富田常次郎

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とみた つねじろう
富田 常次郎
Tomita-Tsunejiro.jpg
生誕 1865年2月??
伊豆国君沢郡久連村
死没 (1937-01-13) 1937年1月13日(71歳没)
国籍 日本の旗 日本
職業 柔道家
著名な実績 講道館最初の入門者・段位取得者
講道館殿堂
流派 講道館7段
大日本武徳会(柔道範士)
嘉納治五郎
子供 富田常雄

富田 常次郎(とみた つねじろう、1865年2月 - 1937年1月13日)は、日本柔道家講道館7段・大日本武徳会柔道範士)。旧姓山田

青年期より講道館創始者の嘉納治五郎と寝食を共にし、同館で最初の入門者・初段位取得者となって“講道館四天王”の1人に数えられた。後に米国で指導を行うなど柔道の国際的普及にも尽力し、その多大な功績から“講道館柔道殿堂”にも選ばれている。

経歴[編集]

1865年伊豆国君沢郡久連村(現・静岡県沼津市)の山田家に生まれる[1][2]明治維新後、嘉納治五郎の父・治郎作(希芝)が海軍省の官材課長を務めていた頃、御用材の伐採の為に年2,3回天城山を訪れた折に伐採従事者のため韮山に設けられた病院でしばしば休憩食事をしており、この病院長夫人の弟である常次郎と知り合った[2]。 治郎作は当時14歳で利発な常次郎にその才を見出して「どうじゃ、わしの倅(治五郎)と東京で一緒に勉強しないか」と誘い、これを受けた常次郎は上京して嘉納家の書生となった[1][2]

治五郎は1882年6月、下谷永昌寺境内に僅か12畳の仮道場を設けて常次郎と2人で稽古を始め、その年の内に樋口誠康、有馬純文、牛島辰吉、松岡寅男麿、有馬純臣、志田四郎、中嶋源二郎、川合慶次郎の8人が入門[2]1883年8月には志田と共に講道館で最初の初段位を許された[1][3]1884年に作成された『講道館修行者誓文帳[注釈 1]』ではその筆頭に常次郎の名があり、「静岡県伊豆国伊沢郡久連村38番地、山田半七弟、平民常次郎、17年6ヶ月」と記されている(常次郎は当時19歳であったが、2年遡って作成されたため“17”と記されている)[2]。 同じ頃、治五郎は東京帝国大学を卒えて学習院の教師を任ぜられ、永昌寺の一室を間借りして東京帝大や学習院の学生の何人かを預かる事となり、当時17歳の常次郎は勉学に励む傍ら治五郎の書生として身の回りの世話をこなした[2]。 その後、常次郎は伊豆の回船問屋であった富田家の養子となり、以後は富田姓を名乗った[2]

講道館での昇段歴
段位 年月日 年齢
入門 1882年6月5日 17歳
初段 1883年8月 18歳
2段 1883年11月 18歳
4段 1885年9月 20歳
5段 1888年2月 23歳
6段 不詳 -
7段 1927年11月4日 62歳

3段位を飛ばして1885年9月に4段、1888年2月には講道館初の5段位を允許[1]。 一方、1887年より郷里の伊豆学校(現・県立韮山高校)で柔道指導を行って講道館韮山分場を築き、その後1891年3月から1904年11月までの永きに渡り学習院にて柔道教師を務めた[5]1891年4月、学習院を明治天皇が訪問した際に、富田は明治天皇と共に教え子達を観覧する光栄に浴している[3][6]柔術各派との対決時代、富田は同じく講道館の高弟であった西郷四郎山下義韶横山作次郎と共に“講道館四天王”と称され[1]、西郷の追放後は嘉納塾(成年塾)の舎監に。また、巴投を得意として大日本武徳会が主宰する武徳祭大会にも出場していた[2]

1904年11月、当時6段位の富田は前田光世4段らと共に米国セオドア・ルーズベルト大統領の招聘で柔道使節として渡米し[4]翌05年1月より同国での柔道普及活動に努めた[3][7][注釈 2]シアトルを中心に北米地区での7年間の柔道指導を経て[8]、帰国後は赤坂溜池に日本で初めての体育クラブとなる東京体育クラブを創設し[3]、柔道のほかボクシングウェイトリフティング射撃の道場を設置[2]。同倶楽部は永岡秀一を柔道師範に迎えて斯道の普及・振興に貢献したが、1923年関東大震災で焼失し、その後再建される事はなかった[2]。 この間、1905年に大日本武徳会の柔道教士号を[注釈 3]1927年には講道館より7段位と大日本武徳会より柔道範士号をそれぞれ拝受している[3][6]

晩年は東京市麹町区永田町を構え後進の指導に当たったが[6]1937年1月に病気のため死去した[1]享年72。 かつて東京体育クラブで柔道指導の助手を務め戦後に講道館道場幹事長となった子安正男(のち講道館9段)は、「柔道の技量では西郷、山下、横山に一歩も二歩も譲ったが、人格識見とも優れ、嘉納師範の好伴侶として子講道館柔道の発展に最も寄与したのが富田先生」「講道館四天王と言っても本当の子飼いは富田先生ただ一人で、柔道家タイプというより寧ろ学者肌の人で、柔道も一流に達したが頭もよく勉強されたそうで…(以下、略)」と述べている[2][注釈 4]。 なお、小説姿三四郎』の作者として有名な富田常雄は次男にあたる[1]

モデルとしたフィクション[編集]

映画
  • 柔道一代 - 富田をモデルにした戸田常次郎が登場する

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 『講道館修行者誓文帳』は一般に『五ヶ条の誓文』とも呼ばれ、講道館が入門者に対して署名させる書類である。1884年に初めて作成された際には1882年の講道館創設時に遡って署名が行われた[4]。上二番町、富士見町、真砂町時代が第1巻から第8巻まで、下富坂時代が第1巻から第12巻まであり、このほか富田が韮山町に設けた韮山分場、宗像逸郎が京都に設けた京都分場、海軍兵学校の江田島道場がそれぞれ1巻ずつある[4]。これらは現在も講道館に保管され、その一部は講道館資料展示室で目にする事ができる。
  2. ^ ただし文献によって使節団についての記述が異なり、渡米時期を1904年とするもの[1][6]1906年とするもの[3]、一行には富田・前田光世のほか佐竹信四郎4段も同行していたとするものや[1][3][4]、佐竹は少し遅れ1907年に渡米し一行に加わったとするものもある[7]。また、富田らによる米国での柔道普及活動に際しては現地のボクサーレスラーを相手に異種格闘技戦を行った事がよく知られているが[4]、このうち富田については40歳近い年齢で選手としてのピークを越えていた事などから、当初試合に出場する予定は無く、実戦は専ら前田らが引き受ける事になっていた[7]。一方、米国側から見れば6段位の富田が4段位の前田よりも格上と紹介されており、実際にでも富田が前田を簡単に投げ飛ばすのを目の当たりにし、小柄で組みやすそうな富田に挑戦状を叩き付けるのは自然な成り行きであった。演武の際に富田は挑戦を受け、身長194cm・体重約159kgでウェストポイント陸軍士官学校の士官(元フットボール選手)と試合を行ったとされているが、その結果を記した資料が講道館に残されておらずその経緯・結果については諸説ある[2]。即ち、「ホワイトハウス内の体育場にて演武を行った際に試合が組まれ、前田・佐竹は富田の身を案じ「私達にお任せ下さい」と自重を促すも、富田は「僕が責任者だから君達にやらせる事は出来ない」と拒否し、更に説得する前田らに対し温厚な富田も「君達は文句を言わずに見ていればいいんだ」と怒鳴り付けて出場を強行、結果的には相手の怪力で両肩を抑えられて敗れ、観戦していた大統領一同を拍子抜けさせると共に日本大使館付武官を“国辱”とばかりに激怒させた」と紹介する文献がある一方[4]、「陸軍士官学校で演武を行った際に急遽挑戦を受けた富田は陸軍士官学校の士官・見習士官と立て続けに試合を行う事となり、1人目の士官を強烈な引き付けで翻弄しこれを負傷棄権で破るも、2人目の見習士官は体格が富田の倍はあろうかという大豪で、富田の巴投は不発に終わったものの、一方で相手の腕力に振り回されたが投げられたり抑え込まれたりする事も無く、互いに大苦戦のまま試合は相手の申込により雌雄決せず中止となった。試合での富田の優勢は明白であったが、翌日の現地新聞は“富田6段が散々な目に遭わされた”“富田氏は負傷して入院中”と書き立て、これを信じた日本の新聞までもが同様に報じたため、富田が惨敗したという説が流布する事となった」と記している文献もある[7]
  3. ^ この時には富田のほか戸張滝三郎や佐藤法賢、飯塚国三郎、磯貝恒久、大島彦三郎の5名が、大日本武徳会より教士号を受けた[2]
  4. ^ 子安正男はその他の講道館四天王についても触れており、西郷四郎を「最も技が優れていたが、講道館の富士見町時代に出奔して脱落、柔道としては未完成であった」、山下義韶を「人格識見、技ともに優れ、柔道家とし大成した」、横山作次郎を「抜群の強さがあったが、人物としてはやや難点があった」とそれぞれ紹介している[2]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 山縣淳男 (1999年11月21日). “富田常次郎 -とみたつねじろう”. 柔道大事典、333頁 (アテネ書房) 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n くろだたけし (1984年6月20日). “名選手ものがたり56 富田常次郎7段 -講道館入門第一号、四天王の1人-”. 近代柔道(1984年6月号)、78頁 (ベースボール・マガジン社) 
  3. ^ a b c d e f g “講道館の殿堂 -富田常次郎 七段 Tsunejiro TOMITA(1865~1937)-”. 講道館公式ページ (公益財団法人講道館). http://kodokanjudoinstitute.org/doctrine/palace/tsunejiro-tomita/ 
  4. ^ a b c d e f 工藤雷助 (1973年5月25日). “富田常次郎の巻”. 秘録日本柔道、41-48頁 (東京スポーツ新聞社) 
  5. ^ “歴代の先生方”. 学習院柔道部公式ページ (学習院柔道部). http://www.gakushuin-judo.jp/modules/pico2/index.php?content_id=6 
  6. ^ a b c d 野間清治 (1934年11月25日). “柔道範士”. 昭和天覧試合:皇太子殿下御誕生奉祝、797頁 (大日本雄弁会講談社) 
  7. ^ a b c d 丸島隆雄 (1997年11月1日). “第二章 波濤を越えて”. 前田光世 -世界柔道武者修業、79-92頁 (島津書房) 
  8. ^ 松本芳三 (1970年11月24日). “第四章 柔道海外へ拡がる -米大陸第2号 富田常次郎”. 写真図説 柔道百年の歴史、94頁 (講談社) 

関連項目[編集]