無文銀銭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search

無文銀銭(むもんぎんせん)は、近江朝時代(667年~672年)に発行され、日本最古の貨幣といわれている私鋳銀貨。実際には地金価値で取引されたと考えられ秤量貨幣または計数貨幣とされる。江戸時代など後代にも豆板銀丁銀等の銀の秤量貨幣が西日本では使用されている。ただし、7世紀当時に発見された銀山は、対馬銀(『日本書紀』)であり、戦国期以降に流通した岩見銀ではない(対馬銀山の項目も参照)。

直径約3センチメートル、厚さ約2ミリメートル、重さ約8-10グラム(古代の1両の1/4にあたる6銖に相当(1両=24銖))。今までに大和で7遺跡、近江で6遺跡、摂津・河内・山城・伊勢の地域で1遺跡ずつの合計17遺跡から約120枚出土している。

銀の延べ板を裁断加工して作られ、古銭の特徴である四角い孔がみられず、小さな孔があるだけである。一般に「和同開珎」のような銭文はないが、「高志」「伴」「大」と刻まれたものも出土している。表面に銀片を貼り付けてあるものが多く、重さを揃えるためだったとされる。

日本書紀天武天皇12年(683年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」とあり、富本銭以前に流通していた銀銭ではないかと考える説もある。また、和同開珎が銀銭を先に発行していることと、無文銀銭との関係を指摘する説もある。他にも九州王朝発行説などがある[1]

無文銀銭が用いられていた当時、朝鮮半島では銀銭は使用されておらず(後述書 pp.139 - 140)、中国でも銅銭が主流であったが(同書)、その理由について、田中史生は『越境の古代史』において、次のような旨で解釈している。新羅・百済・高句麗では、金銀の使用は王権の規制が働き、王権の身分秩序の表象としての機能を備えていたことは、文献・考古学的にも証明されている。それに対し、7世紀以前の日本では、金銀を国際社会からの供給に頼っていたため、各豪族(首長)が入手し、王権の規制を受けず、多元的に流通する下地があった。さらに当時、銀銭を使用していた国は、東南アジアと中央アジアの国であったことから、これらの国からの渡来人の影響が考えられ、『紀』白雉5年(654年)のトカラ国人が漂着した記事に目を付け、こうした漂着渡来人と関連したものではないかと考察する(『越境の古代史』 角川スフィア文庫 2017年 pp.139 - 142)。

『日本書紀』顕宗天皇2年10月6日486年11月17日)条に「稲斛銀銭一文」とあり、この時代の銀銭の使用を示すものであるとする見解もある。7世紀以前については、『魏志』東夷伝・弁辰の条に、「韓・濊(わい)・倭、皆従ってこれ(鉄)を取る。諸市(物品を)買うに皆鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」と記述され、鉄が銭貨の代わりとして流通していた記述があり、考古学的にも古墳時代からは鉄鋌(てつてい、鉄板)が1147枚出土しており、その中でも1057枚が畿内に集中しており(鈴木靖民 『日本の時代史2 倭国と東アジア』 吉川弘文館 2002年 p.113)、これらの記述と出土遺物から、『紀』の5世紀末の記事にみられる銀銭とは鉄鋌のことであると考古学者の白石太一郎は主張している。熊谷公男も、鉄鋌には、重さに一定の規格が認められ、貨幣に代わる機能を果たしていた可能性があるとしている(熊谷公男 『日本の歴史03 大王から天皇へ』 講談社 2001年 pp.29 - 30)。

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]