十銭紙幣

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十銭紙幣(じっせんしへい)とは日本銀行券の1つ。

概要[編集]

い号券、A号券の2種類が存在する。小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律(額面一円未満の日本銀行券・政府紙幣・貨幣および一円黄銅貨を廃止)により1953年(昭和28年)末をもってどちらも失効した。紙幣券面の表記は『拾錢』。

い号券[編集]

Series Yi 10 Sen Bank of Japan note - front.jpg
Series Yi 10 Sen Bank of Japan note - back.jpg

1944年(昭和19年)10月25日の大蔵省告示第489号「日本銀行券ノ種類ニ拾錢券及五錢券ヲ加ヘ昭和十九年十一月一日ヨリ之ヲ發行ス」[1]で紙幣の様式が定められている。

  • 日本銀行券
  • 額面 拾錢(10銭)
  • 表面 八紘一宇塔
  • 裏面 彩紋
  • 印章 〈表面〉総裁之印、発券局長 〈裏面〉なし
  • 銘板 大日本帝國印刷局製造
  • 記番号仕様
    • 記番号色 赤色[通し番号なし(組番号のみ)]
    • 記番号構成 〈記号〉組番号:数字1 - 2桁 〈番号〉通し番号なし
  • 寸法 縦51mm、横106mm[1]
  • 製造実績
  • 発行開始日 1944年(昭和19年)11月1日[1]
  • 通用停止日 1953年(昭和28年)12月31日[4]
  • 発行終了
  • 失効券

太平洋戦争中には金属が不足し、硬貨を小さくしたり、劣悪な材質の硬貨を製造したりしていた[注 2]が、その後貨幣用材料の枯渇によりい五錢券とともに、小額な額面の小型紙幣が発行された。当初は五拾錢券と同様に小額政府紙幣で代替する方針であったが、政府紙幣の新規額面の発行には法改正が必要であり、急を要することから大蔵大臣の告示のみで対応可能な日本銀行券として発行された。当時は印刷局の業務が外地占領地向け紙幣、軍票公債などの証券類などの製造に繁忙を極めていたため、い十錢券のデザイン決定後に行われる彫刻、製版、印刷、検査、仕上げといった各工程は民間企業の凸版印刷に全て委託された[5]

表面には1940年(昭和15年)に宮崎県に建てられた八紘一宇塔(正式名称は八紘之基柱、現・平和の塔)が、瑞雲の隙間から光線が降り注ぐ光景の地模様と共に描かれている。裏面は左右に桜花型の彩紋と組み紐模様、中央は青海波があしらわれており、外周部分は券面の端まで波線模様で埋め尽くされている。裏面の簡素さや記番号の省略(通し番号はなく組番号(記号)のみの表記)など粗悪な作りになっている。白透かしによるのちらし透かしがあるが、確認は困難。

A号券[編集]

Series A 10 sen Bank of Japan note - front.jpg
Series A 10 sen bank of japan note -back.jpg

1947年(昭和22年)9月5日の大蔵省告示第205号「昭和二十二年九月五日より発行する日本銀行券拾銭券の樣式を左の略図の通り定める」[6]で紙幣の様式が定められている。

  • 日本銀行券
  • 額面 拾錢(10銭)
  • 表面
  • 裏面 国会議事堂
  • 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉なし
  • 銘板 印刷局製造
  • 記番号仕様
    • 記番号色 赤色[通し番号なし(組番号のみ)]
    • 記番号構成 〈記号〉「1」+組番号:数字1 - 3桁+製造工場:数字2桁 〈番号〉通し番号なし
  • 寸法 縦52mm、横100mm[6]
  • 製造実績
  • 発行開始日 1947年(昭和22年)9月5日[6]
  • 通用停止日 1953年(昭和28年)12月31日[4]
  • 発行終了
  • 失効券

戦後になり、紙幣改刷時に券面のデザインについてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の承認が必要となった。加えて、1946年(昭和21年)にはGHQにより軍国主義的と見做されたデザインの紙幣と郵便切手の新規発行が原則禁止された[注 4]ことを受け、小額紙幣のデザインの改訂を行ったものである。

デザインに鳩や国会議事堂を使うなど戦時中のい号券と印象が異なっている。表面右側には平和の象徴とされる鳩が、裏面左側には民主主義の象徴として国会議事堂が描かれている。菊花紋章が描かれた最後の紙幣であり、旧字体・右横書き[注 5]で文言が記載されている最後の紙幣でもある。透かしはない。印章は表面の「総裁之印」の1個のみである。印刷方式は両面とも平版印刷である。

記番号については、通し番号はなく記号のみの表記となっている。記号の下2桁が製造工場を表しており、下表の通り製造された7箇所の印刷所別に分類できる。製造期間は1947年度から1949年度までであった。

製造工場 記号下2桁
大蔵省印刷局滝野川工場 12
大蔵省印刷局静岡工場 32
凸版印刷板橋工場 13
凸版印刷大阪工場 33
共同印刷小石川工場 15
東京証券印刷王子工場 16
東京証券印刷小田原工場 26

使用色数は、表面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色)、裏面1色となっている。

参考文献[編集]

  • 植村峻『紙幣肖像の近現代史』吉川弘文館、2015年6月。ISBN 978-4-64-203845-4
  • 利光三津夫、 植村峻、田宮健三『カラー版 日本通貨図鑑』日本専門図書出版、2004年6月。ISBN 978-4-93-150707-4
  • 大蔵省印刷局『日本のお金 近代通貨ハンドブック』大蔵省印刷局、1994年6月。ISBN 978-4-17-312160-1
  • 大蔵省印刷局『日本銀行券製造100年・歴史と技術』大蔵省印刷局、1984年11月。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 17組と18組は未確認。
  2. ^ 開戦前は白銅青銅や純ニッケルを材料とした硬貨が発行されていたが、軍需用資材として転用させられたため、黄銅、更にアルミニウムなどを材料とした硬貨に代えられた。また、戦況の悪化に伴い寸法や量目(重量)についても度重なる縮小・削減が行われている。更に戦況が悪化すると、果ては貨幣用として適当な素材とは言い難い亜鉛合金を材料とした硬貨も発行されたが、大戦末期までにこれらの素材すらも枯渇状態に陥っている。1945年(昭和20年)の終戦時に製造されていた硬貨は、一銭錫貨のみという状況となっていた。
  3. ^ 記号の頭1桁と下2桁を除いた残り1 - 3桁
  4. ^ 郵便切手については軍国主義的と見做されたデザインのものは発行及び使用が即時禁止された(追放切手)が、紙幣については従前から継続して発行・流通しているものについては引き続き発行・使用することが認められていた。
  5. ^ 厳密には1行1文字の縦書き

出典[編集]

  1. ^ a b c 1944年(昭和19年)10月25日大蔵省告示第489號「日本銀行券ノ種類ニ拾錢券及五錢券ヲ加ヘ昭和十九年十一月一日ヨリ之ヲ發行ス
  2. ^ a b c d 大蔵省印刷局『日本銀行券製造100年・歴史と技術』大蔵省印刷局、1984年11月、312-313頁。
  3. ^ a b 大蔵省印刷局『日本のお金 近代通貨ハンドブック』大蔵省印刷局、1994年6月、242-255頁。ISBN 9784173121601
  4. ^ a b 1953年(昭和28年)7月15日法律第60号「 小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律
  5. ^ 植村峻『紙幣肖像の近現代史』吉川弘文館、2015年6月、177-181頁。ISBN 9784642038454
  6. ^ a b c 1947年(昭和22年)9月5日大蔵省告示第205號「昭和二十二年九月五日より発行する日本銀行券拾銭券の樣式を左の略図の通り定める

関連項目[編集]