乱幇助として事件送致(不起訴釈放)[50]された瑞穂倶楽部(三六倶楽部)四王天陸軍中将「ユダヤ人といへば陰謀には付きものだが…ユダヤ人はこの戦術を具体的に実行に移すため、全世界に誇る非常に大規模な秘密結社を作ってゐる。これが有名なフリー・メーソンなるものである」(1933年)[51]
  • 軍令部海軍大佐犬塚惟重「猶太対策の基調 第一に警戒監視に当る恒久的機関が必要であります。たとへ事変が終りましても、極東日本の勢力範囲内にはユダヤ民族存在し、特に支那対策上不離の関係に置かれ其の背後に英米仏国並に多数の猶太民族を有するソ連の存在する以上此の問題は永久に重視すべきものであります。尚ほ思想戦的に見れば、 人民戦線的思想と国民主義全体主義的思想とは現在では永久に闘争する運命に置かれ前者の背後には猶太民族あり後者の最も思想中心的存在である皇国とは、根本的に相容れざる存在であり従って之れが思想戦的克服を完成するは皇国国体の尊厳宣布の上にも緊要なるのみならず、又皇国の存在理由であると考へられるからであります。」(1938年)[52]

武力行使正当化に使用[編集]

藤沢親雄は1937年の著書の「八紘一宇の世界経綸」の章で「皇道の世界光被即ち天業恢弘の為には、武の実力を用ひる場合のあることは神武不殺の意味に於て許容せられねばならぬ」[53]と述べた。1940年2月29日の貴族院予算委員会で米内光政首相は、八紘一宇の理想のためには武力行使も必要だと答弁した[54]。下中弥三郎は1943年の著書で「皇戦は、普通に考へらるゝ戦ではなく皇稜威の世界光被の戦である。大義ヲ八紘ニ光被シ坤輿ヲ一宇タラシメ給ふ大御心の発動であり、皇国の理想顕現の戦である。」とする[55]

八紘一宇の中心にあるもの[編集]

藤沢親雄は1937年の著書の「八紘一宇の世界経綸」の章で「我が天皇を精神的中心となす全人類大家族的国際社会」(498頁)「日本民族を中枢とする権威によって秩序付けられた世界大家族社会」(502頁)とした[56]。「宮崎正義は1938年の著書で「八紘一宇の中心に位し給ふは、最高絶対価値としての天皇にあらせられる」と述べた[57]徳冨猪一郎(徳富蘇峰)は1941年の著書で「皇室中心主義」と述べた[58]。彦根高商教授の桑原晋は1942年の著書で「天皇を中心とした家族的共同体」と表現した[59]加藤一夫は1942年の著書で「日本の天皇が、その全世界の君となり給ふ」と表現した[60]山本英輔は1942年の著書で「日本天皇の大御心を奉戴して、天皇を中心にまつろひ奉ること」「中心になる日本」とした[61]。1942年の陸軍文書「南方圏教育に関する基本方針(案)」では「帝国を中心とする八紘一宇の皇謨を具現する為…」と書いている[62]。「東亜連盟同志会「昭和維新の指導原理」(1944年)には「八紘一宇とは…換言すれば天皇が世界の天皇と仰がせられ給ふことに外ならない。」[63]と述べる。

日本の使命・日本以外には実現不可能[編集]

内閣・内務省・文部省編「国民精神総動員資料.第四輯 日本精神の発揚 八紘一宇の精神」(1937年)では「八紘一宇の精神」の項で「流転の世界に不易の道を知らしめ、漂へる国家・民族に不動の依拠を与へて、国家・民族を基体とする一大家族世界を肇造する使命と実力とを有するのは、世界広しと雖も我が日本を措いては他に絶対にないのである。」「我が国はかゝる人意の国にあらずして、神命に基き自然の理法に随って生成せられた国であって、」とする[64]藤沢親雄は1937年の著書の「八紘一宇の世界経綸」の章で「日本の世界的使命」(501頁)「以上本章を通じて究明したる如く、皇道の外に真に普遍的なる国際政治原理は存在しない。皇道に比肩するに足る他の現実的な世界指導精神も存在しないと思ふ。且又日本民族を措いて世界絶対平和を実現し得る王者的民族は存在しないと信ずる」(506頁)と述べた[65]井上哲次郎は1941年の著書の「天壌無窮と八紘一宇」の章で「我が日本の如きものでなければ、此の大任を果すことは不可能」「我が日本の大使命」とした[66]小牧実繁は1942年の著書で「八紘一宇の大理想は大御稜威のもと、日本民族によってのみ実現せられると確信せられるのである。」と述べた[67]山本英輔は1942年の著書で、真の世界平和を実現するには日本の八紘一宇の精神に勝るものは無いと述べている[68]

深遠すぎて翻訳できない[編集]

1940年2月8日衆議院予算委員会で堤康次郎議員が八紘一宇の英訳を問題視した[69]

○堤康次郎 総理大臣の施政演説に於ても、又其の他の機会にも屡々我が八紘一宇の肇国の大精神が顕現せられて居るのであります、我が肇国の大精神は、意義極めて深遠にして、広大無辺なものでありまして、之を二十字とか、三十字とか、字を限って能く分るやうに書けと言はれたら、是は非常に困難なことであります、況して之を外国語に書き表はすことは、非常に困難なことであります、然るに鉄道省が監督して居られますツーリスト・ビューローから発行して居りますツーリストと云ふ雑誌の新年号にザ・ユニバース・ワン・ファミリーと云ふ言葉が書いてあるのであります。是は即ち世界一つの家族と云ふことである、世界は一つの家族と云へば、世界は一つの国、世界征服と之を曲解せらるる危険が多分にあると思ふのであります

○松野鶴平鉄道大臣 「八紘一宇」の訳語、是が外国語でどう訳するかと云ふことがまだはっきり決って居るとは考へませぬ…苟も誤解を受けるが如きことは慎むべきものなりと考へて居ります

○堤 八紘一宇と云ふやうな肇国の大精神を書き表はす時には、是は八紘一宇とローマ字で書くべきだ…懇切丁寧に数百数千語を費して此の意味を明にする、斯うしなければならぬ、以後は慎しむと言はれるが… — 1940年2月8日衆議院予算委員会

また2月13日の衆議院予算委員会でも北れい吉議員がこの問題を取り上げた[70]

○北れい吉 先達て此の予算総会に於て堤君から、鉄道省関係の印刷物に八紘一宇を…

○松浦鎭次郎文部大臣 之を唯四海同一家或は唯の平和の考である平和主義である、斯う云ふ風に一概に申す訳には参らぬものであらうと考へるのであります 

○北 之を無条件的平和主義に解して、万邦共和とか、世界同胞、ザ・ユニバース・ワン・ファミリーなどと翻訳されたら、実際有難迷惑である、さうかと思ったら又支那の一部の反日思想を持って居る者が悪宣伝に用ひるやうな利己主義的国家主義、帝国主義的侵略主義に是が取られても困る… — 1940年2月13日衆議院予算委員会

翌2月14日には堤康次郎議員が再度この問題を取り上げた[71]

○堤康次郎 過日の予算委員会に於きまして、我が肇国の大理想である八紘一宇と云ふ言葉がツーリスト・ビューローから発行して居りまする雑誌に英訳をせられて…

○米内光政首相 御答を致します、八紘一宇とは神武天皇御創業の大精神であり、広大無辺の御仁徳を普く天が下に布き拡め給はんとする大御心なりと拝察致します

○堤 総理大臣は今の此の御説明を完全に英訳せられまして、一つの型を作って将来外国に之を宣布せらるることが私は宜らうと思ひまするが…

○米内 世界各国をして誤解せしめないやうな手段を取りたいと存じます — 1940年2月14日衆議院予算委員会

八紘一宇をどう英訳するかについては学者も「八紘一宇と云ふ言葉は簡単に現はす訳語は見当らぬ」[72]とお手上げ状態であった。さらにこの問題は貴族院でも取り上げられたが、政府は「非常に長く説明を致さなければ」誤解を招くので「外国語に翻訳致さない」と答弁した[73]

○大河内輝耕子爵 それから次に伺ひたいのは、是は申さなかったけれども、八紘一宇と云ふ文字…外国語で、英語でどう云ふやうに訳されて居りますか、それを伺ひたい

○有田八郎外相 只今の大河内子爵の御質問で、東亜の新秩序、八紘一宇、防共と、もう一つ……

○大河内 興亜……

○有田 どう云ふ風に英語で訳して居るかと云ふ御質問でありまするが、八紘一宇と申しますことは、其の深遠なる御精神並に意味から申しまして、之を外国語に訳すると云ふことは避けて居るのであります、単り八紘一宇と申す言葉ばかりでなく、日本の特有の国体に関連して生じて居りまする言葉は、原則として之を外国語に翻訳致さないと云ふことに致して居るのであります…東亜の新秩序とか、或は興亜とか、防共とか云ふことは、是は場合に依りますれば、外国語に訳することがあるのでありまするが…

○大河内 八紘一宇と云ふのは…外国人と話すにも…如何でせうか、共存共栄と言ったらいけますまいか

○有田 他の簡単なる言葉を以てすることは誤解を招く虞があると存じますので…是は説明を致しますとすれば、非常に長く説明を致さなければその趣旨が徹底せずして、寧ろ誤解を招くのであります、共存共栄と云ふ風なことも、極めて簡単な言葉でございまして、是が八紘一宇と同一であるかどうかと云ふことに付きましては、私は今此処で簡単に申述べる訳には行かない… — 1940年2月27日貴族院予算委員会

結局同年4月12日付外務省文書で、深遠すぎるので翻訳しないという正式な通知が出た[74]

外国語に訳し難き語句に関する件  近来各方面に於て支那事変に関連し「八紘一宇」「皇道外交」等の語を使用あるを見受けらるる処今議会貴族院に於て「英語にて右を如何に訳して居るか」との質問に対し外務大臣は「前者は深遠なる精神であるから外国語に訳することは避けてゐるが後者は場合に依て訳してゐる」旨答弁せられたる事情あり爾今本省に於て右用語を外国語を以て公表する場合は万一の誤解を避くる為之を外国語に訳さず其の儘之を使用することを決定したるに付此段通知す — 省内通知 昭和十五年四月十二日 昌谷文書課長 各局部課長殿 

具体的に何をどうするのか[編集]

高島米峰は1937年の著書の「八紘一宇の思想」の項で「支那の日本を軽侮し、蔑視すること、誠に言語に絶す。…永遠に日本の庇護なくしては、独立の体面を保ち得ざることを痛感せしめ、無限の信頼と絶対の従順とを捧げしめなければならない。」と主張する[75]

東京商大教授金子鷹之助は1945年の著書の「八紘一宇思想の具現方途」の項で「社会的文化的方途は、先づ神社の造営が第一であらう。」「現地に於ける日本人は、祭日休日の参拝はもとより、私人の冠婚葬祭も一切、この神前に於て行ふべきである。」「大陸に於ても、少くとも原住民族は、日本民族及び南方民族と、同祖同族だった筈であるから、やがては太古の記憶を覚醒し、神社参拝を理解し得るに至るであらう。」と提案する[76]

第二次大戦後の用例の概要と評価[編集]

GHQによる使用禁止[編集]

戦後、1945年(昭和20年)12月22日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からいわゆる「神道指令」が発令された。同指令は、日本国民を解放するため、戦争犯罪敗北、苦悩、困窮及び現在の悲惨な状態を招いた「イデオロギー」を即刻廃止するべきとし[77]、「八紘一宇」の用語は国家神道、軍国主義、過激な国家主義と切り離すことができない言葉として「大東亜戦争」などとともに公文書での使用を禁じられた[78][79]

広島県福山市にある素盞嗚神社境内にある「八紘一宇」の文字を刻んだ石碑。戦時中多くの神社には、戦勝を願って「武運長久」とともに石碑を並立して奉納されていた
(ヌ)公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ却刻停止ヲ命令スル — 国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件(昭和二十年十二月十五日終戦連絡中央事務局経由日本政府ニ対スル覚書)

また「八紘一宇」をはじめとする「国家主義的イデオロギー」と結びついた用語を教育内容から除外することがGHQにより命令された。

一 日本新内閣ニ対シ教育ニ関スル占領ノ目的及政策ヲ充分ニ理解セシムル連合国軍最高司令部ハ茲ニ左ノ指令ヲ発スル

A 教育内容ハ左ノ政策ニ基キ批判的ニ検討、改訂、管理セラルベキコト
(1)軍国主義的及び極端ナル国家主義的イデオロギーノ普及ヲ禁止スルコト、軍事教育ノ学科及ビ教練ハ凡テ廃止スルコト

(2)議会政治、国際平和、個人ノ権威ノ思想及集会、言論、信教ノ自由ノ如キ基本的人権ノ思想ニ合致スル諸概念ノ教授及実践の確立ヲ奨励スルコト」 — 日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)

極東国際軍事裁判における評価[編集]

1946年(昭和21年)より開廷された極東国際軍事裁判において、検察側意見では「八紘一宇の伝統的文意は道徳であるが、…一九三〇年に先立つ十年の間…これに続く幾年もの間、軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」としたが[80]東条英機の弁護人・清瀬一郎は『秘録・東京裁判』のなかで「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」との被告弁護側主張が判決で認定されたとしている[81]

日本帝国の建国の時期は、西暦紀元前六百六十年であるといわれている。日本の歴史家は、初代の天皇である神武天皇によるといわれる詔勅が、その時に発布されたといっている。この文書の中に、時のたつにつれて多くの神秘的な思想と解釈がつけ加えられたところの、二つの古典的な成句が現れている。第一のものは、一人の統治者のもとに世界の隅々までも結合するということ、または世界を一つの家族とするということを意味した「八紘一宇」である。これが帝国建国の理想と称せられたものであった。その伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもった人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかった。 — 東京裁判判決書13-19段

戦後の用例・評価[編集]

1957年(昭和32年)9月、文部大臣松永東衆議院文教委員会で、「戦前は八紘一宇ということで、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発しておったようであります」と発言した。1983年(昭和58年)1月衆議院本会議では、総理大臣中曽根康弘も「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」と説明した[82]
政治評論家の佐高信は、政治家の加藤紘一について「加藤紘一の紘一は八紘一宇から取ったんですよ」と発言したことがある[83]
東京オリンピックのあった1964年(昭和39年)頃には、宮崎県の平和の塔(八紘一宇の塔)への聖火リレー起点招致を念頭に、「世界平和を謳うオリンピックの精神と『八紘一宇』は同義」である、とする意見が広がり始めた[84]

八紘一宇の塔[編集]

平和の塔の現状(2007年)
昭和19年発行の十銭紙幣の表側。八紘一宇塔が描かれている。

宮崎県宮崎市の中心部北西の高台、宮崎県立平和台公園(戦前は「八紘台」と呼ばれていた)にある塔。かつての正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」[84]設計は、彫刻家日名子実三[85]。現在は「平和の塔」と称されている。

神武天皇大和に東征するまでの皇居と伝えられる皇宮屋(こぐや)の北の丘に1940年(昭和15年)、紀元二千六百年記念行事の一つとして建造された。

この塔の建立に当たっては日本全国からの国民の募金・醵出金がその費用の一部に充てられた。また、日系人が多く住む中南米やハワイ、同盟国であったナチス・ドイツの企業DESTイタリア王国からの寄付もあった。さらに日本軍の各部隊が戦地から持ち帰った様々な石材が使用された。[要出典]

高さ37 m、塔の四隅には和御魂(にぎみたま)・幸御魂(さちみたま)・奇御魂(くしみたま)・荒御魂(あらみたま)の四つの信楽焼の像、正面中央に秩父宮雍仁親王の書による「八紘一宇」の文字が刻まれている。内部には神武東征などを記した石膏レリーフがあるが非公開。第二次世界大戦敗戦後に「八紘一宇」の文字と荒御魂像(武人を象徴)は一旦削られたが、荒御魂像像は1962年(昭和37年)、「八紘一宇」の文字は1965年(昭和40年)に復元された。この復元運動の中心となったのは、県の観光協会会長を務めていた岩切章太郎宮崎交通社長)だった[86]

1964年(昭和39年)の東京オリンピックの際は、聖火リレー宮崎ルートのスタート地点にもなった[87][88][89][84]1979年(昭和54年)の昭和天皇宮崎訪問では、この塔の前での歓迎祝典が予定されていたが、天皇は固辞している。[要出典]

「八紘一宇」の用例[編集]

戦前[編集]

日本軍の航空基地に掲げられた「八紘一宇」の旗印。航空兵に対し「肇国の精神」実現のスローガンになっていた。
紀元二千六百年祝典記念章(表面)。空色地に紅色線が8本通った綬の配色は八紘一宇を表現したものとされる[90]
国民服儀礼章と箱。儀礼章の台座の四角形は八紘一宇を表しており[91]箱には「八紘一宇」の文字が表記されている。
  • 田中智學日本国体の研究」(1922年(大正11年)初版)における『宣言 =日本国体の研究を発表するに就いて=』(初出:国柱会日刊紙『天業民報』、1920年(大正9年)11月3日)
    天祖は之を授けて「天壌無窮」と訣し、国祖は之を伝へて「八紘一宇」と宣す、偉なる哉神謨、斯の文一たび地上に印してより、悠々二千六百載、スナハチ君臣の形を以て、道の流行を彰施す、篤く情理を経緯し、具に道義を体現して、的々として人文の高標となれるものは、日本君民の儀表是也、乃神乃聖の天業、万世一系億兆一心の顕蹟、其の功宏遠、其の徳深厚、流れて文華の沢となり、凝りて忠孝の性となる、
    体に従へば君民一体にして平等、用に従へば秩序截然として厳整、這の秩序の妙を以て、這の平等の真に契投す、其の文化は静にして輝あり、是の故に日本には階級あれども闘争なし、人或は階級を以て闘争の因と為す、然れども闘争は食に在て階級に関らず、日本が夙く世界に誨へたる階級は、平等の真価を保障し、人類を粛清せんが為に、武装せる真理の表式なり、吁、真の平等は正しき階級に存す、人生資治の妙、蓋斯に究る。
  • 陸軍教育総監部「精神教育の参考(続其一)」(1928年(昭和3年))
    積、重、養と云ふは総合的広大持続を意味する生成発展の思想である、静的状態より動的状態への展開である。
    今や天業恢弘の気運に向へり、養正を主とし積慶、重暉を加へ以て八紘を掩ふて一宇と爲さむとし給へるもの即建国精神の第三なり。
  • 陸軍省出版班「躍進日本と列強の重圧」(1934年(昭和9年)7月28日)
    五、結言──危機突破対策
    二、日本精神の宣布
    列強の対日反感は、一面皇国の驚異的飛躍に基くと共に、皇国の真意に対する認識の欠如による事も大である。
    皇国は肇国の始めより、厳として存する大理想たる、八紘一宇の精神により、排他的利己主義を排し、四海同胞、一家族的和親の実現によって、世界人類の発展と、恒久平和とを招来せんことを庶幾しつつあるものである。
    彼のチモシイ・オコンロイの「皇道なる名称は、世界支配の大野心をカムフラージュせんが為め与えたるものである」と謂う如きは、全く我が真意を認識せざるもので、斯る蒙を啓く為め、日本精神を世界に向って宣布することが喫緊である。
  • 関東軍参謀部第二課「関東軍軍歌」(1936年3月10日)
    5番
    旭日の下見よ瑞気
    八紘一宇共栄の
    大道ここに拓かれて
    燦々たりや大陵威
    皇軍の華関東軍
  • 国際反共連盟「国際反共連盟設立趣意書」
    帝国現前の諸政は、一切の活動力を共産主義絶滅の一事に集中せざるべからず。若し夫れ此の大旆を掲げて滅共産の下に内外を振粛し来たらんか、義を愛し、正を好むの日本国民にして、誰が砂上に偶語する者あらんや。如是にして内に既に基礎を置くこと堅固ならんか、大小の国家又我大義のあるところを涼となし、喜んで防共の目的を一にせんとするに至るや疑ふべからず。是れ真にまつろはぬものを伐ち平げて八紘一宇の大理想を顕揚するものと謂ふべき也。
  • 内閣情報部愛国行進曲」(1937年12月)
    2番
    起て一系の大君を
    光と永久に頂きて
    臣民我等皆共に
    御稜威に副はむ大使命
    往け八紘を宇[92]となし
    四海の人を導きて
    正しき平和打ち立てむ
    理想は花と咲き薫る
  • 基本国策要綱(1940年(昭和15年)7月26日第2次近衛内閣によって閣議決定された政策方針
    「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」
  • 日独伊三国軍事同盟締結における詔書(1940年(昭和15年)9月27日
    大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ・・・惟フニ万邦ヲシテ各〻其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンゼシムルハ曠古ノ大業ニシテ前途甚ダ遼遠ナリ爾臣民益〻国体ノ観念ヲ明徴ニシ深ク謀リ遠ク慮リ協心戮力非常ノ時局ヲ克服シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ」
  • 東条英機「大詔を拝し奉りて」(1941年12月8日のラジオ演説)
    八紘を宇と為す皇謨の下に、此の尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります」
  • 『我言霊』(控訴審公判調書第7回 1941年(昭和16年)1月23日)
    我国ニ於テハ第一豊葦原ノ千五百秋ノ瑞穂ノ国ハコレ吾子孫の王タルベキ地ナリ云々ト云フ天祖ノ御神勅、第二、神武天皇ノ八紘一宇ノ御勅語、第三、和気清麿ノ奏上シタ我国ハ開闢以来君臣ノ分定マレリ、云々ノ御神示、之ヲ我国ノ三大言霊ト云フノデアリマス
  • 石原莞爾(軍事思想家)『最終戦争論・戦争史大観』
    「昭和十三年十二月二六日の第七十四回帝国議会開院式の勅語には「東亜ノ新秩序ヲ建設シテ」と仰せられた。更にわれらは数十年後に近迫し来たった最終戦争が、世界の維新即ち八紘一宇への関門突破であると信ずる」
    「日本主義が勃興し、日本の国体の神聖が強調される今日、未だに真に八紘一宇の大理想を信仰し得ないものが少なくないのは誠に痛嘆に堪えない」
  • 鈴木安蔵マルクス主義憲法学者)『政治・文化の新理念』p. 44, 119 利根書房
    今日占領しつつある諸地方に限らず、今後、全東亜は言うまでもなく、八紘為宇の大理想が今や単なる目標ではなくして、その実現の前夜にある…
    東亜共栄圏と言い、八紘為宇と言うのは、わが指導権の範囲が一億同胞にとどまらず、全東亜、いな全世界におよぼすべき目標と使命と有する…
  • 中村哲「民族戦争と強力政治」『改造』p. 66 昭和17年2月号
    八紘為宇の精神が世界史の現段階において、いかに四隣に光被さるべきかの軌道を示し、東洋諸民族をして各々その所を得しむる偉大な国家的悲願の具体的発顕である
  • 平野義太郎マルクス主義法学者)『民族政治学理論』p. 259 日本評論社 1943年(昭和18年)9月
    八紘一宇の東亜政治の理想をその内在的な理念とする戦争論が樹立されねばならない

中村、平野は「世界共産化」という意味で「八紘一宇(為宇)」を用いていると中川八洋は述べている[93]

  • 蓑田胸喜(反共思想家)「学術維新」(1941年(昭和16年))
    肇国の始めより『いつくしみ』『八紘為宇』の人道的精神を含蓄する日本精神は其世界文化史的使命に於いて、単に欧州的地方文化に制約された『民族主義だけの民族主義』を原理としてチェコ合併やポーランド分割の如きによって、直ちにその『一民族・一国家・一指導者』の国家原理に思想的破綻を来す如きナチス精神とは比倫を絶するものである。個人が人倫道徳に於いて超個人性を具現すべきが如く、民族国家も亦その思想精神に超民族性超国家性を含蓄啓示せねばならぬ。(p. 748)
  • 四王天延孝(反ユ思想家)「ユダヤ思想及運動」(1941年)
    次は八紘一宇の大理想を以て進むべき大日本帝国は宜しく清濁合せ呑むの慨を以てユダヤ人をも包容し、之を愛撫して皇化に浴せしむべきだ、基督教徒や回教徒と、ユダヤ人との在来の対立の如きは日本の徳により解消させ得べきである。日本自らがユダヤ人に対抗するが如きは自らを小さくするものであると云ふ風な議論であって、堂々たるものである。議論としては宜しいが、実際に於て日本の経済も、政治も、道徳も、思想も、教育も既に大部ユダヤ思想にむしばまれ穴があいてゐる。之を今修繕して何でも来いと云へる迄は暫くこの大風呂敷へ余り多くの物、殊にトゲのあるものや発火の虞ある品物など詰め込まない方が宜しい。前章に述べたベロックの対策にある異物除去を吸収や同化で行ふと云ふのであるが胃腸が不健全の場合には六ヶ敷い、ことによると胃潰瘍の素地がもう出来てゐるかも知れない。
    八紘一宇の大理想と云ふても、善も悪も皆共に抱擁すると云ふのではなく、荒振るものがあれば之を掃ってしまふことも八紘一宇の大理想に近く方法である。この頃八紘一宇と云ふ言葉が少し使ひ過ぎられる傾きがある。(p. 356-357)
  • 松本誠「第四回全鮮金融組合理事協議会開会の辭」 ─ 朝鮮金融組合連合会『第八回金融組合年鑑』(1941年(昭和16年))より
    諸君以上は我が金融組合が現下並に今後邁進すべき使命と目標に付てその大要に触れたのでありますが之を要するに今や世界史的一大転換期に当りまして
    我が肇国の大精神たる八紘一宇の大理想を顯現いたしますが為には国民生活の領域に立って之が指導を担当するわが金融組合の如きは最も真剣に其の指導理念の把握をなすの要ありとするのがその第一であります。
    就中半島刻下の要求たる皇国精神の徹底に協力して内鮮一体の理想達成を期すると云ふ事はその第二であります。
  • 宮城長五郎(裁判官、検察官、政治家)「法律善と法律悪」(1941年)
    我が日本は八紘一宇の肇国精神を具現実行すべく、敢然として立ち上って居るのでありますが、各国は皆夫々目指す処を異にして居るのであります。即ちドイツ、イタリア両国が人的全体主義国家であり、ロシアが共産的全体主義国家の建設を目賭してゐるのであるが、我が皇国は外国の国家建設を模倣する事なく、日本は日本独自の立場に立って、「八紘一宇」の精神を如何に具現すべきかを考へねばならぬのであります。
  • 宮本武之輔(技術者、企画院次長)「大陸建設の課題」内「興亜日本の技術者に望む」(1941年12月。初出:1940年1月)
    東亜の共同防衛、帝国主義的支配機構の廃絶、アジア的共同体制の樹立と新東方文化の昂揚を以て、その根本性格とする東亜新秩序建設は、東亜両民族の醇化統一による福利増進と共栄確保とを目的とする。従って東亜新秩序と東亜国防国家とは一にして二ならず、征服精神、侵略精神を含まず、八紘一宇の世界観に立脚して『しらす』ことを以て本質とする、わが国体の大義を恢弘することを指導原理とする。東亜国防国家は実に日満支善隣連環の東亜新秩序の上に構成せられなければならない。この故に東亜新秩序を目標とする経済ブロック建設と文化建設とは、アジア的共同体制における自給自足経済の確立と、東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化とを融合した東亜の新文化の創造を目標としなければならない。それが東亜国防国家の緊急の要請だからである。
  • 市丸利之助(軍人)「ルーズベルトニ与フル書」(1945年)
    畏クモ日本天皇ハ、皇祖皇宗建国ノ大詔ニ明ナル如ク、養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)ヲ三綱トスル、八紘一宇ノ文字ニヨリ表現セラルル皇謨ニ基キ、地球上ノアラユル人類ハ其ノ分ニ従ヒ、其ノ郷土ニ於テ、ソノ生ヲ享有セシメ、以テ恒久的世界平和ノ確立ヲ唯一念願トセラルルニ外ナラズ。
    之、曾テハ「四方の海 皆はらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」ナル明治天皇ノ御製(日露戦争中御製)ハ、貴下ノ叔父「テオドル・ルーズベルト」閣下ノ感嘆ヲ惹キタル所ニシテ、貴下モ亦、熟知ノ事実ナルベシ。

諸外国による用例[編集]

アメリカは自国民に対し、映画で以て八紘一宇を以下のようにプロパガンダしようとしたが、公開前に終戦し戦争中に公開されることは無かった。

  • アメリカ合衆国旧陸軍省依頼「Know Your Enemy: Japan
    It is called as "Hakkō Ichiu". It became national ambition of Japan.
    [...]
    "Hakkō Ichiu" is coming true. Japs couldn't seem to make mistakes. [...]
    In 1927, one of them, baron Gīchi Tanaka made out a secret modern blueprint to archive this mad gree and handled it to the emperor. It is called a Tanaka Memorial, Japan's Mein Kampf.

戦後[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e 『日本大百科全書』(ニッポニカ)
  2. ^ 松村 2017a, p. 八紘一宇.
  3. ^ 松村 2017b, p. 八紘一宇.
  4. ^ a b 新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、106-107ページ ISBN 9784569626543
  5. ^ 『百科事典マイペディア』
  6. ^ a b 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』
  7. ^ 小学館デジタル大辞泉「八紘一宇」[1]
  8. ^ 三省堂大辞林「八紘一宇」[2]
  9. ^ “【正論】三原じゅん子の「八紘一宇」発言 その本義とは… 大原康男国学院大名誉教授”. 産経新聞. (2015年4月3日). https://www.sankei.com/column/news/150403/clm1504030001-n4.html 
  10. ^ 斎藤靖史、ケネス・ルオフポートランド州立大学助教授)「戦時下の世相検証 大佛次郎賞のルオフ助教授「平和の塔」視察」『朝日新聞(朝刊)』2005年7月20日、 30頁。
  11. ^ 毎日新聞・内田樹(倫理学者・神戸女学院大学名誉教授)「今週の本棚:沼野充義・評 『日本の反知性主義』=内田樹・編」『毎日新聞(東京朝刊)』2015年5月3日、 10頁。
  12. ^ a b 新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、103ページ
  13. ^ 新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、58ページ
  14. ^ 新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、107ページ
  15. ^ a b 森博達の研究によれば、この巻第三は帰化人の山田史御方によるもので和臭があるという。森『日本書紀の謎を解く』中央公論新社中公新書〉、1999年、[要ページ番号]
  16. ^ a b 橿原神宮について
  17. ^ 『晋書』武帝紀に「廓清梁、岷、包懐揚、越,八紘同軌,祥瑞屡臻」とあり、現代中国の代表的な辞書『漢語大詞典』では「八紘は広く天下を指し、八紘同軌とは天下一統をいう」としている。正史を元にした三国志演義では「四海為家」と言い換えている。四海も八紘に同じ。(三国志演義第百二十回)
  18. ^ 津田左右吉「日本歴史の研究に於ける科学的態度」二[3][4](「世界三」1946年(昭和21年)3月、津田左右吉歴史論集・岩波書店)
  19. ^ 島田裕巳「八紘一宇 日本全体を突き動かした宗教思想の正体」
  20. ^ 近代デジタルライブラリー書誌情報 43036425 (p. 325) 原著p. 664
  21. ^ 日本国体の研究 大正11年発行(2頁目)。これは「仏法・覚道、即ち法華経の一念三千の法門、並びに日蓮の三大秘法の法門によって日本国の理義が明らかになり解決を得た」という田中の解釈である。
  22. ^ 国会図書館デジタル化資料
  23. ^ 長谷川亮一は、「十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策」p. 38で「ここに至り、「八紘一宇」は「肇国の精神」にして「皇国の国是」という位置付けを得、さらに、新たに提唱された「大東亜新秩序」(大東亜共栄圏)とも結び付けられたことになる」と解説している。
  24. ^ 大辞林(三省堂)
  25. ^ 「広辞苑」(岩波書店)、「大辞泉」(小学館)
  26. ^ 神道指令(国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件(昭和二十年十二月十五日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官発第三号(民間情報教育部)終戦連絡中央事務局経由日本政府ニ対スル覚書)) 一のヌ「公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ却刻停止ヲ命令スル」連合国軍最高司令部指令(文部科学省)
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  59. ^ 桑原晋『大東亜新経済と欧洲新経済』ダイヤモンド社、1942年、110頁。
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  63. ^ 昭和維新の指導原理』東亜聯盟同志会編、彰考書院、1944年、3頁。
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  66. ^ 井上哲次郎『日本精神の本質』広文堂書店、1941年、417-418頁。「平和は功利を超越した道義心に由るより外は無い。苟も理性ある人間であるならば、道義に反対することは出来ない筈である。その道義に反対することの出来ない崇高遠大な精神に縁って永久の平和を実現するより外道は無いのである。   今我が日本の如き道徳を主とする国と英・米の如き利益を主とする国との摩擦・軋轢・闘争を根底より一掃するのには何によるかと云へば、矢張り理想主義・精神主義によるより外は無い。換言すれば、総ての人類を融合調和するに足るような道徳主義を以てするより外は無いであらう。此の精神を以て基調となして我が日本は世界を統一しなければならぬ。世界を統一すると云っても、固よりそれは侵略的の意味ではない。さういふ大事業を成し遂げようといふのには忽ち起って忽ち滅びるやうな国では駄目である。万古を貫いて変らぬところの国体を有する我が日本の如きものでなければ、此の大任を果すことは不可能であることは余り明瞭である。是に於いてか「天壌無窮・八紘一宇」の大理想を掲げて之れが実現を目的として世界的に発展する我が日本の大使命が何うして看過し得られようか。」
  67. ^ 小牧実繁『日本地政学』講談社、1942年、276頁。
  68. ^ 山本英輔『天皇帰一の生活』錦城出版社、1942年、116-119頁。「私は昨年の四月、この八紘一宇連盟の案を、私の友人の英語のうまい人に翻訳して貰ひ、之を外人に見せたところ、非常に穏健なことを書いてあるといふので、はじめて私に会ひたいといって来た。一番先に来たのが、英国大使館の情報部長、それから陸海軍武官、書記等であた。その時、いろいろ議論や意見を闘はした後、私は彼等に向っていった。『…結局八紘一宇の精神で、世界が融和帰一しなければ、真に世界の平和は来ないのである』と。…『いや、自分の研究したところでは、日本精神が一番いゝと思ふからだ、万一あなたの方に、これにまさるいゝ指導精神があるなら出し給へ。ほんとうにいゝものなら、いつでも賛成する」」
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参考図書[編集]

関連項目[編集]

西暦1940年の日本
理念
類似スローガン

外部リンク[編集]