日本の原子爆弾開発

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日本の原子爆弾開発(にほんのげんしばくだんかいはつ)では、第二次世界大戦中に日本で行われた原子爆弾の開発計画と、第二次世界大戦後の状況について記述する。

第二次世界大戦中の原子爆弾開発[編集]

第二次世界大戦(太平洋戦争)中、軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。大日本帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)と大日本帝国海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字より)である[注 1]

ニ号研究・F研究の開始[編集]

日本の原子爆弾の開発研究は、1940年4月陸軍航空技術研究所長の安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎[注 2]に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じたことから始まった。鈴木は東京帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出した。安田はその報告書を持って東条英機陸軍大臣ら軍の上層部に原子爆弾の開発を提案するとともに、各大学、研究機関、主な民間企業にも報告書を配布した(この時点ではまだ機密ではなかった)。1941年5月陸軍航空技術研究所から理化学研究所の大河内正敏所長に「ウラン爆弾製造の可能性について」の研究が正式に依頼された。これを受けて仁科芳雄研究室長は6月から研究に着手した(仁科は当初この要請を断ったという証言もある[2])。その2年後、1943年5月に「技術的にウラン爆弾製造は可能と考えられる」という内容の報告書を提出した[注 3]。この報告を受け、航空本部長に就いていた安田中将は直ちに部下の川島虎之輔大佐に研究の推進を命ずるとともに、これを最高軍事機密扱いにし、航空本部直轄の研究とした。以後、川島が中心になって研究が進められることになった[3][4]

アメリカ合衆国によるマンハッタン計画が開始された翌年の1943年1月に、理化学研究所の仁科博士を中心にニ号研究(仁科の頭文字から[5])が開始された。この計画は天然ウラン中のウラン235熱拡散法で濃縮するもので、1944年3月に理研構内に熱拡散塔が完成し、濃縮実験が始まった。

理化学研究所における二号研究では、仁科研究室にウランを供給するため飯盛研究室も参加した。室長の飯盛里安は、ウランが核エネルギー源になることが知られる以前の1922年からウラン鉱の探索を行っていた実績を買われたためである。当時ウランの用途はほとんど無く、飯盛はウランが目的でなく放射科学の研究に必要なラジウムを得ることが目的であった(ラジウムは常にウランと共存している)。仁科研究室の体制は、木越邦彦が六フッ化ウランの製造、玉木英彦ウラン235の臨界量の計算、竹内柾が熱拡散分離装置の開発、山崎文男がウラン235の検出を受け持ち、陸軍航空本部から物理化学系大学出の若い10人の将校が派遣され研究テーマごとの班に配属されていた[4][6]

海軍で一番早く原子爆弾に注目したのはの海軍技術研究所の伊藤庸二大佐(電波兵器が専門)である(1939年頃)。1941年11月、アメリカの不審な動き(ウラン鉱石の国外持ち出し禁止など)を察知して知友である東大医学部の日野寿一と理学部の嵯峨根遼吉に原子爆弾の開発を相談した。両名ともその調査の必要性を力説した。その月の終わりまでに海軍技術研究所の上司・電気研究部長佐々木清恭にこの件を諮った。佐々木は日野、嵯峨根の意見を聞き、関係方面と交渉の結果海軍技術研究所の責任において調査に乗り出すことに決定した。ただしこの計画書の目的は原子力機関となっていて原子爆弾の文字は無い。もちろん、本当の目的は原子爆弾であったが、刺激的な文句は使うまいという心遣いであった[1]

海軍は、原爆研究機関「核物理応用研究委員会」(委員長は仁科芳雄)を発足させ、第一回の会合を1942年7月8日、芝の水交社で開催した。メンバーは理研の長岡半太郎、東大の西川正治、嵯峨根遼吉、日野寿一、水島三一郎、阪大の浅田常三郎、菊池正士、東北大の渡辺寧、仁科存、東京芝浦電気マツダ支社の田中正道らであった。この委員会は1943年3月6日まで十数回開催された。しかし、戦局が進むにつれ「電波兵器(レーダー)研究担当の立場にある者が余分な事に力を浪費している」との批判が部内から出たため、この研究は中止されることになった。研究の中止に際して伊藤大佐は「だれかほかに代わってやってくれる人はないものか」と嘆いたという。この委員会で出された結論は「原子爆弾は明らかにできるはずだ。ただ、米国といえども今次の戦争中に実現することは困難であろう」というものであった[1]

当時は岡山県鳥取県県境に当たる人形峠にウラン鉱脈があることは知られておらず、1944年から朝鮮半島満洲モンゴル新疆の地でもウラン鉱山の探索が行われたが、はかばかしい成果がなかった。同年12月に日本陸軍は福島県石川郡石川町でのウラン採掘を決定した。1945年には飯盛里安が率いる実験施設の理研希元素工業扶桑第806工場を開設し、4月から終戦まで旧制私立石川中学校の生徒を勤労動員して採掘させた[7][8][9][10]。しかし、そこで採掘される閃ウラン鉱燐灰ウラン石・サマルスキー石等は、ごく少量であり、ウラン含有率も少ないものであった。一方、日本海軍は、中国の上海におけるいわゆる闇市場で130kgの二酸化ウランを購入する一方、当時、チェコのウラン鉱山がナチス・ドイツ支配下にあったので、ナチス・ドイツの潜水艦 (U-234) による560kgの二酸化ウラン輸入も試みられたが、日本への輸送途中でドイツの敗戦となり、同艦も連合国側へ降伏してしまった(この点に関して、詳細はU-234及び遣独潜水艦作戦の項目参照)[11]。こうして、どちらにせよ原子爆弾1個に必要な臨界量以上のウラン235の確保は絶望的な状況であった。

また、技術的には、理化学研究所の熱拡散法はアメリカの気体拡散法(隔膜法)より効率が悪く、10%の濃縮ウラン10kgを製造することは不可能と判断されており、京都帝国大学の遠心分離法1945年の段階でようやく遠心分離機の設計図が完成し材料の調達が始まった所だった。

原爆の構造自体も現在知られているものとは異なり、容器の中に濃縮したウランを入れ、さらにその中に水を入れることで臨界させるというもので、いわば暴走した軽水炉のようなものであった[12]。濃縮ウランも10%程度ものが10kgで原爆が開発できるとされていた。この原爆開発原理には基本的な誤りがあったことが、黒田和夫の保管していた旧陸軍内部文書により発見された[13]。しかし、同様の経緯である1999年9月の東海村JCO臨界事故により、殺傷力のある放射線が放出されることは明らかとなっている。

原爆投下の直後の1945年8月14日ポツダム宣言受諾時、日本の原爆開発は最も進んだところでも結局は基礎段階を出ていなかった。

研究打ち切りと敗戦[編集]

1945年5月15日アメリカ軍による東京大空襲で熱拡散塔が焼失したため、研究は実質的に続行不可能となった[14]。その後、地方都市(山形、金沢、大阪)での再構築をはじめた[11]が、同6月に陸軍が研究を打ち切り、7月には海軍も研究を打ち切り、ここに日本の原子爆弾開発は潰えた。

日本は、8月6日広島市への原子爆弾投下8月9日長崎市への原子爆弾投下で被爆し、8月14日ポツダム宣言を受諾した(調印は9月2日)。敗戦後、GHQにより理化学研究所の核研究施設は破壊された[11]。なお、この際に理研や京都帝大のサイクロトロンが核研究施設と誤解されて破壊されており、その破壊行為は後に米国の物理学者たちにより「人類に対する犯罪」などと糾弾され[15]、当時のアメリカ陸軍長官であるロバート・ポーター・パターソンが破壊を誤りと認めた[16](ただし、京都帝大のサイクロトロンの「ボールチップ」と呼ばれる部品は関係者の手で保管され、現在は京都大学総合博物館に収蔵されている[17])。F研究責任者だった荒勝文策の当時の日誌によると、1945年11月20日に進駐軍将校が来訪し、荒勝は「全く純学術研究施設にして原子爆弾製造には無関係のもの」と抗議したがGHQの命令として受け入れられず、施設破壊後の実験室を「惨憺たる光景であった」と記している[16]。荒勝には施設破壊ばかりではなく研究関連文書やウラン・重水などの提出も求められた[16]。その後、1947年1月に極東委員会が原子力研究の禁止を決議し、占領が終了するまで原子核の研究は一切不可能となった[16]

ニ号研究・F研究には当時の日本の原子物理学者がほぼ総動員され、その中には戦後ノーベル賞を受賞した湯川秀樹(F研究)も含まれていた[18]。関係者の中からは、戦後に湯川を始め被爆国の科学者として核兵器廃絶運動に深く携わる者も現れるが、戦争中に原爆開発に関わったことに対する釈明は行われなかった。この点に関し、科学史を専門とする常石敬一は「少なくとも反核運動に参加する前に、日本での原爆計画の存在とそれに対する自らの関わりを明らかにするべきであった。それが各自の研究を仲間うちで品質管理をする、というオートノミー(引用者注:自治)をもった科学者社会の一員として当然探るべき道だったろう」と批判している[19]

ニ号研究に投入された研究費は、当時の金額で約2000万円であった。ちなみに、アメリカのマンハッタン計画には、約12万人の科学者・技術者と約22億ドル(約103億4千万円、当時の1ドル=4.7円)が投入されている[11]

昭和天皇と原子爆弾[編集]

日本はポツダム宣言を受諾したが昭和天皇は玉音放送の中で「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(かく)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(せきし)ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ」と原子爆弾に対する抗議を行った[20]

第二次世界大戦後の状況[編集]

第二次世界大戦後の日本は、原子爆弾・水素爆弾などの核爆弾を含む核兵器を保有しておらず、開発計画もない。

1953年12月8日アイゼンハワーアメリカ合衆国大統領国連総会で「原子力の平和利用 (Atoms for Peace)」と題する演説を行い、日本にも原子力を平和のために利用することの道が開かれてから、日本は原子力開発を非軍事に限定して積極的に行ってきた。理由は石油などのエネルギー源をほとんど海外に依存している事への危険感からである。

1954年に、初の原子力予算を成立させ、日本原子力研究所を設置した。これを皮切りに、複数の大学民間企業研究用原子炉を建設し、原子力発電を主目的として核技術の研究を再開した。更に核燃料サイクルの完成を目指して、高速増殖炉常陽もんじゅ)や新型転換炉ふげん)、再処理工場東海再処理施設六ヶ所再処理工場)などの開発を積極的に行っている。この分野では核兵器非保有国の中で最も進んでおり、原料となる使用済み核燃料も大量に保有している。なお、原子力基本法では「原子力の研究、開発および利用は、平和目的に限る」と定められており、核燃料の供給国と結ばれた二国間の原子力協定でも、軍事転用や核爆発装置の開発が行われた場合の返還義務を明示している。

また、日本は国際原子力機関 (IAEA) による世界で最も厳しい核査察を受け入れている国でもある(駐在査察官の人数も200人で最大)。2004年6月15日のIAEA理事会では日本の姿勢が評価され、「核兵器転用の疑いはない」と認定し、査察回数を半減する方針も明らかにされている。

原爆開発に従事した科学者の中には戦後の原子力政策に関わった者も多く、ニ号研究に従事した西脇安は原子力政策へ関与の他、放射線生物物理学の専門家として第五福竜丸が焼津港に水揚げした「原爆マグロ」の放射線調査を行なっている[21]

1960年代の核保有検討[編集]

2010年10月3日放映のNHKスペシャル「核を求めた日本」では、元外務事務次官村田良平(2010年3月死去)の証言をもとに、核拡散防止条約調印後の1969年に、日本の外務省高官が西ドイツ外務省の関係者(当時、分析課長の岡崎久彦、国際資料室の鈴木孝、調査課長の村田良平と政策企画部長エゴン・バール参事官のペア・フィッシャーとクラウス・ブレヒ)らを箱根に招いて、核保有の可能性を探る会合を持っていた事実を明らかにした。また、当時の佐藤内閣が、専門家の意見を集めた上で内閣情報調査室に極秘に核兵器の製造能力についての報告書を作成させていた事実も明らかにされた。報告書では外交・内政上の障害を理由に「有効な核戦力を持つには多くの困難がある」と結論づけていた。これらの背景には1964年に中国が核保有国となったことが挙げられている。

この報道を受けて外務省は、省内で調査をおこなった結果を同年11月29日に報告書として発表した。それによると、日本と西ドイツの外交当局者が1969年に「政策企画協議」を東京で開催した後に箱根で懇談した事実を確認し、「政策企画協議」自体は「自由な意見交換が目的で、政策の交渉や調整の場ではない」としたものの、西ドイツ側関係者の証言などに基づき、日本の核保有の可能性に関連する発言が「何らかの形でなされていた可能性を完全に排除できない」と結論づけている[22]

注釈[編集]

  1. ^ 六フッ化ウランのフッ素のFという記述もある[1]
  2. ^ 最終的な階級は陸軍中佐、1944年に理研仁科研究室に派遣され二号研究に携わった。
  3. ^ 報告書ができるまで2年もかかったことについて、鈴木は次のように述べている。
    1. 戦争初期には連戦連勝で、軍部は戦勝ムードに酔って原子爆弾の必要性を感じていなかった。
    2. 物理学界の重鎮である長岡半太郎が原子爆弾の実現に否定的な見解を述べていた。
    3. 戦争は短期決戦になると見込まれていて、開発に長期間を要する原子爆弾は間に合わないと考えられていた。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 『昭和史の天皇 4 日本の原爆』読売新聞社 1968年 pp.78 - 229
  2. ^ 「歴史秘話 サイクロトロンと原爆研究 (前篇) 」理研ニュース No. 297 March(2006)
  3. ^ 鈴木辰三郎「スクープ!五十年めの証言」、『宝石』第23巻第1号、光文社、1995年、 86 - 101頁。
  4. ^ a b 橋本悦雄 『ペグマタイトの記憶』 福島県石川町立歴史民俗資料館、2013年
  5. ^ 第2話 被爆国・日本にもあった「幻の原爆開発計画」 - テレビ朝日 開局50周年記念特別番組 「原爆 63年目の真実」
  6. ^ 「敗戦とともに葬られた2号研究の顛末 その(1)」 『Researcher 研究と開発』 No. 14 1970年11月号 p.10
  7. ^ 戦争体験 少年も国のため死のうと覚悟した時代 - 原爆製造へウラン掘り、DON-NET「けんせつ」、2007年8月20日
  8. ^ “原爆開発は被爆国日本でも 葬られた極秘の開発計画”. 朝日新聞. (2010年9月3日). http://astand.asahi.com/webshinsho/asahi/asahishimbun/product/2010091000041.html 
  9. ^ 神田大介 (2012年8月15日). “「日本の原爆」語り継ぐ ウラン採掘の体験者から学生へ”. 朝日新聞(夕刊): p. 11. オリジナル2013年4月25日時点によるアーカイブ。. http://archive.is/UMIxw 
  10. ^ 武田徹 (2011年6月8日). “フクシマ、秘められた原爆開発 戦争末期にウラン選鉱場”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201106080281.html 
  11. ^ a b c d 理研八十八年史より - 二つの「計画」理化学研究所
  12. ^ 山崎正勝 「第二次世界大戦時の日本の原爆開発」日本物理学会誌 第56巻 8号 2001年 pp.584 - 590
  13. ^ 斎藤彰. “原始爆弾”. 終戦前後2年間の新聞切り抜き帳. 2011年4月13日閲覧。
  14. ^ 「旧理研研究者が「日記」 長男が保管、「仁科書簡集」収録へ」(毎日新聞東京夕刊、2007年1月5日付)
  15. ^ 読売新聞2005年8月15日の記事より。
  16. ^ a b c d 荒勝文策氏:日誌に「原子核研究、芽つまれた」 サイクロトロン、GHQが破壊 - 毎日新聞2015年6月29日
  17. ^ 詳細が2008年の日経ネット関西の連載記事「湯川秀樹の遺伝子」に紹介された。
    湯川秀樹の遺伝子(1)加速器、秘められた過去(2008年1月21日)
    湯川秀樹の遺伝子(2)実験屋魂、加速器部品守る(2008年1月28日)。
  18. ^ 福井崇時「日米の原爆製造計画の概要 (PDF) 」 、『原子核研究』第52巻第1号、『原子核研究』編集委員会、2007年
  19. ^ 常石敬一「原爆、七三一、そしてオウム」『AERA』1995年8月10日号 (No.36) 増刊「原爆と日本人」、P58~59。なお本稿で常石は湯川秀樹が戦後に米軍から原爆開発の実態について尋問を受けたと記している。
  20. ^ 終戦の詔勅(玉音放送)口語訳
  21. ^ 「核時代を生きた科学者 西脇安」展 開催報告 | 東工大ニュース | 東京工業大学
  22. ^ “日本の核保有、外務省幹部が69年に言及か 西独と懇談”. 朝日新聞. (2010年11月30日). オリジナル2010年12月1日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/20101201045851/www.asahi.com/politics/update/1129/TKY201011290497.html 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]