朝永振一郎

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朝永 振一郎
(ともなが しんいちろう)
Tomonaga.jpg
朝永振一郎
生誕 1906年3月31日
日本の旗 日本 東京府東京市小石川区
死没 (1979-07-08) 1979年7月8日(満73歳没)
研究分野 物理学
研究機関 京都帝国大学
理化学研究所
東京教育大学
プリンストン高等研究所
出身校 京都帝国大学
主な業績 繰り込み理論の発明による量子電磁力学の発展への寄与
主な受賞歴 文化勲章1952年
ノーベル物理学賞1965年
勲一等旭日大綬章1976年
プロジェクト:人物伝
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1965年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:量子電気力学分野での基礎的研究

朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年)3月31日 - 1979年(昭和54年)7月8日)は、日本物理学者相対論的に共変でなかった場の量子論超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞した。また、非摂動論の一般理論である中間結合理論は、物性や素粒子の状態を調べる基本手法となった。東京生まれで京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県の出身。武蔵野市名誉市民[1]

生涯[編集]

1906年、東京市小石川区小日向三軒町(現在の文京区小日向)に長崎出身の父親朝永三十郎と埼玉県出身の母親の子として生まれた。幼少期は病弱であったと伝えられる。

1913年、父三十郎の京都帝国大学教授就任に伴い一家で京都市に転居し、錦林小学校に転校する。三十郎は、後に京都学派の哲学者の一員として知られるようになる。朝永は次第に自然に興味を持つようになり、虫眼鏡で実験を行ったり、電信機顕微鏡レンズを自作するなどしていた。著名な哲学者の息子ではあるが、朝永は後年、「哲学というものは私にとってはなはだ苦手で、どうしても歯がたたない」と語っている。しかし、しばしば他人から「あなたのいったり書いたりしていることは結構哲学的ですなどといわれる」とも述べている[2]

京都一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校京都帝国大学理学部物理学科を卒業。学生時代は女浄瑠璃寄席に入り浸って、かなりの趣味人だったと伝えられる。卒業後は京都帝国大学の無給副手に着任する。湯川秀樹(旧姓:小川)とは中学校、高等学校、帝国大学とも同期入学・同期卒業であり、就職もやはり湯川秀樹と同期で、机も同じ部屋にあった(中学までは1学年上であったが、後に湯川が飛び級のため追いついた)。

1931年仁科芳雄の誘いを受け、理化学研究所仁科研究室の研究員に着任。ここでマグネトロンの発振機構の研究等を行う。ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学んだ。また第二次世界大戦中にはマグネトロンや立体回路の研究も行った。この研究により、1948年小谷正雄と共に日本学士院賞を受賞している。

1941年東京文理科大学(新制東京教育大学の前身校、現・筑波大学)教授。1949年、東京教育大学教授。プリンストン高等研究所に滞在し、量子多体系の研究を行う。教授となってからも東京大学の学園祭(五月祭)で、特技のドイツ語による落語を演じるなどして、洒落っ気が多かった。

1947年、量子電磁力学の発散の困難を解消するためのくりこみ理論を形成し、繰り込みの手法を用いて、水素原子のエネルギー準位に見られるいわゆるラムシフトの理論的計算を行い、実測値と一致する結果を得た。この業績により、1965年ジュリアン・シュウィンガーリチャード・ファインマンと共同でノーベル物理学賞を受賞する。しかし肋骨を折っており、12月のストックホルムでの授賞式には出席できなかった[3]

1956年から1961年には東京教育大学長、1963年から1969年には日本学術会議会長を務めた。晩年は中学校などでも講演を行い、自然科学の啓蒙にも積極的に取り組んだ。1979年咽頭癌が悪化して息を引き取った。前年に手術を行ったため声が出せない容体だったという。墓は東京の多磨霊園にある。

歴史上の位置[編集]

朝永はハイゼンベルク等の原理論の時代と、原理論を応用する理論の2つの時代の両方を生き、両方に大きな足跡を残した。

朝永の歴史的位置・意義 その同時代[編集]

原理の時代 - 4つの原理(場の量子論相対論ゲージ繰り込み)の形成

  • 繰り込みの確立(超ひも理論を含むすべての素粒子論の原理である)
  • 場の量子論の完成(場の量子論の時空(超多時間論)を朝永は見出し、この形式に従い、相対論的に共変な形式、変換演算子・変換形式を発見した)
湯川は場の量子論における因果律の破れを提唱し、非局所場(湯川の〇)で解明したが、うまくいかなかった。朝永は超多時間論で因果律の破れの困難を回避した。この簡素な記述の超多時間論を使い繰り込みを遂行した。

理論の時代 - 二つの課題(場と素粒子の統一、状態の解明)を原理や手法を使い解いた時代

  • QED理論の完成(場と素粒子の両方を統一して扱う最初の完成した理論である)
素粒子と場を統一した最初は、湯川の中間子論で、力を媒介する粒子、中間子で場(強い力の場)と粒子を結び付け、さらに場の強い力と弱いを統一した。しかし、当時はまだ強い力や弱い力の詳細は分からず完全形ではなかった。量子色力学QCD、ワインバーグ=サラム理論などは、湯川や朝永の基本原理を基礎に、先を切り開いたものである。
なお、QCDは、坂田の3粒子モデルを大貫義郎が群論表現した数学を基礎にし、湯川、朝永、坂田-大貫が形成した3つの基本原理を世襲したものである。大貫はこの業績でゲルマンらと共にノーベル賞候補になっている。ゲルマンは、坂田-大貫モデルを修正しノーベル賞を獲得した。
南部陽一郎ら[4]は力を具体化し、益川敏英、小林誠はクウォークの世代数を増やしモデルを完成させた[5]
  • 物性物理での相転移のウィルソンの繰り込み群(ノーベル賞)も朝永の流れで、超電導も次の中間結合を基礎にしている。
  • 中間結合論の確立(場の量子論の状態を記述できる非摂動論の最初の一般的な理論である)
中間結合論は物性物理や素粒子論の状態記述の一般的な式と計算を可能にし、例えば、超電導の基礎式(フォノン、クーパー対、方程式)や、南部の場の対称性の自発的な破れに使われた[6]

この意味で、原理の時代と、理論の時代の両方を朝永はまたいでいる。朝永は、原理や本質の深い部分にまで及ぶ目をもち、他の研究者が解けず手を出せない部分で道を切り開いた[7]超多時間論に関しては、湯川が切り開いた道を朝永は完成させたといえる。しかし、超対称性の世界最初の提唱者宮沢弘成は、超ひも理論など最先端とされるすべてが湯川の〇と言う因果律の破れをの問題の放置だと言う。だが、因果律の破れが見かけだけなのか本当の問題かどうかさえいまだに分かっていない。実験事実も解決手法もない点で哲学の問題に近い[8]

主たる業績 - 繰り込み、中間結合論(非摂動論)[編集]

朝永は自ら確立した場の量子論を用い、繰り込み原理を見出し完成させ、4つの基礎物理原理のうち場の量子と繰り込みという2つの原理の確立者となった。

 超多時間理論

原理は、「相対性理論、場の量子論、ゲージ理論、繰り込み」の4つがある。朝永は最も基本的な原理「場の量子論」の「空間(超多時間論)」、「変換演算子」を見出し、場の量子論を完成させた。場の量子論の20年来の課題の解決(相対論的に共変な場の量子論、相互作用を切り出す変換)である。当時、この問題と無限発散の問題で、場の量子論は、物理の根本原理とみなされず、新たな原理確立が試みられていた状況にあった。朝永は歴史のネジを場の量子論成立時期である20年前に巻き戻し、場の量子論を確立した。この後も、場の量子論を乗り越える試みは、ハイゼンベルグや湯川が試みるが失敗した。朝永が確立した場の量子論は、超弦論を含むすべての理論の基礎にある。

 繰り込み、QED

繰り込み原理を誰も発案していない1947年、朝永は繰り込みを考えたが、翌年ダンコフの電子の生成消滅を含まない非相対論的な論文が出、発表の機会を失う。しかし、その後、場の量子論を確立するという周到な準備を経て、繰り込み理論を形成した。

さらに、この2つの原理、「場の量子論と繰り込み」を応用し、量子電磁力学を確立する。この建設には、ゲージ原理を相対論的に共変な形式としたものを使った。これにより、一般にゲージ原理が認識され、ゲージ原理が広まった功績もある。(朝永のゲージを使う論文以前と以後では、ゲージの論文量が異なる)。ただし、ゲージ理論の発展は、別の系統からなされた。これについては、場の量子論に年表を示した。

 最大の業績ヴェルナー・ハイゼンベルクヴォルフガング・パウリが構築した場の量子論を相対論的に共変な形式に改めて定式化し(超多時間理論)、さらに繰り込み理論に到達し、量子電磁力学を完成させた。

 非摂動の一般理論(超電導理論や、南部の対称性の破れなどに使われる)

場の状態の記述では、摂動論が用いられていたが、朝永は状態記述の一般形式を生み出す。これは中間結合論として知られたもので強結合、弱結合両方を記述できる一般的なものである。

この形式はその後20年、ノーベル賞を得た超電導理論の基礎や、南部の対称性の破れなどに使われ大きな力を発揮した。

業績の一覧[編集]

主な業績として、以下のものがある。

原理論

  1. 場の量子論(量子電磁力学)の相対論的共変形式を確立した超多時間理論(簡単な説明は2.6.2超多時間論を参照)
  2. 場の量子論での相互作用のみを切り出す変換作用素(シュウィンガーの相互作用表示と同等)とハイゼンベルグ方程式の発見
  3. 超多時間論を基礎に、場の量子論の発散の困難を解消する繰り込み理論(相対論・場の量子論とならぶ物理学が満たすべき基本原理)

理論・方程式

  1. すべての力の理論(量子色力学QCD、ワインバーグ=サラム理論量子重力理論)の規範となった量子電磁力学QEDの確立
  2. 中間子での中間結合論 - 物性物理などその後20年大きな影響を与えた。
(のちに超伝導BCS理論に応用される)「場の量子論での、非摂動的アプローチにおける最初の体系的理論」牧二郎[9]

その他

  1. 量子多体系の集団運動の理論(流体力学相当)
  2. マグネトロンと立体回路の基礎理論
  3. カーボンナノチューブ等の一次元電子系の基礎となる朝永–ラッティンジャー液体

湯川との関係

  1. 強い力の形式である湯川場の現象論的な式を湯川に告げる。
  2. 超多時間論と非局所場-湯川の○
ミンコフスキー空間上での閉局面での確率振幅を定義すると、因果律が破れると湯川は指摘し問題の解決にあたった。朝永はこの問題を空間的なものに制限し因果律を回避し、場の量子論を拡張する湯川の考えを生かしたのが超多時間理論である。湯川以前は一定時間で定義されていた(この問題を湯川の○という。湯川がこの問題を提起後、ディラックも同じ問題を提起している)[10]
(湯川は、この問題を非局所場として扱ったが、成功したとはいいがたい)

年譜[編集]

  • 1927年に見出したゲージ理論を、1947年、相対論的に共変な可換ゲージ理論へと拡張し、量子電磁気学の建設に使った
  • 1931年、仁科芳雄の誘いを受け、理化学研究所仁科研究室の研究員に着任
  • 1938年、発散を打ち消すアイデア(繰り込み)を発想
  • 1943年、まず、特殊相対論に対応していなかったハイゼンベルグ-パウリの場の量子論を、ディラックの多時間理論を基に超多時間理論を形成し、特殊相対論化を完成させた
  • 1946年、発表された凝縮場の理論(架空のCメソンを導入して無限大の困難を避ける方法)を検討し、同グループの木庭二郎らがこの理論は誤りであると発表する
  • 1947年、量子電磁力学の発散の困難を解消するためのくりこみ理論を形成し、繰り込みの手法を用いて、水素原子のエネルギー準位に見られるいわゆるラムシフトの理論的計算を行い、実測値と一致する結果を得た
  • 1948年、朝永は、超多時間理論でハイゼンベルグとパウリの場の量子論を相対論的に共変な形式に書き改め、繰り込みの記述形式を確立し、量子電磁力学を完成させた[11]

超多時間理論・繰り込み・ゲージ[編集]

1948年(1947年学会発表)、朝永は、超多時間理論でハイゼンベルグとパウリの場の量子論を相対論的に共変な形式に書き改め、繰り込みの記述形式を確立し、量子電磁力学を完成させた(朝永に数年遅れて、ジュリアン・シュウィンガーおよびリチャード・ファインマンらも独立して繰り込みを見い出し、量子電磁力学を完成させた)。特に電子の異常磁気モーメントの計算は、量子電磁力学のよる予言値と実験による測定値が10桁の精度で実験と一致している。場の量子論に繰り込みとゲージを用いる方法は以後の理論建築の指針となる。この方法を基礎に、非可換ゲージ、量子色力学、およびワインバーグ=サラム理論は建設されている。

場の量子論・量子電磁力学に対する、相対論的共変性の表現形式(超多時間理論)と繰り込み以外に次の寄与がある。

可換ゲージによる量子電磁力学の表現形式
ワイルが形成し、フリッツ・ロンドンが1927年に拡張したゲージ理論を、1947年、相対論的に共変な可換ゲージ理論へと拡張し、量子電磁気学の建設に使った。
なお、ロンドンの理論の拡張である1954年の楊振寧ロバート・ミルズによる非可換ゲージは、量子色力学、ワインバーグ=サラム理論の基礎になった。

エピソード[編集]

フリーマン・ダイソンは、1943年の超多時間理論の論文を読んだときの感想について、回想録の中で次のように述べている。

戦争の荒廃と混乱のさなかにある日本で、国際的には完全に孤立した状態にありながら、朝永はどうにかして理論物理研究集団を維持し、ある意味では世界のどこよりも進んだ活動を行っていた。誰の助けも借りず独力で、シュウィンガーより5年も前に、コロンビア実験の助けもないところで、新しい量子電気力学の礎を築いたのである。・・・吾々には深淵からの声のように響いた[12][13]

仁科芳雄は「朝永さんのように頭のいい人はいませんね」と言っている[14]。仁科の主催する研究会で議論を戦わした後、最後に朝永の意見を聞き、みんなが納得する状態であったという[要出典]

中間結合理論(非摂動の一般理論)[編集]

中間結合論は、状態を調べる基本手法である。

 不完全な理論

当初、観測との矛盾のあった中間子論の問題を解決するために作られた、朝永の中間結合の理論は当初、不完全で終わった。中間結合の理論を作ったときの経験は、繰り込み理論を創るとき役立ったと、朝永自身、述べている[15]。後に朝永は中間結合論に取り組みこれを完成させた。完成が遅れたのは、超多時間論や繰り込みが視界にあり、先に超多時間論などを完成させようとしたためである。

 完成とその影響

その後、朝永は1953年に体系的な理論にまとめ上げ発表した。それ以前の中間結合論には制約条件があったが、朝永はこれを取り払う一般的な理論を生み出した。この点で朝永の業績は場の量子論における最初の非摂動論の体系的な理論となった。朝永は、この理論が物性物理で使われることを願った。

 趙電導や自発的対称性の破れに使われる[編集]

この中間結合論はその後の20年の理論的な展開の基礎となった。例えば、自発的対称性の破れ(南部, Jona,Lasinio)も真空状態の非摂動的な考察から生まれたものである[16]。また、超伝導を理論的に解明しノーベル賞を勝ち取ったBCS理論の基本3個、フォノン、クーパー対、超電導方程式のうちの方程式の基礎形式に採用された[17]

朝永の方法[編集]

朝永は新奇をてらう前に従来手法を徹底するという保守を自認していた[13]

1943年、まず、特殊相対論に対応していなかったハイゼンベルグ-パウリの場の量子論を、ディラックの多時間理論を基に超多時間理論を形成し、特殊相対論化を完成させた。

 繰り込みの発想

次に、1930年代に入り顕在化していた場の量子論のもう一つの問題、自己エネルギーによる質量補正が無限大になる問題に取り組む(朝永はかなり早い時期から繰り込みを考えており、1938年に発散を打ち消すアイデア(繰り込み)を発想している。これは、次のダンコフの論文より前である[18][19]。一方、ダンコフは1937年に発想し、1939年に繰り込みの核心に迫る初めての論文を出している。ただし、ダンコフの論文は、電子の生成消滅を含まず相対論を満たす形式ではなく、正しい結果には到達できない)。

 坂田の凝縮場の検討

坂田昌一により1946年に発表された凝縮場の理論(架空のCメソンを導入して無限大の困難を避ける方法)を検討し、同グループの木庭二郎らがこの理論は誤りであると発表する。しかし、超多時間理論で計算し直したところ、凝縮場は質量の発散を正しく取り除けることが判明するが、真空偏極の発散は打ち消さないで残ることが分かり、次にこの問題の解決へと進んだ。そこで、計算の基礎として使っていた1939年のダンコフの論文(電子を考慮していないため非相対論的)を電子を入れて修正し(いろいろな発散が現れたが、実は発散は一番弱い対数発散のみが現れ、無限大はすべて質量と電荷の中にくりこめることが分かった)正しく計算すれば、凝縮場を使わずとも、すべての無限大を質量と電荷の無限大で書き直せる(繰り込める)ことに気が付き、1947年学会発表し、翌年、残る問題の解消に半年を費やし、翌1948年論文化し繰り込み理論を完成させた[13][20]。1949年、繰り込みによりラムシフトを正しく計算した論文を発表し、この理論は脚光を浴びる。

 回顧

朝永は、「もしダンコフが計算間違いをしていなかったら、繰り込みの歴史は変わっていただろう」と言っている。ダンコフが電子を考慮に入れた理論計算していれば、1939年のダンコフの論文で繰り込みは完成していたことになる。また、ダンコフの論文がなければ、1940年頃、朝永が繰り込みを発表していた可能性がある(ただし、エルンスト・シュテュッケルベルクも1943年に繰り込みの論文を提出していたが、理解されずリジェクトされている)。

方法の典型・発想の基になった学者[編集]

 方法の典型

湯川秀樹が、因果律のタブーを犯してまで非局所場に踏み込んでいくなど新しいことに挑戦することを恐れなかったのに対し[13]、「反動ならざる保守」を自認する朝永は、超多時間理論、繰り込みなどを完成させ、近距離で量子電磁力学が破綻するという危機を救った[13]

田地は超多時間理論[21]で次のように述べている。「朝永理論は素粒子の未知の内部のことには触れないで…理論を組み立てていこうとする。…(一方)坂田模型(は)、…外観の背部を洞察しようとする。…朝永理論と坂田模型は、…現在の素粒子理論において、2つの主要な思潮を代表している。」
 超多時間論と、繰り込みの研究のきっかけ、発想の基になった学者

朝永の学生時代、量子力学を専攻する研究者はいず、物理の授業に興味が持てない中、数学者の岡潔の授業には、湯川と共に出席し、非常に刺激的であったと述べている。なお、岡は、条件を付けて問題を限定せず、一気にすべてを解くしか難問を解くことはできないと論じた。また、岡の課題として出す問題が非常に難しく、これが解けないようでは、学者になるなということかと思ったようである。

先に述べたように、湯川の○を、湯川は非局所場として扱ったが、成功したとはいいがたい。そのため、朝永は超多時間理論でこれに一応の解決を与えた。朝永の最初の大きな業績は超多時間論で、繰り込みは視界に入っていた。朝永は「なぜ日本物理の黄金時代が訪れたのか」と問われ、「最重要な課題を解決した湯川に、大きな刺激を受けた」と述べている。また、坂田の混合場がきっかけで、朝永は繰り込みを解明した。

湯川の○の問題は、次。

湯川、朝永、坂田は相互に刺激し合いながら活発な研究を行う[22][注記 1]。湯川・朝永は同期で、4年下に坂田や、武谷3段階論で当時名をはせた武谷三男がいる[23]坂田昌一は、2中間子論、混合場、クォークの基になった坂田モデル、2ニュートリノ説という多数の理論を提唱した。また、坂田の弟子、大貫義郎らは群論を使った坂田モデルを数式化し、基本3粒子の群論表現を与えた。

相互の影響
  1. ^ 相互の影響は次。
    • 朝永→湯川、中間子場の現象論的な式→湯川の強い場の理論(中間子)
    • 湯川→朝永、場の非因果性(湯川の○)→超多時間論
    • 湯川→坂田、中間子論→2中間子論→坂田モデル(大貫の群表現)
    • 坂田→朝永、C中間子論→繰り込み
批判・直接の影響
  • 批判 - 宮沢弘成:超多時間論を湯川の因果律の破れを克服したものでなく完全な相対論形式でないと批判した。
  • ウィルソンは繰り込み群で朝永の繰り込みを直感的に分かりやすくした。物性物理の相転移など。
  • 超電導の基本式は中間結合論を採用している。
  • 超電導からヒントを得た南部の自発的対称性の破れも中間結合論を用いている。

どう見ていたか[編集]

先の見えない時期
学生時代もそうだが、その後も自分の能力に自信が持てす、暗澹たる気持ちであったようである。
卒業間近で、病弱のため単位が大幅に足りず苦しんだのはよいとして、ハイゼンベルグへの留学の船旅で、自分は学者としてやっていけるのかと苦しんだり、仁科先生に誘われた時も迷いがあった。仁科先生もこれほど頭がいい人はいないと言うくらいだったが、混迷の中にあった。頭だけでは学者としての他に抜きんでた業績を上げられない。
この混迷が、朝永という人の学者としての生い立ちに存在していた。学問の表面に漂って、一つつまらぬ仕事をして、すぐ引退とまで考えていたようである。
繰り込み
朝永は、実体としてのC中間子論ではだめで、場そのもので発散を解消しなければならないと考えた。それが繰り込みとして結実した。場の計算手法の中間結合論も、場そのもの構造としての繰り込みも、この発想から生まれた場の理論である[24]。なお当時の研究者は、場、近似、実体(モデル)という三つの方法でいろいろな問題を解明しようということにした[25]
量子力学1の序文
朝永の名著、量子力学Iの中で、朝永は次のようにいっている。過去の量子力学の歴史を一歩一歩、その時代に生きその時代の課題を乗り越えるように理論を記述し、自分がはたして、偉大な仕事を成し遂げた人に伍してやっていけるのか確かめられるだろう。朝永自身の学者としての能力の形成にこの方法で論文を学んだことがどれほど役に立ったかは書いてはいない[26][27]
大学の試験の直後
友人が朝永を誘うと、今だけは勘弁してくれ、学んだことをよく考えてみたいから。表面の背後にある構造や意味を徹底的に探ろうとした。また同時に、試験勉強の時、普通の人間には見えない、その意味や可能性が朝永には見えていたのであろう。朝永の性格や思考法や能力が垣間見えるエピソードであろう。

朝永グループ[編集]

理研の仁科芳雄と提携しつつ朝永グループを形成し、西島和彦、繰り込みの木庭二郎南部陽一郎などがこれに参加する[28]武谷三男は時々朝永のもとを訪れ、研究会で三段階論などを展開した。南部はこれを面白かったと回想している。南部は朝永の推薦により、新設の大阪市大の物理学科の教授として、早川、西島らと大阪市大グループを形成する[29]

後年、巨大実験装置の発案、建設に努め、小柴昌俊はこの時代の弟子に当たる。また、早川幸男は天文学に移り、日本の天文学を世界レベルに押し上げた。

師匠・弟子[編集]

  • 岡潔秋月康夫の講義を楽しみにしていた[30]
  • 仁科芳雄がコペンハーゲン学派の自由な雰囲気を持ち帰った理化学研究所で、朝永は研究を行っている。
  • 南部陽一郎西島和彦木庭二郎早川幸男など当時の東京帝国大学、東京文理科大学(のちの東京教育大学…現・筑波大学)の素粒子論研究者のほとんどすべては、朝永の研究会に参加していた。南部は『素粒子論の発展』で次のように述べている。朝永の研究会に参加し、(朝永が創った超多時間論や繰り込みの手法が)次第に理解できるようになった。
  • 宇宙物理学者名古屋大学の学長を務めた早川幸男も朝永の弟子である[31]
  • 仁科との関係
「(仁科先生)の講義は物理的肉づけと哲学的背景をたっぷりもったものであって、今までもやもやしていたことがらもそれを聞いたとたんに明確になるといったものであった[30][32]。」
迷う朝永に仁科は、「それではためしに二、三ヵ月(理研に)来てごらん。」「理化学研究所で驚いたことは、その全く自由な空気である。先生たちも若いのも、お互いに全然遠慮なく討論するそのありさまである。セミナールはこの遠慮のない、血のめぐりのはやい連中の全く形式も礼儀も無視した討論で、生き生きと進んでいく。」

参考[編集]

超多時間理論とは[編集]

湯川の〇は任意の四次元の時空となる曲面上での力学変数を観測する確率振巾を扱う。一方、朝永の超多時間論は、湯川の4次元を4次元空間の一部となる3次元超曲面(空間的曲面)に限定し、超曲面上の汎関数として確率振巾を扱う形式に改めた。

いくつもの[状態]の集まりと、[力学変数]の二つで量子力学や場の量子論は成立する。朝永はこの場の量子論の基礎空間である状態と力学変数と言う基本空間に新しい形式を与えた。朝永の形式では、場の[状態]に場の相互作用の変化が現れ、[力学変数](場の演算子など)は相互作用に関係のない形になる。これを支配するのが朝永方程式である。

確率(振幅)として表されるのがこの量子の[状態]で、朝永は湯川の4次元空間を空間部分に限定して、因果律の破れを回避した。同時に、力学変数は単純になり、相対論が常に成り立ち、見通しが良くなった。この単純で明快な形式により、複雑な繰り込み理論が首尾よく完全な形で実行可能になった。なお、汎関数とは関数の関数と定義される。

超関数(空間のすべての点からなる)で定義される力学変数は、相互作用の影響を受けない。すなわち、空間の各点で相互に独立した別の時間が存在するので超多時間理論と名付けられた[33]

繰り込みとは[編集]

場の量子論での式を数値計算するには級数展開するが、級数展開して計算すると無限発散が生じる。この無限発散を虚構の部分と実際の物理的な実体のある部分に分け、虚構部分を相互に打ち消し、消去する方法が繰り込みである。この打消しは、計算過程での余分の項を消すもので、物理的に正当なものである。この打消しが可能な根拠は、変換を行っても式の形式が変わらない(スケーリング)点にある。従って、繰り込み原理は、スケーリングによる相転移が実際に現れる物性物理でも使われる。

朝永の示した繰り込みの操作の形式、概念や思想を、なぞったのが繰り込み群である。素粒子のややこしい計算が省かれ、分かりやすい。ウィルソンは物性物理でカダノフらにより示されたスケーリングによる相転移の問題を解くため、1971年、この繰り込み群を使う過程で直感的な方法を編み出し、ノーベル賞を受賞する[34]

中間結合理論とは[編集]

結合定数の小さな弱結合の時の近似を示す冪展開による摂動論が弱結合で、結合定数が大きい時は強結合は逆数の冪展開である。朝永はHeisenbergのもとに留学中、Heisenbergの仕事に触発され、強結合の理論の形成に動き出したが、大戦が始まり、帰国のやむなきに至り、Entzelが先に発表する。しかし朝永は、両者を結び付け、強結合の説明を可能にする中間結合の理論を創り上げた。この強結合、弱結合の二つは中間の強さの時には収束しない。朝永は弱結合を変分法によって求めるRitzの方法を中間子の結合に使い問題を解いた。これが中間結合の理論である。この方法は結合定数の大小によらず成立する。また、強結合の形式を導き出せる点で強い結合の理論的な基礎を与えた。

因果律の破れを示唆するものおよび空間[編集]

時間と確率
  • 事象が決定でなく確率であること自体が非因果的である。
  • 確率を決める因子が虚数である。
  • 量子力学の方程式を、順時間と逆時間の二つから導く方法がある。
  • ボームのパイロット波を使う量子力学形式は超光速であり、因果が破れている。何が何だか分からないし、新しいことは出て来ず、誰も問題にしない。
ボームは決定論を保持し、超光速になった。そして、因果が破れる。
  • 量子力学を建設した何人かの学者は、量子力学が時間をさかのぼる形式であることを強調した。
  • 反粒子は時間をさかのぼる粒子という解釈も存在する(あくまで解釈だが)。
  • トンネル効果は負時間、虚数時間と解釈できる。
空間と時間
  • 確率の重なり合いが相互に打ち消し合うことを解釈する妥当な理論がない(数学的には虚数として表される)。
同じことだが負の確率が説明できない(いろいろな解釈があるが根拠がない)。
  • 量子力学方程式は、無限次元である。しかし、4次元空間に解消される。
  • 時間も空間もフーリエ級数で表され、これが量子力学の基礎である。こでがディラックのブラケットにつながる。この形式の意味が分かっていない。
因果論以前の問題である。
  • 時空の問題が誰にも分かっていない[35]。この問題を置き去りにした理論は、超弦論を含め現象論、実体論で空虚。(宮沢弘成による)

参考資料[編集]

  • <特集>朝永振一郎博士の業績をふりかえって、物理学会誌35,(1980)
  • まえがき、65
  • 超多時間理論、65-67
  • くりこみ理論の建設、67-71
  • くりこみ理論と現代の素粒子論、72-74
  • 強結合・中問結合の理論、74-77
  • 集団運動の朝永理論、77-79
  • 宇宙線に関連する業績、79-81
  • 磁電管および立体回路の研究、81-84
  • 小川修三:『坂田学派と素粒子模型の進展』,日本物理学会誌 Vol51,(1996),No.2,90-94
  • 長島 順清:『素粒子の物理 : 先駆と展開の鳥瞰』,日本物理學會誌 60(3),(2005)
  • 原治:『非局所場理論』(〈特集〉湯川秀樹博士追悼 ),日本物理學會誌 37(4),(1982),275-277
  • 大貫義郎:『瞥見:1950~60年代にかけてのわが国での場の理論(素粒子論の周辺,基礎物理学の現状と未来-学問の系譜・湯川 ・朝永をうけて』-(研究会報告)物性研究 90(2-3),(2008),181-199

略歴[編集]

著書[編集]

『量子力学』は、日本語で書かれた量子力学の教科書の定番として1949年に出版されて以来長年読み継がれており、1963年には小柴昌俊による英訳本が出版された。量子力学の名著としての評価が高い。量子力学第3巻は、遺稿をまとめて『角運動量とスピン』として出版された。

『スピンはめぐる』はスピンを題材とした物理学史であり、紹介文では「朝永ならではの洞察が光っている。学術書でありながら、まさに珠玉と呼ぶにふさわしい」とされ、1998年には『スピンはめぐる』の英訳本が出版された。

『物理学とは何だろうか』は歿後の1980年大佛次郎賞を受賞した。評価が高く、物理学・量子力学の一般向けの啓蒙書である。だが、『量子力学』と同じく未完成である。このほかにも、物理学・量子力学の啓蒙書も数多く執筆しいる。没後、みすず書房から著作集が刊行された。

名著といわれているもの[編集]

量子力学1、2、補巻
他に、学芸社〈物理学大系 基礎物理篇 第8巻 第1冊〉1951年、東西出版社、1948年、1949年(現代物理学大系 第25巻〉

スピンはめぐる  単位系か書き換えられたように、学術書である。

他に、中央公論社、自然選書、1974年 - CGSガウス単位系

物理学とは何だろうか 上、下巻  大佛次郎賞受賞

英訳された著書
  • Shinichiro Tomonaga (1962). Quantum mechanics (Hardcover ed.). Interscience Publishers.  量子力学1,2の英訳
  • Shinichiro Tomonaga (January 1998). The Story of Spin (Hardcover ed.). Univ of Chicago Pr (Tx). ISBN 0226807932.  スピンは巡るの英訳
  • Shinichiro Tomonaga (October 1998). The Story of Spin (Paperbuck ed.). Univ of Chicago Pr (Tx). ISBN 0226807940. 
物理関連の本、エッセイ
  • 『鏡のなかの世界』 みすず書房、1995、1965。ISBN 4-622-00409-7
  • 『鏡の中の物理学』 講談社〈講談社学術文庫〉、1976年6月。ISBN 978-4-06-158031-2
  • 『量子力学的世界像』 弘文堂、1965年11月。ISBN 4-335-75001-3 同社からアテネ新書として1949年出版されている。
  • 量子力学と私江沢洋編、岩波書店〈岩波文庫〉、1997年1月。ISBN 4-00-311521-X
  • 朝永振一郎(述) 『原子論の発展』 仁科記念財団、1962年
  • 朝永振一郎(述) 『放射能の話』 仁科記念財団、1963年
エッセイ
  • 『わが師わが友』 講談社〈講談社学術文庫〉、1976年
  • 『庭にくる鳥 随筆集』 みすず書房、1975年庭にくる鳥』 みすず書房〈みすずライブラリー〉、1996年9月。ISBN 4-622-05005-6
  • 科学者の自由な楽園江沢洋編、岩波書店〈岩波文庫〉、2000年9月。ISBN 4-00-311522-8
  • 『科学と科学者』 みすず書房〈みすず科学ライブラリー 8〉、1980、1968。
著作集

共著・編著・翻訳[編集]

物理入門・随筆・伝記
  • 物理学読本』 朝永振一郎編、みすず書房、1952,1969、第1、2版。ISBN 4-622-02503-5 物理入門書。『物理学読本』学芸社では著者朝永。
  • 『素粒子の世界』 朝永振一郎ほか、学生社〈科学随筆文庫 5〉、1978年6月。
  • 『物質とは何か』 弘文堂編輯部編、弘文堂〈アテネ文庫 第60〉、1949年
  • 物理の歴史』 朝永振一郎編集、毎日新聞毎日ライブラリー、社筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1953、2010。ISBN 978-4-480-09285-4 2010年は江沢洋解説付
  • 『原子核から素粒子へ』 藤岡由夫共編、弘文堂、1949、1953。
  • 『宇宙線の話』 朝永振一郎編、岩波書店〈岩波新書〉、1960年
  • 『仁科芳雄 伝記と回想』 玉木英彦共編、みすず書房、1952年
  • 『物理学者群像 対談』 湯川秀樹(述),朝永振一郎(述)、仁科記念財団、1972年
物理学
  • 『量子力学 概論』 仁科芳雄,富山小太郎、共立社〈量子物理学 1〉、1938年
  • 『物理学大系』第1篇 第6巻 第1冊、朝永振一郎など編、学芸社、1951年
  • 『理論物理学新講座』第1巻〜第16巻、伏見康治共編、弘文堂、1953-1954。
  • 『現代自然科学講座』第1巻〜第12巻、伏見康治共編、弘文堂、1951-1952。
磁電管
  • 『超短波磁電管』 水間正一郎、コロナ社、1948年
  • 『極超短波理論概説』 朝永振一郎など、リスナー社、1950年
  • 『極超短波磁電管の研究』 小谷正雄共編、みすず書房、1952年
平和運動他
翻訳

伝記・朝永への回顧[編集]

脚注・出典[編集]

注記
  1. ^ 武蔵野市名誉市民
  2. ^ 『毎日情報』第6巻・第1号,p.100,1951年,毎日新聞社
  3. ^ 朝永もエッセイに書いているが、祝い酒で酩酊し風呂場で転んで骨折した。酒井邦嘉『科学者という仕事』(中公新書 2006年)に「ノーベル賞を貰うのは骨が折れる」(亀淵迪「朝永先生とユーモア」TOM(朝永記念室報)1, 15-17 1983年)と言ったことが紹介されている。
  4. ^ グリーンバーグ、韓茂栄、宮本米二、堀尚一
  5. ^ 大貫義郎は益川敏英、小林誠の指導教官で、ノーベル賞を獲得した研究を課題として与えた
  6. ^ 南部の自発的な対称性の破れは、超電導理論での対称性の自発的破れ(相転移)を見い出し、この方式を真空に流用した。超電導は、朝永の中間結合論が基礎式として使われ、自発的破れでも、朝永の中間結合論が使われている。なお、相転移現象は繰り込みで解明された。
  7. ^ 瞥見:1950~60年代にかけてのわが国での場の理論(素粒子論の周辺,基礎物理学の現状と未来-学問の系譜・湯川 ・朝永をうけて-,研究会報告)Author(s) 大貫, 義郎Citation 物性研究 (2008), 90(2-3): 181-199
  8. ^ 量子力学そのものが、因果律を破っているということもできる。これについては多くの意見がある。それ故に、宮沢弘成は、この問題を置いてけぼりにしてしまった、基礎を忘れた虚構を批判した。
  9. ^ 『強結合・中間結合の理論』物理学会誌35(1)1980
  10. ^ 原治,『非局所場理論』日本物理學會誌 37(4), 275-277, 1982
  11. ^ 木庭二郎のくらべて年表
  12. ^ F. Dyson: Disturbing the Universe (Harper & Row, 1979)
  13. ^ a b c d e 長島順清 素粒子の物理 : 先駆と展開の鳥瞰 日本物理学会誌 Vol60 No.3(2005), 171-179
  14. ^ 雑誌「科学」での座談会で、仁科の話を引用して、「じゃ俺たちは頭が悪いの」と素粒子物理学の面々が笑っていた。
  15. ^ 小川修三 坂田学派と素粒子模型の進展 日本物理学会誌 Vol51, No.2(1996), 90-94
  16. ^ 朝永振一郎博士の業績をふりかえって。
  17. ^ 『新編 素粒子の世界を拓く―湯川・朝永から南部・小林・益川へ』京都大学学術出版会 p72
  18. ^ 物理学会誌35(1),65-67,1980
  19. ^ 物理学会誌35(1),67-71,1980
  20. ^ くりこみ理論のころ
  21. ^ 物理学会誌35(1),65-67,1980
  22. ^ 長島 順清『素粒子の物理 : 先駆と展開の鳥瞰』「日本物理學會誌」 60(3)、2005
  23. ^ 南部陽一郎『素粒子論の発展』で、南部は武谷の方法が面白かったと述べている。
  24. ^ 瞥見:1950~60年代にかけてのわが国での場の理論(素粒子論の周辺,基礎物理学の現状と未来-学問の系譜・湯川 ・朝永をうけて-,研究会報告)Author(s) 大貫, 義郎Citation 物性研究 (2008), 90(2-3): 181-199
  25. ^ 著者の大貫はこれを大事なことと言っているが、こう言うことは今では不可能だろう
  26. ^ この著書はテクニックは書いていず、名著だが、学習効率が悪いともいわれている。
  27. ^ スピンはめぐる。スピンの概念は紆余曲折の末に理論的に焦点を結び、相対論化され、量子力学の射程を大きく延ばした。それは荷電スピンの概念につながり、人知が原子核の内側へ踏み込むことを可能にしたのである。その過程で、「アクロバットのよう」なディラックの思考、つぎつぎと問題の鍵を見いだす「パウリの正攻法」、現象論的な類推から本質に辿り着く「ハイゼンベルク一流の類推法」など、さまざまな個性の頭脳が自然の謎と格闘する。本書はそんな「興奮の時代」と呼ばれた量子力学の成熟過程を、近体験する旅である。その道程の随所に、ディラックらの原論文を読みこんで、自身も歴史的な仕事を遺した朝永ならではの洞察が光っている。学術書でありながら・・・
  28. ^ 基礎物理学 : 過去と未来(3.基礎物理学の系譜,学問の系譜-アインシュタインから湯川・朝永へ-,研究会報告) 素粒子論研究 Vol. 112, No. 6 (2006), F77-F91.
  29. ^ 南部陽一郎 素粒子物理の青春時代を回顧する 日本物理学会誌 Vol57, No.1(2002), 2-8
  30. ^ a b 「わが師・わが友」『朝永振一郎著作集1 鳥獣戯画』みすず書房(1981年)
  31. ^ 日本の天文学者の系図
  32. ^ 朝永振一郎 日本の科学者・技術者100人
  33. ^ 美しい理論だが、4次元時空の内部で何が起こっているか問わない形式である。湯川はその後も、因果律の破れを追求したが、ついに解く入り口も見いだせなかった。宮沢弘成は、この問題を置き去りにして現象論に走ったと超弦論を批判している。
  34. ^ 繰り込み群は、解りやすいゆえに一定の役割を果たしてはいるが、繰り込みの現象論でしかない。繰り込みの基本とその意味は、いまだに完全には解明されていない。
  35. ^ この問題に深入りすると湯川とその周辺のように泥沼になる可能性がある。湯川の仕事を見ると時々、アッと思うことが見つかるし、ある意味、こういう物理哲学を全生涯をかけて追求している。しかし、湯川でも到底届かない。読んでみられよ。それくらいの問題である。宮沢弘成が今の物理学を批判したゆえんである。宮沢自身にも面白い考察があるが到底届かない。湯川はそれ以前の業績があったからいい。道楽ができた。しかし、業績のないまま取り組めば学者としての生命は、ほぼ絶たれる。枠は示した。
  36. ^ 「ノーベル賞候補 日本6人」共同通信2014年8月14日
  37. ^ ノーベル賞候補日本6人 1951〜63年、物理・化学賞 選考資料、米専門家が確認 :日本経済新聞

関連項目[編集]

外部リンク[編集]