小額政府紙幣
小額政府紙幣(しょうがくせいふしへい)とは、20世紀前半に日本で発行された小額の政府紙幣の総称である。
概要[編集]
日本では、中央銀行である日本銀行が設立された後には、通貨制度の管理と銀行券の発券は日本銀行が行い、政府自体が紙幣を発行することはなかった。ただし銭単位や厘単位の補助貨幣および硬貨は造幣局が製造し政府が発行していた。しかし、材料の価格高騰や欠乏により金属使用が難しくなり硬貨の継続発行が困難となったことで補助貨幣が政府紙幣として発行されたことがあった。
いずれも不換紙幣であり法的拘束力を以って通用させられていた。また政府紙幣は償還不要かつ金利不要で債務にならないことから無制限に発行すれば猛烈なインフレーションを発生させる危険性があるため、硬貨と同様に国庫の預金を引当て準備金として発行していた。
これらの小額政府紙幣には、表面に「大蔵大臣」という印章が印刷されている。靖国神社50銭までの紙幣ではその印章の上部に菊紋が施されているが、板垣50銭の印章には菊紋がない。また記番号についてはいずれの券種も通し番号はなく記号のみの表記となっている。
大正小額政府紙幣[編集]
- 大日本帝國政府紙幣
- 額面 10銭(拾錢)、20銭(貳拾錢)、50銭(五拾錢)
- 表面 菊花紋章、発行年
- 裏面 彩紋模様、偽造罰則文言
- 印章 〈表面〉大蔵大臣 〈裏面〉なし
- 銘板 大日本帝國政府印刷局製造
- 記番号色 赤色(記号のみ)
- 記年号
- 大正6年 - 大正10年(50銭券)
- 大正6年 - 大正8年(20銭券)
- 大正6年 - 大正11年(10銭券)
- 寸法
- 縦65mm、横103mm(50銭券)
- 縦58mm、横92mm(20銭券)
- 縦54mm、横86mm(10銭券)
- 製造期間[1]
- 製造枚数[1]
- 685,350,048枚(10銭券:6853万5004円80銭分)
- 55,000,048枚(20銭券:1100万0009円60銭分)
- 683,930,048枚(50銭券:3億4196万5024円分)
- 発行 1917年(大正6年)11月8日
- 廃止 1948年(昭和23年)8月31日
大正時代まで日本では10銭、20銭、50銭は銀貨で発行されていた。しかし第一次世界大戦で日本は欧州戦線から遠く離れていたこともあり戦争特需で大幅な貿易黒字をもたらされた反面、価格高騰による戦時インフレが発生した。そのため銀価格が急騰し、銀貨の額面を超える価格になったため、銀貨が鋳潰される危機に陥った。当初は、銀貨の発行継続のために銀の含有量を減らした銀貨(八咫烏銀貨)を発行することを検討したが、さらに銀価格が高騰したため、ついに銀貨発行は停止した。銀貨の発行が困難になったが、補助通貨の不足を補う為に政府紙幣が発行された。
図案は明治時代に発行された改造紙幣の低額面のそれを流用したもので、明治時代の改造紙幣の銭単位の券は50銭と20銭のみで10銭はなかったが、この大正小額政府紙幣では20銭の図案を元にして10銭の図案が作られた。一部文字等のデザインが変更になった(具体的には、文字の書体や模様の印刷色などが変更され、券面右側の改造紙幣で大蔵卿印に相当する場所に額面金額のアラビア数字が入り、券面左側に大蔵大臣印が入るなど)ほか、硬貨と同じく発行年が記入されている。なお記年号は上記の通りである。
表面中央の菊花紋章の周囲には右側に桂、左側に樫、下側に勲章の菊花章があしらわれているが、これは流用元の改造紙幣と同様の図柄である。3券種いずれも、偽造罰則文言は「此紙幣ヲ贋造シ或ハ贋造ト知テ通用スル者ハ國法ニ處スベシ」(現代語訳:この紙幣を偽造し、あるいは偽造と知って使用する者は法律により処罰される)、透かしは縦線条である。
1919年(大正8年)末の政府紙幣の流通額は1億4530万円であった。発行に際し政府は大戦終結後1年までしか発行できないという制約を取り決めたが、1919年(大正8年)の大戦終結後もしばらくは補助通貨の不足が続いた為、しばらくは発行継続され、1922年(大正11年)まで政府紙幣は発行された。戦争終結により銀価格が落ち着いた為に銀貨の発行は再開されたが、10銭硬貨は白銅(ニッケルと銅の合金)素材に変更され、50銭硬貨は小型化し(小型鳳凰50銭銀貨)、20銭硬貨は発行されなくなった(貨幣法により20銭銀貨が小型鳳凰50銭銀貨と同様の図案で小型化されたものが制定されていたが試作のみに終わった)。小額紙幣整理法により、1948年(昭和23年)8月31日限りで通用禁止。
小額政府紙幣 (富士桜)[編集]
- 大日本帝國政府紙幣
- 額面 50銭(五拾錢)
- 表面 富士山(越前岳から望む富士山)、桜、旭日、発行年
- 裏面 彩文模様
- 印章 〈表面〉大蔵大臣 〈裏面〉なし
- 銘板 内閣印刷局製造
- 記番号色 赤色(記号のみ)
- 記年号 昭和13年
- 寸法 縦65mm、横105mm
- 製造期間 1938年(昭和13年) - 1942年(昭和17年)[1]
- 製造枚数 1,633,000,200枚[1](8億1650万0100円分)
- 発行 1938年(昭和13年)6月1日
- 廃止 1948年(昭和23年)8月31日
日中戦争が勃発し、政府は1938年(昭和13年)に臨時通貨法を制定し、補助通貨の変更は帝国議会で貨幣法改正を行う必要はないとした。この臨時貨幣法を活用して、政府は1938年(昭和13年)6月1日から50銭銀貨にかわる50銭の政府紙幣が発行された。これは戦略物資の銀を温存する為の措置であった。
この50銭紙幣であるが発行年の記年号は「昭和十三年」とともに、当時皇国史観が隆盛を極めていたこともあり「紀元二千五百九十八年」と皇紀による年号が併記されていた。表面の風景は、静岡県にある愛鷹山塊の越前岳から見た富士山であり、山頂上方には八稜鏡の輪郭、下部には山桜が描かれている。また、印刷も銀貨の代用である為、凹版印刷による銀行券と遜色のないものであった。題号は「大日本帝国政府紙幣」、銘板は「内閣印刷局製造」、透かしは波線の連続模様である。
小額紙幣整理法により、1948年(昭和23年)8月31日限りで通用禁止。
小額政府紙幣 (靖国神社)[編集]
- 大日本帝國政府紙幣(前期)、日本帝國政府紙幣(後期)
- 額面 50銭(五拾錢)
- 表面 靖国神社第二鳥居および神門、金鵄、桜花、発行年
- 裏面 高千穂峰
- 印章 〈表面〉大蔵大臣 〈裏面〉なし
- 銘板 記載なし
- 記番号色 赤色(記号のみ)
- 記年号
- 昭和17年~19年(前期)
- 昭和20年(後期)
- 寸法 縦65mm、横105mm
- 製造期間[1]
- 製造枚数[1]
- 1,060,000,000枚(前期:5億3000万円分)
- 891,600,000枚(後期:4億4580万円分)
- 発行
- 廃止 1948年(昭和23年)8月31日
真珠湾攻撃により太平洋戦争に突入し、政府の印刷局では日本銀行券や軍用手票といった紙幣を増産しなければならなくなった。そのため政府紙幣のデザイン作成から印刷までを一貫して民間企業の凸版印刷株式会社に委託することになった。それにともない図案は靖国神社に、印刷方法は凸版多色刷りに変更された。
表面は靖国神社の第二鳥居および奥に神門が、金鵄、桜花と共に印刷されている。元号による記年号が印刷されており、製造年がわかるようになっているが、富士桜の50銭紙幣とは違い、皇紀による表記は採用されていない。また銘板は記載されていない。裏面は霧島火山群にある高千穂峰の風景である。透かしは「50」の文字と波線の連続模様である。
後期の昭和20年銘のものは、GHQの占領政策の下で製造された。資材不足により一部凸版から平板に変更されているなど印刷の簡素化がされている。流通は1946年(昭和21年)3月5日から。占領下では紙幣の図案についてはGHQの許可が必要であった。例えばこの時期に日本銀行が申請した新紙幣案が拒否されている(菩薩像のA号五百円券)。GHQは郵便切手については、靖国神社を描いたものを含む国家神道に関係する図案のものを使用禁止にした(追放切手)が、一方この靖国神社図案の紙幣については引き続き製造と流通を容認したことから、図案は前期分と同様である。ただし題号の「大日本帝国政府」の文字は「日本帝国政府」に変更されたほか、地模様の刷色が2色のグラデーションから単色に簡素化されている。透かしも桐の連続模様のちらし透かしに変更されている。後期発行分のものは通称「A五拾銭券」とも呼ばれる[2]。
小額紙幣整理法により、1948年(昭和23年)8月31日限りで通用禁止。
小額政府紙幣 (板垣五十銭)[編集]
- 日本政府紙幣
- 額面 50銭(五拾銭)
- 表面 板垣退助
- 裏面 国会議事堂
- 印章 〈表面〉大蔵大臣 〈裏面〉なし
- 銘板 印刷局製造
- 記番号色 赤色(記号のみ)
- 記年号 記載なし
- 寸法 縦60mm、横108mm
- 製造期間 1947年(昭和22年)9月 - 1949年(昭和24年)[1]
- 製造枚数 1,400,000,000枚[1](7億円分)
- 発行 1948年(昭和23年)3月10日
- 廃止 1953年(昭和28年)12月31日
戦時中に軍が使用していた薬莢、弾帯、黄銅棒、信管など黄銅の材料が多量に存在することが判明し、造幣局は払い下げを受けて1946年(昭和21年)から50銭黄銅貨の製造を始めた。これにより一旦50銭紙幣は製造・発行が中止され50銭硬貨に戻ることになった。しかしインフレーションが激しい時期であり、翌年には材料節約のために小型化した50銭黄銅貨に改正された。さらにインフレーションは進行したため、このままでは50銭硬貨の製造そのものが不可能になる可能性があるとして、大蔵省(現在の財務省)は新たに50銭政府紙幣の発行を決定した。
肖像は板垣退助が採用され、表面右側には肖像、裏面には真正面から見た国会議事堂を描いている。題号が従来の「日本帝国政府紙幣」から「日本政府紙幣」に変更され、菊花紋章が削除されている。他の小額政府紙幣とは異なり製造年は表示されていない。また、印刷は両面とも平版印刷で透かしのないパルプ用紙が使用されており、粗雑なものであった。通称「B五拾銭券」とも呼ばれる[2]。
また印刷には民間印刷会社へ委託されていた。通し番号はなく記号のみの表記で、記号は4桁以上の数字で構成され、先頭の桁は政府紙幣を表す「2」となっており(同時期のA号日銀券の記号は先頭の桁が「1」となっていた)、末尾の2桁は下表のとおり製造工場を表し、先頭1桁と末尾2桁を除いた部分が組番号となり、1記号につき500万枚製造されていた。9工場で製造されたが、このうち東京証券印刷小田原工場(26)のものは製造枚数・現存枚数が少なく現在の古銭市場での価値が高くなっている。印刷された工場に関わらず、銘板は「印刷局製造」である。
製造工場 | 記号下2桁 |
---|---|
大蔵省印刷局滝野川工場 | 12 |
凸版印刷板橋工場 | 13 |
凸版印刷富士工場 | 23 |
凸版印刷大阪工場 | 33 |
大日本印刷榎町工場 | 44 |
共同印刷小石川工場 | 15 |
東京証券印刷王子工場 | 16 |
東京証券印刷小田原工場 | 26 |
帝国印刷芝工場 | 17 |
使用色数は、表面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色)、裏面1色となっている。
その後、「銭」単位は、インフレーションによって事実上意味を成さないものとなり、1953年(昭和28年)7月に小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律が制定された。この法律により、1953年(昭和28年)末限りで銭及び厘単位の硬貨と紙幣(日本銀行券及び政府紙幣)が全て廃止(通用停止)され、結果として全ての政府紙幣が廃止された。
透かし[編集]
備考[編集]
太平洋戦争に突入すると、硬貨に使う金属材料が足りなくなっていったため、大戦末期から戦後にかけて、5銭と10銭が紙幣化されたが(詳細は五銭紙幣と十銭紙幣の項目を参照)、これらは政府紙幣ではなく日本銀行券として発行された。この頃には紙幣も低質になっている。
参考文献[編集]
- 『日本紙幣収集辞典』 原典社 2005年
- 植村峻『紙幣肖像の近現代史』吉川弘文館、2015年6月。ISBN 978-4-64-203845-4。
脚注[編集]
出典[編集]
関連項目[編集]
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