西郷四郎
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さいごうしろう 西郷四郎 | |
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![]() 西郷四郎 | |
生誕 | 志田四郎 1866年3月20日(慶応2年2月4日) 会津藩若松(現・福島県会津若松市) |
死没 | 1922年(大正11年)12月22日 広島県尾道 |
墓地 | 大光寺[要曖昧さ回避](長崎県)・正法寺(新潟県) |
国籍 | ![]() |
職業 | 柔道家 |
身長 | 五尺一寸(約153cm) |
体重 | 十四貫(約53kg) |
肩書き | 柔道六段 |
親 | 実父:志田貞二郎、養父:西郷頼母 |
西郷 四郎(さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年2月4日) - 1922年(大正11年)12月22日)は、日本の柔道家、弓道・泳法指導者。講道館四天王の一人。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデル。
来歴[編集]

会津藩士・志田貞二郎の三男として若松に生まれた。3歳のときに戊辰戦争を逃れるため家族で津川(現:新潟県阿賀町)に移住。16歳の時、元会津藩家老・西郷頼母の養子となり、福島県伊達郡石田村(現:伊達市)の霊山神社に宮司として奉職する頼母に育てられた。
1882年(明治15年)に上京し、当時は陸軍士官学校の予備校であった成城学校(新宿区原町)に入学した。天神真楊流柔術の井上敬太郎道場で学んでいる間に、同流出身の柔道家・嘉納治五郎に素質を見いだされて講道館へ移籍する。1883年(明治16年)に初段を取得した。
1886年(明治19年)の警視庁武術大会で講道館柔道が柔術諸派に勝利したことにより、講道館柔道が警視庁の正課科目として採用され、現在の柔道の発展の起点となった。四郎はこの試合で戸塚派揚心流の好地圓太郎(同流の照島太郎とする文献もあり)に勝利した。
四郎の得意技は「山嵐」だが、これは幼少の頃から漁船上で仕事をしていた影響で身についた「タコ足(足指が吸盤のような強い力を持っていたことから、この名で呼ばれる)」を生かしたため、相手の足を刈る際の技の切れは他者よりも格段に鋭かったと言われる。その技は嘉納治五郎に「ソノ得意ノ技ニ於テハ幾万ノ門下イマダ右ニ出デタルモノナシ」と言わしめた。山嵐は大東流の技法が活用されていたとする説も一部にあるが、四郎が大東流を学んだ形跡はなく、講道館に伝えられている山嵐の技法を見る限りでは、大東流の影響は余り感じられない。
1889年(明治22年)、嘉納治五郎が海外視察に行く際に後事を託され、講道館の師範代となったが、治五郎が洋行中の1890年(明治23年)、『支那渡航意見書』を残し講道館を出奔。以前から交流のあった宮崎滔天とともに大陸運動に身を投じる。
1902年(明治35年)、鈴木天眼が長崎で『東洋日の出新聞』を創刊すると、同新聞の編集長を務める傍ら、長崎で柔道、弓道を指導した。また、長崎游泳協会の創設に鈴木天眼とともに関わり、同協会の監督として日本泳法を指導している。
1922年(大正11年)12月22日、病気療養のため滞在していた広島県尾道で死去。没後、講道館から六段を追贈される。
1923年、治五郎は四郎の碑に「講道館柔道開創ノ際 予ヲ助ケテ研究シ 投技ノ薀奥ヲ窮ム 其ノ得意ノ技ニ於テハ 幾万ノ門下未ダ其ノ右ニ出デタルモノナシ 不幸病ニ罹リ他界セリト聞ク エン惜ニ堪エズ 依テ六段ヲ贈リ以テ其ノ効績を表ス」と刻んでいる。
小柄で強い柔道家を「○○の三四郎」と呼称するのは、四郎がモデルとなった『姿三四郎』の影響によるものである。四郎自身の体格は、身長が五尺一寸(約153cm)、体重は十四貫(約53kg)だったと伝わる。
大東流合気柔術との関係[編集]
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大東流合気柔術の主張する伝承史によると、西郷四郎の養父である頼母は、武田惣角に会津藩に伝わる大東流合気柔術(合気道の元となった武術)を伝授したとされている。このことから、頼母の養子である四郎も、何らかの形で養父から大東流合気柔術を伝授されたとし、四郎を開祖とする武術団体(西郷派大東流合気武術など)が存在しているが、武術史研究では、四郎が大東流合気柔術を学んだ物的証拠が存在しない。この説は否定されている(詳しくは大東流合気柔術の項を参照のこと)[要出典]。
平成26年、柔道家溝口紀子の論文に、西郷四郎の「山嵐」は古流柔術の背負い落しの変形、足技を組み合わせたと発表した。
西郷頼母研究家牧野登は『会津人群像22号』(2012)に、保科近悳生涯日誌の全人646名に武田惣角、武術指導の記録は確認されていない。大東流の歴史は保科と武田による仮託(創作)と全面的に訂正し、「山嵐」は四郎独自の技と発表した。
池月映は『合気の武田惣角』(2015)、「武田惣角は大東流合気柔術の創始者」(2021)に、保科近悳(西郷頼母)日光東照宮禰宜の写真は身長140センチ、体格、眼力などから武術を長年鍛錬した達人とは思えない。武田惣角に合気柔術を教えた伝承もあるが、修行したとされる霊山寺修験道場は江戸時代以降存在していない。武田惣角に大東流の流派名、歴史、和歌を与えたが、御式内(合気柔術)を教えた証拠はない。合気の意味(由来)は修験道の気合術の気合・合気から引用したものであると発表した。
西郷四郎をモデルとしたフィクション作品[編集]
- 小説
- 登場人物の数学教師「山嵐」は西郷四郎をモデルの一人としているという説がある。[1]
- この説を取り、1981年のテレビアニメ『日生ファミリースペシャル 姿三四郎』では、西郷四郎をモデルとした主人公・姿三四郎の親友の役として夏目金之助(夏目漱石)が登場している。
- 映画
- ドラマ
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- 柔道一代 (テレビドラマ) (1962年 - 1964年、TBS) - 西郷四郎をモデルにした郷文四郎が登場する(演:高島新太郎)
- 漫画
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- 陸奥圓明流外伝 修羅の刻 西郷四郎編 - 川原正敏の漫画。
- 黒帯疾風録 - 橋本一郎原作、ほんまりう作画の漫画。
- 小さな巨人 - バロン吉元の漫画。
脚注[編集]
- ^ 近藤哲・著『漱石と會津っぽ・山嵐』歴史春秋社 1995年
関連項目[編集]
- 柔道家一覧
- 大陸浪人
- 天神真楊流
- 起倒流柔道
- 講道館柔道
- 関口氏心(関口柔心) 猫が空中反転する着地から着想を得て、高度な受身を身に着けたという関口氏心(号・柔心)(関口新心流(関口流)の開祖)[1]の伝説を受けて、西郷四郎も「猫の三寸返り」等と呼ばれる受身を身に着けたという説話がある。
- 西郷四郎を登場人物とする創作物では、「山嵐」と共に「猫の三寸返り」は四郎の得意技と描写されることが多い。[2][3]
- また、関口流10代目の関口氏胤(号は開祖と同じ柔心)は大日本武徳会に参画し、嘉納治五郎を委員長とする委員会委員として柔術(柔道)の制度整備に協力し、現在の柔道にも影響を与えている。