渡来銭
渡来銭(とらいせん)は、平安時代末期から江戸時代初期にかけて[1]日本国内で流通した、外国製の銭貨。中国のものが主体であるが、安南・朝鮮などのものもある。海外渡来銭ともいう[2]。
概要[編集]
渡来銭は、少数ならば皇朝十二銭の時代には既に日本へ流入し、流通もしたと考えられる[3]。
皇朝十二銭は乾元大宝(958 - 963)を最後に発行されなくなるが、当時の貨幣政策の失敗が長く禍根となり、人々の支払手段は昔ながらの物々交換または物品貨幣(米・布帛・金属など[4])に戻った[5]。
平安時代末期になると、商品取引も盛んになり、銭貨使用のニーズも高まったが、当時の日本は銭貨鋳造能力を喪失しており、主として中国から輸入した銭貨をそのまま使用することとなった[3]。
11世紀初めより、大宰府が置かれていた博多には中国人商人が来航するようになる[6]が、11世紀後半には、博多の中国人コミュニティとその周辺で宋銭が使用されていた[7]。こうした宋銭の使用に対し、検非違使(のち明法博士)の中原基広が「(宋銭は)私鋳銭に等しいもの」として流通の禁止を主張する[8]など、公家社会では根強い反対の意見が存在した。しかし、新興勢力の武士たちは公家にはない特権として宋銭の輸入につとめた[6]。
渡来銭のうち、多くのものは直径8分(24ミリメートル)、質量1匁(3.75グラム)で、銭文(例:〇〇通宝)の区別なく1枚1文で通用した[2]。1670年に至り、江戸幕府は日本国内での寛永通宝以外の銭貨の使用を禁止するが、独立した国家でありながら約500年にわたって外国通貨をそのまま自国通貨として流通させた例は世界史上他に例がない[5]。ただし実際には、1670年以降も寛永通宝の100文の銭さしの中に紛れて使用されることがあったという[9]。
主な種類[編集]
古いものでは唐(618 - 907)以前の「半両」「五銖」「貨泉」(BC221 - AD585)[10]などもあるが、唐・北宋(960 - 1127)・南宋(1127 - 1279)・金(1115 - 1234)・元(1271 - 1368)・明(明銭)(1368 - 1644)の各王朝が発行した銭貨が現存する。特に多いのが北宋の銭貨(宋銭)である。また、朝鮮半島の高麗(918 - 1392)・李氏朝鮮(1392 - 1897)の銭貨、安南の丁朝(966 - 980)・陳朝(1225 - 1400)・黎朝(1428 - 1789)の銭貨も渡来銭に含まれる。さらに琉球王国の銭貨も渡来銭同様に流通した[5]。
関連項目[編集]
出典[編集]
- ^ 日本貨幣カタログ 2009, p. 146.
- ^ a b 日本国語大辞典 2001, p. 162.
- ^ a b 貨幣手帳 1972, p. 14.
- ^ 日本の貨幣 1972, p. 222.
- ^ a b c 日本貨幣図鑑 1981, p. 192-193.
- ^ a b 日本の貨幣 1972, p. 223-224.
- ^ 高木 2016, p. 25.
- ^ 日本の貨幣コレクション 2019a, p. 14.
- ^ 日本貨幣カタログ 2009, p. 151.
- ^ 日本貨幣カタログ 2009, p. 145.
参考文献[編集]
- 『日本国語大辞典 第二版』 第三巻、小学館、2001年3月20日、162頁。ISBN 4-09-521003-6。
- 郡司勇夫 編 『日本貨幣図鑑』東洋経済新報社、1981年10月15日、192-193頁。
- 日本貨幣商協同組合 編 『日本貨幣カタログ2010年版』日本貨幣商協同組合、2009年12月1日。ISBN 978-4-930810-14-4。
- 日本銀行調査局 編 『図録 日本の貨幣』 1巻、土屋喬雄, 山口和雄(監修)、東洋経済新報社、1972年11月1日。
- 青山礼志 編 『貨幣手帳 1973年版』頌文社、1972年9月1日。
- 高木久史 『通貨の日本史』中央公論新社〈中公新書2389〉、2016年8月25日。ISBN 978-4-12-102389-6。
- 高木久史 『撰銭とビタ一文の戦国史』平凡社、2018年8月24日。ISBN 978-4-582-47740-5。
- 「貨幣の歴史ミュージアム 平安」 『日本の貨幣コレクション』アシェット・コレクションズ・ジャパン、2019年。
- 「貨幣の歴史ミュージアム 鎌倉」 『日本の貨幣コレクション』アシェット・コレクションズ・ジャパン、2019年。