嘉納治五郎

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嘉納 治五郎
Portrait of late Mr. Kano.jpg
誕生 (1860-12-10) 1860年12月10日万延元年10月28日
日本 摂津国菟原郡御影村(のちの兵庫県神戸市東灘区御影
別名 甲南、進乎斎、帰一斎()、伸之助(幼名
死没 (1938-05-04) 1938年5月4日(77歳没)
太平洋上(氷川丸船中)
墓地 東京都立八柱霊園千葉県松戸市
職業 官吏教育者柔道家
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京大学文学部
代表作 『青年修養訓』(1910年)、『Judo (Jujutsu)』(1937年)
配偶者 須磨子(竹添進一郎次女)1891年
子供 範子(長女・綿貫哲雄妻)、履信(長男・竹添進一郎養子)、爽子(三女・生源寺順妻)、履正(次男)、希子(四女・畠中恒治郎妻)、篤子(五女・鷹崎正見妻)、履方(三男)
親族 治郎作(父)、定子(母)、藤井希璞(伯父)、久三郎(長兄)、謙作(次兄)、柳子(長姉・南郷茂光妻)、勝子(次姉・柳楢悦妻)
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政治家としての経歴
所属政党 同和会

選挙区勅選議員
在任期間 1922年2月2日 - 1938年5月4日
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嘉納 治五郎(かのう じごろう、1860年12月10日万延元年10月28日〉 - 1938年昭和13年〉5月4日)は、日本柔道家教育者である。兵庫県出身。

講道館柔道創始者であり[1]、柔道・スポーツ教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於けるスポーツの道を開いた。「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれる。別表記加納 治五郎[2]

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1860年12月10日(万延元年10月28日)、摂津国御影村(のちの兵庫県神戸市東灘区御影町)で、父・嘉納治郎作(希芝)と母・定子の三男として生まれる。

嘉納家は御影に於いて屈指の名家であり、祖父の治作は酒造廻船にて甚だ高名であった。その長女・定子に婿入りしたのが治五郎の父・治郎作である。初め治作は治郎作に家を継がせようとしていたが、治郎作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行った。幕府の廻船方御用達を務め、和田岬砲台の建造を請け負い、勝海舟パトロンともなった。柳宗悦の母は治五郎の姉である。ちなみに同じ嘉納家ではあるが嘉納三家と呼ばれるのちの菊正宗酒造白鶴酒造とは区別される。

1870年明治3年)、明治政府に招聘された父に付いて上京し、東京にて書道英語などを学んだ。

柔道創始[編集]

20代の頃の治五郎

1874年(明治7年)、育英義塾(後の育英高校)に入塾。その後、官立東京開成学校(後の東京大学)に進学。1877年(明治10年)に東京大学に入学した。東京大学時代には中村正直三島中洲に漢文学を学び、渋沢栄一の経済学の講義を受け、またアーネスト・フェノロサの薫陶を受けその指導の下、政治学、理財学(経済学)、哲学、道義学(倫理学)、審美学を学ぶ[3]。また1878年(明治11年)には漢学塾二松學舍(後の二松學舍大学)の塾生となる[4]。しかし育英義塾・開成学校時代から自身の虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時で柔術は軽視され、師匠を探すのにも苦労し、柳生心眼流大島一学に短期間入門するなどした後、天神真楊流柔術福田八之助に念願の柔術入門を果たす。この時期の話として、「先生(福田)から投げられた際に、『これはどうやって投げるのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」という話がある。

1879年(明治12年)7月、渋沢栄一の依頼で渋沢の飛鳥山別荘にて7月3日から来日中のユリシーズ・グラントアメリカ合衆国大統領に柔術を演武した。8月、福田が52歳で死んだ後は天神真楊流の家元である磯正智に学ぶ。

1881年(明治14年)、東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。磯の死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。柔術二流派の乱捕技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。

1882年(明治15年)、下谷北稲荷町16(のちの台東区東上野5丁目)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし囲碁将棋から段位制を取り入れ講道館を設立した。

1883年(明治16年)10月、起倒流皆伝1889年(明治22年)、「柔道一班並二其教育上ノ価値」の講演において、柔道修行の目的を勝負法(武術/真剣勝負/護身)、体育法(体育)、修心法(知徳育/応用)と定義した。治五郎は柔術のみならず剣術棒術薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図し香取神道流(玉井済道、飯篠長盛、椎名市蔵、玉井滲道)や鹿島新当流の師範を招いて講道館の有段者を対象に「古武道研究会」を開き、剣術や棒術を学ばせた。また望月稔、村重有利、杉野嘉男などの弟子を選抜し大東流合気柔術(後に合気道を開く)の植芝盛平[注釈 1]神道夢想流杖術清水隆次、香取神道流の椎名市蔵などに入門させた。薙刀術は各流派を学んだ(雑誌『新武道』によるとこの薙刀術が1941年昭和16年) - 1942年(昭和17年)頃の国民学校の標準となったと記されているが国民学校令施行より以前に既に大日本武徳会式の薙刀術が学校教育に採用されているため、この記述の正確性には疑問が残る)。

1897年(明治30年)3月頃には、創部したての東京専門学校(のちの早稲田大学)柔道部の柔道場にも指導に訪れていたという[5]

1905年(明治38年)、大日本武徳会から柔道範士号を授与される[6]

1922年(大正11年)、講道館文化会を設立し、柔道の理念としてそれまでの「柔の理」から新たに発展させた「精力善用」「自他共栄」を発表する。

教育者として[編集]

嘉納治五郎

嘉納は教育者としても尽力し、1882年(明治15年)1月から学習院教頭、1893年(明治26年)より通算25年間ほど東京高等師範学校東京教育大学を経たのちの筑波大学。なお、筑波大学キャンパス内にも立像が建っている[注釈 2]。)の校長ならびに東京高等師範学校附属中学校(のちの筑波大学附属中学校・高等学校)校長を務めた[注釈 3]

また、旧制第五高等中学校(のちの熊本大学)校長(部下の教授に、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)等がいた)、嘉納自身が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」を校是とした旧制灘中学校(のちの灘中学校・高等学校)の設立にも関わるなど教育者としても尽力する。ほかにも、日本女子大学の創立委員にも加わる。文部省参事官、普通学務局長、宮内省御用掛なども兼務した。

1882年には英語学校「弘文館」を南神保町に創立し[8]、また高等師範学校校長時代の1896年には文部大臣西園寺公望から託された清国からの中国人留学生13名を受け入れ、これは組織的な「留学生に対する日本語教育」の嚆矢と言われる[9]。1899年には留学生教育のために塾「亦楽書院」を開き、1902年には規模拡大のため牛込弘文学院を開き(のち宏文学院と改称、1903年より松本亀次郎が校長)、同校の在留学生は500名を数え、1904年には分校4校を開いた[9]。後に文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、治五郎に師事した[9]。魯迅の留学については2007年平成19年)、中華人民共和国国務院総理温家宝が来日した際、温の国会演説でもとり挙げられた[要出典]。また旧制第五高等学校の校長だった頃、旧熊本藩の体術師範だった星野九門四天流柔術)と交流している。

1887年(明治20年)、井上円了が開設した哲学館東洋大学の前身)で講師となる。棚橋一郎とともに倫理学科目を担当し、同科の『哲学館講義録』を共著で執筆。1898年(明治31年)、全国の旧制中学の必修科目として柔道が採用される。

武道家・武術家として[編集]

日本伝講道館柔道の創始者である嘉納治五郎は、武術に教育的価値を見出し整備した武道のパイオニアであり、武術家としてその実績から「維新以降百年の柔術界の最高の偉人」[10] とも評される武術・柔術界の第一人者であった。

嘉納は講道館柔道の創始と共に、大日本武徳会設立にも参加し、「武徳会柔術試合審判規定」(1899年)、「武徳会柔術形制定委員会」(1906年)において諸流派の委員をまとめる委員長を務めた。柔道(柔術)家・剣道(剣術)家等の武道(武術)家の称号制定に際しては、当初から武徳会全武術の最高位の範士号・教士号の審査を担当する選考委員3名のうちにあり(共に担当した委員は北垣国道渡辺昇)、嘉納自身が範士号を授与されたのも他の授与者と比較して40代という若さでであった。また、1914年12月に武術詮衡委員が「柔道」「剣道」「居合」「弓術」「槍術」の各武術毎の委員に委嘱され選考されるようになった際にも、嘉納は全部門委員を統括する委員会委員長に委嘱されている。

スポーツ[編集]

1920年アントワープオリンピックの選手たちと(前列中央)。その左は茂木善作、後列右端に金栗四三

日本のスポーツの道を開き、1909年(明治42年)には東洋初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となる[11]

1911年(明治44年)に大日本体育協会(のちの日本スポーツ協会)を設立してその会長となる。1912年明治45年)7月、日本が初参加したストックホルムオリンピックでは団長として参加した。

1924年(大正13年)合気道・柔道家の富木謙治が早大柔道部で謦咳に接し、影響を受ける。

1936年(昭和11年)のIOC総会で、1940年(昭和15年)の東京オリンピック(後に日中戦争の激化などにより返上)招致に成功した。

東京高等師範学校を介しての嘉納の体育界・スポーツ界への影響[編集]

嘉納が東京高等師範の校長に就任し実践した事として、体育科を設置したこと、課外活動として様々なスポーツを奨励していたこと、そして留学生の体育やスポーツを奨励していたことが挙げられる。嘉納治五郎の校長時代に東京高等師範学校ではスポーツが盛んな学校になった。嘉納は、日本の体育・スポーツを発展させるためには指導者の重要性を考え、指導者の育成、その指導者を全国に配置し、そしてそこから種々なスポーツを発展させていくということを目指し、その中心となる体育科を作って体育専門の教師を養成し、そこから全国のスポーツの発展に繋げていこうと考えていた。 1894年(明治27年)秋には初めての大運動会が開催され、1896年(明治29年)3月には寄合会から運動会が独立した。1901年(明治34年)10月、嘉納校長の提案で寄合会と運動会を統合した校友会が発足した。

高等師範学校では生徒に長距離競走や水泳を奨励し、全学生に放課後1時間の運動部活動をさせ、水泳大会、長距離大会に参加させた。当時どこの学校にも前例がないものであった。柔道部(明治27年創部)をはじめ、撃剣(剣道)部、弓技(弓道)部、相撲部、器械体操部、ローンテニス(庭球/テニス)部、ベースボール(野球)部、フートボール(蹴球/サッカー)部、ボート部、自転車部、ラ式フートボール(ラ式蹴球/ラグビー)部、徒歩部(陸上競技部)、游泳(水泳)部、卓球部など約15の運動部を設けた。卒業した学生は教育者として全国の学校に散って運動普及に就いた。

嘉納は東京高等師範学校に体操科を設置した。1899年に修業年限2年の体操専修科を設置し、1915年以降、東京高等師範は文科と理科の2つの学科だったところに体育科が加わり、文科、理科、体育科の3つの学科によって構成された。

1910年(明治43年)に嘉納は自身の体育・スポーツ観として以下のことを述べている。「筋骨発達、身体を強健にする」こと。「自己に対し、人に対し道徳や品位の向上を図ることができる」こと。「運動の習慣、長く継続することで心身共に常に若々しく生きることができる」こと、そしてそれによって社会に貢献することができるということであった。

各種スポーツ・格闘技・武道における嘉納治五郎の影響[編集]

陸上競技・水泳[編集]

嘉納治五郎校長の東京高等師範学校では、1898年(明治31年)2月、御茶ノ水から池上本門寺まで走る「各級健脚競走」が開かれ、約160人が参加、長距離走大会は後に高師の伝統となった。1901年(明治34年)高師運動会では、全国の中学校師範学校の選手を集めた競走を初開催したほか、第2回の長距離走大会を大宮氷川公園で実施した。

1902年(明治35年)、校友会に徒歩部と游泳部が加えられ、そのうちの徒歩部が筑波大学陸上競技部の前身となった。当時まだ「陸上競技」という言葉は存在しなかったが、嘉納校長は「徒歩主義」を提唱し「徒歩は両脚さえあれば老若男女問わず、費用も掛からず、季節も関係なく行えることから、日本国民一般に普及させるのに最適である。ただ歩くだけではおもしろみに欠けるので、道徳教育を兼ねた神社仏閣・名所旧跡めぐりや別の娯楽を取り入れて幼少期から歩かせれば、徒歩に興味を持ち、老いてなお杖を手に歩く習慣ができる。また誰しも走ったり跳んだりすることがあり、日頃から訓練しておくことに意義がある」という考え方の元、国民体育の向上に腐心していた嘉納は、誰でも簡単に行えてかつ効果があるものとして陸上競技に目を付けた。

1902年に始まる嘉納校長・東京高等師範学校による水泳教育は、当時の嘉納の「四方を海に囲まれる我が日本国においてその国民の生命を守るべき水泳教育の重要性」の提唱による[12]。明治時代には、プールは最も貴重な運動施設であり、全国に僅かしか見ることができなかった。そのため、水泳の授業は、自然の川や海などで、古式泳法(日本泳法)の指導方法を利用しながら行われた。特に、高等師範学校の泳法として、各流派の優れた点を合理的に取り入れた泳法の「水府流太田派」が生まれ、現在まで、千葉県館山市富浦町の筑波大学付属中学校寮で脈々と引き継がれてきている。

野球[編集]

1875年(明治8年)頃、嘉納は開成学校(のちの東京大学)に入学し、当時1873年(明治6年)にアメリカからホーレス・ウィルソンによって渡来したばかりのベースボール(野球)に熱中している。嘉納は「以前からいろいろの運動もやってみた。器械体操も少しやった。駈けっこもやった。船も漕いだ。最もよくやったのはベースボールであった」「自分がベースボールの選手だったと言ったら不思議がろうが、そのころ自分はピッチャーであった」と書き残している。大学にベースボール(野球)チームを作ったのは治五郎がはじめてといわれ、日本野球史上でも大恩人といえる役割を果たしている。[13]

サッカー[編集]

1896年、筑波大学蹴球部の前身の前身である東京高等師範学校フートボール部が創部される。 1919年3月12日、東京朝日新聞紙上に突如として、イングランド・フットボール協会(FA)から、日本蹴球協会の設立祝いとして純銀製の立派なカップを寄贈の記事が掲載される。当時日本国内には蹴球協会は未だ存在せず、日本蹴球協会設立の報はFA側の誤解によるものであったが、日本は蹴球協会設立の機運が高まることになる。東京高等師範学校長(大日本体育協会会長)であった嘉納は内野台嶺に対し、日本蹴球協会設立の厳命を与える。そして3月28日、蹴球協会が設立されるまでという条件で、嘉納治五郎が英国大使館でカップの譲り渡しを受ける。 嘉納の命を受け、1921年9月10日、初代会長に今村次吉が就き、大日本蹴球協会が設立された。

ウェイトトレーニング[編集]

日本に本格的な筋力トレーニングが伝えられたのは、1900年頃であり、柔道の創始者である嘉納治五郎の功績が大きかったと言われている。嘉納は「柔道の創始者」のみならず、「日本近代筋力トレーニングの父」とも呼ばれている[14]

嘉納は、世界でのIOC委員としてのオリンピック活動や柔道の普及活動を行う中で渡欧中、ヨーロッパにて近代トレーニングの父と呼ばれるユージン・サンドウが著した筋力トレーニングの書籍『Sandow's System of Physical Training』(1894)に出会い共鳴している。その効用を実感した嘉納は講道館の雑誌「國士」にて連載し紹介した。当時この連載は好評となり、1900年には嘉納は『サンダウ体力養成法』を造士会から出版するに至っている。嘉納は柔道界のみならず国民へもその体力養成法を推奨し、サンドウが体操に用いた手具(鉄亜鈴)などの販売、宣伝も行った。

また1933年(昭和8年)、IOC委員としてウィーン会議に出席していた嘉納はその帰途、オーストリアから正式なバーベル一式を購入、輸入した。このバーベルは、当時、東京・代々木にあった文部省体育研究所に運ばれ、ウエイトリフティングの技術研究と練習が行われ、普及のための講習会も開かれた。

嘉納の活動・翻訳本は日本のボディビル界の祖、若木竹丸などにも影響を与え、若木がウエイトトレーニングに目覚めたきっかけにもなっている。柔道家木村政彦などもその先見性から若木からウェイトトレーニングの指導を受けている。

レスリング[編集]

嘉納治五郎は、自身の秘書であった八田一朗の日本レスリング界への活動とその思想に影響を与えている。

ボクシング[編集]

嘉納治五郎の甥である嘉納健治は日本初のボクシングジムである国際柔拳倶楽部(後に大日本拳闘会と改名)を設立し、1931年(昭和7年)に、全日本プロフェッショナル拳闘協会(のちの日本プロボクシング協会)結成に参加している。また嘉納健治は柔道対ボクシングの柔拳興行を企画・運営したが、その格闘技における武術性の志向には嘉納治五郎の影響がある。

空手(唐手)[編集]

1922年(大正11年)5月、文部省主催第一回体育展覧会が開催され、大日本体育協会名誉会長・東京高等師範学校前学校長として本大会主催者であった嘉納は、沖縄の唐手家船越義珍の唐手の紹介・演武の参加要望頼み込みを受け、それを実現している。同年6月、嘉納は船越を講道館に招待し、唐手演武を依頼している。 空手の本土における上陸、全国的な普及活動の糸口となったのがこの時の講道館での演武会であり、それが近代空手道の出発点となる[15]。嘉納の柔道を介しての武道の思想・システムは本土上陸を果たした唐手改め空手の普及・変化に大きな影響を与えることになる。

死去[編集]

1938年(昭和13年)のカイロエジプト)でのIOC総会からの帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により死去(遺体は氷詰にして持ち帰られ、横浜港では棺にオリンピック旗をかけられて船から降ろされた[16])。77歳没。生前の功績に対し勲一等旭日大綬章を賜る。墓所千葉県松戸市東京都立八柱霊園に在る。

エピソード[編集]

家族[編集]

弟子[編集]

四天王[編集]

その他の主な弟子[編集]

著名な架空人物の弟子[編集]

他にもたくさんの弟子が居る。

栄典・授章・授賞[編集]

筑波大学附属小学校占春園(元・東京高等師範学校附属小学校)にある嘉納治五郎像(東京都文京区
位階
勲章等
外国勲章佩用允許

柔道における修心活動 文化会、啓蒙雑誌、講演活動[編集]

講道館柔道の創設者の嘉納治五郎は、教育者としても第一人者であり、学習院教授・教頭、第五高等学校(のちの熊本大学)校長、第一高等学校(のちの東京大学教養学部および、千葉大学医学部、同薬学部)校長、東京高等師範学校(東京教育大学を経たのちの筑波大学)校長、文部省などの学校教育に関わる傍ら、日本傅講道館柔道を創始し活動を広げていった。その一方で親類や知人の子弟を預かり、嘉納が彼らと共に生活をしながら指導教育を行う私塾活動を行った。

1882年創立の嘉納塾以降、1888年善用塾、成蹊塾、1900年全一塾と対象年齢毎の私塾を展開していく。そこでは知育、徳育、体育のどれにも偏らない教育を塾の方針とし、そこから杉村陽太郎高島平三郎南郷次郎嘉納徳三郎など様々な各方面に活躍する多くの卒業生が巣立っている。

また1898年に嘉納は嘉納塾以外の私塾を統合して造士会を創立し、1915年に柔道会、1922年に講道館文化会の創立をし、教育薫陶、世の中に有益な人物の輩出を目的として対象を広げていく。

1898年の「造士会創立の趣旨」において造士会の事業として、

  1. 塾舎を設けて子弟を教育薫陶する
  2. 講道館柔道やその他の武芸体操を教授する
  3. 雑誌を刊行して本会の趣旨の貫徹を図る

とある。

1915年の「柔道会創設の趣旨」において、「講道館と連携し、柔道会を設け柔道のみならず人間形成に役立てる」とし、具体的には「柔道の本義や修行の方法をさずけるだけでなく、役に立つ人間乃ち有数健全なる国民の育成を目指す」「雑誌・図書の刊行、講演会・講習会の開催、柔道の奨励・指導を行う」としている。

1922年の「講道館文化会」の目的としては、

  1. 個人に対しては身体強健、知徳の練磨、社会において有力なることとする。
  2. 国家に就いては、国体を尊び歴史を重んじ、その隆昌を図ろうとするため常に必要な改善を怠らない。
  3. 社会にあっては個人団体ともお互いに助け合い譲り合い、融和を実現する。
  4. 社会においては人種的偏見をせず、文化の向上、人類の共栄を図る。

とした。

そして、雑誌の発刊として、私塾教育においては嘉納塾の機関紙『嘉納塾同窓会雑誌』を発刊し、造士会においては『國士』、柔道会においては『柔道』・『有効之活動』、講道館文化会においては『大勢』・『柔道界』・『柔道』・『作興』とその時期その時期で対象読者を上げてテーマを広げ、目的ごとに使い分け、改題しながらも活動を続けていく。

雑誌刊行の目的として嘉納は「講道館柔道の修行者として、さらに多方面にも修養の資料となるべき雑誌を発行したならば、これによりて継続的に、秩序的に、柔道に関する自分の考えを示すことができる。さらにこの仕事に加えて、適当なる機会を利用して、講道館において話をしたならば、やや教育が行き渡るであろう」と述べている。

雑誌の講述において嘉納の扱うテーマは多岐にわたり、その内容は、

  1. 技や技術、また試合をも含める修行の仕方について理想を説くもの。
  2. 日常生活を通じての修養や訓育に関するもの。
  3. 国家や社会の問題を指摘し、見解と訓育を述べるもの。

に大別することが出来る。

著作[編集]

  • 『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』 大滝忠夫編、新人物往来社、1972年 / 日本図書センター〈人間の記録〉、1997年2月、ISBN 4820542419
  • 『嘉納治五郎の教育と思想』長谷川純三編著、明治書院、1981年1月
  • 『嘉納治五郎著作集』全3巻、五月書房、1983年9月-1983年11月
  • 『嘉納治五郎大系』全15巻、本の友社、1987年10月-1988年5月
  • Mind over muscle: writings from the founder of Judo. compiled by Naoki Murata, translated by Nancy H. Ross, Kodansha International, 2005, ISBN 4770030150.
著書

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 嘉納は自ら皇武館を訪れ、盛平の技を見て思わず「私の求めていた物はこれだ!!」と叫んだという。
  2. ^ 嘉納の銅像の原型は1936年11月、彫刻家の朝倉文夫(後の文化勲章受章者で、早稲田大学校賓)が制作した。講道館に置かれたものも含めて、2012年までに5体が同じ原型から造られた。原型が老朽化したため、新規鋳造された銅像が2019年2月、台東区役所1階に設置された[7]
  3. ^ 治五郎が東京高等師範学校附属中学校(のちの筑波大学附属中学校・高等学校)の校長を務めたのは、1893年明治27年) - 1897年(明治30年)の4年間、1898年(明治31年)に半年間、1901年(明治34年) - 1920年大正9年)の20年間と通算では25年間近い。同校の歴代校長の在任期間としては最長。

出典[編集]

  1. ^ 夢と感動と愛を与えた日本柔道界の偉人5人”. 【SPAIA】スパイア (2016年7月23日). 2020年11月15日閲覧。
  2. ^ 「日本伝起倒柔道」の免状
  3. ^ 『ホワイトハウスにできた柔道場 恩師フェノロサを超えた嘉納治五郎』丸屋武士 SB新書
  4. ^ 「二松學舎入学生名簿」『二松学友会誌』第壱輯、1896年。
  5. ^ 『早稲田大学百年史』P212
  6. ^ 『武道範士教士錬士名鑑』163頁、大日本武徳会本部雑誌部
  7. ^ 柔道の創始者・嘉納治五郎像 台東に堂々「発祥の地」シンボルに読売新聞』朝刊2019年2月13日(都民面)2019年2月15日閲覧。
  8. ^ 嘉納治五郎略歴 公益財団法人日本オリンピック委員会
  9. ^ a b c 『日本語教育史研究序説』関正昭、スリーエーネットワーク, 1997、p85-87
  10. ^ 『古流柔術――その術理と知られざる秘技』寺尾正充
  11. ^ 著者、斎藤仁・南條充寿『スポーツ・ステップアップDVDシリーズ 柔道パーフェクトマスター』2008年 16頁。
  12. ^ 茗水百年史,2002.筑波大学体芸図書館蔵)
  13. ^ 『燃えろ あかつきの星』PHP研究所 高橋宏幸
  14. ^ 『臨床整形外科』2015年9月号「世界と戦うために 全日本柔道における筋力トレーニングの現状と未来への提案」紙谷武 柏口新二
  15. ^ 藤堂良明『柔道の歴史と文化』不昧堂、2007年、133頁参照。
  16. ^ 第3章 戦争と東京大会返上” (日本語). www.ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2018年11月27日閲覧。
  17. ^ 嘉納久三郎さん『とよとみ広報』、豊富町、2002年
  18. ^ 豊富・サロベツ原野文学散歩 1 宗谷紀行
  19. ^ 豊富八幡神社(豊富町) 北海道神社庁
  20. ^ 竹添進一郎 美術人名辞典
  21. ^ 嘉納治五郎系図 近現代・系図ワールド
  22. ^ 竹添履信 たけぞえ-りしん 日本人名大辞典
  23. ^ 『シャーロック・ホームズの愉しみ方』P.200-P.P217 植村昌夫 平凡社新書
  24. ^ 『シャーロック・ホームズと99人の賢人』P.322 水野雅士 青弓社
  25. ^ 『シャーロック・ホームズの時間旅行』P.135 水野雅士 青弓社
  26. ^ 『官報』第578号、明治18年6月6日。
  27. ^ 『官報』第1029号「叙任及辞令」1886年12月3日
  28. ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
  29. ^ 『官報』第3507号「叙任及辞令」1895年3月12日。
  30. ^ 『官報』第4421号「叙任及辞令」1898年3月31日。
  31. ^ 『官報』第6687号「叙任及辞令」1905年10月11日。
  32. ^ 『官報』第1201号「叙任及辞令」1916年8月1日
  33. ^ 『官報』第1937号「叙任及辞令」1889年12月11日。
  34. ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
  35. ^ 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
  36. ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日
  37. ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。
  38. ^ 『官報』第996号「叙任及辞令」1915年11月26日。

関連文献[編集]

  • 『教育』第457号(嘉納先生謝恩記念号)、茗渓会、1921年5月
  • 『嘉納先生還暦祝賀会報告書』 嘉納先生還暦祝賀会、1922年7月
  • 『嘉納先生教育功労記念会誌』 嘉納先生教育功労記念会、1937年3月
  • 故貴族院議員嘉納治五郎勲章加授ノ件」(国立公文書館所蔵 「叙勲裁可書・昭和十三年・叙勲巻四」)
  • 『柔道』第9巻第6号(故嘉納治五郎先生追悼号)、講道館、1938年6月
    • 「嘉納師範追悼録」(丸山三造編著 『大日本柔道史』 講道館、1939年5月 / 第一書房、1984年3月 / 講道館監修 『嘉納治五郎大系 第十四巻 資料・索引』 本の友社、1988年5月)
  • 『Rōmaji』第33巻第6号(嘉納先生記念号)、ローマ字ひろめ会、1938年6月
  • 「嘉納治五郎先生の憶ひ出」(『帝国教育』第716号、帝国教育会、1938年6月)
  • 『教育研究』第482号、初等教育研究会、1938年6月
  • 『道徳教育』第7巻第7号(嘉納先生追悼号)、目黒書店、1938年7月
  • 『事業報告書』 嘉納先生頌徳記念会、1939年12月
  • 横山健堂著 『嘉納先生伝』 講道館、1941年4月
  • 嘉納先生伝記編纂会編纂 『嘉納治五郎』 講道館、1964年10月
  • 加藤仁平著 『嘉納治五郎 : 世界体育史上に輝く』 逍遥書院〈新体育学講座〉、1964年10月 / 逍遥書院〈新体育学大系〉、1980年2月
  • 「嘉納治五郎の生涯」(前掲 『嘉納治五郎の教育と思想』)
  • 生源寺希三郎 「嘉納治五郎の一族と家系 : 治五郎は三男か四男か」(『静岡学園短期大学研究報告』第6号、1994年3月)
  • Brian N. Watson. The father of judo: a biography of Jigoro Kano. Kodansha International, 2000, ISBN 4770025300.
  • 村田直樹著 『嘉納治五郎師範に學ぶ』 日本武道館、2001年3月、ISBN 4583036353
  • 藤堂良明著 『柔道の歴史と文化』 不昧堂出版、2007年9月、ISBN 9784829304570
  • 永木耕介著 『嘉納柔道思想の継承と変容』 風間書房、2008年2月、ISBN 9784759916645
  • 田中洋平、石川久美 「嘉納治五郎の言説に関する史料目録(1) : 『嘉納治五郎大系』未収録史料(明治期)を中心に」(『武道学研究』第42巻第2号、2009年11月、NAID 130004964932
  • 生誕150周年記念出版委員会編 『嘉納治五郎 : 気概と行動の教育者』 筑波大学出版会、2011年5月、ISBN 9784904074190
  • John Stevens. The way of judo: a portrait of Jigoro Kano and his students. Shambhala, 2013, ISBN 9781590309162.
  • 菊幸一編著 『現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか : オリンピック・体育・柔道の新たなビジョン』 ミネルヴァ書房、2014年9月、ISBN 9784623071289

関連作品[編集]

小説
  • 姿三四郎 - 富田常雄の小説ならび、それを原作とする映像作品
  • 柔道一代 - 近藤竜太郎による小説ならび、それを原作とするテレビドラマ作品。

原作小説は1877年から1889年にかけての嘉納とその弟子たちの歩みを描いたもので、登場人物は実名で書かれている。

映画
ドラマ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

その他の役職
先代:
(新設)
講道館長
1882年 - 1938年
次代:
南郷次郎
先代:
(新設)
大日本体育協会会長
1911年 - 1921年
次代:
岸清一
  1. ^ 加藤仁平/著『新体育学講義 第35巻 嘉納治五郎:世界体育史上に輝く』逍遥書院、1964年、17頁